つくってみた。 こんなもんでどうかな?
質問箱の迷惑になりそうなので、作った。 わかってるな?隠居。あっちに迷惑かけるなよ。 こっちなら、いくらでもお前のトンでも理論を語ってもいいから。
4 :
神も仏も名無しさん :2010/05/22(土) 11:12:04 ID:GXbxun0s
5 :
神も仏も名無しさん :2010/05/22(土) 11:17:52 ID:GXbxun0s
自分の展開した論旨・相手からの批判内容を都合良く忘れて、都合良く削って 同じ能書きをテープレコーダーみたいに繰り返すのはやめようや。 そこで「宗教者は〜〜」と、他所もクソなら自分もクソで構わないという 自己弁護も情けないし不毛だから止めよう。
それでは、いこうかね? 隠居。 >・・・生命が、仮に宗教であるとしても、それは「人間の営み」 としては、従来の他の如何なる宗教よりも「桁違いに優れた宗教」であることは、 あまりにも自明である。 ついに【生命】教が、宗教と変わらぬことを認めたか。結構結構。 ひとつ進歩だな。しかし、 >・・従来の他の如何なる宗教よりも「桁違いに優れた宗教」・・ これは単に宗教間において「どの宗教が一番良いか?」という評価の 問題に過ぎないな。そして、宗教者は自己の宗教が最も優れていると 考えている。(当たり前だ。さらに優れていると思われる宗教があるなら そっちに移っている。) お前は「人間の営み」を重視するから、【生命】教は最も良いというが、 これはお前の価値観に過ぎない。例えば、「人間の営みも含め、全ての 宇宙、あらゆる存在を創りだしたのが(この宗教の)神である。よって この神に対する信仰が最も尊い。それは、『この宇宙、そして我々、人間 が現に、こうやって存在していることによって担保される。』」 このように語る宗教があったとするか。 お前は自己の【生命】教の優越性をこの宗教に対して、主張できないわけだ。 どちらも検証不能であり、その主張の根拠を現に確認できるもの (お前は身体、生命現象であり、この宗教は存在物すべて) と リンクさせているに過ぎないからだ。 つまり、自己の信仰の範囲内でのみ 通用する真実であり、それに同意しない他者に主張しうる客観性を有しない。 つまり、「おれの宗教のほうがいい。」 「いや、俺の方が優れている。」 と言い合うしかない。 隠居、お前確か、このように争うから宗教はいかんと言ってなかったか?(笑)
ふむ。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1273950612/34 &
>>4 を読んで。
御隠居の言う『生命』を代替させる言葉としては『神の御業(みわざ)』の方が適切だったな。
「働きかけ(作用)」であり「力」であり「それそのものは不可知(知覚認識不可)」であり
「そうした力を持つもの(主体・根源)を背後に背負っている」という構図の面で。
(ただ、《「神」と「神の御業」は、その作用と作用主が言辞上区別されている》のに対して、
隠居の方は《どちらをも『生命』の一語で示されている》点に違いがある。
尤も、(この場合の)作用と作用主との境界はもとより曖昧で、
表現としては、《「神の御業」の現れ》でなく《「そこに神が居ましますこと」の現れ》
となっても、何もおかしいことはないが・・。
(だから(同じ構図だからw)、隠居も、全てを『生命』の一語で済まし得るわけだが・・www))
以下、代入してみよう。
>【生命】は、「生命現象を現す肉体」として、万人に知覚・認識可能である
【神の御業】は、「生命現象を現す肉体」として、万人に知覚・認識可能である
うむ。どんぴしゃだなw
(※補:「擬態」というものがある。これら「生物の形態のデザイン」が
「【見事なまでに意図的な】【或る目的の為にそのようになっている】ように見える種々の形態」が、
自然に(≒自然界の突然変異と淘汰で)生じる生成すると考えられず、
そこに「神の御業」の介入を想定する姿勢と、そこに「生命」の介入を想定する隠居の姿勢は、
まったく同質だ。
参:
http://matome.naver.jp/odai/2009051118532603289 http://blogs.yahoo.co.jp/forestwinfox/24294238.html )
あ、h抜き忘れたw
9 :
神も仏も名無しさん :2010/05/22(土) 12:55:37 ID:zIvK/GXl
>>4 >>5 >>6 >>7 君は、全くピント外れ。私は、生命とは、「生命現象を現している肉体そのもの」
と再定義している。生命現象は、肉体の隅々にまで現れ、個々の肉体の死
によって消滅する。そんな「神」がるかw。釈迦の「苦」が、肉体(生命)の
否定であることは明らか。
生命をしきりに「宗教」にしたがっているのは、君の方である。生命は宗教に
はなり得ない。宗教を含む人間のすべての営みの根源、前提であり、生命に最
大の価値を置くことは、人間界における一人ひとりの成員の至上の義務である。
宗教が、肉体(生命)の営みでありながら、肉体(生命)を軽視・否定し、
生命以外のものに最大の価値を認めることは、倒錯と狂気以外の何物でもない。
私は、「仏教に関係ない」どころか、「大乗の祖」としての竜樹をたびたび
引用し、極めて高く評価している。換言すれば、「大乗仏教の精神」を語っている
に過ぎない。
10 :
神も仏も名無しさん :2010/05/22(土) 13:05:49 ID:wev9+6Mr
話は変わるが、ここの小乗仏教徒が好んで持ち出す、「ブッダと竜樹の論理学」(石飛 道子著、株式会社サンガ発行)を一読した。彼女は、1951年生まれのまだ比較的 若い女性。 彼女が分析する釈迦の思想(論理)は、まさに精神病者の思考そのまま。西洋論理学 からの厳しい批判を意識して書いたものだろうが、例えば彼女は、釈迦は「世界は 空なるもの」ではなく、「空なるものは世界」と、自分の心に浮かぶ順序で語っている から正しいという。しかし、「空なるもの」とは、まず「空でない世界」を考える(見る) から出てくる概念。ブッダは「単語」を否定するというが、言語は、古代人たちがその 生存のために必要な「具象物」を指定・分別することから発生した。 また、竜樹の第一義諦の説示に、相変わらず「言語習慣」という言葉を使用している。 しかし、このスレでセブン氏が引用してくれたサンスクリット語の原文には「言語」 などという意味は皆無である。 縁起を、「因果関係」と解し、相互依存性を否定している。そして「大乗の祖」と しての竜樹を懸命に小乗に引き込もうとしている。彼女は、釈迦は時間概念を取り入れた 点で西洋思考とは違う、などというが、時間とは具象物の変化に他ならないことを忘れている。 世界が空なら、時間などありえず、単なる心理現象に過ぎない。 兎に角彼女は、若い頃に釈迦仏教に洗脳されたことは明らか。彼女にとっては「釈迦の 言葉」のみが絶対であり、それに対する批判は皆無。彼女は「大乗の一神教化」を心配 しているが、彼女自身が「釈迦一神教」の狂信者。 一番驚いたのは、「去る者は去らず」は、「言語は空」という意味だそうだ。この句の 意味は、竜樹自体がちゃんと説明している。彼女は、その空なる言語で極めて饒舌に 語っているという矛盾をどうするのか。 出版社サンガは、スマナサーラの本ばかりを出している小乗の出版社。 兎に角、「健常者には、釈迦のような思考をする者はいない」ということだ。 小乗が、釈迦の精神病の感染に過ぎないことを如実に証明している。
ほうw
たるい休日を楽しませてくれそうじゃないかw
>>9 >生命現象は、肉体の隅々にまで現れ、個々の肉体の死によって消滅する。
↓
>そんな「神」があるかw。
ハァ?(゚∀゚)
この文は、《「生命現象」と「神」が対置され》てますね?w
「生命現象」は《『生命』の現れ》《「『生命』があること」の証》じゃなかったでしたっけ?www
これまで誰一人として《「生命現象」=「神」》だなんて発言をした人は居ませんが?
「生命現象」は、あくまでも《背後の何かの作用の現われ》ではなかったでしたっけ?
御自身の発言すらお忘れになったので?www
「生命現象」は《『生命』の現れ》《「『生命』があること」の証》
「生命現象」は《『神御業』の現れ》《「『神』がいること」の証》
そっくりでしょ?w
それとも何ですか、《「生命現象」=『生命』》だと言い直しますか? ( ̄ー ̄)
>釈迦の「苦」が、肉体(生命)の否定であることは明らか
「苦」が「身体的苦」だけだとでも思ってるんかね ・・・┐(;´ー`)┌
また、《『「苦」の滅』が、物質的な何かの消滅・消失》だとでも思ってるんかね・・w
どこまでもどこまでも「名色」の「色」でしか物事を考えてないんだから・・・。
ネタ投下しといてやるよw
【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】8
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1233367815/452
12 :
神も仏も名無しさん :2010/05/22(土) 13:16:49 ID:6fGRNH/F
>9の訂正 ×そんな「神」がるかw ○そんな「神」がいるかw
13 :
神も仏も名無しさん :2010/05/22(土) 13:33:30 ID:L7EpR+Oi
>>11 君たちが、生命を「宗教」にしたがるから、再定義した。「肉体を離れた生命
現象」などない。
釈迦の「苦」も、その肉体から生じた生命現象である。「生・老・病・死」いずれも
然り。
生命を「宗教」だと「仮定」しても、生命に優る宗教はない。いかなる宗教においても、
例外なく、「生命現象を現している肉体」がその前提だからである。死者には、
宗教はできない。
>>13 いやいやいやいやw
>「肉体を離れた生命現象」などない
当たり前でしょうwww
【肉体に現れている】生きていると見做せる徴候を【「生命現象」と称して】いたのではないですか?w
100%肉体に依存しているのは自明ではないですかwww
(つか、【そういう定義であった】筈でしょう?w 何を今更www)
15 :
神も仏も名無しさん :2010/05/22(土) 13:54:38 ID:q6Z6zjS5
再定義ね…… 前の定義と現在の定義が異なる内容であることは自覚してるわけね。 生命=「生命現象を現している肉体そのもの」 とすると、知覚できない、認識できないetcの旧設定と矛盾するけど、 もう旧設定は誤謬として投げ捨てるわけね?
16 :
神も仏も名無しさん :2010/05/22(土) 13:58:46 ID:Gz4XIvZa
どんな宗教にも言えることだけど宗教は身分制度 を間接的に否定しているのに数千年もの間 身分制度が廃止されなかったのは何故ですか?
仏教は宗教じゃないとかいうのはなしで
>>16 残念ながら、身分制度を決めているのは仏教じゃないから、仏教が批判しても無くならないってだけじゃね?
仏教内部の身分制度(僧侶の階級)の事を言っているなら、
単に修行の進歩状況によって、区別した事のなごりだろ。
師匠と弟子の区別もなくしちゃったら、カオスになるw
余談だが、古代に於いて、着座の順番は、単純に法臘(修行年月)が長い順だったそうな。
これは、「どっちが上座に座るか」なんて瑣末な事に争わなくてすむようにするためだそうで。
>>16 時代や環境、社会情勢、世相(世論・一般的通念)の影響を受けるから。
その中で(【その社会の中で援用可能なものとして】)説かれてゆくものだから。
また、「廃止・排除」等は、「具体的行動」であるが故に、
そうした社会の変革を積極的に(寧ろ強引に)推進する教義でない限りは、
受容・許容しつつ、水面下での変化や微調整、個々人での内面(受け留め方の転換)での処理、
(或いは棲み分け)、で事足れりとするから。
隠居、「再定義」ってなんだ? お前は今まで、「生命とは生命現象を現す『原動力』であり、『知覚、認識 できない』もの。」と言ってたよな? 「既知の生命エネルギーを認めず、『機械にエネルギーを注入したら動くか?』 などともほざいていた。 あれはどうなった? 今まで言ってたことは、全てウソでしたと認めるわけか? 生命=身体そのもの とするならば @「生命とは身体そのものです。すなわち、ほとんどが水、および有機体 からなる有形物であり、それを稼動させ、様々な生命現象を起しているのは ATP内に蓄積された既知の化学エネルギーです。それ以外に、「原動力といえる いかなるもの」の存在も肯定できません。すなわち「生命」と呼称する、知覚 認識不能の未知の原動力の存在も主張しません。」と、このようになってしまうが 本当にこれでいいのか? 確かに@のような見解をとるならば、これは宗教とはかなり異なるものと なろうが、お前が今まで言ってきたことと正反対だぞ。(笑) どうすんだ?
22 :
神も仏も名無しさん :2010/05/22(土) 16:34:14 ID:NPBjZSs7
君等や、釈迦や、イエスが、いくら「生命ハンターィ」と連呼してみても、それは 己の生命を存在を証明し続けているに過ぎないことを知れ。その「反対」のシュップ レッヒコールも生命の機能であり、死者には全く不可能だからである。 無駄な抵抗は止めなさいw。 「生命・生命現象・生きた肉体」は、「生命現象を現す肉体」としてしか認識できない のだから、分離することは不可能。一体として考えるだけでよい。 肉体と共に消滅する「神」があるか。「肉体」なしで生じる「苦」があるか。 馬鹿も休み休みに言えw。
>>22 wwwww
>「生命現象を現す肉体」としてしか認識できないのだから、分離することは不可能
>一体として考えるだけでよい
だから、【貴方の言う】『生命』の出番など無いわけですw
「生命現象を現す肉体」は「生命現象を現す肉体」でしかありません。
そして、【そこで言われる「生命」】は、
【『「生きていること」「息づいていること」そのこと』を指すもの】
或いは【『そのような在り様にある存在(の総体)』を指すもの】
という、≪【所謂】「生命」「いのち」、一般的意味での「生命」、辞書的意味での「生命」≫です。
貴方の言うような『超越的根源』ではありません。
地球のことを「生命(いのち)の惑星(ほし)」と称することがある。
海のことを「生命(いのち)の源」と称することがある。
浄瑠璃人形が操られた時等、「生命(いのち)が吹き込まれた」と称することがある。
どれも、【貴方の言う『生命』】ではありません。
辛うじて、(「生命力」という言葉があるように)、『力(ちから)』として見ることは可能ですが、
それも、現在は「生体の(各細胞の)働き」という説明が可能です。
そして、それらを否定する(伝統)宗教も存在しません。
どの宗教も《「生命」の大切さ》を説いています。仏教とて例外ではありませんw
【貴方の言う】『生命』は、【貴方の辞書にしかない】語義なわけですw
ついでに、少し手直しして貼り直しておきましょうw 勿論、【一般的意味での「生命」】は、「|」線より右側に位置することは言わずもがなですw (尤も、一般的意味での「生命」も、抽象化された観念的語句であることは留意されるべきですが・・。) 現代科学の知見 .|生物学的 ←← 各時代での ←各種生命現象←人が生きている様子 .|作用・理屈 .解明できる範囲の 理屈 古代人 ○○ ←|←←←←←←← 各時代での ←各種生命現象←人が生きている様子 | 解明できる範囲の 理屈 御隠居 生命 ←|生物学的 ←← 各時代での ←各種生命現象←人が生きている様子 |作用・理屈 解明できる範囲の 理屈
25 :
神も仏も名無しさん :2010/05/22(土) 18:46:45 ID:+7kfoIkG
>>23 >「生命現象を現す肉体」は「生命現象を現す肉体」でしかありません。
神も、釈迦も、イエスも、宗教も、その他の人間のいかなる営みも、その
「でしかないもの」の機能。生命は「すべて」に先立つ。
>どの宗教も《「生命」の大切さ》を説いています。仏教とて例外ではありませんw
口先だけでいくら「生命の大切さ」を説いても、「生命に優先する存在・観念」を
認めているのでは、「生命は副次的」であり、「大切さを説いている」ことにはな
らない。釈迦もイエスも、明らかに生命を否定している。釈迦は、生命を「無明」
であるとし、イエスは、「生命に超越する己の空想の産物」を至上とする。
「生命」と「それに優先する存在・観念」との間の二者択一を迫られれば、当然、
生命は犠牲にする。
それに、「口先だけでも」生命の大切さを説いている宗教が、唯の一つでもあれば
挙げてくれ。
>>25 もう一度書きますよw
≪ 【貴方の言う】『生命』は、【貴方の辞書にしかない】語義なわけですw ≫
27 :
神も仏も名無しさん :2010/05/22(土) 19:11:37 ID:9M1xj76b
>>26 「宗教者の辞書にはない語義」と言い換えたほうがよかろうw。
生物の歴史は、「生命現象を現す肉体」の維持の歴史であった。すべての努力は、
その目的に向けられてきた。その目的のために、肉体の形状まで変化させてきた。
唯一の例外が、生存努力を忘れた開祖の精神病に起因する「創唱宗教」である。
>>27 「 >その目的に向けられ 」とか「 >その目的のために 」といった言い回しの是非はともかくw、
>生物の歴史は、「生命現象を現す肉体」の維持の歴史であった。すべての努力は、
>その目的に向けられてきた。その目的のために、肉体の形状まで変化させてきた。
(という文、考え方)は、《【貴方の言う】『生命』》を【まったく必要としていません】ねw
29 :
神も仏も名無しさん :2010/05/22(土) 23:35:15 ID:vn6em8dU
30 :
神も仏も名無しさん :2010/05/22(土) 23:42:17 ID:WeDedeic
>>27 >唯一の例外が、生存努力を忘れた開祖の精神病に起因する「創唱宗教」である。
「君も私がいない方がいいと思うか?」との辞世の句で生存努力を
止めて蝉の抜け殻になったという大乗の開祖のことですか。
31 :
神も仏も名無しさん :2010/05/23(日) 00:08:31 ID:vn6em8dU
そのエピソードは何で読めるんですか一在家さん
32 :
神も仏も名無しさん :2010/05/23(日) 01:25:47 ID:xax2S87q
>>30 竜樹の論理には一点の狂いもないので、精神病ではない。健常者そのもの。
「精神病者の開祖」とは、釈迦のことである。釈迦が双極性障害(躁うつ病)
であったことは、仏伝からすでに証明済み。
>>22 おい、隠居。何だ?そりゃ。
全く変わっとらんじゃないか。 前スレで、お前のいう【生命】などと
いうものが存在しないことを、はっきり検証したというのに、スレが
新しくなったら知らん顔して、またやりだすわけか?
姑息な奴だな。恥ずかしくないのか?
もう一度はっきりさせとくか
「通常、生命という語彙は『生命現象そのものを指して言うか、あるいは、その生命現象を
現す身体、すなわち生物を指して用いる』 そして、その生物の身体を維持し、生命現象を
現す原動力となるものは、ATP内に蓄積されている化学エネルギーである。
つまり、『身体を維持し、生命現象を現す【生命】などという未知の原動力などは現時点
では、観測、確認されたことは勿論なく、また、そのようなものを導入しなければならない
必然性も全くない。」
ここで再確認しておくべき最重要事項は、隠居の主張する【生命】の存在する根拠が皆無 であることである。 唯一とも言える、隠居の主張の根拠は、 「現に存在し、生命活動を行っている我々自身であった。」 しかし、それらが「すでに解明済みの既知のエネルギーによるもの」であることは 高校生でも知っている生物学の初歩であり、【生命】などという「知覚、認識不可能な」 未知のエネルギーの存在の根拠には全くならない。 以上のように隠居の主張する【生命】の存在の根拠は、現実に全くなく、隠居の信仰の 中のみにある。 隠居のよく言う決まり文句 @「今、パソコンを使って書き込みをしていること自体が生命の証明である。」 A「生命に反論すること自体が、生命の証明である。」 も、全く論点が理解できてないアホの証明。 「生命」を否定している者など、全くいない。皆が否定しているのは『隠居のいう』 【生命】である。 (知覚、認識可能であり)「通常の意味における」生命を否定する者などいない。 皆が否定しているのは、お前が「あるんだ」と喚いている、 「無根拠の」「知覚、認識不能の」「分けのわからん」「未知の」原動力だよ。 わかったか?隠居。
35 :
神も仏も名無しさん :2010/05/23(日) 02:06:54 ID:sxTqw0X0
>>33 >生命現象を
>現す原動力となるものは、ATP内に蓄積されている化学エネルギーである。
死体にATPをどれほど大量に注射しても、生き返ることはないぞwww。これは
何故かね。
「生きている病人」の治療には使う。
>>35 >死体にATPをどれほど大量に注射しても、生き返ることはないぞwww。これは
何故かね。
お前はニワトリだね、ホント。それも前に繰り返し何度も何度も
言ったろうが? 真正の認知症か?
「死体はエネルギーを活用しうるシステム自体が損傷しているわけ
だろうが?」 だから死体になったの。 逆に言えば、生態エネルギーを
適切に活用しうるシステムが現存していれば死体にならんわ。
それから、「ATPをどれほど大量に注射しても」→ こういうことは
恥ずかしいから言うな。それこそ、高校生に笑われるぞ。
お前は、そういうバカを何度も繰り返すところをみると 、俺が前に言ったことを本当に何も理解できてなかったわけか? 「機械にエネルギーを注入しても、生命現象は起こらない。」とか 「死体にエネルギーを注入しても、生命現象は起こらない。」とか。 いいか? 「生態エネルギーは、まずそれを活用できるだけのシステムが構築 されてなければ何の意味もなさない。」 パソコンに電源入れれば稼動するだろうが、本に電気流しても無意味 だろうが? お前の言ってることは、その大前提を全く考えていない わけ。 お前の言ってることが妥当性を有するのは、まず、 「人間とおなじ精度を有するシステムを構築し、それに適切なエネルギー を投入し、その結果、生命現象と同じパフォーマンスが不可能であると 検証されたときだけだ。いい加減に理解せえや。 お前の言ってることは、「人形に電気ながして、やっぱりダメだ〜」 と言ってる小学生並みの思考なんだよ。
38 :
神も仏も名無しさん :2010/05/23(日) 03:51:54 ID:8rZLTWTh
>>37 >人間とおなじ精度を有するシステムを構築し
そんなことが出来ると思ってるほうが、高校生から笑われるぞ。構築できる
どころか、合理的に構築可能は設計図さえ描かれていない。
死が「機械の損傷」なら、何故修理できないのか。生きている間は修復できる
のに、死んだ途端に修復は一切不可能になるのは何故か。生きている場合と
同様、少なくとも「或る程度」の修復は出来るはずなのに、修復が「絶対に」
不可能になるのは何故か。死体を修復しようとする者は、誰一人としていない
のは何故か。修復できる可能性が万分の一でもあるのなら、火葬は殺人罪に
なるぞ。
39 :
神も仏も名無しさん :2010/05/23(日) 04:26:04 ID:eSk/aZwi
>>38 「生命現象を現している肉体(生命)」も死体も、「全く同じ精度」を持つ構
造体であることには変わりはない。医学生は、死体の解剖によって、その構造
を隅から隅まで知る。生体とまったく同じ精度の構造を持つ「死体」からは、
いかに修復しようとも、生命現象は一切現れないのは何故か。機械であれば、
構造が全く同じなら、同じ働きが現われるはずではないか。君の「生命体機械論」
は、その点だけでも完全に破綻している。
あのなあ、隠居よ、 >そんなことが出来ると思ってるほうが、高校生から笑われるぞ。構築できる どころか、合理的に構築可能は設計図さえ描かれていない。 誰がいつ「現時点で」そのようなことが可能であると言ったか? 勿論、「現時点では」高度な生命体の創造は技術的には不可能だよ。 しかし、将来においてもそれが不可能であると何故言い切れるのか? 2、3日まえのニュースでは、もうウイルスを超えて、「細菌の合成」 に成功したとの記事が載ってたがな。少なくとも、人工微生物が 創造不可能であると断定している「まともな科学者」はいないはずだ。 >死が「機械の損傷」なら、何故修理できないのか。生きている間は修復できる ・・ お前、言ってることが無茶苦茶だよ。 「修理できないから」死んだの。 「死んだ途端に修復は一切不可能になるのは・・」 修理が一切不可能だから死んだの。お前は原因と結果が反対。 >生きている場合と 同様、少なくとも「或る程度」の修復は出来るはずなのに、修復が「絶対に」 不可能になるのは何故か アホですか? 「ある程度の」修復って何? 有意な修復ができなかったから死んだんだろうが?
あとなあ、隠居、もう少しは生物学を勉強してから書こうや。
高校生レベルでいいから。
>>39 のようなこと書いてると、自分のバカを晒してるだけだぞ。
「生体と死体が何で同じなの?」
それは確かに、どちらも心臓があって、肝臓があってと臓器レベルでの
システムは同じでも、細胞レベルでは全く別物でしょ?
例えば、細胞内浸透圧ひとつとってみても生体と死体は全く別物だろうが?
さらに神経系の電位状態は? アホかい、全く。
お前は生体と死体が同じ構造を有していると臓器レベルで判断してるが
それ以下の細部構造ではもう、全くの別物であることを全く理解していないの。
>>39 >生体とまったく同じ精度の構造を持つ「死体」からは、
いかに修復しようとも、生命現象は一切現れないのは何故か。機械であれば、
構造が全く同じなら、同じ働きが現われるはずではないか。君の「生命体機械論」
は、その点だけでも完全に破綻している。
なんと言うか、こんな程度の思考しかできないのか?隠居。
正に小学生レベルだぞ。だから、「人形に電気流して・・」
って言ったんだよ。
せめて細胞レベルでの「生体と死体の差異」くらいは考慮しようや。
お前は「死体を構成している細胞」が、生体と同様の機能を有していると何故
考えるわけ?
「生体と同じ精度の構造を持つ死体」など、現在の技術では不可能なの。
だから、俺がしているのは未来における仮定の話なわけ。
「もし将来、人間と全く同じ精度の構造を有する(これは細胞レベルはもちろん
電子状態もトレースできたとしてだ)基体があり、それを稼動させる適切な
エネルギーを投入してそのパフォーマンスを検証したとき、それが生命現象とは
異なることが確認されたとき、初めて『未知の原動力の存在する可能性』が生じる」
と言ってるの。 わかる?
43 :
前世は一在家 :2010/05/23(日) 07:04:24 ID:cVzdtuU5
>>31 >そのエピソードは何で読めるんですか一在家さん
クマラージュ訳の「龍樹伝」ですね。私はその訳を中村元著「龍樹」で
読みました。
>>32 >竜樹の論理には一点の狂いもないので、精神病ではない。健常者そのもの。
言語論理学上では「生命」も「空」であり、その空である「生命」に
かくも固執する他称ご隠居の苦しみとなって縁起しておりますでしょう。
空である「生命」に執着するご隠居の書き込みが「縁」となり、反対する
書き込みが「起」こっておりますことが正見されるでしょう。
44 :
前世は一在家 :2010/05/23(日) 07:12:32 ID:cVzdtuU5
>>43 >言語論理学上では「生命」も「空」であり、その空である「生命」に
言語論理学上で「空」を証明したことを、机上で空を論じたので「机上空論」
と幾度も申しております。
誰にも惜しまれることもなく、一人の弟子にも看取られることもなく
蝉の抜け殻のようにこの世を去った(不去でしたか)人物に執着して
その人生をトレースされている方々が相当多いようですね。
私のお節介も「空」ですから、固執して怒る必要もないでしょう。
45 :
前世は一在家 :2010/05/23(日) 07:40:09 ID:cVzdtuU5
>>44 >私のお節介も「空」ですから、
釈尊の本来の教えに近い原始仏典(スッタニパータ、他)が現代の日本
に正しく伝わっていない最大の原因は龍樹の「中論」(空理論)だとの
仮説を立てております。
尚、大乗の中では法華経の中に原始仏典で説かれて法を見かける次第です。
法華経をカルトだとシュプレヒコールする方々を見かけますが、法華経
のせいではなく経典に帰依して行動する一部の団体の行為に対してだと
思量します。
中論では「仏も空」であり、法華経では「仏は常住」であり、何れが
正しいかを文献上で確認して参りましょう。
法華経の解釈の中にも「世界や仏は無常だと説いてきたが、実は常住する」
との釈尊の晩年の説法が方便品にあります。
これには高弟達も驚いたそうです。
46 :
前世は一在家 :2010/05/23(日) 07:48:14 ID:cVzdtuU5
>>45 法華経「如来寿量品十六」より、
釈尊曰く、「すべてのものは、生まれ、かつ死に、必ず変化する
ものでありますが(無常の意)、それはただ現象の上だけの
ことであって、如来の眼をもってすべてのものごとの実相を
見れば、すべては消え去ることもなく、現れることもありません。
(中略)また、ものごとが常住するもののように考えるのも迷い
でありますが、現象面だけを見て、常住のものがないと考えるのも
浅い見方です。」
「方便品第二」
釈尊は、「すべての人は仏になりうるという最高の真実を悟っている。
(中略)とはいえ、最高の真理をそのまま説けば、無智の人は混乱し、
思い惑い、まっすぐ受け入れることができない。」と舎利弗に説く。
パソコンを見たアフリカの呪術師が、 「パソコンが動くのは、工場で魔力を充填したからだ」と言った。 その根拠として、「パソコンが動かなくなれば、魔力が失われる」 「だから、パソコンが動く事が何よりの証拠」と喚くw 回りの人が、苦笑いしながら、「パソコンは電気で動いてるんですよ?」と指摘すると、 「ダンボール箱にどれほど電気を流してもパソコンの機能は生まれない!」と叫ぶ。 「基盤が入ってなければ、意味が無いでしょw」と突っ込むと、 「ソフトが壊れれば、外見上は変わらないのに、 電気を流しても動かない。だから、魔力で動いてるんだ!」と、 何を言いたいのかよく分からない事を言う。 「外見上が一緒でも、ソフトが壊れてたら動くわけ無いでしょw」という冷静な指摘にも、 「外見が壊れてなければ動かないのはおかしい。やはり、魔力がなくなったから動かないんだ!」とw 更には、ダイオードを持ってきて、 「電気で動くというのなら、お前がコレでパソコンを作って見せろ。 作れないなら、電気で動いているわけじゃない!」とか、無茶苦茶を言い出す。 もう、アホかとw
48 :
1/2 :2010/05/23(日) 13:34:14 ID:oBsY1aBW
前スレで、「影絵」の喩えをした。今改めて提示し直そう。 通常「影絵」は、障子紙等(スクリーン)の後ろから光を当て、 光源とスクリーンの間のものの形が映し出されるものだ。 乳幼児でない限り、人は ≪【スクリーンの向こう側に】、【その形(映っている輪郭)を有す何ものか】が【ある】≫ と考える。(赤子なら「スクリーンの向こう側に何かがある」などとは考えないだろう。) *(参:「赤ちゃんには世界がどう見えるか」 (草思社/ダフニ&チャールズ・マウラ著/吉田利子訳)p245〜250
49 :
2/2 :2010/05/23(日) 13:35:27 ID:oBsY1aBW
さて、『通常の影絵』は、上記のように
【スクリーンの向こう側の何か】の存在が【必然的に要請され】るし、【それ無くしては成り立たない】(→【影が生じない】)。
そしてこれが、一般的思考の形式(「人としての《思考の癖》」)に当たる。
今、(液晶表示等を想像してもらうといいのだろうが)
『スクリーンそのものに、影(としての映像)が映っている(生じている)』としよう。
この時、【スクリーンの向こう側には何ものも存在しない】。光源も影を生じさせるものもない。
ただ、(スクリーンの組成・構造、機能、働き等によって)、スクリーン自体に影が生じている。
しかし、≪【スクリーンの機能を知らない場合(情報の集積・分析による推測が十分になされない場合)】は、
【「思考の癖」に沿ってしまうので】【スクリーンの向こう側に】《【何かを求めてしまう】【何かがある筈だ!と考える】》≫。
>>24 (及び
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1272850647/609 )の図を併せて思い起こしてほしい。
現代科学の知見は、この喩えで「スクリーンが影を生じさせる」如くに、
『肉体及びその機能(各種細胞やDNAの働き、生化学的働き)に拠っている』と見做している。
『スクリーンの組成・構造、機能、働きにより、【スクリーン(自体に)に影が生じている】』と見做している。
「生命現象」の発生因を不可知な領域に求めたりしない。
このように(現代科学の知見のように)、不可知な領域に踏み込まず、
既知の在り様のどこかに着地して「生命」のラベルを貼るなら、
隠居の主張も「現代科学の知見に則った、21世紀の人間が持ち得る、有効な有意義な世界観・人生観」
で一件落着したことだろう。しかし、彼はそこを踏み越えてしまった。
≪スクリーンの向こう側に「神」や「霊魂」等を設置する愚を批判しながら、
自らは、何も無いスクリーンの向こう側に、『生命』を設置した≫。
「自ら踏み越えていながら、同じように踏み越えている他の宗教的思想を弾劾する」。
この滑稽さが指摘されて続けているわけだ。
解るか? >>隠居
50 :
神も仏も名無しさん :2010/05/23(日) 14:36:33 ID:7giT1OxU
君たちは、己の生命を以って生命に反対すればするほど、その存在を証明 し続けているという愚かな姿を自覚せよ。己の生命を以って、生命を「排除 すべき異物」とした、釈迦の滑稽さも同様。 それほど「科学的知見」を言うのなら、すべての既存宗教を「科学的知見」 により批判してみよ。すべての既存宗教は、跡形もなく崩壊する。 そして「科学的知見」こそは、「人間の生命の機能」以外の何物でもない。 生命を宗教とするなら、生命の機能に過ぎないものに最大の価値を認める既存 宗教とは、「人間界」においてはどちらが優れており、より有用かは、言うまで もない自明のこと。
自己=「生命」とはDNAによる自己保存本能=生存欲を中核とする 妄執と執着(我執=煩悩)によって仮構されて現象しているイメージである。 そこに実体があるわけではない。 世界、現実もまた生存欲を中核とする個人の欲望=我執の都合に合わせて生み出した虚構でしかない。 我々は決して「あるがままの世界」を見ているわけではない。 我執・生存欲の中核を打ち砕けば仮構された自己は消滅し、 そのような自己に縁って仮構された世界像も崩壊してしまう。 そこには「あるがまま」の世界があるのみで、分別・対象化された世界はない。 有るとか無いとか分別した世界ではない(中道)から、自分と世界とは素通しになってしまう。 自己は無限定なものとなった。 大乗仏教では「自他不二」(自己と他とは分離できない)といっている。 そうした「ありのまま」の世界には自己は限定なき存在そのものなのだから、 当然出生もない。出生もないから老死もないのだ。 これがブッダの不死の法則である。 これを龍樹は「不生」といっている。 以上で尽くされている。
生命とはDNAによって生み出されたイメージ=虚構だ。 それを実体視するのが「生命教」の根本的な誤謬だ。
53 :
神も仏も名無しさん :2010/05/23(日) 14:48:55 ID:rcOzW4Ty
>>51 そう考えているのも、釈迦や竜樹の生命の機能。彼等が「生まれて」いなければ、
仏教も中論もなかったw。
宗教者は、本末転倒の典型である。
すべての生活者は、そのような本末転倒に陥ってはいない。
>>53 >彼等が「生まれて」いなければ
そう論じるのは「未達」俗物隠居のイメージ=虚構でしかない。
「あるがまま」ではないのだ。
不生の一語に尽きている。
55 :
神も仏も名無しさん :2010/05/23(日) 14:55:30 ID:6NKtPYUt
>>52 >生命とはDNAによって生み出されたイメージ=虚構だ。
健常者は、そんなことは考えない。
宗教とは、精神医学の対象以外の何物でもない。開祖の精神病が伝染した
結果である(感応精神病)。「信仰」よりも、まず「治療」が必要。
56 :
神も仏も名無しさん :2010/05/23(日) 14:58:22 ID:CEPsycMM
>>50 おやおや、反論できなくなってまたテープレコーダー化か。
三歩進んで駄目なら四歩戻って記憶もリセットしてやり直す、
それじゃ話がぜんぜん進まないよ。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1273950612/54 >南方仏教は、「日本の仏教」から見れば、本質的に異なる「開祖盲信」の異教です。
日蓮系や浄土系は嫌うんだろ?実際のところ、一部の宗派、葬式仏教化された現代の在り方に
限定して、さらにつまみ食いしてシンパシーを投影してるだけなんだよ。
しかも、隠居の好みを優先しろと他人にも強要する。ただの我侭だということを自覚しない。
>異教の方は「日本の仏教質問箱」に立ち入るべきではない。ROM者を誤導するものです。
その手段が稚拙なスレタイの読み替えときた。「掲示板が日本にある」だけで、
話題まで日本のモノ限定になるのか?この程度の非論理性にも気付かない。
57 :
対御隠居まとめ :2010/05/23(日) 15:09:10 ID:oBsY1aBW
58 :
対御隠居まとめ :2010/05/23(日) 15:10:01 ID:oBsY1aBW
59 :
対御隠居まとめ :2010/05/23(日) 15:11:00 ID:oBsY1aBW
>>55 >健常者は、そんなことは考えない。
『仏道をならふといふは、自己をならふなり』(道元 現成公案)
大部分のいわゆる「健常者」も自己とは何かを追求せず、未達だから。
我執によるイメージ=常識=共同幻想を平然と真実と誤解する。
『自己=「生命」とはDNAによる自己保存本能=生存欲を中核とする
妄執と執着(我執=煩悩)によって仮構されて現象しているイメージである。』
仏教は信仰宗教ではない。
>宗教とは、精神医学の対象以外の何物でもない。開祖の精神病が伝染した
>結果である(感応精神病)。「信仰」よりも、まず「治療」が必要。
おやおや、これでは旧ソ連のスターリン主義そのままではないかw
隠居はスターリン主義同調者だったとは笑わせる。
旧ソ連下でスターリンは数千万人を虐殺している。
ナチスドイツ下においても、隠居と全く同一の論拠にたつ『精神衛生法』によって、
多数の人間が虐殺された。
生命教とは、スターリニズムかつナチズムの別名かw
61 :
神も仏も名無しさん :2010/05/23(日) 15:29:47 ID:CEPsycMM
いつもの決まり文句として共産主義は基督教の影響のもとにある、と言うだろう。 しかしそれはかえって隠居教と宗教との近しさの傍証になるといえる。
62 :
対御隠居まとめ :2010/05/23(日) 15:31:47 ID:oBsY1aBW
63 :
対御隠居まとめ :2010/05/23(日) 15:35:23 ID:oBsY1aBW
64 :
神も仏も名無しさん :2010/05/23(日) 20:45:12 ID:Q/PsqATY
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■☆☆☆☆☆♪ ■【口てい疫】―――牛・豚などの「残酷物語」を、宗教の神・仏は 何の救済も出来ず無力です。 やはり、<人間=生命>が、対処・救済するしか方法が皆無なのです。■ ですから、 ☆★☆★ 神仏 = 生命 = 人間 = 自然 ☆★☆★ (*^。^*) と表せます。 <生命=神>と示していても、人間を動かしているもの、万人が生きている時にその中に あるものなので、 「生命現象を現す肉体」として、万人に知覚・認識可能です。☆★ 1例として、体に悪いところがあれば<痛み>で教えてくれるのも<生命=神>です。 そして、人間が死ねば<生命=神>も、消滅します。☆★ ですから、同じ神と言う名前でも宗教上の観念の形而上の神とは、全く別物です。 宗教上の神は、人間が死んでも存在していると説き、万人に知覚・認識不可能だからです。★☆ □■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■☆☆☆☆☆♪
>>64 本気で言ってんのか?
りょんが見たら苦笑するぞ?ww
>>50 隠居〜〜〜〜、情けないぞ。
反論できなくなると、そうやって、とっくに否定検証済みのバカな主張を
繰り返す。 恥ずかしいだろ?
何かないのか? 取って置きの論証が。
ホントはあるんだろ? 出し惜しみしないで、そろそろ出せや。
皆をうならせてみろ。
ウシさん豚さんかわいそうだけど疫病で人間も同様に殺処分されていた時代があったんだよなぁ 恐ろしすぎる
69 :
神も仏も名無しさん :2010/05/23(日) 21:47:42 ID:QaV9KxpN
>>60 >『仏道をならふといふは、自己をならふなり』(道元 現成公案)
「自己をならふ」と言い、釈迦とも仏典とも言ってはいないことに留意。
即ち、後天的に得られた一切の知識や観念を排して、生来的な自己の生命
に習うということである。これは私が言っている「あるがままの生命の指示
のみに従って生きる」と同じ意味。
>『自己=「生命」とはDNAによる自己保存本能=生存欲を中核とする
>妄執と執着(我執=煩悩)によって仮構されて現象しているイメージである。
それがまさに「習うべき自己」である。釈迦仏教における釈迦が、絶対に言い
得なかった言葉である。釈迦仏教と大乗仏教との本質的相違の巨大さに気付く
べきであろう。
70 :
神も仏も名無しさん :2010/05/23(日) 22:14:36 ID:rOTuh6FO
>>51 >大乗仏教では「自他不二」(自己と他とは分離できない)といっている。
>そうした「ありのまま」の世界には自己は限定なき存在そのものなのだから、
>当然出生もない。出生もないから老死もないのだ。
>これがブッダの不死の法則である。
>これを龍樹は「不生」といっている。
それは、竜樹を誤解している。「出生」も「老死」もあるのが、まさに「ある
がままの世界」ではないか。釈迦とは異なり、竜樹は「妄想患者」ではない。
「出生」も、「万物との相互依存性・関係性」の産物だから、それ自体として
は「不生」と言っているだけである。「関係性」という「抽象性」は、事物
ではないから、「生まれることも、消滅することもない」のは、当然であろう。
71 :
神も仏も名無しさん :2010/05/23(日) 22:52:09 ID:fWGbBkRm
>>60 >おやおや、これでは旧ソ連のスターリン主義そのままではないかw
ほう、スターリンが「生命の至上性」をいつ、どこで説いたのか。
彼は、グルジアの神学校を卒業した聖職資格者。マルクスもクリスチャン。
生命を否定する宗教者でなければ、あれほどの虐殺を良心の呵責なく行うこと
は、到底不可能である。生命は、それを許さない。
「治療」は、「殺すため」ではなく、「生かすため」である。何を勘違いして
いるのか。
72 :
60 :2010/05/24(月) 10:10:34 ID:5GxU8rD1
>>69 >>70 >>71 >「あるがままの生命の指示のみに従って生きる」
「未達」俗物隠居の無明イメージ=虚構でしかないものは「あるがまま」などではない。
無明のおまえには縁起の現観はない。
心身脱落せよ。←『我執・生存欲の中核を打ち砕けば』(
>>51 日々是修行)
⇒『自己=「生命」とはDNAによる自己保存本能=生存欲を中核とする
妄執と執着(我執=煩悩)によって仮構されて現象しているイメージである。
そこに実体があるわけではない。』(
>>51 >>60 再引用)
縁起の現観においては<生命>⇔<非生命>の二項相対はない(→
>>51 )
生命根源論など問題にもなりようがない。
問題にもなりようもない妄想をでっちあげて執着する、これを無明という。
>>70 >>71 は、答えるに値しない無明妄想の愚問愚答だ。
すべて
>>51 に尽くしてある。
それにしても隠居は暇人だなw
朝の仕事が一段落したので、気分転換に書き込んだが、
こんな2ちゃんねるで暇つぶしをやってるぐらいなら、
貧者、困窮者のために必死にボランティアをやれ、修行にもなる。
『<生命が>有るというのは常住に執着する偏見であり、 <生命が>無いというのは断滅に執着する偏見である。 ゆえに賢者は(有るということ)常住と(無いということ)断滅に執着してはならない。』(中論15-10) 生命が有るのでもなく、生命が無いのでもない。 これが非有非無、不常不断の中道である。 一切は空なのである。 涅槃寂静
74 :
神も仏も名無しさん :2010/05/24(月) 13:46:52 ID:FSMa5zfe
>>72 道元は、そんなややこしいことを言っているのではない。それこそ「あるがまま」
を離れた人為観念ではないか。「生命現象を現す己の肉体」。これがあるがまま
の自己である。まさに「眼横鼻直」ではないか。
>>73 私が持っている「大乗仏典」(筑摩書房発行)では、中村元氏は、中論15章
は「中論としてはあまり重要でない」として収録していない。「重要ではない」章
にはこだわるな。竜樹は、「もろもろの存在」の「構成原理」を、「相互依存性・
関係性」として解明したに過ぎない。「厳然として実在する存在」を前提として、
その関係性故の無自性を説いているだけ。君は、道元ばかりか、中論も根本的
に誤解している。釈迦とは異なり、道元や竜樹は「健常者」であり、「妄想患者」
ではない。その中論15:10は、思想的にはガクンと落ちる、釈迦並みの凡庸
さである。道元も竜樹も、表層的なことではなく、「ものごとの根源」を探っ
ていることを、忘れてはならない。釈迦とは「頭の出来」が違うのである。
75 :
神も仏も名無しさん :2010/05/24(月) 14:00:10 ID:Y71ZfF/r
>>74 >道元も竜樹も、表層的なことではなく、「ものごとの根源」を探っ
ていることを、忘れてはならない。釈迦とは「頭の出来」が違うのである。
正に、ご隠居氏と一緒で〜す。 ヽ(^。^)ノ
釈迦とは「頭の出来」が違うのである。
■ 「ものごとの根源」 ■
とても大切で重要なことですね。
76 :
神も仏も名無しさん :2010/05/24(月) 14:14:41 ID:Y71ZfF/r
>>69 ■「自己をならふ」と言い、釈迦とも仏典とも言ってはいないことに留意。■
後天的に得られた一切の知識や観念を排して、生来的な自己の生命に習うということである。
これは私が言っている「あるがままの生命の指示のみに従って生きる」と同じ意味。
↑ と
>>71 もご隠居氏は、スバラシイ!!
ヽ(^。^)ノ
>> 64 の補足
又、<生命=神>は、宗教の神仏のように万人の体の外に存在するものではない。☆
それは、各人の体内に存在し、生きるための指示を出し、誤れば教えてくれるもの。
当然、宗教者にも存在し勿論、例外はない。体が死ねば必ず消滅する。★
77 :
神も仏も名無しさん :2010/05/24(月) 14:18:31 ID:Y71ZfF/r
■『「死学」安らかな終末を、緩和医療のすすめ』大津 秀一著 ■ ■出版社/著者からの内容紹介 家族を病院でみじめに亡くさないために大津医師は大病院で末期がん患者が延命治療で苦しみ、惨めに旅立つ様をイヤと言うほど見て、無力感を味わっていた。 やがて「緩和医療」を知り、患者の苦痛は激減した。そして彼は日本一若いホスピス医になり、緩和治療を広める決心をする。日本の医者は病を治すことは学ぶが、 患者の苦痛を取ることはあまり学んで来ないという。大津医師は一般病院で末期患者にもっと緩和治療は取り入れられることを願い、患者、家族にも理解して欲しいと言う。 万人にやがて訪れる死。日本で安らかな終末を迎えるための四条件とは? 健康な時にこそ考えておき、より良い選択をしておいてほしい。 ↑ 緩和医療の実態。 神は何故、死ぬ間際までこのような苦痛を与えるのか?・・・ 全て分かったようなことを言う宗教者は、是非、答えて欲しい。 天国・地獄・・来世などより、こちらの方が関心が大なりw オチ
78 :
神も仏も名無しさん :2010/05/24(月) 17:01:02 ID:0l//yJGo
原始仏教をチマチマと齧ってるものですが 理解出来ないことがある まずは悟りと涅槃への到達、これって仏教の目指す一つの境地だけど 実際にそこへ行き着くことが可能なのか、 合理的にそこへ行き着くことができるんだと証明できる人いる? 後はブッダが悟った後に伝道することにしたこと、 悟り、涅槃を得たなら、わざわざその教えを人々に説く必要はないんじゃないですかね。 どうしてブッダは伝道を思い立ったんだろうか。 これらの事について、秀逸な考察などが載っている書籍を知っている人がいたら、 申し訳ないが教えて頂きたい。
>>78 >どうしてブッダは伝道を思い立ったんだろうか
773 名無しさん@3周年 sage 2006/11/16(木) 17:03:40 ID:YX/dL9md
>> 752
一 とっつきにくい考え方ではあるが、聞く耳を持つものも居よう。(b語る喜び)
一 聡い者は、聞いて理解することもあろう。
一 聞くことにより安心(あんじん)を得る物が一人でもいれば、その人のためにもなろう。(d貢献する喜び)
一 もし、より多くの者が理解したならば、社会はずっと良いものになろう。(d貢献する喜び)
以上、慈悲の観点。
一 この考え方は、果たして普遍性を持ちうるだろうか?独りよがりなものでないだろうか?
誰もが理解できることであろうか?私以外理解できないのではないか?(思考内容・手法の普遍性)(d貢献する喜び)
一 外部へ発信することにより、内容が整理・洗練される。(多少結果論ではあるが・・)(b語る喜び)
以上、悟りの論理的側面。
一 自分以外の者と思考を共有することにより、孤独が緩和される。
(勿論、お釈迦さんが寂しがったわけではないが、そうした側面も1%位はあるだろう)(a孤独の解消)
一 この(悟りの)喜びをわかってほしい。分かち合いたい。この(悟りの)喜びを味わって貰いたい。(c与える喜び)
以上、心理的側面。
abcdどれも、心理的に「人間釈尊」を見た場合のもの。
勿論、孤独を厭うたり、喜びを求めるような、言葉通りのものではないが、
シッダッタ本人に聞いても、そうした側面を否定はしないだろう。
ゴータマ・シッダッタも、仏である前に人間なのだから・・・。
>>78 >実際にそこへ行き着くことが可能なのか
自分で確かめるしかないじゃん。
(当然、確かめる以前は「《信じる》しかない」。)
現存する文献(=残された言葉)が嘘八百であること、伝承者達が虚偽の証言をしていること、
を何人たりとも否定できない。
>合理的にそこへ行き着くことができるんだと証明できる人いる?
(日本でどうかは判らないが)、少なくとも、世界の各派で存命中の長老方は、
「阿羅漢」であると見做されてはいる。
《【その意味でならば】、彼等の存在そのものが「証(あかし)」(証明)である》、とは言い得る。
>秀逸な考察などが載っている書籍を
無いと思うね。
>>77 >神は何故、死ぬ間際までこのような苦痛を与えるのか?・・・
>全て分かったようなことを言う宗教者は、是非、答えて欲しい。
むしろ、なぜ「神」などを想定する必要があるのかを聞きたいんだがw
まあ、強いて仏教的にその質問に答えれば、「そうなってるんだから、しょうがないだろ?」だと思うが。
死ぬ間際まで苦痛が続く事を前提とした上で、その苦痛にどう対処するかというのが、仏教だと、私は思うが。
そういえば、ご隠居は、この質問にどう答えるんだ?w
まさか、【生命】にしたがって欲望の赴くままに生きれば、病気になんて掛からない! とか言い出さないだろうな?w
>>74 >「生命現象を現す己の肉体」。これがあるがまま
すべて
>>51 で応えています。
あなたは仏教の初歩が判っていません。
仏教初心者クラスから勉強しなおしたほうがいい。
顔洗って、10年後に出直してきなさい。
>中論15:10は、思想的にはガクンと落ちる
あなたは自分で中論を直接まともに読んでいないでしょう。
あなたの言説はすべて偏見と予断に満ちています。
もっとも仏教的精神と遠い姿勢です。
中論の帰敬序は龍樹自身によって全体完成のあとで作成され、
その冒頭に置かれたものです(三枝訳注「中論」(上)87頁参照)。
空とは無自性の謂いであり、自性について考察した15章がなぜ>ガクンと落ちるのでしょうか?
隠居の生命根源論wとやらを完全に否定した内容の、非有非無、不常不断の中道が15章の内容であり、
その反映が帰敬序です。
中論は帰敬序から25-24(ブッダはいかなる教えも、どこにおいても、誰にも説かなかった)まで、
見事に美しい体系的構成において一貫しており、隠居のような浅薄低脳児には把握は無理です。
それより、困窮者のためにボランティアに必死になりなさい。
83 :
神も仏も名無しさん :2010/05/25(火) 00:20:15 ID:tZiKiceA
>>82 「帰敬序」に騙されているw。もっぱら「帰敬序」に頼っている石飛さんもそ
の一人。「相互依存性」まで否定している。竜樹の口の上手さは天才的w。
「ヒントのヒント」を与えてくれた釈迦に対する儀礼的な言葉に過ぎない。
中論の内容は、釈迦を超えたという自負に漲っていることにも気付かないのか。
「中論の完成後に付け加えた」というのも胡散臭い。大切なことなら、最初か
ら書くはず。
中論を読めば、釈迦の思想を完全に超えている、むしろ逆転していることが
分る。釈迦の思想を的確に批判している。「中道」を「空」であるとした解釈
も、釈迦にはできなかったこと。
三枝さんは、「竜樹は、釈迦の縁起を、換骨奪胎した」と喝破している。
一旦釈迦仏教に洗脳されると、竜樹を本当に理解することは不可能だと思う。
竜樹の「相互依存性」を否定し、竜樹を懸命に小乗に引き込もうとしている
石飛さんもその一人。
中村元氏が、「中論にとって15章はあまり重要ではない」として収録しなかった
理由は何だと思うか。
竜樹の大乗仏教が、釈迦仏教のコペルニクス的転回である所以である。
>>83 龍樹こそが、「仏教堕落」の諸悪の根源かもしれんのにwww
85 :
神も仏も名無しさん :2010/05/25(火) 00:52:09 ID:JFZhbVrM
>>81 >死ぬ間際まで苦痛が続く事を前提とした上で、その苦痛にどう対処するかと
>いうのが、仏教だと、私は思うが。
仏教も、その他の如何なる宗教も、病気や怪我の際の肉体的苦痛に対しては、
何の効果もない。虫歯の痛み一つ治せないが、消炎鎮痛剤1錠飲めば、ピタリ
と治る。「スピリチュアル・ケア」など持ち出されたら、非信者にとっては
更なる苦痛以外の何物でもない。
「疼痛の緩和」は、「生命現象を現す肉体」(生命)の懸命な努力により、一
昔前とは比べ物にならない進歩を遂げている。麻酔薬の発見が、どれほど無数
の人々の苦を除去したか。釈迦が手術を受けたら、苦痛のあまり転げまわった
であろう。
宗教が、死に行く人々まで騙すことほどの大きな罪はない。騙した人間は、それこそ、
地獄行きである。
最大の西洋哲学者といわれる無神論者ヒュームは、死の直前までキリスト教への
入信を勧誘されたがすべて断り、従容として死に赴いた。
>>85 また、壊れたテープレコーダーかw
たまには、未だ論破されてない、新しいネタを披露してくれよw
>>86 エンドレスリピートは、壊れたテープレコーダーじゃなくて、壊れたレコードか。
テープレコーダーじゃ、ラーメンになって、音がでなくなるw
ご隠居も、壊れたエンドレスレコードじゃなくて、
論理破綻したら喋らなくなるラーメンテープになったら?w
88 :
神も仏も名無しさん :2010/05/25(火) 02:51:22 ID:iPjILbuf
>>86 2500年間も、同じ仏典を繰り返している仏教徒こそ、壊れたテープレコーダ。
新ネタ一つ入っているのに気付かない?
>>83 >「帰敬序」に騙されているw
いつものとおりの、意識的なピンボケ対応だな。
不都合な問いには事実上スルーする。
どこまでも腐った人間だ。宝珠と同列の外道だ。
⇒・『隠居の生命根源論wとやらを完全に否定した内容の、非有非無、不常不断の中道が15章の内容であり、
その反映が帰敬序です。』(
>>82 )
・『縁起の現観においては<生命>⇔<非生命>の二項相対はない(→
>>51 )
生命根源論など問題にもなりようがない。
問題にもなりようもない妄想をでっちあげて執着する、これを無明という。』(
>>72 )
相変わらずの姑息な態度は捨てて、まともに答えたらどーだ?
もっとも、おまえにとっては龍樹中論などトラウマ怨念による信仰宗教憎しのネタであって、
論破されても別のネタをでっち上げるだろう。
その態度は悪質な政治主義だ。
やっぱり徒労だな。
まともな釈迦仏教は『信仰』宗教ではない。
91 :
神も仏も名無しさん :2010/05/25(火) 08:57:41 ID:80EDSpT2
>>89 >・『縁起の現観においては<生命>⇔<非生命>の二項相対はない(→
>>51 )
> 生命根源論など問題にもなりようがない。
> 問題にもなりようもない妄想をでっちあげて執着する、これを無明という。』(
>>72 )
と、己の「生命」を以って語ることの愚かさ、滑稽さを自覚せよ。
「生命」を「無明」呼ばわりした釈迦も同じ。というより、完全な精神障害者。
健常者である一切衆生は、そんな考えはしない。釈迦とは異なり、悟っているからだ。
『仏道をならふといふは、自己をならふなり』(道元 現成公案)
この「自己」とは何か。「眼横鼻直」の意味は何か。
92 :
神も仏も名無しさん :2010/05/25(火) 09:23:18 ID:BJ3oHhJa
「しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する 鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。この ところをうれば、この行李にしたがひて現成公案す。このみちをうれば、この 行李したがひて現成公案なり」(正法眼蔵現成公案)
93 :
89 :2010/05/25(火) 10:09:58 ID:t6+zdXu4
>>91 おまえは落第。
>己の「生命」を以って語ることの愚かさ
『そう論じるのは「未達」俗物隠居のイメージ=虚構でしかない。
「あるがまま」ではないのだ。』(
>>51 )
不生の一語に尽きている。(
>>54 )
>健常者である一切衆生は、そんな考えはしない。
『大部分のいわゆる「健常者」も自己とは何かを追求せず、未達だから、
我執によるイメージ=常識=共同幻想を平然と真実と誤解する。』(
>>60 )
>この「自己」とは何か
『自己=「生命」とはDNAによる自己保存本能=生存欲を中核とする
妄執と執着(我執=煩悩)によって仮構されて現象しているイメージである。』(
>>51 )
そこには実体はなく、縁起=空である。
>「眼横鼻直」の意味は何か。
縁起の現観をいう。
『縁起の現観においては<生命>⇔<非生命>の二項相対はない(→
>>51 )
生命根源論など問題にもなりようがない。
問題にもなりようもない妄想をでっちあげて執着する、これを無明という。』(
>>72 )
おまえの愚問などにはすべて既に答えている。
94 :
89 :2010/05/25(火) 10:13:55 ID:t6+zdXu4
心身脱落せよ!
>>88 >2500年間も、同じ仏典を繰り返している仏教徒こそ、壊れたテープレコーダ。
へーw
じゃあ、龍樹も、同じ仏典を繰り返している壊れたレコードなんだ?w
>新ネタ一つ入っているのに気付かない?
新ネタなんかあるか?w
>>91 >「生命」を「無明」呼ばわりした釈迦も同じ。というより、完全な精神障害者。
こういう妄想による『中傷』をやっても何の意味もないどころか、
ブッダファンをかえって頑なな気持ちに追いやるだけだろう。
北風を吹かすしか能のない隠居って、
ブッダファンや清浄な宗教者の気持ちを理解しない戦術的誤りだと指摘しておこう。
さらに小乗仏教スコラ部派のブッダ像だけをいくら中傷しても、
大乗仏教徒のブッダイメージ(古仏:道元)は揺るぎもしないだろう。
・声の大きい方が勝ち ・(同じことを)何度も繰り返し「回数多く」発言した方が勝ち とでも思ってんだろ? 隠居&顔文字馬鹿はw
98 :
神も仏も名無しさん :2010/05/25(火) 19:57:39 ID:1A+18qfn
>>85 >仏教も、その他の如何なる宗教も、病気や怪我の際の肉体的苦痛に対しては、何の効果もない。
「疼痛の緩和」は、「生命現象を現す肉体」(生命)の懸命な努力により、一昔前とは比べ物にならない
進歩を遂げている。麻酔薬の発見が、どれほど無数の人々の苦を除去したか。
確かに・・ 現実をあるがままに見れば当たり前のことを、ご隠居氏は常に言われている。
■ やはり、人間を救うのは、人間しかいませんね。 ■ (*^−^*)
宗教上の神仏は、こむづかしいことばかり教典で述べるが、現実世界では全くの無力〜w☆★
それが理解出来ないのは、洗脳され倒錯している宗教者達のみです。
緩和医療も、これから医療関係者達の日々の研鑽・努力と皆の理解により、どんどん広がり
普及していき、<死ぬ間際の苦>を緩和し除き、皆を救済してくれるでしょう!!
ヽ(^。^)ノ
Good Night ☆♪〜
99 :
神も仏も名無しさん :2010/05/25(火) 20:03:23 ID:k5kTLEOe
“苦”が、滅することのできるものだとして、 たとえば、事故で片足を失った者が、そのことで“苦”を感じていた時、 その時、そこでの「“苦”が滅せられる」とはどういうことか? 決して、新たに足が生えてきて、再び両足で歩けるようになることではあるまい。 「“片足を失ったということ”が(前世の(悪)業による)“苦なる果”」であったなら、 苦が滅せられた時、“片足を失ったという果(→前世の(悪)業による果)”も滅するのか? そうではあるまい。“片足を失っているという事象”は何も変わらない。 “片足を失ったという果”は、あくまでも“片足を失ったという果”でしかない。 彼が感受している“苦”と、“片足を失っているという事象”は同じではない。 この時「その“苦”を滅する為にとられる方法」は、「“片足を失ったという果”の“因”を前世に求めること」ではない。 「“片足を失ったという果”を、《自身が(今)どのように受け止めているのか》《これからどのように受け止めてゆくのか》 を観察・考察する」所にこそあろう。 『私は、なぜ、“片足を失っているという事象”を“苦”と受け止めているのだろうか・・?』 と・・・。
>>99 我執による二項相対比較するから。
『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。
死ぬる時節には死ぬるがよく候。
これはこれ災難をのがるる妙法にて候』(良寛)
『生といふときには、生よりほかにものなく、
滅といふときは、滅のほかにものなし。
かるがゆゑに、生きたらば、ただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひて
つかふべしといふことなかれ、ねがふことなかれ』(道元 正法眼蔵 生死より)
⇒自受容三昧(事実を受けうれ、自己のものとして、一体の生活を楽しむ)
>>100 get! ラッキー! ←これですわw
101 :
100 :2010/05/25(火) 23:38:08 ID:t6+zdXu4
訂正 × 自受容三昧 〇 自受用三昧 失礼
⇒随縁且従容 (縁起を受け入れ、まあしばらくのんびりやっていくさ)(良寛)
103 :
神も仏も名無しさん :2010/05/26(水) 09:57:44 ID:cx3T3+ZK
良寛は今でいうとロリコンだろ。 少女とHしたりして恥ずかしくないのか。
104 :
神も仏も名無しさん :2010/05/26(水) 11:42:17 ID:Wer/zFN5
>>83 >中村元氏が、「中論にとって15章はあまり重要ではない」として収録しなかった
>理由は何だと思うか。
そこを論証せずに、ふりかざすだけならただの権威主義になる。
「何だと思うか」って中村さんが「なぜ」「どういう意味で」重要でない
と書いたのか、読んでない状態で、宙ぶらりんを続けれてるのか?
【最終】輪廻転生説はどう扱うべきか!?【決着】3
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1259369908/ 526 神も仏も名無しさん 2009/12/09(水) 09:23:57 ID:ZIp8sIkD
>> 524
個人的には、原始仏教に嵌った中村元氏が、果たして竜樹を本当に理解できたか
どうかは疑問。彼は、竜樹に対しては、やや否定的な感じがする。中論は、原
始仏教の「コペルニクス的転回」だから。
竜樹の哲学(相互依存性・相対性)は、「現実世界の証明ではない」どころか、
現実世界そのものの構成原理。原子(素粒子)による物質の構成を考えれば、
容易に理解できること。
☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート27
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1268863382/ 422 神も仏も名無しさん New! 2010/03/29(月) 14:26:36 ID:81R7Zp/u
>> 415
原始仏教信者である中村氏が、中論を完全に理解できたかどうかは疑わしい。
彼の中論に関する解説書を呼んで、果たして中論の思想がすっきりと頭に入る
だろうか。しかし、中村氏は「日本最大の『佛教』学者」だから、少なくとも、「重要
部分」と「重要でない部分」との区別はできたはずだ。
中論は、多数の解説書を読むより、中論の「重要部分」の翻訳を直接読んだ
ほうがよい。中論は、言葉は一見難しそうだが、その「内容」を把握すれば、
それほど難しいものではない。物質とその構成要素の原子との関係を考える
だけでよい。言葉の隅々にまでこだわったり、小乗的な思想に呪縛されている
と、難しく感じるだけ。
☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート27
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1268863382/ 515 神も仏も名無しさん 2010/04/07(水) 23:36:12 ID:jk+bUtwF
>> 513
「煩悩」をマイナスイメージとしたのは、あくまで釈迦の誤り。辞書がその誤りを
承継しただけ。「煩悩」は「佛教語」である。
煩悩は、生命維持に必須の心理作用であることは、私の最初からの持論。別にあなたの
引用に便乗した訳ではないw。天台大師は関係ない。あなた方カルト信者とは違って、
【「権威」には一切依存しないのが、私の流儀。】
「菩提」という言葉は、あなた方が好んで使う使う言葉だから、利用しただけ。あなた方に
とっては、「菩提」は「清浄」ではないのかねw。
すでに述べたように、「即」の言葉を無視して余計な要素を勝手に付け加えたら、
中国語として、言語的に成立しない。前レスで詳説したとおり。
そんなことより、「日本の」仏教質問箱に、小乗カルトや釈迦カルトばかり群がってきて
布教しようとすることの問題の大きさを、「日本の」仏教徒として憂うべきではないのか。
ROM者を誤導する危険性は、明らかではないか。
504 神も仏も名無しさん 2010/04/07(水) 12:19:27 ID:wMpaTjVm
>> 503
【訳文に文句があれば、訳者の平川彰博士、解説者の中村元博士、及び中論の中心思想を
「相互依存性・関係性」と解釈する他の佛教哲学者たちに言ってください。
あなたは、これらの人々を超える学識がおありなのか。】そんな学識者が何故2chなどをうろついているのか。
中論の他のどの章を読んでも、この中心思想が流れていると思うが。
あなたなら、「受する」をどう訳したいのですか。「受ける」という訳語では「意味不明」
だから、あくまで、中論全体の思想から、その語の真意を把握しようとした努力の結果だと思う。
中論の思想が結果的には釈迦佛教を破壊することになるが故の、あなたの足掻き・妄想ではありませんか。
108 :
ID違うが :2010/05/26(水) 18:31:01 ID:y012vSxc
うむ。 いい具合に過疎ってきたなw (スレの勢いも、往時の半分強だw)
110 :
神も仏も名無しさん :2010/05/26(水) 20:44:45 ID:h0Mzgf7P
>>85 >また、壊れたテープレコーダーかw
はい。反論出来ないので又、又、すり替え語で誤魔化しますねw
ご隠居氏論は、揺るぎの無い大地にしっかりと立った根本からの現実論 = 真理、
ですから確かめることが出来て、彼の言葉は、いつも単純明快で変わりませんね。
その反対に宗教は観念ですから、百人百様で無駄な論争ばかりが何千年も続きますw
宗教本を読んで勉強しても、根拠が明確でなく無駄になります。
■ 語りえないことについては人は沈黙せねばならない(ウィトゲンシュタイン)■
■ 知りえないことについて知っているかのように語られるあらゆることは物語である(池田晶子)。■
■ オウムは、仏教と、ヒンドゥー教及びキリスト教とが化合して、「化け物宗教」が出来上がった。
「混ぜるな危険」である。 ■
★ Good Night ☆♪〜
111 :
神も仏も名無しさん :2010/05/26(水) 20:46:49 ID:h0Mzgf7P
>>110 >■ 語りえないことについては人は沈黙せねばならない(ウィトゲンシュタイン)■
>■ 知りえないことについて知っているかのように語られるあらゆることは物語である(池田晶子)。■
おい、パクリ専門の脳無し金魚の糞よ。
両方とも俺が仏教スレに持ち込み、その言葉をバネとして考察を深めたものだ。
おまえ=金魚の糞は勝手にパクって表層だけを御都合主義で、いかにもオリジナルのように使っている。
たとえば、池田晶子のオリジナルの出典はどこか指摘してみろ。
これでは中国パクリ主義もあきれるぜw
パクリ専門金魚の糞は今必死になって出典を調査中です。 インチキパクリ揶揄専門のアキレス腱を突つくのは楽しめるw 親分隠居がトンズら中なら、金魚の糞でもイジメルしかない。 おい、誰かネタ出せや。
114 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/05/27(木) 02:26:26 ID:8ein2OlW
龍樹菩薩は、「菩薩」なのでありますから、今も転生してどこかに存在することになり ます。 御隠居が、龍樹を反釈迦仏の首魁として祭り上げていることを、今、その龍樹がどう思 っていることやら……。 まあもちろん、御隠居は輪廻を否定するから、「そんなこと構うこたぁない」のでしょ うけど。(輪廻肯定者だったら、恐しくてそんなことできないでしょう)
115 :
神も仏も名無しさん :2010/05/27(木) 04:07:44 ID:XkWg/IVi
撃墜w 不謹慎だが思わず笑った 現実とシューティングゲームの区別がついてないんだな
116 :
神も仏も名無しさん :2010/05/27(木) 10:57:33 ID:AFCFP8Qs
117 :
神も仏も名無しさん :2010/05/27(木) 15:09:23 ID:cUDeWl5u
>>114 竜樹は、「輪廻転生」を実質的には否定している(中論27章)。そもそも、
「空」とは真っ向から矛盾するではないか。前レスで、すでに議論済み。
竜樹ほどの論理的・合理的な男が、そんなアホらしいことを言う訳がなかろう。
119 :
神も仏も名無しさん :2010/05/27(木) 19:42:52 ID:FPbcj5TA
>>112-113 >パクリ専門金魚の糞は今必死になって出典を調査中です。
あはは・・・(笑) 君が暇人の証拠〜w
現実生活に忙しくてそんなテストは勿論スルー
無駄な抵抗は止めよw その手にはのりませんw
↓
>その反対に宗教は観念ですから、百人百様で無駄な論争ばかりが何千年も続きますw
>宗教本を読んで勉強しても、根拠が明確でなく無駄になります。
>>110 ★ Good Night ☆♪〜
120 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/05/27(木) 21:48:12 ID:Z8niSPHe
>>116 ラジニーシは禅(特に日本の禅)にハマッていたようですからね。
私的には、やっぱり机さんのほうがより似てる印象がします。
>>120 外道
>ラジニーシは禅(特に日本の禅)にハマッていたようですからね。
>私的には、やっぱり机さんのほうがより似てる印象がします。
ラジニーシの十戒への俺の採点。
まあ、公案ネタとして出しておこうかw
×はアウト、△は微妙,〇は微妙ながら合格
×1、内部から来るもの以外どんな命令にも従うべからず
×2、唯一の神は生そのものである
×3、真理は内にある、それを他のどこかに探すべからず
×4、愛は祈りである
×5、空(くう)は真理への扉である
それは手段であり、目的であり、達成できる
△6、生はいまここにある
〇7、完全に目覚めて生きよ
〇8、泳がず、浮かび漂うべし
△9、一瞬ごとに死に、一瞬ごとに新生すべし
△10、探求をやめよ、在るところのものは在る
立ち止り、そして見よ
まあ、落第だなw
>>120 その場合、
(御隠居じゃないがw)、「生命」の単純肯定を踏み越えて、
《良いことも悪いこともひっくるめての》「世俗肯定」(ひいては「欲望肯定」)をするならば、
似てきても致し方ないでしょう。
また、逆に、極限まで単純化し、純化し、余計なことを削ぎ落とした時もまた、
多くの思想は似てきます。差異を捨象するからです。
(だから、「釈迦とイエスは同じ事を説いていた!」などという戯言(たわごと)も成立するのですw)
いずれにしろ、よっぽど採点基準を甘くしない限り、(差異の捨象を闇雲にしない限り)、
「似て非なるもの」に変わりはないと思いますがねw
※勿論、神智学と仏教、ヒンドゥと仏教、もねw ( ̄ー ̄)ニヤリ
124 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/05/27(木) 23:12:49 ID:Z8niSPHe
>>123 「山田くん、座布団1枚もってきなさい!!」
125 :
神も仏も名無しさん :2010/05/27(木) 23:21:13 ID:gJrZgTvp
文脈と背景がメッセージ性を支えている。 相手が踏まえて入れくれれば、文言上は 要約されまくっていても、極論に見えても誤解はされない。
126 :
前世は一在家 :2010/05/27(木) 23:34:13 ID:vNHfR8R+
>>114 不説氏
>龍樹菩薩は、「菩薩」なのでありますから、今も転生してどこかに存在する
>ことになります。
私は「菩薩」とは「衆生済度」を発願されて、涅槃に入らず輪廻を繰り返される
存在だと認識しております。
ですから、衆生に慕われており、入滅時には大勢の弟子達に看取られるかと存じ
ます。
でも、クマラージュ訳「龍樹伝」では、独り蝉の抜け殻のようだったとのこと。
当時、貴兄のような弟子が一人でもおられましたらと思料します。
肉体を離れた霊魂はあの世(幽界)に入り、修行した後に記憶を失って輪廻・再生
してくるのが自然の法です。
ただし、「不去」とか「不生不滅」を確信した唯物論者の場合は自身が死んだことを
認めないので、この世に何百年でも留まって浮遊霊とか憑依霊とか呼ばれる存在に
なっております。(そういう霊とは時々間接的に遭遇します。)
>>84 >龍樹こそが、「仏教堕落」の諸悪の根源かもしれんのにwww
諸悪という表現は避けますが、釈尊の本来の教えを変えてしまった根源という意味
では同感です。
127 :
神も仏も名無しさん :2010/05/27(木) 23:57:40 ID:tF8HZkoT
>>126 >でも、クマラージュ訳「龍樹伝」では、独り蝉の抜け殻のようだったとのこ
と。
>当時、貴兄のような弟子が一人でもおられましたらと思料します。
釈迦やイエスとは異なり、竜樹には「狂信者」が生じなかったことが、彼の
偉大さを証明しているのだよ。
「真理」とは、一切衆生の衆生心(真如)として既に存在するのだから、狂信者
は生じない。「眼から鱗」の思想は、例外なく胡散臭いと考えてよい。
同じユダヤ人でありながら、マルクスには多くの狂信者が発生し、無数の人命
が奪われたが、無神論者で優れた臨床精神医学者であったフロイトには、その
ような事実が生じなかったのは何故かを、よく考えてみよ。
>>127 >竜樹には「狂信者」が生じなかったことが
少なくとも一人、君という「狂信者」が居るなwww
129 :
神も仏も名無しさん :2010/05/28(金) 00:45:50 ID:TfY+8tkY
>>128 釈迦や、イエスや、マルクスとは異なり、竜樹を信じたために気が狂ったり、人を
殺した者が、唯の一人でもいるか。
小乗国タイやスリランカの惨状を見よ。
衆生心(常識)や生命の信者は、狂気や殺戮の対極である。
130 :
前世は一在家 :2010/05/28(金) 01:22:53 ID:k6MtHUdJ
>>127 1909年のある日、ユングはフロイトと超常現象について議論していた。
フロイトはユングの心霊主義に対する関心をしかり(略)
ユングはすかさず応酬した。とっさに口からこんな言葉が出た。
「先生はまちがってます。その証拠に、もう一度同じことが起こりますよ」。
心霊研究の世界ではユングのアプローチは興味深いですね。
131 :
前世は一在家 :2010/05/28(金) 01:29:58 ID:k6MtHUdJ
>>130 カール・グスタフ・ユングは彼の提唱した「シンクロニシティ」を
「体験者あるいは目撃者にとって重要な意味を持つ偶然の出来事で、
それによって一種の覚醒あるいは悟りに近い感覚が得られるもの」と
定義し、次の3つのカテゴリーに分類している。
@ 内面と外界での事象の一致
A 遠隔視
ある心的な状態と、それに対応して生じるけれども、観察者の知覚範囲外、
すなわち遠くで生じて、後からやっと確かめることのできる外的な出来事
との符合。
B 予知
ある心的な状態と、それに対抗する、いまだ存在していない未来の、
すなわち時間的に離れたでき事との符合。これも後からしか確かめることが
出来ない
132 :
前世は一在家 :2010/05/28(金) 01:34:53 ID:k6MtHUdJ
>>131 A遠隔視とB予知は釈尊が説かれた修行完成者の六神通や三明智と
相通じるかと存じます。
コウモリが超音波をレーダー代わりに利用するように、「生命」が
持つ未解明の能力である可能性も否定できないでしょう。
133 :
神も仏も名無しさん :2010/05/28(金) 02:00:10 ID:Dos2XdbF
>一在家氏 ユングは統合失調症でクリスチャン。カルトはユングをさかんに引用するが、フロイト は絶対近寄らない。 すべての動物の種属の生命は、それぞれの種属の生存に必要な機能のみを持つ。 人間が、他の動物に成り変ることはできない。いい大人が、妄想もいい加減に しなさい。 人間とは何かを知るには、まず、動物学・動物行動学を勉強すること。宗教を いくらやっても、肝心の「人間とは何か」は全く分からない。 例えば、下記の小冊子。 「動物と人間の世界認識」(日高敏隆著、ちくま学芸文庫、定価¥840)
134 :
前世は一在家 :2010/05/28(金) 06:20:26 ID:k6MtHUdJ
>>133 >すべての動物の種属の生命は、それぞれの種属の生存に必要な機能のみを持つ。
戦闘能力では獣に劣った人類が、生存の為にテレパシーや予知能力を持ち、
やがて科学技術(機械含む)の進展によってそれらの能力が退化していった
という仮説を立てれば、貴兄の理屈にも矛盾はないかと存じます。
釈尊の弟子達は修行(正しい瞑想を含む)の成果として、それらの能力が復活
したという記載が長部経典の沙門果経他多数の経典に残っておりますよ。
135 :
神も仏も名無しさん :2010/05/28(金) 10:58:55 ID:x4zqMCgz
>>134 「貴兄の理屈」などではなく、動物行動学者たちの結論。
君の仮説には、何の裏づけもないから、仮説にもなっていない。単なる「空想」。
仮説にも、一応の根拠は必要である。
科学は日々に進歩しているが、宗教には、その「思考停止」と「現実からの遊離」
故に、数千年間進歩は「皆無」。まさに、「壊れたテープレコーダー」の如く、
同じ教典を繰り返しているだけ。
古代の教典などは、現代科学の批判に耐え得ない「トンデモ本」である。すべての
宗教の教典を集めても、木の葉一枚に宿る神秘さえ解明し得ない。
「生存」とは、基本的には「戦闘」ではなく、「共生」である。自然と「共生」する
こと無しには、「生存」は絶対に不可能だからである。
>>135 君の仮説には、何の裏づけもないから、仮説にもなっていない。
単なる餓鬼の「中傷」。
中傷にも、一応の根拠は必要である。
君の中傷の根拠は空想だけである。
時系列時間を絶対とするニュートン以前の西欧古代化石的世俗偏見だけでしかない。
道元の「有時」(正法眼蔵)さえ読めていないで、恥ずかしくもなく俗物単純唯物論的物質的世界観で
ストリップショーをするなんて、なんてステキなバカなんでしょう!
金魚の糞に「裸の隠居」って指摘してもらえよw
釈迦仏教と現代最先端科学はなんら矛盾しないどころか、最先端科学は釈迦仏教を追いかけているといっていい。
それはたとえば現代量子論真のパラダイム=コペンハーゲン学派を否定したエベレットの「多世界解釈」をみれば、
ほとんど釈迦仏教的世界の近くまで来ているといっていい。
両者は同次元の世界観=法則性に立つ人間活動であり、科学は外部の物質的世界から、釈迦仏教は精神的世界から、
ともに法則性によって「縁起」現象(とくに人間)を解明してゆくものだ。
ただ決定的な違いは、仏教はこれによって究極までの人間精神の向上に資する、ということにある。
糞隠居は不都合な点にはなんら答えることもできず完全スルーで、
まさに、「壊れたアナログレコード」の如く、プツンプツンと化石的知識で同じ中傷を繰り返しているだけだ。
恥知らずだねーw
137 :
前世は一在家 :2010/05/29(土) 01:01:37 ID:8lmWBO33
>>135 >科学は日々に進歩しているが、宗教には、その「思考停止」と「現実からの遊離」
>故に、数千年間進歩は「皆無」。まさに、「壊れたテープレコーダー」の如く、
>同じ教典を繰り返しているだけ。
ニュートンはリンゴの落下から万有引力の法を悟り(発見し)ました。
釈尊は修行を超えた後の類まれなき感性にて数々の法(真理)を悟りて
説法として伝えました。
「法」とは数千年、数万年で進歩するでしょうか? 否でしょう。
そして龍樹は机上(言語論理世界)で一切有部の矛盾を証明し、それを
ベースに「空」を「論」じていきます。
「類まれなき感性」に敬意を表さずに、妄想だと決め付けて、哲学に
敬意を表している方々を本スレでもお見受けします。
138 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/05/29(土) 01:33:39 ID:2nZ5GTIk
>>123 >(だから、「釈迦とイエスは同じ事を説いていた!」などという戯言(たわごと)も成立するのですw)
>いずれにしろ、よっぽど採点基準を甘くしない限り、(差異の捨象を闇雲にしない限り)、
>「似て非なるもの」に変わりはないと思いますがねw
>※勿論、神智学と仏教、ヒンドゥと仏教、もねw ( ̄ー ̄)ニヤリ
まっ、詳細には入りませんが、一言だけ申し上げたいな。
一般的に特定の宗教信者らが宗教間に感じる「異質」部分というものは、その宗教の始祖ご自身
のレベル差に起因するものと見なされています(互いの信奉者たちによって、それぞれが同様に)。
しかし殊、ゴータマ、イエス、ヒンドゥーの聖賢やアバターラ方(絞ってその最高レベル)の持つ意識
レベルというものには分離意識というものはないのであって、彼らは互いの説く教えを理解し、認め
合うことができるのです。
実際、分離と分割を創っているのは、常に弟子の側に原因があります。自分の師の教えですらも
理解せず歪めるですから、他宗教に対する理解などは到底、在り得ない・・・(第一、これは仏教徒
に限らず、キリスト教徒もヒンドゥー教徒も皆、他の宗教を知らず、まともに学ぶこともしないのだか
ら)。そして師の教えを誤解して伝えて、数百/数千年単位もの時の流れによって更に大きく歪めら
れていったのです。世界に削除・付加・神格化・歪曲化のない伝統宗教などは存在しません。これ
らが我々に違いとなって現れているのです。
従って、この削除・付加・神格化・歪曲化した部分を排除していく作業によって、仏教、キリスト教、
ヒンドゥー教から“これだけが唯一の真理で他はすべて間違いだ”などといった誤った分離意識の
垣根を消散させることができるのです。
ただし、違いは違いとして尊重される部分も当然あります。それがゴータマ、イエス、ヒンドゥーの
聖賢やアバターラ方たちの個性による違い、及び出現した時代に応じたメッセージ性の教示の違い
です(“啓示”というものは時代時代の新しい霊的教師によって、更に積み重ねられる)。
しかし、残念ながら、自分が信奉する宗教が最高で唯一のものと信じている内は、所詮、このよう
な話などには耳を貸そうとはしないようです。
139 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/05/29(土) 01:52:23 ID:2nZ5GTIk
追記: 恐らく、 投稿者の中で同じような目線で物事を見ているのは、 一在家さんでしょう。 つまり、純粋な意味合いで自ら仏教徒を自認したり (或いは、キリスト教徒を自認したり)、している内というのは難しいということでしょう。
>>138 要約すると、
「仏教、キリスト教、ヒンドゥー教のいいとこ取りした神智学が最高の宗教だ」
と言いたい訳ですな?w
141 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/05/29(土) 02:21:57 ID:2nZ5GTIk
>>140 神智学というのは信仰ではなくて、どちらかというと学問的なものです。
世界の諸宗教の根底に横たわる真理を発掘し、これらを理解するための鍵を提供するものです。
神智学はどの宗教や信奉実践者にも役に立つことのできるものであって、
自己の人生と信仰生活に自分の好きなだけこれを取り入れ、そして応用することができます。
神智学の学習には宗教間の違いによる限定はありません。
従って、世界中にあらゆる宗教の信奉者の中に神智学の学徒がいます。
また、その各個人の信奉する宗教を辞めるよう説くこともありません。
人を進歩向上されるものであるならば、その全てを尊重します。
>>141 こうやって解説されると、幸福の科学が、神智学の方針をパクッたのが良く分かるなw
143 :
神も仏も名無しさん :2010/05/29(土) 03:34:19 ID:b1ZKZ7Dg
>>141 「世界の諸宗教の根底に横たわる真理」とは、具体的に何で、その検証方法は?
客観的に検証されなければ、「真理」とはいえない。主観的真理なら、万人一人
一人が持っている。
144 :
前世は一在家 :2010/05/29(土) 07:39:13 ID:8lmWBO33
>>138 宝珠氏 いつもご理解を有難うございます。
>ただし、違いは違いとして尊重される部分も当然あります。それがゴータマ、
>イエス、ヒンドゥーの聖賢やアバターラ方たちの個性による違い、及び出現した
>時代に応じたメッセージ性の教示の違いです
プラスして、悟った法(その中で説かれた法)の違いがあるでしょう。
長部経典33経の等誦経では、サーリプッタは法が組のものを順番に229法
整理して、最後に釈尊は「善いことです。」と是認しました。
145 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/05/29(土) 08:55:47 ID:2nZ5GTIk
>>144 ですね。
方法の違いというのもあります。
それによって、多様なあらゆる人々に道が開かれます。
>>144 >>145 おまえらは縁起撥無の妄想カルトだ。
何かというと猫なで声で釈迦仏教に近ずき、変節篭絡し、
バケモノ信仰宗教に仕立て上げたがる。
俗物権威主義がその根底にある。
カルトは何かといえば直ぐに「超越」観念を持ち出したがる。
「超越」観念で文言を御都合主義解釈する。
しかし、釈迦仏教は「超越」観念、超越者の存在を明快に批判する。
おまえたちの妄想観念はー現代最先端科学はもちろんー
釈迦仏教によって明快に批判されている。
カルトは無用
147 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/05/29(土) 10:38:40 ID:2nZ5GTIk
>>146 >カルトは何かといえば直ぐに「超越」観念を持ち出したがる。
>「超越」観念で文言を御都合主義解釈する。
>しかし、釈迦仏教は「超越」観念、超越者の存在を明快に批判する。
意味不明です。
ゴータマは変成変滅するこの無常な現象界を“超越”した存在です。
であるから、現象界の基準によっては示す術をもたないのです。
それがニルヴァーナ境地にある仏陀というもの。
『作られざるもの---skata=nibba^na.(Ckmm.)作られたもの(有為)は転変し、生起消滅するが、「作られ
ざるもの」すなわちニルヴァーナは永遠不変のものである。有為は迷い、無為はさとりの境地である。』
(『Dhp.97』訳注-中村 元訳/岩波文庫刊)
『生じないもの、生成しないもの、つくられないもの、形成されないものがある。もしも生じないもの、
生成しないもの、作られないもの、形成されないものがないならば、生じたもの、生成したもの、つく
られたもの、形成されたものが、(そのような状況から)脱し、離れることはないであろう。
生じないもの、生成しないもの、作られないもの、形成されないものがあるからこそ、生じたもの、
生成したもの、作られたもの、形成されたものが、(そのような状況から)脱し、離れることがあるの
である。』(ウダーナ8:3/不生不滅)
150 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/05/29(土) 11:10:36 ID:2nZ5GTIk
>ニルヴァーナは永遠不変のものである。有為は迷い、無為はさとりの境地である。
>>147 セブンは確かに博識ですが、これについては大きな勘違いです(肝心な部分にてコレ重要)。
けれども、この中村氏の解説の通りですよ!
生滅変化する世界「有為」ではない、永遠不変なる「無為」がニルヴァーナ。
その境地にあるのが仏陀ということ。
あなた方のように現象界基準でしか物事を理解しないから、
無記の態度を摂るのです。
---では、お出かけします^^
>>147 ウダーナ8-3につき超越観念論は論破済み。
蒸し返すな。
マハーカッサバ教一派とカルトは実に親近性が高い。
因果撥無の「超越」大好き!
日本寺和田一派がオウムの巣窟になっていたことからもわかる。
152 :
神も仏も名無しさん :2010/05/29(土) 11:22:37 ID:dfIRgupt
>>150 >その境地にあるのが仏陀ということ。
一体誰が、どうやって確認したのか。確認は皆無。あくまで、釈迦の「自称」
「自画自賛」。君たちは、詐欺師や狂人の「自画自賛」を信じる愚か者か。
>>147 そのウダ−ナの訳は、俺が昔カラスと論争した時に、
誤って俺のノートからそのまま引用、貼り付けたものだ。
カラスにもいつか文句を言ったのだが、あいつもそのまま使いまわしやがる。
いつまでもいつまでも、その訳を御都合主義で使いまわすな。
なんなら俺に著作権料よこすか?w
ほんと、外道根性は・・・・・
154 :
神も仏も名無しさん :2010/05/29(土) 11:45:27 ID:0RP8kwHI
迷妄にとらわれた古代・中世よりも進んだ現代的価値観という美名のもとに
当の信者にとっては大切なものを蔑視フィルターにかけて
口当たりのよい部分をこし取ってるだけなんだよね・・・
古代に現れた「革新的」「革命的」なるものは、【現代(的発想)に近いがゆえに】
「革新的」「革命的」だったのだ、というものの見方が根底にあるんだろう。
だからイエスや釈迦は現代人の俺達のほうが理解できる。
逆に古代・中世に生きた、「革新的」「革命的」なものについていけない、
一般的な遅れた脳味噌の持ち主たちが百年千年伝統を積み重ねたところで、
現代的価値観を持つ少数の人間でも覆せてしまう。
「革新的」「革命的」なるものがそれぞれ持つ差異の部分は
当時のレベルに合わせただけの「仮の形」だ。
なぜそう言えるかというと、現代的価値観から見て不合理なものを
「革新的」「革命的」な開祖・聖者が普遍的・永遠の哲理として
本気で説くわけが無いからだ。仮に本気で説いていたとしても、それは
彼も時代的制約に囚われていたためにすぎない。
現代的価値観とは古代・中世とは違う「偏見の無い価値観」であり、
その見方で宗教・霊性を信じていれば、もはや完璧に近い。
霊性・神秘を、頑迷でなく、偏見の無い、進歩的視点から見ることができるため、
少なくとも現代人と違って偏見と限界にまみれた古代・中世の人々よりはマシに違いない。
現代的価値観を持つ神秘者は、偏見が無く、迷信に囚われず、理解力に優れているため、
世界中の宗教体系のガラクタの山からでも、真実なるものを汲み上げることができる。
だから真理のつまみ食いが可能であり(
>>141 )それが古代・中世からの伝統に匹敵し
もしくはそれを上回る霊的・宗教的実践として成立する。
155 :
神も仏も名無しさん :2010/05/29(土) 11:48:58 ID:dfIRgupt
>>150 >生滅変化する世界「有為」ではない、永遠不変なる「無為」がニルヴァーナ。
ニルヴァーナだけは常住か。それでは「諸行無常」や「空」とは、真っ向から
矛盾するな。
「無為」がニルヴァーナなら、「有為」の典型である「修行」とは矛盾する。
中村氏は、ニルヴァーナを「安らぎ」と意訳したそうだ。「安らぎ」なら、万人
が有する。
釈迦仏教は、「自画自賛」と「論理矛盾」の塊。読んでいて反吐が出る。
これは、イエスも同様。
156 :
神も仏も名無しさん :2010/05/29(土) 12:00:03 ID:dfIRgupt
>>154 昔も今も、ひたむきに生きる生活者には、偏見や限界はありえない。
「生存」そのものが、人間の本質だからだ。
昔も今も、偏見や限界にまみれているのは、「生存」を忘れた宗教者だけ。
157 :
神も仏も名無しさん :2010/05/29(土) 12:00:07 ID:0RP8kwHI
一言で書くと【「迷妄にとらわれた古代・中世よりも進んだ現代的価値観」を無邪気に普遍視してるだけ】なんだな。 「現代的価値観」を受け入れるだけならいいと思うし、自分もそうしてはいるが、自分の場合はこの程度でストップだな。 物質・世俗を「超越」してるはずの霊的・宗教的な事柄にまでそれを貫かせるほど、 徹底する気にはなれないな。
(「パーリ仏教における涅槃」
ttp://ci.nii.ac.jp/naid/110000985580 )
ウダーナ8-3片山訳 ※“【”“】”は引用者が挿入。
『比丘たちよ、
生まれもしないもの(ajAta)、生成もしないもの(abhUta)、
作られもしないもの(akata)、形成されもしないもの(asaNkhata)がある【(atthi)】。
比丘たちよ、もし、
生まれもしないもの、生成もしないもの、作られもしないもの、形成されもしないものがなければ、
この世において【(idha)】、
生まれるもの(jAta)、生成するもの(bhUta)、
作られるもの(kata)、形成されるもの(saNkhata)の【出離(nissaraNa)】は知られないであろう。
しかし、比丘たちよ、
生まれもしないもの、生成もしないもの、作られもしないもの、形成されもしないものがあるから、
生まれるもの、生成するもの、作られるもの、形成されるものの出離が【知られる(paJJAyati)】。』
※(PTS.dic)
nissaraNa (nt.)
[Sk. niHsaraNa, to nis+sarati, cp. BSk. nissara?a giving up (?) Avz ii.193]
going out, departure; issue, outcome, result;
giving up, leaving behind, being freed, escape (fr. saMsAra), salvation
idha (indecl.)
[Sk. iha, adv. of space fr. pron. base *i (cp. ayaM, iti etc.), cp. Lat. ihi, Gr. i)qa -- genh/s, Av. ida]
here, in this place, in this connection, now;
esp. in this world or present existence
※ idhaloka this world, the world of men Sn 1043 (= manussaloka Nd2 552c);
PvA 64; in this religion, Vbh 245. On diff. meanings of idha see DhsA 348.
159 :
神も仏も名無しさん :2010/05/29(土) 12:07:48 ID:dfIRgupt
160 :
神も仏も名無しさん :2010/05/29(土) 12:09:00 ID:0RP8kwHI
>>156 半分わかってて書いてそうだが・・・
>昔も今も、ひたむきに生きる生活者には、偏見や限界はありえない。
>「生存」そのものが、人間の本質だからだ。
そういう生き方とか人生論的な話じゃないんだわ。
>>154 はね。
人の言ったこと書いたことを理解できるか、とか、そんな話に過ぎない。
161 :
神も仏も名無しさん :2010/05/29(土) 12:20:54 ID:dfIRgupt
>>160 宗教を「理解できた」と思った瞬間が、洗脳と狂気の始まり。「現実界
における生存」を忘れた「思考停止」「果てしない観念の遊戯」が始まる。
すべての創唱宗教は、開祖の精神障害から発生した心理現象であることを、
忘れてはならない。
162 :
神も仏も名無しさん :2010/05/29(土) 12:37:34 ID:0RP8kwHI
>>161 【理解】という語をこちらは「どういう理屈、構造になっているか」を把握してるか、
という意味でしか使ってない。わかる?
福音書でいえば、節々で旧約から引用されてるのを見て、
「書き手はイエスが旧約で予言された存在だと言いたいんだな」と理解するか、という話。
信じるか、信じないか、それで行動がどうなるか、とは別の話。
せめて論点つかんでから返答レスしてくんねえかな。
163 :
151 :2010/05/29(土) 13:34:51 ID:9FcT41j6
>>147 宝珠
>意味不明です。
>ゴータマは変成変滅するこの無常な現象界を“超越”した存在です。
>(ウダーナ8:3/不生不滅)
意味不明?
おいおい、相変わらずあまりにもデタラメ過ぎる、仏教をまるで掴めていない。
仏も無常=無我=縁起=空=中道なのは当然だろう。
そもそも“超越”観念は“非超越”観念を対象とする相対概念でしかない。
超越は超越ではない、ゆえに超越という。
いわば超越であることで、超越観念は相殺され、無意味となる。
>無常な現象界
無常も常住を相対とする「関係性」であって無意味、無自性→空である。
このようにして『超越』観念はハナから破れている。←世俗諦において論破済み。
龍樹が中論で示した八不の論法(戯論の根底的批判・説破)だ。
だいたいおまえは俺のをパクって>(ウダーナ8:3/不生不滅)と明記しているではないか!
そのとおり、ウダーナ8-3は不生不滅の中道を示しているのであって、
『超越』観念などはブッダによって破折されている。
おまえは論理矛盾だらけ⇒相変わらずあまりにもデタラメ過ぎる、仏教をまるで掴めていない。
164 :
神も仏も名無しさん :2010/05/29(土) 13:37:22 ID:FGa1CQFm
>>162 読んでいるうちに嵌るんだよ。特に、原始仏教やキリスト教系、オウムの信者も、
書店で手にとった一冊の本が、その運命を決めた。宗教の持つ恐ろしさを、もっと
自覚したほうがよい。
165 :
151 :2010/05/29(土) 13:59:05 ID:9FcT41j6
>>147 ウダーナ8-3のこともあるが、宝珠よ。
輪廻転生スレでの10氏との宿題はまだ未提出だったよな?
おまえが約した3ヶ月の期限はとっくに過ぎているが、
寡聞にして宿題提出を俺は知らん。
よくノコノコ出てこれるな。
出せないから、風化待ちか?
神智学の超越w『神』とやらは、契約は破れ、
無視しろ、踏み倒せ!と教えるのか?
166 :
神も仏も名無しさん :2010/05/29(土) 14:22:59 ID:0RP8kwHI
>>164 ええと、まさか、162が内容を理解することと、信仰心との間に
つながりがないと書いてるように見えたのか?
>「書き手はイエスが旧約で予言された存在だと言いたいんだな」と理解するか、という話。
>信じるか、信じないか、それで行動がどうなるか、とは別の話。
単に、今取り上げる話題としては文章読解に限るという意味だぞ?
前レスのご都合主義つまみ食いネタからの流れで書いてあるんだぞ?
生き方がどうなるか、って話はしてないと書いてもやったのに、
それでも、わからない?
う〜ん、これ以上懇切丁寧に但し書きをしてやる気にはなれんわ。
徒労すぎる。
「理解する」.→「同意する」 →「讃する」 .→「至上のものとする」 →「同意する」 →「讃する」 .→「認可・静観する」 →「同意する」 →「認可・静観する」 →「異論を持つ」→「認可・静観する」 →「異論を持つ」→「批判する」 .→「認可・静観する」 →「異論を持つ」→「批判する」 .→「敵視する・憎悪する」 ま、中には、「理解せず憎悪する人」「理解できず憎悪する人」も時折いらっしゃいますが・・w (敵視や憎悪なら、生理的・反射的・生育的に大いにあり得るものですが、 「理解なき批判」はありえません。それは「批判」ではなく「(誤解に基づく)誹謗」であり 「攻撃の口実(憎悪を投げつける為の独善的理由)」でしかありません。)
う〜〜ん、ここんとこずっとロム専だったが、そろそろ俺も参加しようかいな? セブン、大王、宝珠、在家、隠居か。 常連がそろってるな。(笑)
隠居のばかは、ほって置くにしても、「涅槃」については 今までとは異なる言葉による解説が可能か否か?を 検討してみる価値は十分あると思うが?
>>169 〔(戯れのw)試み1〕
「色(及び受)」というハードウェア、「(受)想行識」というOSの上で
「智慧」というソフトウェアが起動している状態。
プログラム論理は「縁起」。機能は「慈悲」「法施」。
(非想非非想処定はOSまで停止した状態。)
ハードウェアの滅により「五蘊」全てが停止・消滅した時、それを「般涅槃」と称す。
インストール方法に於いて、DLが師子相承、CDROM等が書籍経典によるもの。
インストールウィザードが、「律、学処」であったり「戒」であったり「八正道」であったり。
インストール項目の選択(カスタマイズ)が「学び方の幅、種類」。
全項目のインストール完了が阿羅漢。項目数による段階が修行の階梯。
重要なことは、『起動させ続ける(停止・休止(スリープ)することがない)』ということと、
『常に更新され続けている』ということ。
(※この話は「三世に跨らせることができない」という点で、仏典との乖離を生じる。
.※「智慧」というソフトが起動しておらず、
「渇愛(欲・執着)」「我執」というソフト(別名「無明」)が起動していると、
そのソフトの基本機能である自己複製(コピー)により、無線LANで繋がった次のPCへとDLされ
輪廻の流れに預かることになる。(?)。)
注:
縁起馬鹿的に言えば、
>>170 は《「(西洋的)実在論・存在論」の域内での話》ということになるだろう。
要は宝珠は「悟った主体」が、欲しいわけだろ? それが実体であろうがなかろうが、とにかく、「悟っている、永遠不滅」の なにものかがなければダメだと。 そうでなければ、修行して悟る意味がない とこういいたいわけだ。
173 :
不説 ◆eJcToD6LBA :2010/05/30(日) 01:43:47 ID:PAuYFTIy
>>126 前世一在家氏
>肉体を離れた霊魂はあの世(幽界)に入り、修行した後に記憶を失って輪廻・再生
してくるのが自然の法です。
少なくとも私の学んでいる仏教においては幽界や中有は認めていませんが、餓鬼界の
ことをそのように認識しているのではないかと思われます。ただ破戒僧でない限り、
仏門にあった者が、悪趣に再生しているとは考えられません。人間界に再生していた
場合、仏道の内外を問わず、稀に前世を知る能力を持って生まれる人もいます。特に
龍樹のように、菩薩として一定の波羅蜜を積んだ仏道修行者の再生であれば、そのよ
うな神通力に恵まれる可能性を否定できないと思います。またそもそも、欲天・梵天
に再生していれば、まだ十分にそこでの寿命は残っているはずで、下界(人間界)の
ことは彼に筒抜けでしょう。
>ただし、「不去」とか「不生不滅」を確信した唯物論者の場合は自身が死んだことを
認めないので、この世に何百年でも留まって浮遊霊とか憑依霊とか呼ばれる存在に
なっております。(そういう霊とは時々間接的に遭遇します。)
「霊」というのは「我」を前提とした捉え方なので、「無我」を前提とする仏教的考
え方からすれば多少違和感のある表現ですが、「現象としては」、そのようなこと(
そのように表現できるように思われる現象)は有り得ると思います。
死ぬ前でも、そのような唯物論者には、同様の思念を持つ“浮遊霊”、“憑依霊”が
寄ってきて、その思考を強化する(というように思われる)現象が有り得ます。しか
し、その本人は、唯物論しか認めませんから、自分の思考は、すべて自分自身の考え
だと考えるでしょう。その無明に閉ざされた暗愚な肉体的個体は“霊”たちにとって
は完全に思うがままにできる、一種の天国でしょうね。だから、「肉体は、五蘊は、
我は、苦である、汚れている」という、仏教の教えを、執拗に攻撃するという心理が
当然に導き出されるのです。
174 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/05/30(日) 01:45:37 ID:PAuYFTIy
>>173 トリップ失敗しました。こちらが正しいトリップです。
175 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/05/30(日) 01:53:31 ID:PAuYFTIy
>>173 続き
反対に、その“霊”たちにとっては、「肉体は、五蘊は、我は、悦びである、素晴し
い」ということになりますし、より深い無明の暗闇に閉されることを、奨励すること
になります。「我はある」「輪廻などない」などと。
悪魔の行状という形で、仏典には描かれていますね。
なんだ?こりゃ。 宝珠、在家についで、不説も結局はオカルトバカかい。 隠居が「それ見たことか。」と笑ってるだろうな。
とにかくなあ、「憑依霊」だか「浮遊霊」だか知らんが、そういう 話は「オカルトスレ」でやってくれ。 そういうのを信じるのは勝手だが、仏教ではそういうのは認めて ないよな? それとも、そういう「霊魂」の存在も仏教は認めているというわけか?
178 :
神も仏も名無しさん :2010/05/30(日) 02:47:27 ID:RPF3CsSs
>>175 「無明」の典型は、「生命現象を生じている己の肉体」、即ち生命を以って、生命
を否定した釈迦である。時々、生命を手放しで賛美することもあるがw。
これは、「双極性障害(躁うつ病)」の典型的な症状。
これ以上の、論理矛盾と倒錯があるか。釈迦の精神病の症状以外の何物でもない。
一切衆生(生活者・健常者)には、そのような矛盾と倒錯は皆無である。大乗
仏教は、「真如としての衆生心」を初めて見出した。釈迦がなし得なかった
ことである。
すべての真理は、「現実界に対応した『生存の努力』」の中のみに存在する。
それ以外には、「真理」を検証する基準と手段は皆無だからである。
釈迦仏教の「理解」は、まず釈迦の精神医学的観察から始めるべき。
@セブンがパソコンに例えて、ひとつ提示してくれたので、俺からもひとつ 唯識的な視点からアプローチしてみたいと思うが、 あれには『無我』を「一如」の視点から語るところが、あるよな? 喩えとしては、俺は個人的に「大海と波」のやつが好きなんだが。 『それぞれの人間個人は、大海に立つ波のようなものに過ぎない。波が それぞれ意識をもち、「自分」という観念を有し、他者と自己を隔てる。 しかし、それは錯覚であり、元は一つの大海であり、それが変化しただけ のことであり、一瞬後にはまた、元の大海に戻る。つまり、「自分」と 思っていた波も、「他人」と思っていた波も、共に「単なる大海の一部が変化 したもの」に過ぎず、全く等価であり、「自己」と呼べるようなものは何もない。』 と、まあこういうものだが、俺はこの喩えは実にうまく『無我』を語っていると 思うのだが、どうだろうか? それぞれの波(個人)が、「自分(我)」という意識をもってしまう。(無明) しかし、よく観てみれば、自分は大海の一部が変化したものに過ぎず、何ら「自己」 と呼べるようなものは無い。(無我) すなわち、全てのものは「ある一つのもの(便宜上こう言っておく)」の一部が 変化したもの、仏教的にいうと「相」に過ぎない。
Aこのような視点は、現代の科学的知見とも矛盾しない。 分子→原子→素粒子 と構成単位を遡っていけば、全てのものがその最小構成単位に おいて全く等価となる。人間も道端に転がっている石っころも全く同じである。 人間も死ねば、その身体は分解されて、それを形作っていた分子も飛散し、また 新たに別の何物かを構成する要素となる。石っころも全く同じ。いずれ崩れてそれを 構成していた分子は、また別の何かを構成するために使われるだろう。 この視点に立てば「人間の生命活動」も「風に吹かれて石っころが転がる」のも 全く等価である。どちらも単に「一つの変化」に過ぎず、換言すれば、「ある一つ のものの『相』」に過ぎないわけだ。 そしてこの視点から「輪廻」を眺めれば、「流転」という意味における輪廻は有り得 ようが、三世に跨る「悪因悪果」などの『業論』などは有り得るはずもない。 と、このように書くと輪廻肯定論者はすぐに「それは断滅論だ。」と言い出すが、 「断滅するべき自己が、そもそもないのであるから断滅しようがなかろう?」 全く同じ理由で「常見」も不可。継承される自己がないから、当たり前である。 すなわち『無我』を了解するのであれば、「断滅論」も「常見」も共に有り得ない。
Bさて、ここから先は推測だ。 このような認識論にたった場合の「解脱」とは、どのようなものか? 俺が思うに『自己が単に大海の一部が変化した波に過ぎず、【自分と呼べるような もの】などない。』 ということを、論理的な帰結を超えて、全身全霊で『了解』 できること なのではないか? では、それが成ったとしたらどうなるか? 「何万年も生きられるのか?」 「空を自由に飛べるのか?」 何かそんなことを信じてる者もいるが、俺はそういうものではないと思うがね。 「解脱の効能」と言えるものは唯一つ『今、抱えている苦の根本的な消滅』 これだろ? 苦を感じている『我』というものがないわけだから、これほど徹底した苦の消去法は ない。ただし、これは勿論『楽』の消去も意味するが。 通常において、苦の消去法として用いられるのは対処療法なわけだ。 病気や怪我があれば医者に行って治す。 金がなければ、稼ぐなり、借りてくるなりしてなんとかする。 勿論、これらも良いが、このような「一時的な対応」なのではなく、「認識の転換に よる根本的な解決法」を与えるのが仏教なわけだ。 『自分などというものがないのに、いったい誰が苦を感じているのか?そんなのは 全て錯覚ですよ。』って言うのが仏教だろ? と、このように書くと「それなら心理カウンセラーと変わらん。」という奴がいるが 俺は全くそのとおりだと思うがね。仏教とは、「最も優れた心理カウンセラー」なの ではないか? 少なくとも「オカルト話」にしてしまうよりは、よっぽど良いと 思うがな。 以上は部外者が外から眺めた仏教の一風景だ。 批判、反論は勿論、歓迎するが、論拠は明確にしてくれ。(笑)
(笑)
183 :
前世は一在家 :2010/05/30(日) 07:18:03 ID:kt8Cf1ct
>Aこのような視点は、現代の科学的知見とも矛盾しない。 >分子→原子→素粒子 と構成単位を遡っていけば、全てのものがその最小構成単位に >おいて全く等価となる。人間も道端に転がっている石っころも全く同じである。 人間にはDNAがあり先祖からの情報を受け継いでおりますが、石っころには そのような情報はございません。 情報は質量がゼロで「素粒子」ではないでしょう? もちろん、情報(知識、経験含む)は粒子でも波でもないでしょうし、このような 視点は現代の科学的知見とも矛盾しないということです。 DNA以外にも過去からの情報を受け継ぐのが霊魂であり、輪廻する際に 菩薩でなければ忘れてしまうのが法ですが、修行完成者や思い出すことが できるとの記載が原始仏典の多くに記載されております。
御釈迦様が悟った。にしても、やっぱり苦しむ人はいる。 悟った人にも、ある場面では何かが生じることがあるだろうし、老いることがあるし、病になるし、死ぬ。 自分が老いれば、老いは自分をどちらかに押す。押されて若い人を羨んだり老醜を嫌う。 戻らぬ若さを欲しがり未来の重い老いを恐れる。 目が霞むのは現実だし、膝腰が痛むのは現実、皺が増え悪臭がしてくるのは現実。 記憶は衰え、力を失うにつれ居心地の良い場を追い立てられる。 ・・・他の人が死ぬのを見て自分の命こそが倫理や論理に勝るように考える。 自分の命は宝石のように大事。死んだ人はかえってこないから。 命に執着して70歳の大先生が小学生にも馬鹿にされるようなことをする。 自分がいなくなった後の遺品は跡形なく処分される。 生老病死は現実だから絶えず人を追い立てる。 生老病死は現実。 ならば酒を飲んで歌い、したい放題をするのが正しい。と思うなら基督教に行ったほうがよいと思う。 皮肉ではなくて、後悔のない人生を送るのも悪くない。聖書には正しい憎悪や殺しや奴隷制が規定されている。 ヒンズーだって悪くない。 もしアートマンが在るとするなら、アートマンとは老いだ。 だって誰も老いから逃げられないでしょ? そしてヒンズーの聖者は実際に老いから逃げないと思う。そこには威厳があると思う。 誰も老いを求めない。 けれども良い基督教徒なら喜んで老いを受け取るだろう。老いも賜物だから。 あるいは老いとの戦いを楽しむだろうと思う。 あまり食べ過ぎないように、話し過ぎないように、考え過ぎないようにして (三少 軽く、生老病死を眺めるようにすれば誰にも役立つと思う。 生老病死に圧倒されないように、よく観察するのは涅槃に反しないと思う。 老いを求めるのは倒錯で、老いを拒絶すれば敗北する。
>>183 相変わらずのアホぶりだな、在家。
いったい誰がいつ「構造の差異」について語ったか?
俺が
>>180 で述べているのは、あくまでも、全てのものは生物、非生物を
問わず、その最小構成単位については等価であり、それぞれに関しての変化
も「現象、変化」という点において全く差異はない とこういってるんだがね。
そのくらいも読み取れないのか?
>DNA以外にも過去からの情報を受け継ぐのが霊魂であり・・
お前がそのように信じるのは勝手だが、そのような事実が観測、確認
されたことはない。
【@規制】心と宗教板避難所総合【@鯖落】
http://sports2.2ch.net/test/read.cgi/entrance2/1262698032/ 43 2/6 to 決着】転生どう扱う? sage 10/01/16 00:24 ID:YQIF4LI6
このことに密むもう一つの問題点は、幻覚や錯覚、誤認、妄想とは言わないまでも、
ある種のそうした『(神秘)体験』も、《ヒトの、生物学的キャパシティに準拠した、『生理的経験』であるかもしれない》
ということだ。 これを別の事例と相似させれば、(涅槃は一応措くとしてもw)、
≪『苦の滅』は、宝珠や縁起馬鹿が揶揄する『心理カウンセリング』と同質同価値かもしれない≫ということだ。
おそらく、二人とも血相を変えてレスを入れてくるだろうw
「貶めるな!」「愚弄するな!」「凡夫の常識で見るな!」とね・・・w
縁起馬鹿には、(この点に関する)まだ一抹の理解があるかもしれないが、
『苦の滅』自体そのことには神秘体験は必要ない。
47 6/6 to 決着】転生どう扱う? sage 10/01/16 00:34 ID:YQIF4LI6
勿論、私だって、釈尊の(内的)体験及び弟子達の(内的)体験は『本物(薬でもバグでもない)』だと【信じて】いるが、
それを年末のバラエティ番組宜しく「摩訶不思議な超常体験」にするつもりはない。
※( > 前者は自己の高い精神性と結びつくものであって
「(体験の)質の違い」は「物理的違い」ではなく、「価値付け・意味付けによって生じる差異」ではないか?
宝珠の700に於ける(両者の)差異は
《間断なく継続し、途切れることがないか、途切れて再接続を要するかどうか》にしか触れられていない。)
以上を踏まえた上で縁起馬鹿氏に言いたい。
「心理カウンセリング並で何が悪いのか?」と。
「それ以上何を望むのか?」と。 「《苦の滅》とは、そんなにも摩訶不思議で神秘的な事象なのか?」と・・。
面倒なので、ロクに推敲していない。 勢いのままだ。
不備、不十分な言い回し、勇み足等、種々あると思うが御寛恕を願うw
【最終】輪廻転生説はどう扱うべきか!?【決着】5
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1263646378/ 552 セブン sage 2010/02/13(土) 03:09:14 ID:gDo3HnwU
>> 549
極論を述べておくわw (縁起馬鹿が顔を真っ赤にしそうだがwww)
ワシは、「仏教は《心理カウンセリング》である」と考えているよ。
─────
578 前々々々々スレ10 sage 2010/02/13(土) 16:55:54 ID:J1uJLjAg
>> 544
>でないと、ただの心理カウンセリングのレベルに留まるのであり、仏教などは特に無用ということになるのです。
>あなたの話は宗教ではなく、ただの道徳観や倫理、そして、ただの心理カウセリングのレベルです。
>それだったら、現代社会にはすでにいっぱいあり、益々、需要が叫ばれ大活躍しています。
>仏教など無用ですね。
>ただの苦の滅なら仏教は無用なの。それなら、心理カウンセルにでも伺えばいい。
「なんで、仏教がカウンセリングじゃいけないんですか?」
「なんで、仏教が無用じゃいけないんですか?」
「ただのカウンセリングじゃ嫌だ、仏教が無用じゃ嫌だ」というのは、貴方の願望に過ぎません。
貴方の主張は、貴方の願望を根拠に「こうあって欲しい仏教」を投影しているだけです。
─────
557 神も仏も名無しさん sage 2010/02/13(土) 03:28:40 ID:gDo3HnwU
>> 556(
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1263646378/556 )
>ただの苦の滅なら仏教は無用なの
はあ? ・・・・・・ (゚д゚;)
苦の滅以外に何があると言うんだい?w
>>184 >ならば酒を飲んで歌い、したい放題をするのが正しい。と思うなら基督教に行ったほうがよいと思う。
俺は別に特定の宗教に属そうとは、今のところ考えないなあ。
「刹那的な人生」を選択するのも、その人の自由だろう。
あるいは、「死後の存続」を信じ、それを基盤にして人生を送っていく
のも、また自由だ。
俺は「死んだら、この身体を構成している要素は、また別のなにものか
の構成要素となる。そしてこの『自分』と思い込んでいるものは消失
する。それも「ある一つのもの」→(俺はこれを何か神みたいなもの
超越的なものなどではなく、『無限の要素を有する全体集合』みたいな
捉え方をしているのだが) の『変化、相』に過ぎない。と、このように
認識しているし、それで十分だと思うが?
生も死も「単なる一つの相」 なんでこれでいけない?
何の縁があってのことか知らんが。今はたまたま、人間として存在している。
ならば、余計な意味づけなどせずに人間であることを楽しめば良いと
思うが?(これは別に快楽主義を推奨しているわけではないぞ)
俺はよく宗教にある説、「人間は全てこの世で魂の修行をするために
生まれてきた。」 なんてのは、全く信じる気にはならんな。
「地球というちっぽけな星の単なる有機体」が、そんな大層なものか?
なぜ、人間だけがこの宇宙の中の特別な存在であると言えるのか?
それは、そうあって欲しいという願望にすぎないと思うが。
>>184 >けれども良い基督教徒なら喜んで老いを受け取るだろう。老いも賜物だから
ここが、宗教的価値観の(或いはキリスト者の)真骨頂なんだろうな・・w
(御隠居には理解不能なんだろうけどwww)
関連して、(本人が“どっちの”意図だったかは判らないが)、良レスを一つ転載しておく。
─────
仏教全般 4
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1272274289/ 233 考える名無しさん New! 2010/05/29(土) 12:15:46 0
四弘誓願
衆生無辺誓願度 衆生は数え切れないが、誓ってすべて救うぞ
煩悩無尽誓願断 煩悩は尽きることがないが、誓って断滅するぞ
法門無量誓願智 法門は限りがないが、誓ってすべて知るぞ
仏道無上誓願成 仏道は無上だが、誓って成仏するぞ
これを読めば絶対達成不可能な誓願だとわかるでしょう。
絶対無理だとわかっていながら、絶対やるというのが宗教の真骨頂である。
─────
ちなみにVER.違いを。
(で、表現としては、全て「〜しよう」或いは「誓って〜せんことを願う」の方が良さ気。
4句目は、「成仏」より「仏道を成じよう」の方が良さ気。)
衆生無辺誓願度
煩悩無尽誓願断
法門無量誓願【学】
仏道無上誓願成
>>186 >>187 セブンか?
仏教を心理カウンセリングと言い切ったのはセブンが最初だったな?
仏教徒でそういい切るとは、「正に外道」と思ったことを覚えている。(笑)
しかし、そう言う仏教徒は、ほとんどいないだろう。
皆、自分が信仰しているものには「何か人智を超えた、神秘的なもの
を見たがる。」 のは、当たり前だと思うわ。
文中の
>まず「身体」ありき という表現は、仏教的には×だが、
当時の流れや文脈上必要なものだったのでママ。
>偶然以外の―― は、前文の >この身体になぜ私がいるのか? を受けているので、これもママ。
◆決定論:脳は物質だから意識は必然にすぎない49◆
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1133452820/ 503 考える名無しさん 2005/12/08(木) 11:57:03
この『私』は、様々な条件の上に、今ここにいる。
この『私の思考(主観)』もまた、様々な条件の上にここにあるのだろう。
なぜここにいるのか?(=なぜこのような思考をしているのか?)という問いも、
様々な条件によってそのように思考しているのだろう。
この身体になぜ私がいるのか?など、偶然以外の何があるというのか?
たまたま、この肉体の上に生じた意識が、そのように思考しているに過ぎないのではないか?
『まず「私」ありき』ではなく『まず「身体」ありき』ではないのか?
だとするなら、「私の存在性」(この言葉も曖昧模糊としているがw)など、
かりそめにそこに顕現しているに過ぎないのではないか?
道端に小さな花が咲いている。
ふと立ち止まり、その花を見つめる。
この花は、様々な条件が重なって、今ここに咲いている。
遠くに富士山が見える。
あの富士山も、様々な条件が重なって、今あのようにあそこにある。
空を見上げると一筋の雲が流れている。
あの雲もまた、様々な条件が重なって、空を流れている。
ここに私がいる。
この私もまた、様々な条件が重なって、今ここにいる。
目の前の花と、遠く見える富士山と、頭上を流れてゆくあの雲と、
今ここにいる私との間に、一体何の違いがあろうか?
確かに、『この私』はかけがえのない唯一の存在であろう。それは誰しもが認めるところだ。
けれども、それを特別視する理由は何もない。
>>183 >石っころには、そのような情報はございません。
カルトにしてはチンケな二項相対常識論だなw
上記はおまえの分別妄想にしかすぎない。
石っころは石っころではない、ゆえに石っころという。
おなじくDNAはDNAではない、ゆえにDNAという。
>DNA以外にも過去からの情報を受け継ぐのが霊魂であり、輪廻する際に
>菩薩でなければ忘れてしまうのが法ですが、修行完成者や思い出すことが
>できるとの記載が原始仏典の多くに記載されております。
まひかりバカ妄想もここに極まれりw
類は類を呼ぶ、とはこのことだ。
・前段を全面的に証明せよ。
・後段、書くだけなら俺でもインチキ妄想を書けるぞ。
おまえのはフィクションにしかすぎん。
カルトは妄想フィクションを事実と称して詐欺をやる。
>>191 ほ〜〜〜〜〜〜、これまた俺の認識と全くと言ってよいほど
等しいなあ。
しかし、これは宗教者は絶対、許容できないだろうな。
宗教者にとっては、何よりもまず「自分と言えるもの」があって、
それに付随して身体がある と認識するだろうからな。
あ!誤解のないように言っておくが、
>>193 の「宗教者」ってのは
「オカルト系宗教者」って意味で用いているからな。
>>190 上のコピペの流れ以降、「仏教の心理カウンセリング的価値」に関する話題は出ていない。
怒涛のようなw反論が来るかと思ってたんだが、そのまま立ち消えになってしまった。
(不説氏と10氏が、若干の関連コメントをしていたが・・。)
昔(初学時)から、そして今も、基本的には変わってないよ。
また、
「涅槃」について、“日本語で言う”『境地』という表現の“ハマリ具合w”は素晴らしいと思っている。
たとえそれが、(字面・字義に於いて)「場所的ニュアンス」を誘引するとしても・・・。
>>181 >それは錯覚であり、元は一つの大海であり、それが変化しただけ
>のことであり、一瞬後にはまた、元の大海に戻る。
比喩としてはうまく説明できている。
「ミリンダ王の問い」のナーガセーナ並み(のインチキ)だと褒めておこう。
しかし比喩はあくまで比喩であって、分別言語類たとえば“大海”などに
実体があるわけではない。
>生も死も「単なる一つの相」 生も死も「単なる一つの相」であっても虫歯になれば痛い。 順番としては逆になる。 どうやっても普通は殺しとか、悪とか、正しさから逃げられない。 人はその器に応じて課題を探す。 反抗期なんかいい例だ。 自分の力が満ちてきたのを感じてわざと問題をおこす。 もし本当に人が何も求めること無くして座ったら宗教なんて3週間で全世界からきえる。 昼休みに10分休憩で食後にダラダラするわな。 その時に本当に休む以外、何もしなくてもいい人が50%位はいるだろう。 その時に頭上から爆弾が落ちてこないことや飢えのないことに感謝してもチットモおかしくない。 土方作業で休んでグッタリしているときは、自分の手足もその休憩時間に限っては無用だ。 もし、本当に望まなかったら、その時に必ず何かがおきる。 だからね、皆、口では望まないといいつつ心の中はちがう。 >ならば、余計な意味づけなどせずに人間であることを楽しめば良いと思う そうであればいいと自分も思う。御隠居だってその意見には賛成するだろう。でも現実はちがう。
>>196 インチキと来たかw 相変わらずよ・・w
しかし、譬喩によってしか表現し得ないのも事実だろ?w
ウダーナの4節も、或る意味「譬喩」だ。
(もっと言えば、
《「言語で表現するということ」が、そのまま「譬喩表現をするということ」を意味してしまう》
と言ってもいいかもしれない。)
>>196 大王だろ?
俺は何も「大海が実体であるなんて、一言も言ってないぞ。」
相変わらず、おかしなところに絡んでくるな。
この「大海と波の喩え」など、二項相対の否定、不二そのまんまだろ?
まさに大王がいつも言ってることなのでは?
>>197 俺が語ったのは、あくまでも認識論の一つのモデル提示だ。
そこから踏み込んで「では、どのように生きるか?」というのは、また
別のテーマであり、そこには敢えて突っ込まないようにした。
そこを突き詰めていくと、各個人の人生観、価値体系が問題となり、
そこの部分は各個人の意思にゆだねるのが最も適切であると考えるのでね。
そういえば、10氏の過去レスをあげてたなあ。 あの人は俺と極めて近いスタンスなので、俺の見解の半分以上を 代弁してもらって楽だったんだがなあ。(笑)
201 :
神も仏も名無しさん :2010/05/30(日) 15:05:47 ID:OOVYR+pq
仏教とは、元来、釈迦が自己の鬱病から生じる「過度の苦悩感情」を緩和・除去する ために「思いついた」、自己カウンセリング。健常者には不要なもの。「思いつき」 だから、別に「有り難いもの」ではない。 現代の精神医学では、その鬱病患者の過度の苦悩感情が、脳内神経伝達「物質」の 異常によるものであることを発見し、その物質の異常を是正するための薬剤(抗精神 病薬)を用いて治療している。 現代精神医学でも、補助療法として、仏教由来の「内観療法」や「森田療法」を、 専ら「病気」の治療に用いる。しかし、基本は薬物療法である。効果が抜群に異なる からである。 純粋に精神的な苦悩は、「自己中心主義」から生じる。自己への執着(修行・解脱等) を離れ、家族などの身近な他者へ心を移すことにより、苦悩は軽減・除去される。 人間が、本質的に共同体である所以である。己の病気の症状として、自己中の塊であった 釈迦は、この「真理」には思い至れなかった。 宗教が、「罪」や「苦」の概念を異常に強調して健常者に植え付けるのは、専らその 「営業手段」としてである。健常者をまず病気にしなければ、営業が成り立たないから であるw。 それにしても、宗教者は「自己中」ばかりだな。「人間は独りでは絶対に生存できない」 「個は他との関連のみにおいて存在し得る」。生活者がすべて悟っているこの人間と しての基本的「悟り」が欠けている。
205 :
前世は一在家 :2010/05/30(日) 17:38:47 ID:kt8Cf1ct
>>201 >現代の精神医学では、その鬱病患者の過度の苦悩感情が、脳内神経伝達
>「物質」の異常によるものであることを発見し、その物質の異常を是正
>するための薬剤(抗精神病薬)を用いて治療している。
また、あの一仮説を持ち出して、鬱病の因果関係が医学界で解明できた
ように語っておられますね。
まず、脳内神経伝達「物質」の働き(あり方、法)が完全に解明しており
ますか。
もし「はい」ならば、短期記憶のメカニズムの解明がなされている
ことになりますが、伝達物質の化学変化は遅く、記憶に必要な伝達特性
の可塑性を瞬時に起こすには無理があるかと存じます。
また抗精神病薬は主作用が強い分、副作用が強くなるリスクがあります。
ヒトゲノムの研究成果により、一塩基多型に起因して主作用ですら、
個人差が大きいことも発表済みです。
206 :
神も仏も名無しさん :2010/05/30(日) 18:31:31 ID:ZyDpqNjn
>>205 仮説であることは分っているが、多くの抗精神病薬が開発され、広く使用されて、
効果を挙げている事実から、効果は「証明された」と言ってもよいだろう。
開発時には、すべて「二重盲検法」により、「有意な効果」が証明されている。
証明されなければ、そもそも、薬剤として販売することを認められない。
少なくとも、君の「手かざし」よりも、はるかに効果が「証明」されていること
は明らか。さもなければ、医師や製薬会社は、「手かざし」と同じ詐欺となるw。
「手かざし」やその他「病気治し」を謳う宗教は、二重盲検法やったのかw。
聖書に書いてあるという理由で、厳密な効果の判定をやっていなければ、ヒポク
ラテスの教科書で病気治療をやっているのと全く同じ。
殆どすべての薬剤は、身体にとっては異物だから、副作用があるのは当たり前。
副作用と効果との利益考量を行った上で、効果が副作用を上回れば、初めて
使用される。また、その副作用も、他の薬剤により防止することが可能である。
>少なくとも、君の「手かざし」よりも、はるかに効果が「証明」されていること は明らか。さもなければ、医師や製薬会社は、「手かざし」と同じ詐欺となるw。 う〜〜〜〜〜〜ん、これは隠居の勝ちか? どうした?在家。 逆転の必殺技を出すんだ!!!
>>208 補足
一応、在家が勘違いするといけないから補足しておくが、
今の所、脳内の働きは、脳内神経伝達物質の働きだけですべて説明可能であって、
現在に至るまで、「魂」とか「前世の記憶」とかが影響している証拠は欠片も見つかって無いからなw
それから、
>>205 >短期記憶のメカニズムの解明がなされている
>ことになりますが、伝達物質の化学変化は遅く、記憶に必要な伝達特性
>の可塑性を瞬時に起こすには無理があるかと存じます。
この意味が分からんのだが?
ノーベル賞を受賞したカンデル教授の、アメフラシによる実験を知らんのか?
まさか、「シナプスの可塑性」を、神経の接続位置が物理的に移動する事だとか思ってないだろうな?w
>>199 ありがとう
>>197 は自分でも極論だと思う。
そこで少しいいわけをしてみます。
貴方が
>>188 で話されているのは確かに認識論であるけれど、
同時にあなたの自足も話されているように思います。あなたの決断が書かれている。
自足というのは「では、どのように生きるか?」に他ならないと思います。
たぶん貴方の
>>188 を読んで、宝珠愚者や御隠居は一時安心する。
貴方が御自身に引き受けた話
>>188 を読んで彼等はこう思う。
「この人は自身の判断を話す事によって老死を引き受けた。
老死についての証明は終わった。さて此れを利用して更に多くを得よう。」
別の人が
>>189 で指摘しているような”痛み”を彼等は引き受けない。
責任を担わないから欠乏感が止まらない。正解を聞けば腹が膨れると思っている。
もし”波と海”モデルで考えれば彼らの落度はあなたの落度と言えなくもなくもない。
でも、彼等にも意思があるんですよ。
そういう意味も含めて197を書いてみました。
>>210 俺が
>>188 で書いているのは、「俺の好む認識論」についてだ。
「好む」という自己の感情がその基盤であるので、勿論、他者にそれを
強制し、「これが正しいんだよ」なんていう気は全く無い。
そもそも「認識論」に正解などなかろう?
そして、すまんがお宅の文章は、何を言おうとしているのか
俺には甚だ理解しずらく、適切なレスが付けられない。
212 :
神も仏も名無しさん :2010/05/31(月) 00:28:32 ID:oDnyQ5MQ
>>208 まず、前提として、科学は、宗教とは異なりw、常に発展途上にあるということ
である。特に、精神医学は、その対象の性質上、医学の他の分野にくらべて、
進歩は遅いという印象を受ける。
しかし、医学を全体的に見れば、一昔前と比べて、驚異的な進歩を遂げている
ことは否定できない。例えば、心臓病におけるカテーテル・インターヴェンション
などは、想像も付かなかったような技術である。コンピュータ化された医療診断
機械の進歩も著しい。それらの進歩によって、一昔前は治療不能で、死に至る
病であった病気から、どれほど多数の人間が救われているかも、考えてみる必要
がある。
抗鬱病薬の副作用や、薬物療法の効果が充分期待できない場合があるのは、
精神医学の常識である。しかし、一方、「鬱病の治療法は確立しており、適切に
それを行うことにより、多くが治癒することは確かである」。
「読ませるための本」は、掃いて捨てるほど出ているが、「その手の本」や
「ネット情報」ではなく、最新の医学雑誌や論文を参照すべきであろう。
製薬会社の「営業政策」も多分にある。しかし、厚生労働省の役人に常に頭
を押さえつけられている彼等は、生き残るための努力をしなければならない。
最近の製薬会社の合併の増加も、彼等の苦衷と努力を示している。
213 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/05/31(月) 02:01:51 ID:Pfr0EUAk
>>183 前世一在家氏
「現象論」としては概ね、あなたが話題にされる諸々の現象は十分有り得ると思われ
ますが、「そのように思われる(観察される)」現象があるからといって、現象の背
後に、実体・主体・実在を前提とする「思考パータン」を取らない(=無我)のが、
仏教(釈尊の教え)です。
そのような(実体論的)思考パータンの上に、それを「肯定する」(オカルト主義者
に多い)のも「否定する」(唯物主義者、オカルト批判者に多い)のも、いずれの思
考も共に、釈尊は否定されます。なぜなら、いずれの者も、実体論に目が行って現象
を「あるがままに見ない」者たちであり、その態度が無明だと言えるからです。
>>213 つづき
仏教的には、手かざしだろうが、薬物だろうが、効果があるのなら、okです。現象と
して効果があるからといって、その背後に、霊や神や薬学などの実体論的なイデアを
持ち出さないことが肝要です。もし、霊や神のお陰で治ったのであれば、霊や神に祈
れば、例外なく常に効果が上げられなければなりませんし、薬学にしても同様に、そ
の化学物質によって常に効果が上げられなければなりません。ところが、実際には、
効果がある場合もあれば、効果がない場合もあり、ケース・バイ・ケースです。つま
り、現象(ケース)ごとに扱い、最も最善の手段を取ることに専念すればいいのであ
って、そこを通り過ぎて実体論的に、真実≠探求したり、白黒結論付けようとす
る態度自体が、無明を生んでいる主犯的行為に他ならないのです。そのような態度か
ら離れることをこそ、釈尊は説かれていると考えます。
>>212 >抗鬱病薬の副作用や、薬物療法の効果が充分期待できない場合があるのは、
>精神医学の常識である。しかし、一方、「鬱病の治療法は確立しており、適切に
>それを行うことにより、多くが治癒することは確かである」。
全然理解してないなw
「現在行われているうつ病の治療法(薬物治療法)が、実は効果が全く無い、間違った療法だ」と言う指摘だぞ?w
>「読ませるための本」は、掃いて捨てるほど出ているが、「その手の本」や
>「ネット情報」ではなく、最新の医学雑誌や論文を参照すべきであろう。
紹介した本では、「最新の医学雑誌や論文」を利用して、二重盲検による試験に、有意の差が無い事を論証している。
ちなみに、医学論文を紹介して、お前さん(及びスレ住民)に読めるのか?w
少なくとも俺なら、そんなもん紹介されても読む気がしないぞw
あと、蛇足だが、カテーテルインターベンションとか、古臭い技術を持ち出されてもw
確か、30年以上前からあるだろw
216 :
神も仏も名無しさん :2010/05/31(月) 02:50:52 ID:fq/uMUQO
>>213 「あるがままに見る」とは、「あるものをある」「ないものをない」と見る
ことです。あるか、ないかを判断するのは、専ら「五感の知覚」です。
「実体的」とは、「ある物」が「相互依存的・関係的存在」であることを否定する
ことに過ぎません。
釈迦は「世界はない」といいましたか。そんなことを言えば、釈迦こそ「無明」
の主犯でしょう。
薬剤の効果が人によって違うのは、複雑極まりない身体と薬剤との「関係性」
の問題です。
神や霊は、五感で知覚できないから、「実在」しません。徹頭徹尾「実在」を
対象とする自然科学と、神や霊とを一緒にしないでください。それこそ無明です。
自然科学こそ、すべての実在の「相互依存性・関係性」を前提とし、それを
追求しているのです。
217 :
神も仏も名無しさん :2010/05/31(月) 03:07:36 ID:fq/uMUQO
>>215 >「現在行われているうつ病の治療法(薬物治療法)が、実は効果が全く無い、
>間違った療法だ」と言う指摘だぞ?w
それは、所謂「難治性鬱病(refractory depression)」のこと。おそらく20%
程度。治療の誤りである場合も多く、それに対しては、(a)切り替え療法、(b)
強化療法、(c)電気痙攣療法、がある。
カテーテルインターヴェンションが30年前から、などと言うが、医学の歴史
は何千年だよw。
218 :
神も仏も名無しさん :2010/05/31(月) 03:20:17 ID:VtqhRhmh
>>217 >それは、所謂「難治性鬱病(refractory depression)」のこと。
逆だな。
難治性鬱病よりも、中度〜軽度のうつ病の方が、プラシーボ効果が顕著。
もちろん、難治性鬱病でも、「有意の差」といえるほどの差は無かった。
>カテーテルインターヴェンションが30年前から、などと言うが、医学の歴史
>は何千年だよw。
ちょwwww
久々の腹筋崩壊ネタだなwwwww
お前さんにとって、「一昔前(
>>212 )」ってのは、「何千年前」なのか?www
マジレスすると、医学系に於いては、10年前で既に、一昔って感覚だと思うがね?
220 :
136 :2010/05/31(月) 10:36:21 ID:Twsv5O4y
>>212 >医学を全体的に見れば、一昔前と比べて、驚異的な進歩を遂げている
>ことは否定できない。
しかし、ここの一連の問答は仏教的に観れば完全にマト外れではないか。
おれは
>>136 でこう書いた。
>『両者(仏教と最先端科学)は同次元の世界観=法則性に立つ人間活動であり、
>科学は外部の物質的世界から、釈迦仏教は精神的世界から、
>ともに法則性によって「縁起」現象(とくに人間)を解明してゆくものだ。
>ただ決定的な違いは、仏教はこれによって究極までの人間精神の向上に資する、ということにある。』
だから仏教的に観て大切なことは、最先端医学の医者たちが>『驚異的な進歩』とやらによって、
それに見合う『究極までの人間精神の向上』を果たしているのか、
彼ら最先端縁起を認識する医学者たちは存在―実存することの苦しみを超克しているのか?にある。
最近の事例で最先端の医者が不同意堕胎させたり、病院内でのハチャメチャ淫欲ぶりなど
世俗的にみてもクズ人間な最先端医学者は数知れない。
医学的にみて病気の人間は医学的に治療すればいいだろう。
問題は医学的に見て正常な人間が、如何にして存在―実存することの苦しみを超克してゆくのか、にある。
まさに人間としていかに生きるべきか、仏教の問題ではないか?
221 :
136 :2010/05/31(月) 10:40:09 ID:Twsv5O4y
訂正 △ まさに人間としていかに生きるべきか、仏教の問題ではないか? 〇 存在事象としてのありようをいかに問うべきか 、まさに仏教の問題ではないか?
222 :
136 :2010/05/31(月) 10:57:35 ID:Twsv5O4y
最先端医学者ほど金力と権力に対する強欲、執着ぶりはすさましい。 まさに餓鬼といえるほどだ。
223 :
神も仏も名無しさん :2010/05/31(月) 12:39:16 ID:ap21hkPG
>220 「究極までの人間精神の向上」とは具体的には何か。生存に無関係な観念の遊戯に よる宗教間の争いや大虐殺のどこに「人間性の向上」があるのか。 「苦」は、人間の生存に不可欠な心理作用であることに、釈迦は思い至っていない。 「実存苦」など、本当に苦しんだことのない人間の「甘ったれ」に過ぎない。 どんなに苦しんでいる人間でも、実は「今生きていること」自体に、最大の喜び を感じているのだ。「生きたいが生きられない」から自殺するのである。 釈迦のいう「苦」は、「本当の苦」を知らない人間の甘ったれか、鬱病の症状に 過ぎない。釈迦が、一体、何時どこで、「本当の苦」を経験したのか。食中毒で 死んだ時だけではないか。 釈迦やイエスのような精神病患者とは、早々に縁を切ったほうがよい。精神病は、 健常者に感染し、狂わせるものだからである。精神病は病気なのだから、精神医学 による治療あるのみである。
224 :
神も仏も名無しさん :2010/05/31(月) 12:55:35 ID:ap21hkPG
>>222 金力、権力は、生存に必要だから執着するのである。宗教者もその典型w。
「腐敗・堕落」も、生存本能の表れとして、人間性に基づくもの。
「水清ければ、魚住まず」という諺が、そのことを的確に表現している。
いたずらに排除せず、人間の生の表れとして、暖かく見守るべきもの。
「最善は最悪を生む」(by Hume)
>>223 アキメクラは相手にしたくないが
>「究極までの人間精神の向上」とは具体的には何か。
『 内も、良寛。 』
>「苦」は、人間の生存に不可欠な心理作用
心理的な苦と肉体的な苦痛の区別がついているか?
>「実存苦」など、本当に苦しんだことのない人間の「甘ったれ」に過ぎない
ならば、現代科学は本当に死の恐怖に怯える末期ガン患者にすぐにそう言ってこい。
今すぐ毎日100人の末期ガン患者にそう宣告することを日課にせよ。
そして警察の拘置所に入れてもらえ。
現代科学はかれらに、安心を与えられるのか?
さらに、
>>99 の問いにおまえのハチャメチャ居直り強欲・淫欲肯定論の知見=最先端医学とやらで答えてみろよ。
<生きている、とはなにか。よく生きる、とはなにか。>
>「“片足を失ったという果”を、《自身が(今)どのように受け止めているのか》
>《これからどのように受け止めてゆくのか》 を観察・考察する」所にこそあろう。
>『私は、なぜ、“片足を失っているという事象”を“苦”と受け止めているのだろうか・・?』 と・・・。
俺は、ほんの仏教的表層にすぎないが、
>>100 >>101 で自分なりに応えておいた。
おまえが応える番だ。
now+here→nowhere,nobody
>>223 アキメクラは相手にしたくないが
>釈迦のいう「苦」は、「本当の苦」を知らない人間の甘ったれか、鬱病の症状に 過ぎない。
君の仮説には、何の裏づけもないから、仮説にもなっていない。
単なる餓鬼の「中傷」。
中傷にも、一応の根拠は必要である。
君の中傷の根拠は妄想だけである。(→
>>136 )
その妄想を証拠(特に署名押印入り診断書)によって証明せよ。
>「腐敗・堕落」も、生存本能の表れとして、人間性に基づくもの。
>いたずらに排除せず、人間の生の表れとして、暖かく見守るべきもの。
だったら、刑法をはじめとする犯罪法(とくに強盗殺人)の全面廃止を主張せよ。
公務員の本音と建前を分け、国家・自治体諸税の実質的横領である天下りを全面的に認めることを主張せよ。
おまえは、暖かく見守るべきものという主張なんだろ?
227 :
226 :2010/05/31(月) 14:50:59 ID:Twsv5O4y
136 1/2→136 2/2
以前、「御隠居とは交わらない平行線」だと言った。 それは、《「自分とは違う視線・価値観を認めない」御隠居の姿勢》に由来するわけだが、 今一度、譬えてみよう。 脂ぎっとりの「とんこつラーメン」と、魚ベースの超あっさり「醤油ラーメン」があったとする。 (勿論、脂が多いと旨い。そこが魅力ではある。) この時、 『「ぎっとり脂(→苦)たっぷり」でこそラーメン(→人生)だ!』 『「ラーメンからこの脂分(→苦)を減らす・無くす」なぞ、ラーメン(→人生)自体の否定に他ならない!』 『あっさりしたラーメン(→人生)なぞ、ラーメン(→人生)ではない。そんなものは存在してはならない!』 『ラーメン(→人生)は脂ぎっとりでなければ(→苦にまみれていなければ)ならない!』 『ラーメン(→人生)から脂分(→苦)を除くことは、食事をすることの否定・排除(→生きることの否定・排除)に他ならない!』 『とんこつラーメン(→苦にまみれた人生)を、食事から(→人の生き方から)排除しようと言うのか?!』 『全ての美食家(→宗教者)は、食事をすること(→生きること)を否定・排除しようとしている!まさしく病理である!』 と叫んでいるのが隠居だ。
あっさり味が好みの人間に、脂ぎっとりの料理を強要するな、とwww
231 :
神も仏も名無しさん :2010/05/31(月) 19:03:21 ID:vnpvceKV
>>229 >《「自分とは違う視線・価値観を認めない」
それは、肉親でもない赤の他人の開祖への異常な愛着と盲信及び教典の「言葉」
から一歩も踏み出せない宗教者のこと。だから、良心の呵責なく、異教徒・異
宗派の大量虐殺さえ可能になる。
私は、それらの開祖が思い至れなかった、「視線・価値感を生み出す根源」
としての「生物的生命」を基準にしている。「他者の生存を奪い、または妨げ
ることがなければ」「自己及び他者の生存(共生)のためであれば」、どんな
視線・価値感を持とうと、知ったことではない。しかし、宗教者は、それが絶
対に不可能な心理状態に「陥らされて」いるのである。
なんかご隠居を援護するみたいで嫌なんだが、
>>136 >釈迦仏教と現代最先端科学はなんら矛盾しないどころか、最先端科学は釈迦仏教を追いかけているといっていい。
コレは、本当にそういえるのか?
むしろ、仏教と科学では、目指す所が全く違うから、
矛盾はしないだろうが、交わりもしないと思うのだが。
個人的には、両者は、平行でも交差でもなく、「ねじれの関係」じゃないかと思うね。
それから、あなたが根拠としてあげている、エベレットの多世界解釈は、
単に、「そう考えても論理的に矛盾しない」程度の理論であって、
多世界が存在するという証拠は無い。
(というか、解釈の違いだけであって、観測結果には全く違いが無いから、一般的解釈と、差が生じることはありえないw)
第一、多世界解釈と、釈迦仏教が、それほど近い考えとも思えないんだが、どの辺が「近くまで来ている」と考えたの?
>>224 >>231 おいおいw
「腐敗・堕落」する事は、
「他者の生存を奪い、または妨げること」
「自己及び他者の生存(共生)」と矛盾しないのか?w
例えば、腐敗した役人が生活保護者の給付金をピンハネしたら、
それは他者の生存を妨げる行為だろ?
それとも、他人の生存を妨げない腐敗・堕落の仕方があって、
【生命】に従うと、自動的にそのような堕落をするとでも?w
いい加減、自分の視線・価値観に疑問を持って、客観的に見てみろよ。
都合の悪い突込みを全てスルーしても、お前さんの意見が正しくなるわけじゃないぞ。
むしろ、恥の上塗りをしてるだけだ。
(まあ、生命教というカルト宗教に嵌って、【生命】への異常な愛着と盲信から一歩も踏み出せないご隠居には、絶対に不可能だろうがw)
235 :
神も仏も名無しさん :2010/05/31(月) 22:32:43 ID:OOfh636K
>>234 まず、宗教の開祖は「善悪」をさかんに語るが、それを「定義」できた者は
誰一人としていない。自分でも意味の分らない言葉に「自己陶酔」していた
だけである。私は、これらの開祖に代わって、「善悪」を次のように定義する。
「善とは、他者の生存を助ける行為。悪とは、他者の生存を害する行為。」
いずれも「行為」であることに留意。内心の意思は、一切関係ない。
富を憎悪する開祖(例えばイエス)がいるが、これは実は富に対する羨望と嫉妬
である。富とは、社会に対する貢献の対価であるという、基本的なことを理解
していない。イエスの衣鉢を継ぐマルクスも同じ。
「生命に対する異常な愛着と盲信」などというものはない。開祖を含め、すべての
人間は、いくら足掻いても、生命の呪縛からは逃れないのだから。
「善悪」の判断は、上記の定義から一発で可能である。
「腐敗」は悪ではない。金を儲けることにより社会に貢献し、その金を使う
ことにより、貧者も潤う。富を悪とするのは、ニーチェのいう「弱者のルサン
チマン」である。但し、宗教を利用しての金儲けは、詐欺によるものであり、
社会には何らの貢献もしていないから、明らかな「悪」である。教会の腐敗
を批判して「聖書のみ、信仰のみ」を唱えたルターの宗教「改革」が、どれほど
多数の殺戮と争いの原因となったを、考えよ。
236 :
神も仏も名無しさん :2010/05/31(月) 23:29:39 ID:h10uoPpu
隠居を見ると、 アントニオ・インキョが、「生命唱えれば何でもできる」 と言う妄想がすきなんだろうなあ。 南方仏教ですら、信じる前に確かめるらしいが、 インキョは、生命唱えて何でもできると言う事を信仰せねばならないw
>>235 >まず、宗教の開祖は「善悪」をさかんに語るが、それを「定義」できた者は
>誰一人としていない。
おいおいwww
また腹筋崩壊ネタだなw
「ご隠居の気にいる定義」を出来て居ないだけだろw
例えば、キリスト教系の宗教に於いては、神こそが完全なる「善」であって、
それに反するものは「悪」だろw
>「善とは、他者の生存を助ける行為。悪とは、他者の生存を害する行為。」
で、お前さんが、生命教の教祖として、定義した善悪の基準が、↑か。
まあ、お前さんがそう定義するのは構わん。
だが、その基準で他人を裁くのはどうかと思うぞ。
新興宗教が、己の信じる神に逆らうご隠居を「悪」と決め付けたら嫌だろ?
>「生命に対する異常な愛着と盲信」などというものはない。開祖を含め、すべての
>人間は、いくら足掻いても、生命の呪縛からは逃れないのだから。
いよいよ、【生命】に対する異常な愛着と盲信が酷くなってきたなw
まさしくカルトの言動↓そっくりだなw
「全ての人間は、いくら足掻いても、神の呪縛からは逃れないのだから。」
>>235 >「腐敗」は悪ではない。金を儲けることにより社会に貢献し、その金を使う
>ことにより、貧者も潤う。
>但し、宗教を利用しての金儲けは、詐欺によるものであり、
>社会には何らの貢献もしていないから、明らかな「悪」である。
ふ〜ん、じゃあ、貧乏人の生活保護費をピンハネして私腹を肥やした役人でも、
貯めたお金をヤクザの賭博場で使えば「善」になるんだな?w
リーマンショックの原因となったサブプライムローンを売ってた奴らは、
世界中で大不況を引き起こしたけど、本人達は金を儲けたから、「善」なんだな?w
一方、宗教で金を儲けたら、その金を貧乏人の店で使っても、それは「悪」なんだな?w
そして、まっとうに働いて金を稼いでも、タンス預金で使わない奴は「悪」なんだな?w
斬新な善悪の基準だなwww
>>235 それから、毎度不思議なんだが、なんで「自己の」【生命】に従うと、
「他人の」【生命】を尊重するのが「善」である事になるんだ?w
まさか、「自分でも意味の分らない言葉に「自己陶酔」しただけ」じゃないだろうな?w
240 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 00:14:51 ID:aktBy0Hh
>>237 >例えば、キリスト教系の宗教に於いては、神こそが完全なる「善」であって、
>それに反するものは「悪」だろw
神の定義ができていないから、定義にはなっていない。典型的な循環論法。
その定義で、一体どうやって善悪を判断するのかね。試しにやってご覧w。
>>239 君の質問が、意味不明。
241 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 00:17:23 ID:aktBy0Hh
>>236 「神の全能性は、人間の全能性の心理的投影である。」(William James)
242 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 00:29:59 ID:aktBy0Hh
>>238 他者の生存を害して(悪)で儲けた金を、いくら使っても(善)、善悪
相殺で、善にはならない。小学校の社会科からやり直せ。
243 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 00:36:45 ID:aktBy0Hh
>>237 >「全ての人間は、いくら足掻いても、神の呪縛からは逃れないのだから。」
神の呪縛から逃れるのは、いとも簡単。棄教すればよいだけ。生きるのに何の
支障もないw。生命の呪縛を逃れるには、死しかない。死ねばすべては無である。
244 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/06/01(火) 00:55:01 ID:Y5fFnwAu
>>216 御隠居殿、
>「あるがままに見る」とは、「あるものをある」「ないものをない」と見る
ことです。あるか、ないかを判断するのは、専ら「五感の知覚」です。
仏教的にはかなりイイ線行ってますが、100点満点ではありません。五感+意識の「六覚」
を「一切」と捉えるのが仏教です。従って、意識で知覚する仮想のプラシーボ的五感も
また、「あるがままに見る」対象の一つとして認めなければなりません。
ですから、霊や神などの関与する(とその当人には思われた・知覚された)現象について
は、「現象としては」そういうものとして認めるのが「あるがままに見る」ということに
なります。
>>244 つづき
>神や霊は、五感で知覚できないから、「実在」しません。徹頭徹尾「実在」を
対象とする自然科学と、神や霊とを一緒にしないでください。それこそ無明です。
自然科学こそ、すべての実在の「相互依存性・関係性」を前提とし、それを
追求しているのです。
自然科学とオカルト(仮に神霊科学とでもする)の違いは、上記のように知覚の
「対象が」、五感のみで捉えられるものなのか、意識のみで捉えられるものなのか、
という違いです。それは「対象」の是非に過ぎません。対象にこだわり、その対象
の実在性の問題に意識が捉われることが、無明であると主張しているのです。
例えば、薬剤は確かに、五感世界上、実在する物質ですが、その薬剤によって病気
を治すという理論は、それ(=理論)自身は実在とは関係のない、イデアです。も
し、無明によってこのイデアに囚われてしまうことがないのであれば、薬物を処方
することによって、病気が治るケースにのみ、医者はその薬物を処方するでしょう。
そうであれば、薬物処方による治療の成功率は、単純ミスを除き、100%に準じるも
のでなければなりません。
ところが、実際の医療は、その医学・薬学というイデアを信仰する無明に陥ってい
るので、万人が納得する成功率を得ることができていません。だから、現代医療で
は治らなかったが、(手かざしのようなオカルト的なレベルのものも含む)この民
間療法ではよく効いた、治った、という人々も数多く存在して、決して社会が現代
医療一辺倒に至ることにはなっていないのです。
246 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 01:30:23 ID:aktBy0Hh
>>244 >五感+意識の「六覚」を「一切」と捉えるのが仏教です。
すでに何回か書いたが、「眼耳鼻舌身意」の最後に「意」を加えたのは、いささか
誤解を招く。最初の5者は感覚器官だが、意は、感覚器官からの入力を統合する
器官である。その意味で、前5者と並べて書かれたことからも、あくまで感覚器官の
一部ではあるが、「意」だけで知覚することはできない。軽度のミスである。
仏教者には、この意で認識すると考えている者がいるが、これは誤解である。
現代の生理解剖学では、前5者を感覚器官とし、意は思考器官とする。「第6感」
という感覚器官はないw。
しかし、2000年以上も前に、実在・非実在の判断器官としての五感を、その統合
器官としての意も含めてここまで捉えたことは、驚嘆に値する。現代の生理解剖学
と聊かの違いもない。他の宗教には例を見ない。この意味で、仏教は、宗教というより、
むしろ優れた自然科学である。仏典における妊娠期間の計算も、現代の産科学と少しも
違わない。
>>240 >神の定義ができていないから、定義にはなっていない。典型的な循環論法。
>その定義で、一体どうやって善悪を判断するのかね。試しにやってご覧w。
おいおいw
自分で墓穴掘ってどうしたいんだw
以前、ご隠居の【生命】は循環論法だと指摘しただろうが。
指摘が自分に返ってきてるぞw
>君の質問が、意味不明。
これで答えたつもりになる、いつものごまかしか?w
まあ、分かりにくかったかもしれんから、もう一度質問しよう。
「自己」の【生命】に従うという生命教の信仰から、
なぜ、「他人」の生存を助ける行為が「善」であるという教義が出て来るんだ?
その論理(お前さんの思考過程)を示してくれ。
>>242 ご隠居のトンデモ理論に突っ込みを入れてたら、論点がずれたなw
もう一度、議論を戻す(
>>234 )が、
生存本能(≒【生命】)に従うと、「堕落・腐敗」する事を認めながら、
【生命】に従えば、自動的に「他人の生存を助ける行為=【善】」を行うようになると、
お前さんは主張しているわけだよな?
で、問題は、
「生存本能に従って堕落した場合に、自動的に「他人の生存を助ける行為」に繋がる様な堕落の仕方をするのか?」
という事だ。
私利私欲をむさぼる役人が、弱者を虐げる事は、自己の欲望に従った結果じゃないのか?
それとも、【生命】に従えば、弱者を助けるような堕落の仕方(どんなのか分からんがw)をするのか?
まさか、「弱者を虐げる様な堕落をする奴は、宗教者だ」とか言い出すんじゃないだろうな?w
>>243 話を全く理解して無いだろw
神の呪縛から逃げられるかどうかなんて議論してない。
>生命の呪縛を逃れるには、死しかない。
この「お前さんの言動」が、
「神の呪縛からは逃れられない!」と主張する「カルトの言動」と、
一緒だと言っているんだよw
>>244 一応突っ込んどくと、
ある人が「幽霊を見た」という状況で、「あるがままに見る」と、
「幽霊が居た」ではなく、
「私は幽霊を見たと思った」だぞ?
>>245 薬剤のイデア論が意味不明なんだが。
実際の医療が全ての人に効果的ではないのは、単に個体差が大きいだけだろ?
民間療法がよく効いたという人が居るのは、プラシーボ効果じゃないのか?
この二つを根拠に、「手かざし」を正当化しようとしているのか?
>>246 >「意」だけで知覚することはできない。
お前さんは夢を見たことが無いのか?
眼耳鼻舌身の全てをふさがれても、夢を見ることは出来る。
或いは、「幻肢」という現象もある。事故などで切断された四肢を、実在するかの様に感じる現象だ。
まさしく、眼耳鼻舌身以外の、「意」による知覚だろ。
一応、勘違いするといけないから言っておくが、別に夢や幻肢が実在していると言いたい訳じゃないぞ?w
「意」だけで知覚することが可能だという指摘をしただけだ。
>仏典における妊娠期間の計算も、現代の産科学と少しも違わない。
ちょwww
相変わらずオモシロネタを提供してくれるなw
そんなの、最後に夫婦がイタシテから、生まれるまでの最長期間を調べればすぐ分かるだろw
別に全然凄くないと思うがね?w
252 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/06/01(火) 01:58:56 ID:Y5fFnwAu
>>246 御隠居殿、
思考器官である意識の上に再生された表象からの五感的情報入力も、感覚の一つと
して分類しただけのことです。肉体器官的な実在を問題にしているわけではありま
せん。仏教では実在性を主要問題としていないという話は何度もしている通りです。
>しかし、2000年以上も前に、実在・非実在の判断器官としての五感を、その統合
器官としての意も含めてここまで捉えたことは、驚嘆に値する。(……)この意味で、
仏教は、宗教というより、むしろ優れた自然科学である。
その見解はほとんど間違っていないと思います。「信仰」というよりは「科学」的で
す。もちろん、長い歴史のうちに、広義の意味で仏教という文化・組織は、信仰文化
・信仰組織的な色彩を帯びた側面やセクトも派生してきましたが、本来の仏教の思想
的核心から捉えられる仏教像というものは、そんな感じだと思います。しかし、現在
の自然科学の持つ目的とは厳密に違います。「あるがままに見る」そのような知見に
達した人々はイデアの無明に目をくらませられることなく、あるがままの自然も観察
し得たということでしょう。仏教の目的は、そのような「あるがままに見る」そのよ
うな心の状態を「いかに達成するか?」という手段 how(道)の提示(教え)です。
何 what が真理かだとか、実在かだとか、なぜ why なのか(哲学・神学)などとい
うこと(思考パターン)は、(涅槃を得るまでの当面は)放っておけ、です。
なあ、隠居。お前は、もう一度、自分のどこが批判されているのか 考え直してみろや。 お前がしきりと喚いている「生命は大切だ。」ってのは、いいんだよ。 これは皆も異論を唱えたりはしない。(ただし、これは通常の意味に おける生命で、お前の言う【生命】ではないから勘違いするなよ。) そして、お前が言うように「宗教には是正すべき点が多くある」のも また事実だ。 確かに宗教には、そのような面があるわけ。 例えば、このスレで言えば、在家の嵌ってるカルト集団「まひかり」 や、差別主義エセ仏教徒の不説なんかが、ほざいていることに比べれば お前の言ってることのほうが、現実的な実害は遥かに少ないだろう。
お前が皆から批判されてる最大のポイントは、「自己の価値観を 絶対的なものとして他者に強制するところ。」 わかるか? ここがお前の嫌うカルトと同じ方向性を有するわけ。 お前が釈迦を嫌うのはいいの。イエスを嫌うのもいいの。問題は それを他者に強制するなっていうこと。 釈迦やイエスが好きなやつがいてもいいだろ?それ自体は問題ない。 問題となるのは、それらの自己の信仰をもって他者に干渉してきた ときだ。 そういうときには遠慮なく叩けばよろしい。 お前は宗教者すべてが、有害であると規定するが、その断定がいけない わけ。 例えばなあ、「田舎にある信心深いおばあちゃんがいたとするわな。 このおばあちゃんは、村のはずれのお地蔵さんを深く信仰していて 毎日、掃除してお供えものをしている。勿論、純粋に個人の信仰で 他人にも同様の行為をしろなどと言うことは無い。お前は、この おばあちゃんに『そんなものは、唯の石の人形にすぎん。』というか? 『そんなことしても無駄だから、止めろ。』って言うわけか? それこそ、余計なお世話だろ?」 もし、そのようなことをする奴がいれば、まさしく「他人の心に土足で 踏み込む。」奴なわけだ。 『他人の価値観も尊重する』 お前が今、学ぶべき最大のポイントだ。
>>246 それからなあ、
>しかし、2000年以上も前に、実在・非実在の判断器官としての五感を、その統合
器官としての意も含めてここまで捉えたことは、驚嘆に値する。現代の生理解剖学
と聊かの違いもない。他の宗教には例を見ない。この意味で、仏教は、宗教というより、
むしろ優れた自然科学である。仏典における妊娠期間の計算も、現代の産科学と少しも
違わない。
これは何だ?お前は確か「釈迦仏教は、釈迦が自分の鬱を治療するために
考え出した妄想」とか言ってなかったか?それを
『優れた自然科学』なんて言っていいわけか?
釈迦仏教は、優れた自然科学 これでいいのか?
256 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/06/01(火) 02:25:50 ID:Y5fFnwAu
>>250 科学(この場合は医学・薬学)がそれ自体として100%正しかったとしても、個々の
クライアントにとっては、「治るのかどうか」だけが問題です。自分が実際に治る
手段 how が求められている問題なのであって、それ自体が正しいものであっても、
自分の現在の問題にとって適用不可能なものであるならば、絵に描いた餅です。に
もかかわらず、絵に描いた餅の是非を延々議論するのは、それこそ無明のなせるわ
ざであり、「毒矢の喩え」とされるところです。
実体論に基く議論に終始することも、絵に描いた餅の是非に終始することに等しい
ことになる、というのが仏教的な考え方でしょう。宗教の対象とする領域の問題で
ある、すなわち、心の問題、人生の悩みといったようなことをどうにかしたければ、
何が真理なのかとかいうことではなく、どう how すればいいのかを真っ先に追求
せよ、ということでしょう。そういった問題を解決する必要のない人には、仏教は
何の意味もありません。手段は使われてこそ、意味を持ちます。
257 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 03:53:06 ID:aktBy0Hh
>>253 「生命」には「生物的生命」しかない。宗教者がよく言うような「命」と「いのち」
の二つがあるのではない。
>>254 私が批判しているのは、開祖の精神障害から発生した「創唱宗教」だけ。
おばあちゃんが、おじいちゃんの病気の回復を願ってお地蔵さんを拝むことなど、
少しも批判してはいない。
「私は真理であり、道である」「私は、正しく清らか」などとほざいていた開祖
は、どこのどいつだ。
>>255 「眼耳鼻舌身意」は、大乗の般若心経である。超カルトである釈迦仏教ではない。
258 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 04:19:04 ID:aktBy0Hh
>>251 夢や幻影肢は、あくまで自分自身内部の感覚。自分以外の対象の知覚ではない。
「身体のことを観察する」のが「自然科学」だといっている。キリスト教には、
このような「自然の観察」は全くない。
260 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/01(火) 08:00:55 ID:dQeFKily
あーーぁ・・忙しかったw
では、投稿再開です。
>>149 あのだねぇ・・・私の主張は全然、間違ってないの。
境地というのは“意識の状態をいう“のであり、仏陀のニルヴァーナ意識というのも実は
パーソナリティーの表層意識と折り重なっているのですよ。
この多重構造が“次元”といわれるものなのです。
次元が異なるので表層意識からは捉えられないのです。
それが今もこうして現存している・・・。これは一つの表現なのです。
次元の概念です。
261 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/01(火) 08:05:13 ID:dQeFKily
>>146 >>151 お話にならないから!(相手できないw)
>>153 >いつまでもいつまでも、その訳を御都合主義で使いまわすな。
>なんなら俺に著作権料よこすか?w
ならばこっちだ!
『比丘たちよ、「生ぜられたもの」でなく「有らせられたもの」でなく「作り為されたもの」でなく「形成
されたもの」でないものが存在する。比丘たちよ、もし、その、「生ぜられたもの」でなく「有らせられ
たもの」でなく「作り為されたもの」でなく「形成されたもの」でないものが有ったことがないとしたら、
この〔世において〕、「生ぜられたもの」「有らせられたもの」「作り為されたもの」「形成されたもの」か
らの出離は、覚知されないであろう。比丘たちよ、しかしながら、まさに、「生ぜられたもの」でなく「有
らせられたもの」でなく「作り為されたもの」でなく「形成されたもの」でないものが存在するがゆえに、
それゆえに、「生ぜられたもの」「有らせられたもの」「作り為されたもの」「形成されたもの」からの出
離が、覚知されるのである。』(ウダーナ8:3)
*以前、ケチが付いたので()書きの訳注部分は省きました。あの訳注は何も間違いってなどいないの
だけど、勝手に仏典を唯物視して読もうとする輩が煩いのでw
262 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/01(火) 08:06:29 ID:dQeFKily
はい。「有為」と「無為」の意味(と違い)が分りましたか?ニルヴァーナ(無為)は現象界(有為)を 超越したものであるということを(これが「一切外」)。仏教の説く法(「一切」及び「一切法」)とは、この 現象界に限定した性質を教えたものであり、これが縁起・無常/空というもの。これらが「有為」です。 まっ、水野氏の解説を100回嫁w てか・・何度でも投稿してあげますよ(この私は親切だから!) 『われわれにとっての世界は現象界のみである。この意味における一切の現象界を仏教では一切 とか一切法とか呼んでいる。仏教が取り扱うのはこの現象界に限られる。(p127) 原始仏教では生 滅変化する現象法だけを一切法としていた(p143) この諸法は諸行と同じく、現象としての一切法と いうことになる。(p160)』(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊) 『存在についても、原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現 象としての有為法だけでなく、生滅変化しない常住不変の無為法をも存在の中に加えるようになった。 この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、原始仏教とは違った性格 のものとなった。(p143) 諸行とは生滅変化する一切の現象法を指し、有為と同義である。すべての 現象は一瞬の停止もなく、無常にして生滅変化するというのが諸行無常である。(p158)』(同)
263 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/01(火) 08:18:36 ID:dQeFKily
>>163 >おいおい、相変わらずあまりにもデタラメ過ぎる、仏教をまるで掴めていない。
>仏も無常=無我=縁起=空=中道なのは当然だろう。
まるで掴めてないにはあなたです。
全部ごっちゃで一緒にしないこと!
「無常」なる現象界の性質を一言で「空」と呼び、そのメカニズム論が「縁起」というもの。
そこには確たる自己(我)は存在しない、という意味が「無我」であり、
現象界(有為)を超越してニルヴァーナに到達するという仏教の究極ゴールを目指す修行の
姿勢(意識の在り方)が「中道」というものです。
*とにかく、「中道」を自己都合で勝手に意味を広げて使わないこと。
>>165 >輪廻転生スレでの10氏との宿題はまだ未提出だったよな?
>おまえが約した3ヶ月の期限はとっくに過ぎているが
「3ヶ月」というのはこの私から出た数字じゃない。
作成のための資料集めは継続してるよw
264 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/01(火) 08:24:45 ID:dQeFKily
>>155 >ニルヴァーナだけは常住か。それでは「諸行無常」や「空」とは、真っ向から矛盾するな。
>「無為」がニルヴァーナなら、「有為」の典型である「修行」とは矛盾する。
100万回、繰り返し読むことです。
矛盾してるのはあなたの思考論理だけ。
>>172 ドグマに縛られた硬直した思考だから、あなたは「実体」だの「主体」だのといって混乱してるのです。
説法して遊行された45年間というもの、ゴータマは意識がなく無意識だったと??
如来の死後は意識が消失するとでも、仏典は説いたとでもいうですか?www
いつもまでもいつもまで、実にクダラン・・・疲れる。
>>158 ご親切に感謝!!でも、
>>261 と、特に変わらないと思うけど・・。
265 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/01(火) 08:27:14 ID:dQeFKily
>>177 >それとも、そういう「霊魂」の存在も仏教は認めているというわけか?
はい。この経はすでに亡くなっているビンビサーラ王が死後に、
ジャナヴァサバ神霊としてゴータマの前に出現して対話したという記録です。
【〔神霊・ジャナヴァサバ出現す〕
〔世尊〕
「そしてアーナンダよ。そのとき、姿を隠したヤッカ(夜叉)の声が聞こえてきたのだ。アーナン
ダよ、声が聞こえてすぐに、高貴な姿をしたかのヤッカ(夜叉)が、わたしの前に現われた。そし
て第二の声を発した。
『尊師よ、わたしはビンビサーラであります。尊師よ、わたしがヴェッサヴァナ大王(毘沙門天)の
側近として生まれたのは、これが七度目です。そのわたしは、人間の王(マガタ国の王)としてそ
こから没して、いま天の中で人間ならざるものの王となっているのです。ここから七度、またそこか
ら七度、あわせて十四回の輪廻を繰り返しつつ、わたしが経てきた前世の、暮らした場所のありさ
まを、わたしはよく知っている。尊師よ、わたしは、長期にわたり、悪い場所に堕ちることのなかっ
たものであります。・・・わたしは〈一度だけもどってくる者〉〔一来者〕になりたいと願い続けているの
です』といった。
266 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/01(火) 09:13:40 ID:dQeFKily
この尊者ジャナヴァサバ(ビンビサーラ王)が、 『わたしは一度だけもどって来る者になりたい・・・』ということができるのは、実に不可思議にして 稀有のことである。では、どのような因縁で、尊者ジャナヴァサバ・ヤッカ(ビンビサーラ王)は、こ のような偉大ですぐれた達成を理解できたのであろうか」 〔仏教信者であった神霊〕 このヤッカ(ビンビサーラ王)は続けて、このように言った。 『尊師よ、あなたの教え以外にありえないのです。わたしは、〔仏・法・僧に〕ひたすら帰依し信じて 以来、長期にわたり悪い場所に堕ちることのなかったものであります。尊師よ、いまわたしは、・・・・ 〔地上界の〕尊師が煉瓦(れんが)堂に入り、マガタ人の在俗信者の問題についてよく思いをこらし、 心を集中させて、かれらの死後の行く末、未来の運命を知ろうとし、考えているのを見たのです。 ・・この件につき、わたしは〈自分が尊師にお会いして、このことを知らせよう〉と思ったのです。』】 (『中部経典/第18経』ビンビサーラ王/ジャナヴァサバ神霊との対話)
>>233 おいおい、一般啓蒙書を読んだ程度の俺にあんまり突っ込まれると困惑するではないか。
正直、クソ隠居相手のハッタリの側面もあるw
キーワードは『縁起』『観測者の自己同一性』『解釈』。
我々が置かれているこの世界の真の姿(そのようなものがあるとして)を知る、
その一点が科学の命綱だし、仏教の縁起の現観=“あるがまま”=明智(←無明)でもある。
ところが、真の姿をいかなる視点から捉えるのか、その観測者とはなにか、が問われる。
ニュートン力学的な神の視点なのか、コペンハーゲン学派的な自己同一性を保持した観測者―人間なのか、
そもそも観測する自己とはなにかー確定できるのか、無限定な量子論的関係性→『空』=縁起的現象なのではないか。
>>233 もともと量子論からすれば観測者の自己同一性など成り立たないはずではないのか。
例の、波としてやってきた電子がスクリーンで粒子として到達点Pで光る時、『波の収縮』など起こってはおらず、
そこにはP点の電子と、それを観測する私と、その両者をとりまく全宇宙とがワンセットになった世界がある。
そのことは無数の電子の到達可能性のある全点において同様のことがいえる。世界は無数に分岐し、私自身も無数に無限定に分岐している。
逆に言えば、確固たる自己などは存在せず、量子論的関係性のうちに無限定に現象している
→無常=無我=縁起=空=中道というしかない。
こうしたあるがままの世界には自己は無限定だから当然出生もない。
出生もないから、当然老死もない。
これがゴータマ・ブッダの不死の法則である。
このことを後世、龍樹は『不生』といったのである。
ここでは『多世界』解釈といっても、二項相対にとらわれた言葉の問題であることがわかる。
量子論が発展して多世界解釈が生み出されたのではない。
量子論は本来無限定な多世界理論なのだ。
現代物理学はようやくブッダの世界の近似までたどり着いてきたのである。
これ以上、突っ込むなw
>>263 おまえのお墨付きの『不生不滅』=中道を説明せよ
だいたいおまえは俺のをパクって>(ウダーナ8:3/不生不滅)と明記しているではないか!
そのとおり、ウダーナ8-3は不生不滅の中道を示しているのであって、
『超越』観念などはブッダによって破折されている。 (
>>163 )
超越観念は反中道二項相対である。
自分の書き込みに責任を持てよw
>>256 う〜ん、まだ良く分からないですね。
患者にとっては「自分が治るかどうか」だけが関心事であって、その手段は問わず、
たとえそれが「手かざし」であろうと、治ってしまえばそれでよいと言う事ですか?
多くの人に効果的な治療法ならば、とりあえず、目の前の患者にも適応可能であると考えて試してみる、
もしダメなら、次に多くの人に効く治療法を試してみる。
コレが今の医療でしょ?
それに何の問題があるんですか?
100%ではありえませんが、なるべく確率の高い方に賭けるのは非常に真っ当な行為だと思いますが。
むしろ、「万人が納得する成功率」という考えの背後の方に、
「自分は死なない、病気は必ず治る」という無明に陥っている患者の姿が見え隠れしているように思えますが。
また、科学的・医学的な論理に基づかない「手かざし」など民間療法の問題点は、
因果関係など無く「たまたま治ってしまった」場合を除外していない点です。
例えば、赤い郵便ポストの周囲では、癌の発生率が高いという統計結果がありますが、
「ポストに近寄らないようにしていたから、私は癌に掛からなかった。
ポストに近寄らないようにするのが、私にとっての100%効果的な癌予防法だ!」
と言う人が居たとして、あなたはどう思いいますか?
>>258 >夢や幻影肢は、あくまで自分自身内部の感覚。自分以外の対象の知覚ではない。
おーいw
「自分自身内部の感覚」は、知覚じゃないだと?
お前さんが腹痛になって、「お腹が痛い」と感じるのは知覚じゃないと?w
ストレスを感じて、「自分は今ストレスを感じているな」と思うのは知覚じゃないと?w
或いは逆を考えてみよう。
最近3Dテレビが発売されたが、あれは、目で、そこには存在しない「立体」を知覚するものだ。
それと、夢や幻肢に、どれだけ違いが有るかね?
>>267-268 >おいおい、一般啓蒙書を読んだ程度の俺にあんまり突っ込まれると困惑するではないか。
>正直、クソ隠居相手のハッタリの側面もあるw
まあ、そうだろうとは思っていましたが、一応、突っ込んでみました。
ご隠居を批判している意見なら、間違っていると思っても突っ込まないんじゃ、「馴れ合い」になっちゃいますからねw
多世界解釈は、むしろ自己を確固たるものとするために考え出された解釈だと思いますよ。
一般的な波動関数の収束では、重ね合わせの状態とそれが収束した結果が一対一対応していないので、
多数の宇宙を考えることで、「この宇宙において」は、最初から重ね合わせの状態と、
収束した結果が一対一対応していたと、考えることが出来るようにしただけ。
その意味では、仏教とは正反対の、確固たる自己を確立させる為の理論ともいえると思う。
そして、あくまで量子論は、人間レベルの大きさは愚か、細胞レベルよりも遥かに小さい、
非常にミクロな世界の現象を扱う学問であって、人間には適応されない理論。
だから、
>こうしたあるがままの世界には自己は無限定だから当然出生もない。
>出生もないから、当然老死もない。
このような結論は出て来ないと思うね。
>量子論は本来無限定な多世界理論なのだ。
う〜ん、それは違うと思いますよ。
>これ以上、突っ込むなw
はいw
275 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 14:32:25 ID:jbej7pVb
>>272 「五感の知覚」とは、共同体において、物の実在を成立せしめる、不特定多数
の成員のほぼ共通の知覚をいう。自分自身の腹痛、ストレス感は、性質が違う。
いくら自分自身が神や霊を感じても、不特定多数人の五感のほぼ共通の知覚に
よって知覚されなければ、神や霊は実在しない。それを「幻覚」「妄想」と
呼び、治療の対象とする。人間界は、徹頭徹尾「共同体」であることを、
忘れてはならない。自分自身だけの知覚は、共同体では意味を持たない。
自分自身の腹痛やストレス感は、他者には絶対に知覚し得ない。他者は、自己の
経験から、「想像」できるに過ぎない。またそれは、例えば腸の「実在」を
成立せしめるものでもない。
「目の前にPC(石ころでも何でもよい)が『実在』するとはどういうことか」
についての回答が、未だ誰からも出ていないようだ。この存在論の基礎を確立
しないで、いくら「物の有無」や「無我・有我」を論じても無意味である。
いくら「我」が「ある・ない」などと思ってみても、その有無は、我の身体の、
共同体の不特定多数人のほぼ共通の知覚によらない限り、判断はできない。
この意味で、デカルトのコギトは、全くの誤り。いくら自分で「我あり」と
思っても、不特定多数の他者が我の身体を知覚しなければ、我はない。
正しくは、「我あり、故に我思う」である。
276 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 14:47:38 ID:9jdfXA4C
輪廻転生説自体は、永久か、そうでなくても複数回の転生にたえられるような
耐久性をもった霊魂を想定すれば成り立つとは思う。
が、業報輪廻はどうだろう。業報の規準が、他人を殺すとかよからぬセクロスをするか、とか
妙に人間の道徳に密着した規準である場合、不滅・恒久の霊魂を想定するだけで説明がつくだろうか。
業報は業報でも「死んだときの時刻が昼だった」「魂が宿っている肉体の血糖値がコレコレの数字だった」
のほうが「自然」に見える。人間的な「作為」が感じられないから。
温度によってワニの卵から孵る子ワニの性別が変わるけど、あんなイメージ。
>>266 その神霊って夜叉(ヤクシャ)じゃね?見覚えのある訳語だなとおもって
岩波文庫の「ブッダのことば」読み返したら38、43、59ページに「神霊(夜叉)」とある。
277 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 15:09:06 ID:9jdfXA4C
って、すぐ上の引用文に「夜叉」「生まれた」とあるじゃまいか。 これは凡ミスだ。夜叉というのは超自然的存在ではあるが、そういう 「生き物(生類)」であることに変わりない。 転生もせずに死んだまま霊魂(幽霊、浮遊霊、憑依霊)がうろちょろするのとは違う。 なのでここで挙げる例としては不適切。 話がかわって前レスの続きになるが、人間から見た道徳に似たものを、業報の規準とするためには、 人間的な意思、人格をもち世界を作ったり手を加えたりする存在を仮定する必要があると思う。 インド風にいえばイーシュヴァラ、イーシュワラ(主宰神)か。 仏教では、なぜ人を殺すと地獄とかに落ちるようになっているのか、という説明ってあるのかな? カルマがこんなふうに働いて……というのではなく、なぜ人を殺すことで天界に生まれたりせずに 地獄に行く、という法則になっているのか、という。 なぜカレーをつけたナンを枕にして寝るという行為(カルマ)が 天界とかその他の良い生まれをもたらしてくれないのか?
>>264 っんとに・・・w
そんなことばっか言ってると縁起馬鹿が泣くぞw
彼の数々の言葉が、全く届いていなかったってことだからな・・(^^;
> ドグマに縛られた硬直した思考だから、あなたは「実体」だの「主体」だのといって混乱してるのです。
> 説法して遊行された45年間というもの、ゴータマは意識がなく無意識だったと??
五蘊が法輪を転じ続けたんだよw (また、「通常の意味での」意識無意識は、我々でさえ普段経験するだろ?w)
《その「意識」を特別視すること》が即ち《「(恒常的)主体」を立てること》であり、《無我(非我)に抵触する》わけさw
(参:記述スレURL集)
> 如来の死後は意識が消失するとでも、仏典は説いたとでもいうですか?www
如来の死後は意識が存続するとでも、仏典は説いたとでもいうですか?www
> ご親切に感謝!!でも、
>>261 と、特に変わらないと思うけど・・。
自分のレスの(こういう瑣末な)解説をしたくはないが・・w
なぜ、(一部PTS辞書付で)“【”“】”を挿入したと思ってんだ?
そこが重要部分だからだよ。
>>262 君こそ、その部分をよく読むことだ。
(有為と無為が対比されるにしても)、どこに、《無為なる「意識」の存在及び存続》が述べられている?
(少なくとも原始仏教の文脈では)、
《「有為でないもの」が、「無為」として見做されている(一括されている)だけ》だ。
だから、ウダーナ四節のような謂いになる。多種多様な別称が用いられる(用いられ得る)。
(参:
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1244362051/314 )
そしてそれは、(おそらく最も重要なことの一つと思われるが)「所縁によってあるのでない」ということだ。
当然のことながら、《「意識」といった表現すらふさわしくない》。
たとえ≪『ニルヴァーナ』意識≫なぞと形容語句を加えたとて同じことだ。
だから「涅槃」に於いても、(場所的な語群を用いるしかないという言語(表現)の限界も含め)、
≪ThANa≫とも称され、「境地」と和訳(意訳)される。
それは、「働き(用)」があるものではない。
「相(姿かたち・様相)」があるものでもない。
「依存する個物(身・色等))」があるものでもない。
「体(固有の、自立独存・恒常する本体・核)」があるのでもない。
そのようなものが、どうして≪(【誰それの】)『意識』≫などと称されようか。
「状態」などと言い換えたとて同じこと。顛倒妄想に他ならない。
282 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 18:46:20 ID:depH0hNT
君たちは、「境地」だの、「意識」だの、「心」だの、「感情」だの、あまりにも 「心的現象」ばかりを語りすぎ。 「心的現象とは、環境に適応し生存(生物的生命)を維持するために発動される 機能である。」(ジェームズ・ランゲ説) 釈迦も、君たちも、本末転倒の塊。それこそ「無明」である。
>>282 アホかw
『心的現象を考察せずに(→【用いずに】)』、
『どうやって』『【「心的現象」の軽減を試みる】んだい?w
薬物療法で「恨み」や「妬み」、「怒り」「憎しみ」、「悲しみ」「苦しみ」を処理できるとでも?www
或いは、「ほーら、くまさんのぬいぐるみだよ〜」ってか?w
笑わせんなw 馬鹿垂れw
※(熊のぬいぐるみが手に入ることにより、「心的状態に変化が起こっている」ことを忘れるなw
そしてそれは、ぬいぐるみでなくてもいい。「言葉」や「記憶」、或いは「状況」、或いは「概念」でもいい。
そして、「【君が(子供の如くwww)頼りたがる】具象物」が無い所でも(ぬいぐるみなんか無くても)、
心的状態を調御し得るし、また、その極が仏教として説かれているわけさ。
ま、どうせ理解不能なんだろうけど・・w)
>>262 また、(いつかツッコまにゃならんかな・・と思ってはいたがw)、
自分で引用しておきながら
なぜ >『われわれにとっての世界は現象界のみである という一文を無視する?
なぜ >仏教が取り扱うのはこの現象界に限られる という一文を無視する?
また、沙門果経は読んだのか?
また、
> 存在についても、原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、
> 部派仏教では現象としての有為法だけでなく、生滅変化しない常住不変の無為法をも存在の中に加えるようになった。
> この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、
> 原始仏教とは違った性格のものとなった。(p143)(→p130)
この数行後に、
『原始仏教では「【いかに】あるか」{(→諸法の在り様(→縁起性であること))}
「いかにあるべきか」{(→比丘・阿羅漢の(社会的在り方・心構え))}のみを問題としたが、
部派仏教では「【何が】【ある】か」という存在論を問題とするようになった。
云々(以下も続けて読んでみろw)』
とある。ここも無視か?
※ “【”“】”や、“{ }”内の文は、引用者が挿入。
また、
版が違うのでページは13〜15頁程足した数字にしてもらうと良いだろうが、
p132三科各説:B十二処:(12)法処:法処の内容中の
(d)無為法の項(本文よりフォントサイズ小)も読んでみろ。
285 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 19:34:40 ID:lK3Ge14t
>>283 >薬物療法で「恨み」や「妬み」、「怒り」「憎しみ」、「悲しみ」「苦しみ」を処理できるとでも?www
>或いは、「ほーら、くまさんのぬいぐるみだよ
それらはすべて、「環境に適応して生命を維持するために必要な心的現象」。
「処理」してはならないもの。
そこが、釈迦やイエスの根本的無明である。
「生命教」を信じて、早く無明から目覚めなさいw。
不覚にもwwwww
>>285 べ、別に、あんたのギャグで笑ったんじゃないからね!
287 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 19:44:22 ID:lK3Ge14t
>>286 熊のぬいぐるみを与えられて喜んでいる君等は、まさに幼児。
大人は、それらの情動を昇華させ、さらなる生の充実を計る能力を有する。
>>287 マジで喩え話が理解できんらしいw
まあいい・・w
>大人は、それらの情動を昇華させ、さらなる生の充実を計る能力を有する
「大人」は、「くまのぬいぐるみ」を使うの?使わないの?
>昇華させ >計る
これはどういう方法で為さるので?w
(勿論、厳格な貴方のことだ、《心的現象を「用いずに」「観察・考察せずに」》為さるんですよね?w)
>能力を有する
いったい、どんな能力なんでしょう?
是非とも御教示願いたいもんですwwwww
289 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 20:05:02 ID:lK3Ge14t
>>286 それらの情動は、すべて生命の維持に不可欠なものだと自覚した途端に終息し、
むしろ感謝するのうになる。これが大人の「悟り」である。
苦を、二項対立的に「排除すべき異物」とするから、苦はますます深まる。
290 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 20:09:04 ID:lK3Ge14t
>>288 >これはどういう方法で為さるので?w
簡単なことだ。「また、俺の生命がやってくれてるな。有難う」と
感謝するだけでよい。
>>289 >〜なものだと自覚した途端に終息し、むしろ感謝するようになる
これって、バリバリの「心的現象」ですけど?w
《自身の心的現象の観察により、「>それらの情動」を見究め、把握し、終息の方向を目指す》わけですね。
バリバリの「心的現象」ですけど?w
「心的現象」の観察・考察により、対処法を探り、「心的現象」に於いて解決しているように見えますけど・・。
違うんですか?www
>>290 >〜と感謝するだけでよい
バリバリの「心的現象」ですけど?www
292 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 20:45:15 ID:lK3Ge14t
>>291 それがまさに、「環境に適応して身体(生命)を維持するための」心的現象だ。
ちょっと宗教っぽく見えるがねw。「大人の叡智」と言ったほうがよいかも
知れない。
このような悟りは、宗教では得られない。生存の努力によってのみ得られる。
>>292 アホですかw
>ちょっと宗教っぽく見えるがね
見えるどころか、「まったく同じベクトルのもの」なんだよ。
その位置と長さが違うだけでね。
当然、位置も同じである場合も多い。その強さや長さが違うだけでね。
(あ、もしかして「ベクトル」って考え方が理解できなかった?
初めて聞いた言葉だった? だったらごめんwww)
294 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 22:30:46 ID:lK3Ge14t
>>293 >見えるどころか、「まったく同じベクトルのもの」なんだよ。
それは違うね。生命の根源性に思い至った開祖は「皆無」である。
>>275 相変わらず、論点が認識できてないなw
誰が、「物の実在」について話しているんだ。
「知覚すること」と、「そのものが実在すること」は別問題だぞ?
3Dテレビの例を上げたように、人間の目は、「そこに存在しないもの」を知覚できる。
つまり、「存在しない物は、知覚できない」わけではない。
よって、「お前さんが主張する、幻覚や妄想は実在し無いから、知覚できない」
という主張は間違いだ。
存在しないでも、知覚できるんだよ。
>>275 次に、お前さんのトンデモ実在論に移るが、
「不特定多数に共通の知覚でなければ実在しない」と主張するのか?www
じゃあ、100人の視覚障害者の中にただ一人健常者がいた場合、
絵画を見ても、絵は実在ではなく、
「健常者にとっても」画像は幻想や妄想であり、白紙が実在だという事になるんだな?w
或いは、無人島に一人きりでいる場合はどうなるんだ?
そもそも、「共同体の他の人」が実在するかどうかは、どうやって決まるんだ?w
またまた、循環論法に陥ってるぞw
ご隠居の論理に従えば、「他の人」もご隠居の妄想かもしれないぞ!?w
ああ、そうか。
ご隠居の脳内の他の人達が、「【生命】は実在する!」といってるから、
ご隠居も【生命】が実在すると考えてるのかw
>>294 >生命の根源性 (爆笑
アプリオリな二項相対価値判断です。
現代量子論および分子生物学によって論証してください。
スルーするなよ。
完全パンク・破産しているのに、ここまで遊んでもらって幸せな奴だw
ご隠居さまあ!裸でしゅよ。
隠居にとって不都合でスルーしてきた数々の批判を列挙しようか?
もっとも、セブンがお付き合い精神でやっているから、徒労か。
視点が、過去の自分の信仰宗教トラウマに照らし、
アプリオリな信仰宗教憎しに凝り固まっているから、
説教ご無用のお邪魔「無視」(爆笑
朕は、汝臣民の意見は十分に聞いてやったぞ、
安んじて死ね。
>>294 はい? (゚∀゚;)
全くそういう話ではないんですが・・w
判り易くしましょうか?(まるで小学生を相手にしてるみたいだw)
パルプを水で溶いて、濾して、一枚の紙を作る。
岩のりを水でほぐして、濾して、一枚の海苔を作る。
この時の、作業工程・製法が「同様である」という意味だよ。 解る?
お前さんは、
『私は、岩のりを使っている。 岩のりを使った製紙業者は「皆無」である!』
と叫んでいるわけだ。 (そして、《「製法」の一致》については一言も触れない。)
なんと姑息で、なんと愚かな姿か・・。
300 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 23:18:03 ID:lK3Ge14t
>>295 3Dテレビの「画面」の実在は、知覚による。
>>296 健常者が一人の場合は、「実在」は成立しない。
>>297 共同体の「他の人」の実在も、不特定多数人の知覚による。
無人島の一人による知覚は、実在を成立させない。但し、知覚は記憶と伝達
が可能である。無人島に来る前の共同体における不特定多数人の知覚の記憶
の情報により、実在が判断できる。
>>298 現代量子論も分子生物学も、生命の機能の産物である。
301 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 23:25:51 ID:lK3Ge14t
>>299 製品が全く違えば、製法(思考過程)も自ずから異なるのは当然。
製法(思考過程)が狂っていれば、製品も不良品。
なんかレスの進み方が異常に速いな。
>>300 隠居よ、相変わらず突っ込みどころ満載のアホレスだが、
俺はとりあえず傍観するか。
セブンと10氏に遊んでもらえ。
頑張れよ(笑)
303 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 23:34:43 ID:lK3Ge14t
>>302 君の、「物が実在するとはどういうことか」の定義をやって見よ。
出来ないんだろw。
開いた口が塞がらんわwww
>>300-301 マジでお年寄りか、ネジの外れた方から来た人か?
もし、過去、(新興かどうか知らんが)宗教団体に煮え湯を飲まされた経験があるなら、
或いはそれを身近に経験したなら、
心の底からアドバイスする。
冷静になれ。
自分の心(と、今の思考方法・心の向き)を真摯に観察しろ。
今のお前は、ずっと憎んできた対象と同化しているぞ。
メタな視線で自分を観察しろ。
さて・・。 宝珠は反応するかな?w
>>303 ほっとこうかと思ってたのに、そんなに自分のバカを晒したいのか?隠居。
まず、
>君の、「物が実在するとはどういうことか」の定義をやって見よ。
こういうことを言うこと自体が、アホだろ?
「実在」という語彙が任意性を有する語彙である限り、どのように定義
しても、それが正解となることは無く、あくまでも「一つの見解」に
過ぎない。
「愛とはなにか?定義せよ。」と言ってることと同じ。
できるのは、最も一般的な大多数の賛意を得られる程度の説明に過ぎないの。
それでは、その一般的な語義は
『実在とは、≪現実に存在すること≫
認識主体から独立して、認識主体に依存することなく客観的に存在すること。』
わかった?
お前いい加減にその認識論は止めたら?隠居。 恥ずかしいだろ? 前にも何回も言ったろ?「30億年前に地球はなかったのか?」と。 完全に論理破綻してるんだよ。 またバカをさらすのか?
>>300 >3Dテレビの「画面」の実在は、知覚による。
だから、「画面」じゃなくて、「立体」を知覚しないのか?
ああ、お前さんは3Dテレビで立体に見えない障害者なのかw
>健常者が一人の場合は、「実在」は成立しない。
アホかwww
>共同体の「他の人」の実在も、不特定多数人の知覚による。
だから、それは循環論法になってるだろうがwww
>無人島の一人による知覚は、実在を成立させない。但し、知覚は記憶と伝達
>が可能である。無人島に来る前の共同体における不特定多数人の知覚の記憶
>の情報により、実在が判断できる。
ほうw
じゃあ、無人島で記憶喪失になった人間の場合はどうなるんだ?w
>>308 >じゃあ、無人島で記憶喪失になった人間の場合はどうなるんだ?w
あちゃ〜〜〜〜、「飛行機事故で記憶喪失になって、無人島不時着した
奴の話」で突っ込もうとしたが、先に言われてしまった。(笑)
んじゃ、隠居のトンでも認識論のまとめね 『ものの存在は、それを知覚する認識主体に依存しない。言い換えれば、 ものの存在にそれを知覚する主体の存在は必要要件とはならない。』 例えば、「人間が知覚することによって始めて、ものが実在すると すれば、人間の誕生以前には、あらゆるものが実在していなかった ことになる。 すると現在、実在しているものは、『人間の誕生と同時に 誕生したことになる。』 地球も勿論、人間と同時に誕生したわけだ。」 わかったか?隠居。 自分のバカさかげんが。
311 :
神も仏も名無しさん :2010/06/02(水) 01:25:03 ID:kIwBgcLv
>>306 >「愛とはなにか?定義せよ。」と言ってることと同じ。
「愛」は「物」ではない。
>『実在とは、≪現実に存在すること≫
>認識主体から独立して、認識主体に依存することなく客観的に存在すること。』
同義反復w。
その「実在」を、どうやって証明するか?
312 :
神も仏も名無しさん :2010/06/02(水) 01:32:55 ID:kIwBgcLv
>>308 >じゃあ、無人島で記憶喪失になった人間の場合はどうなるんだ?w
当然、実在は成立しない。君は、そんな人間の実在判断を信じるのかね。w
しかし、次のテストがある。
「彼が知覚する対象が、自己の生命の維持に直接関係するか否か。」
313 :
神も仏も名無しさん :2010/06/02(水) 01:41:11 ID:kIwBgcLv
>>308 >ああ、お前さんは3Dテレビで立体に見えない障害者なのかw
画面は平面なのだがw。君の目の錯覚。
314 :
神も仏も名無しさん :2010/06/02(水) 01:48:53 ID:kIwBgcLv
>>310 >人間の誕生以前には、あらゆるものが実在していなかった
>ことになる。
その実在の「証明」は出来ない。あくまで、現在知覚できる対象からの
「推測」に過ぎない。
「原初の地球」の画は、「想像画」だよw。
315 :
神も仏も名無しさん :2010/06/02(水) 01:57:21 ID:kIwBgcLv
君たちや、西洋哲学者がいくら足掻いても、「唯識論」を克服すること は出来ない。仏教は凄いw。
>>314 お前は真正の精神異常者か?
人間が知覚したものだけが実在である→人間の誕生以前に実在したものはない
→地球は人間と同時に誕生した。
お前は本気でこれを信じてるわけか?
マジで病院いって来い。
「人間と地球が同時誕生」などと信じてる奴は、おそらく
世界中でお前ひとりだと思うぞ。
いいか?隠居。お前は「平均的健常者の思考と著しく乖離する思考の 持ち主は精神病治療の対象者である。」と何度も言ってたな。 平均的健常者は、「まず地球ができて、その後、人間が誕生したと 考えてるの。」 大多数のものが、そうなの。 お前みたいに「地球と人間が同時に誕生した。」などと考えてないの。 つまり、お前の思考は、平均的健常者の思考とは著しく乖離しているわけ。 わかる?自分で、「私は精神異常者ですよ。」って言ってるんだよ。 ハヨ、病院いけよ。
318 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/02(水) 09:27:19 ID:XmzNSI/u
>>269 >日本寺和田一派がオウムの巣窟になっていたことからもわかる。(
>>151 )
オウムの仏教学習というのは原点回帰の姿勢について模索したものだということ。何故なら、現代の
日本で接することのできる仏教は全部、本来の教えではなく、時代の歪曲を受けたものだからです(そ
れが日本の大乗仏教というもの)。
それ自体は何も批難されるようなものではありませんよ!オウムだから彼らの学習内容の全ては間
違い、などということにはなりませんから。
>>270 「中道」というのは本来、苦行と快楽主義といった二つの両極端を避けた状態とその姿勢をいうのです。
もし“両極端を避けた状態”という広義的な意味で使用するにしても、仏教が目指すものが“不死”といっ
た究極の境地であり、現象界の常識概念を超えたものであるところのニルヴァーナに当て嵌めるもので
はないのです。
であるから、『「生ぜられたもの」でなく「有らせられたもの」でなく「作り為されたもの」でなく「形成 され
たもの」でないものが存在する。』といい、『それゆえに、「生ぜられたもの」「有らせられたもの」「作り為
されたもの」「形成されたもの」からの出離が、覚知されるのである。』と、ここで説明しているのです。
これはつまり、「現象世界とは異なるものが存在する」と、まず教えているのであり(これが重要!!)、
であるから、「現象世界からの解脱を覚知できるのだ」と説明しているのです。これを現象界からの超越
というのです。
「現象界」から解脱し、“現象界を超越した境地”であるところのニルヴァーナに到達することを説いて
いるというのに、どうして「その両極端を避けよう!」などという話ここで出てくるのか?全く以って馬鹿げ
ている・・・。あなたは、日本語が読めないのですか?
もう1度、この中村氏の解説を読んでウダーナ8:3と対比してみることですよ。
『作られざるもの---skata=nibba^na.(Ckmm.)作られたもの(有為)は転変し、生起消滅するが、「作ら
れざるもの」すなわちニルヴァーナは永遠不変のものである。有為は迷い、無為はさとりの境地である。』
(『真理のことば/感興のことば』「Dhp.97」訳注-中村 元訳/岩波文庫刊p93)
319 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/02(水) 09:30:54 ID:XmzNSI/u
>>279 まっ、セブンも(ID:J1ULz1Np)と同じですね。
ニルヴァーナは現象界を超越したものである、というのがウダーナ8:3の経文から明らかなのですよ。
中村氏の説明のまさにその通りです。
五蘊に拠らずして永久に存続するのがニルヴァーナです。ただし、ニルヴァーナを感受できるもの
(何かが)が必要でしょうね。それが“意識”(自己意識)ですよ。
これは、あなた方の常識では理解できない話なのですw 本当は何も難しい話ではないのですが、
ただ唯物論者には困難なのです。その概念が自己の内(唯物論者の)にないからです。
>>281 >どこに、《無為なる「意識」の存在及び存続》が述べられている?
いちいち記述がなくても、それくらいは自分で読み取ろう!(ということが、ゴータマのご意志であったも
のと私は察しますw) ニルヴァーナを自覚(現象界からの出離を覚知)しているのは何???
それは“意識(自己意識)”に他ならないのですよ。
320 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/02(水) 09:35:19 ID:XmzNSI/u
>>284 >なぜ >『われわれにとっての世界は現象界のみである という一文を無視する?
>なぜ >仏教が取り扱うのはこの現象界に限られる という一文を無視する?
ここで云う、「われわれ」とは一体、誰々を指すのかは分ります? もう面倒だから答えてしまいます
が、当然、ここでいう“我々”とは、凡夫、及びまだ未完の者、即ち一般修行者たちのことですよ。
彼ら(我々)はまだニルヴァーナにはないので現象界に座している。従って、我々が知り、理解でき
る範囲とは現象界のものに限られるのです。
要するに、これを超えたものについては所詮、理解できないので説明を避けたのです。それが無記
の姿勢というものです。
でも、現象界を超えたものは在るよ、と教えている。それがウダーナ8:3です。我々には感受できな
いし、理解を超えたものではあるが、けれども、それは“在るよ”と。
セブンは、すべて唯物主義の視線で読むから無理ですよ。唯物主義という色眼鏡を通しては、歪む
から読み摂れない。いくらサンスクリットにパーリと・・・文献学者並の知識で原語読みしようとしても
同じこと。
>>318-320 星新一氏の名言を送ろう。
「目のウロコが落ちたのと、飛びこんだのとはどこで見分けるんだ?」
色眼鏡で歪んでるのはどっちだ?w
>>313 >君の目の錯覚。
ああ、ようやく錯覚の存在を認めたかw
そこに実在しないものを知覚する現象(=錯覚)が存在する事を認めるということだな?w
>>320 相変わらずの、アホをを晒して・・・・
>セブンは、すべて唯物主義の視線で読むから無理ですよ。唯物主義という色眼鏡を通しては、歪む
から読み摂れない。
笑おたわい。
>>「宝珠」は、すべて「神智学」の視線で読むから無理ですよ。「神智学」という色眼鏡を通しては、歪む
から読み摂れない。
全て自分に返ってくるぞ。(笑)
>>316 推測なんだが、ご隠居は、「人間と地球が同時誕生」と言う矛盾を解決する為に、
「不特定多数の成員のほぼ共通の知覚」を持ち出したんだろ。
つまり、自分が存在する前から、「不特定多数の成員」によって、実在が確保されているんだから、
「自己が存在しない時点での地球の実在」を主張出来ると考えたんじゃなかろうか。
まあ、問題は、その「不特定多数の成員」の実在が循環論法になっていることだがw
突っ込みを回避するために、余計な設定を付け加えていった挙句、トンデモ理論に陥るのは、
ご隠居の得意技だなw
毎度楽しませてもらってるw
325 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/02(水) 09:58:39 ID:XmzNSI/u
>>284 >この数行後に、
> 『原始仏教では「【いかに】あるか」{(→諸法の在り様(→縁起性であること))}
> 「いかにあるべきか」{(→比丘・阿羅漢の(社会的在り方・心構え))}のみを問題としたが、
> 部派仏教では「【何が】【ある】か」という存在論を問題とするようになった。
> 云々(以下も続けて読んでみろw)』
>とある。ここも無視か?
> ※ “【”“】”や、“{ }”内の文は、引用者が挿入。
はいはい、分っていますよ。意識が云々・・・などという話(私のお特異の説明の在り方)は本来の
原始仏教にはない姿勢であって、このような存在論を問う姿勢というのは、その後に発生した部派
仏教のものではないか!というご批判でしょう?
ただ私は詭弁が嫌いなのです。それは明確にしなかった(説かなかった)だけのことでしょう。私は、
現代人が理解できる普通の説明にすべく、ただ「意識」といってるだけです。ではその意識とはどんな
もので云々・・・などという存在論を展開しようというものではない。
>また、
>版が違うのでページは13〜15頁程足した数字にしてもらうと良いだろうが、
>p132三科各説:B十二処:(12)法処:法処の内容中の
>(d)無為法の項(本文よりフォントサイズ小)も読んでみろ。
もちろん、読んでいますよ!ここで最も重要な解説は、無為とは「永遠」(の存在)だということです。
私は何も「有」として述べているわけじゃない。「有」の概念で述べたことは1度もありません。水野氏
が「客観的事実」としてではない、という解説をしていることについても理解しています。
客観的事実とは現象世界の概念だからです。客観的には捉えることができないのが無為、すなわ
ちニルヴァーナなのですから。これは主観によって体験する世界なのです。
326 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/02(水) 10:01:14 ID:XmzNSI/u
ここに投稿している殆どの者が唯物論者です。 彼らは仏典の記述を無始し、先に自分で(そんなものはある筈がないという・・・) 回答を出して勝手に決め付けているので、どんな見事な解説を読んでも無理なのです。 それを拒否する姿勢を辞めない。 彼らに理論は通用しないのです。 その彼らが心を改めることになる唯一のものが神秘体験(物質科学が否定している出来事)です。 体験する以外には断固として認めないからです。 だから直接、仏教には関係がないけれども・・・そのキッカケとなるであろう体験として、 この私は気功の話やその他についても話してきたのですよ。
327 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/02(水) 10:02:40 ID:XmzNSI/u
>>273 確かに・・・
私はアルツハイマーの疑いを否定はしませんがw
あの「3ヶ月」などというのは10さんが勝手に出してきた猶予期間(設定期日)であって、
私は事の最初から、それには無理があると彼に言い続けてきました。
そして、この文章というのはすでに1ヵ月半以上を過ぎた頃であり、
けれども、「まだ今から3ヶ月は悠に掛かるし、いや、もっと掛かるだろう・・・」
ということを主張している一文なのですよ。
>>324 >推測なんだが、ご隠居は、「人間と地球が同時誕生」と言う矛盾を解決する為に、
「不特定多数の成員のほぼ共通の知覚」を持ち出したんだろ。
つまり、自分が存在する前から、「不特定多数の成員」によって、実在が確保されているんだから、
「自己が存在しない時点での地球の実在」を主張出来ると考えたんじゃなかろうか。
いやいや、俺はまた違った見解だ。隠居が、そこまで考えて
「不特定多数の成員のほぼ共通の知覚」を持ち出したとは思えない。
隠居はそこまで頭が回らんよ。(笑)
隠居は唯たんに、「自己の見解が多数派であると考えたくて、
『不特定多数』という概念に引っ張られた」と思うんだがな。
そして「自己の見解が実は、その不特定多数の見解から乖離している。」
ことを指摘されると、それは最も認めたくないことなので、今までも
完全スルーで逃げてきてた。(笑)
>>326 宝珠よ、「お前の言う」唯物論者ってのは、何だ?
まず、それを明確にしないことには、このスレにその該当者が
いるかどうかも検証できんぞ。
> 回答を出して勝手に決め付けているので、どんな見事な解説を読んでも無理なのです。
それを拒否する姿勢を辞めない。
何だ?これは。 自己紹介か?
>彼らに理論は通用しないのです。
またそうやって嘘をつく。(笑)
お前が今まで「単に個人的妄想のレベルを超えて、現代の知見に
基づく事例を基盤に理論構築した」ことが一度でもあったか?
>その彼らが心を改めることになる唯一のものが神秘体験(物質科学が否定している出来事)です。
「体験」は認めるぞ。 ただし「個人の認知システムの誤作動の可能性」が
排除できていればの話だ。実際に「神様や妖怪、悪魔などを見たひとは
その手の病院にたくさんいる。彼らは嘘をついているのではなく、本当に
見ているのだよ。」だが、その事実をもって「神や悪魔が実在している」
と結論づけるわけか?
330 :
神も仏も名無しさん :2010/06/02(水) 11:02:40 ID:0Es2oQME
いま隠居とされてる話って、前々スレでだかのアンドロメダ談義で結論がついてるよな。
331 :
神も仏も名無しさん :2010/06/02(水) 13:11:06 ID:k+8fpeNc
>>328 世界の認識が、動物の各種属ごとに全く異なっていることは、動物行動学者が教える
ところである。
この世界・宇宙とは、あくまで多くの動物の1種属に過ぎない人間が、その生命の機能
によって知覚した結果に過ぎない。他の種属の動物が知覚する世界は、人間が知覚する
世界とは似ても似付かぬものであることを、忘れてはならない。従って、この世界の
存否や本当の姿は、誰にも判らないのである。あくまで、動物の各種属ごとの「仮設」
に過ぎない。しかし、人間も、その他の動物の他の種属も、それぞれの仮設の世界のみ
において生存が可能であり、生存を続けているのである。まさに「色即是空・空即是色」
の世界である
「不特定多数」という概念を入れたのは、すべての動物の種属は「共同体」「共生体」
であり、実在の知覚が「ほぼ共通」でなければ、共生は不可能だからである。知覚
異常者、妄想患者、宗教の狂信者などを除外するためである。
隠居の卓見によれば、キリスト教共同社会で キリスト教支持者(たとえば十字軍)がいくら殺しをやっても、 キリスト教共同体の不特定多数の支持を得ているから、 それは正義であって非難されるいわれはない。
真理とはたとえ一票差でも多数決である。 勝てば官軍である。 ナチスの議会が圧倒的多数でユダヤ人虐殺を支持したのだから、 非難されるいわれはない。 日本の帝国議会で中国侵略を支持し、広東軍の満州事変を 昭和天皇が喜び、支持し、帝国議会も翼賛したのだから、 中国に対する侵略は正義である。
このスレッドでは隠居支持者は圧倒的少数(金魚の糞ぐらいか?)なのだから、 隠居の立論は真理ではない。
>>331 こりゃ隠居、また論点がずれてるぞ。
返答に詰まると、論点ずらして逃げ出すいつもの手段か?
>この世界・宇宙とは、あくまで多くの動物の1種属に過ぎない人間が、その生命の機能
によって知覚した結果に過ぎない。他の種属の動物が知覚する世界は、人間が知覚する
世界とは似ても似付かぬものであることを、忘れてはならない。
各種の生物が、この世界をどのように知覚、認識するか ということと
『この世界の実在』とは何ら関係がない。
ならば、地球上に全く生物が存在しなかった40億年前には地球は存在して
なかったか? 「人間という種の知覚」が存在に干渉するのであれば、
『地球は人間の誕生と同時に誕生したのか?』 はい、きっちり答えてみい。
1・今現在、地球は実在している。←これはいいな?
2・であるならば、時系列上の過去の一点において、地球は誕生したことになる。
3・それは、いつか? 通常、我々は、それを人間誕生以前(約48億年位前)と
考えている。
4・しかし隠居の言うように『存在には人間の知覚が必須要件。すなわち、人間が
知覚することによって実在する とするならば、人間誕生以前には地球は
実在しないことになる。何故ならば、人間が知覚できないからだ。
5・しかし、現在、地球は実在している。ならば、残された可能性は唯一、
『地球は人間と同時に誕生した』 こととなる。
わかるか?隠居。 お前の論理では、どうやっても『地球は人間と同時誕生』
するしかないわけだ。 そしてそんなこと主張するのは、(おそらく)世界で
お前ひとりだ。
336 :
神も仏も名無しさん :2010/06/02(水) 15:54:08 ID:k+8fpeNc
>>332 >>333 キリスト教もナチスも、「人類共同体」の多数決を取れば、明白に「悪」である。
>>334 このスレは、宗教者及び宗教肯定者の集まりw。私が肯定されたら、「同じ穴の狢」
ということになる。
>>336 こりゃ隠居。なに、しらっ〜〜〜とスルーしてんだよ。
お前の言う「人類共同体」では、お前の「地球、人類同時誕生説」
など支持するやつはいないの。
つまりお前は明白に平均的健常者の思考から乖離している精神異常者
なわけ。 おまえ自身が言ったことだよな?
病院行ったか?
338 :
神も仏も名無しさん :2010/06/02(水) 16:27:32 ID:k+8fpeNc
>>337 証明できる人間は、誰一人としていない。
仏教徒は、「世界は存在しない」とさえ言ってるぞw。ここの仏教徒に
聞いて見たらどうか。
wwwww
>>338 >「世界は存在しない」とさえ言ってる
ほうw
どこのどなたですか?そんな間抜けなことを言ってるのはw
(この方向は、宝珠とも絡んでくるんで面倒臭いんだが・・w)
>>336 >「人類共同体」の多数決を取れば、明白に「悪」である。
「人類共同体」ってどこに存在するのかな?
多数決ってどうしてとるのかな?
<「人類共同体」の多数決を取れば、生命教は明白に「悪」である。>
おなじ構造の仮説に反論できますか?
御都合主義だよね。
アプリオリな『悪』は仏教上認めませんよ。
二項相対であって、無意味だからです。
ブッダは二項相対的にもなにも、善悪などに意味はないというのが教えです。
ブッダは、道徳とか倫理とかの「塵を離れ」て、ただ「縁起」にのみ生きよといっているのですよ。
それは龍樹も道元も、当然同じです。
生命教は仏教とは真逆です。
おっと、スルーしてた。
>>327 健忘症の様なんで、思い出せるように書いておくが、
お前さんは最初から、「根拠がある!」と言っていたんだぞ?
「根拠がある!」と断言するなら、即座に提示できるはずだろ?
詳細は無理でも、どのような方向で、論証していくか位は提示できるはずだ。
それなのに、「忙しいから」とか、「このスレは都合が悪いんで別のスレで」とか言って逃げ回ってた。
ついには、「アクセス規制になりそうだ」と言って、三ヶ月は書けないと言い出し、
(その割には他のスレで書いてた気もするがw)
一ヶ月以上経ってから、
「構想について、やっと少しだけビジョンが垣間見えました(笑顔)w 」と言いい、
その時点から更に三ヶ月以上待てと言い出したんだ。
(概略だけでも)即座に書き込むべき所を、お前さんの「都合」に合わせて、
1ヵ月半待ち、そこから更に3ヶ月待った。
だがそれでも、お前さんは根拠の概略すら提示できなかった。
そして、3ヶ月が近づいたとたん、お前さんは2chの書き込み自体を止めた。
そろそろ、ほとぼりが醒めたと思って帰って来たんだろうが、皆、忘れてなかったみたいだぞ?w
>>331 横レスだが、一つのレスの中で矛盾が生じてるぞ?w
「他の種属の動物が知覚する世界は、人間が知覚する世界とは似ても似付かぬもの」
と言いながら、舌の根も乾かないうちに、
「すべての動物の種属は「共同体」「共生体」であり、実在の知覚が「ほぼ共通」でなければ、
共生は不可能だからである。」
と言い出す。
他種属の動物と、人間の知覚は、「似ても似付かぬもの」なのか、「ほぼ共通」なのか、どっちなんだwww
345 :
神も仏も名無しさん :2010/06/02(水) 22:04:14 ID:WJyFqWhP
>>340 >アプリオリな『悪』は仏教上認めませんよ。
>二項相対であって、無意味だからです。
ほう、ならば何故「苦」や「煩悩」を、二項対立的に「排除すべき異物」とするのか。
「業報」において、「善悪観念」はモロに表れているではないか。
「仏教」と言っても、小乗(釈迦仏教)と大乗とでは本質的に異なる。常に両者を
区別して論じられたし。
大乗は、むしろ「生命教」に近いと思うぞ。「久遠実成の本仏」も、種属としての
人間の生命の象徴と解することもできる。禅も、すべての人為的観念を取り払った
生命そのものの追求だと思う
346 :
神も仏も名無しさん :2010/06/02(水) 22:07:36 ID:WJyFqWhP
>>344 「当該種属内での」実在判断がほぼ同一でなければ、「当該種属内での」共生は不可能
ということ。
読解力不足。
347 :
神も仏も名無しさん :2010/06/02(水) 22:27:38 ID:WJyFqWhP
釈迦が、「苦」や「煩悩」が、「環境に適応して生存を維持するために発動される、 不可欠な心的現象」であることに思い至らなかったのが、彼の最大の「無明」である。 彼の精神病の症状としての本末転倒。 大乗では、もはや「苦」や「煩悩」は問題にしない。「煩悩即菩提」「生死即涅槃」 である。
>>345 >何故「苦」や「煩悩」を、二項対立的に「排除すべき異物」とするのか。
「排除すべき異物」ではありません。
我執による無明を因とする妄想(煩悩)だといっているのです。
善悪観念は無明を因とする世俗的二項相対論です。
大切なことは業(行)を因として報(果)が起こる多因多果ネットワークにおいて、
無限定な影響力を他を省みず、妄想自己へのみを視野とする業報輪廻転生論です。
強烈なエゴイズムであり、取引根性であり、あまりのレベルの低さに呆れるしかありません。
>小乗(釈迦仏教)
小乗≠釈迦仏教
あなたは最初から誤解によるボタンを掛け間違えた妄想敵を相手に戦うドン・キホーテですね。
>大乗は、むしろ「生命教」に近いと思うぞ。「久遠実成の本仏」
「超越」仏を妄想する、ヒンドゥ大乗、生命根源教、神智学妄説は、すべて釈迦仏教ではありません。
生命(分別)は生命ではありません(無分別)、ゆえに生命と名称せざるをえません(無分別の分別)。
これは神でも、ウンコでも、ミジンコでもおなじです。
生命根源論は破れています。
あとはドン・キホーテ隠居の我執だけです。
どーぞ、お好きなだけ我執に凝ってくださいませw
>>346 >「当該種属内での」実在判断がほぼ同一でなければ、「当該種属内での」共生は不可能
>ということ。
おいおいw
意味が分からないんだが。
もしそれを主張したいのなら、
>世界の認識が、動物の各種属ごとに全く異なっていることは、動物行動学者が教えるところである。
>他の種属の動物が知覚する世界は、人間が知覚する世界とは似ても似付かぬものであることを、忘れてはならない。
などと言う必要は無いだろw
>実在の知覚が「ほぼ共通」でなければ、共生は不可能だからである。
といえば済む話だ。
>>346 それから、お前さんは、他種属間の共生を否定する気か?w
お前さんの
>>331 の主張を纏めると、
@他種属間の実在の知覚は異なる(≒知覚が異なれば実在も異なる)
A実在が異なれば共生は不可能
@Aから、「他種属間」の共生は不可能である事になる。
しかし、ヤドカリとイソギンチャクの知覚は明らかに異なるのに、共生している。
よって、@かAのどちらか、或いは両方が間違っている事になる。
実在が異なっても共生が可能な状況は、想定できないので、
@が間違いである事になる。
そもそもの間違いは、お前さんが、「認識していないものは実在しない」と考えた事にある。
「知覚しようとしまいと実在する」と考えれば、知覚が異なろうと、実在に影響は無いので、上の議論において矛盾は生じなくなる。
351 :
アントニオ・インキョ :2010/06/02(水) 23:40:16 ID:sS8SOsLa
生命となえてますか!!! 生命唱えれば苦は存在しない。 苦を思える奴は釈迦のような双極性障害の精神疾患である。
>>338 おい、隠居
>証明できる人間は、誰一人としていない。
これは何だ? 「何を」証明できる人間は、誰一人としていない。 と言ってるんだ?
もしかして『人間の誕生以前に、地球が存在した』ことを証明できる人間がいない
とほざいているわけか? 正気か?
地球が誕生したのは今からおよそ48億年前。これは多少のぶれはあるが、
ほぼ共通の認識だ。その根拠は勿論、現在、観測、確認、検証できる現代の知見による
推測だ。 当たり前だな。 タイムマシンに乗って過去を検証しに行くことが
できないわけだから、当然だ。 言い換えれば、過去の事象は全て推測による
しかなく、要はその蓋然性の高低による判断しかない。そして、その蓋然性の高さが
十分信頼するに足るほどの検証がなされたとき、「証明」がなされたと一般的に
表現するのだよ。 わかったか?アホ隠居。
『過去の事例は全て、現在の知見による推測』にしか過ぎないの。そして、
そんなのは証明ではない。信頼するに足らんと否定するのであれば、
ラッセルの5分前仮説も許容せざるを得なくなる。そして、お前が今まで
わめいていたことも全て無意味となってしまうんだよ。
わかるか?お前が「48億年前の地球の誕生を推測に過ぎないと否定するのであれば、
過去は全て否定、すなわち『歴史』というものはあり得ない。」
ん???? すると、お前は人間はいつ誕生したと言うわけだ?(笑)
353 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 00:04:13 ID:itmGkw4k
>>348 釈迦のすべての説法は、彼が「生きていた」からこそ出来たこと。釈迦の死体に
何が出来と思うか。自己の「生命」「我」を以って、生命・我を否定する釈迦の
姿は、滑稽極まりない。
「苦」や「煩悩」の持つ役割に少しも思い至らず、「自分の苦」「自分の煩悩」
を逃れようと必死になっている釈迦の姿こそ、エゴイズムと無明の塊。
他者との係わりの中でひたむきに生きている生活者には、釈迦のようなエゴや
無明はない。
354 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 00:11:24 ID:itmGkw4k
>>352 まあ、せいぜい、「推測」を「事実そのもの」だと勘違いして、楽しんでくれ。
「原初の地球」の「想像画」や「恐竜」の「想像画」でも眺めながらねw。
>>354 おろ? 反論できなくなって、捨て台詞はいて逃走か?
お前の論法だと、お前が必死に批判している釈迦の存在も単なる推測だよな?
すると、お前はいったい何を今まで批判してきたわけだ?
『鬱病患者』ってのは誰のことだったんだ?(笑)
かつて釈迦という人物がいて、いろいろなことを説いた。
それを「事実そのもの」と勘違いして、必死に批判してきたわけか?(笑)
>「苦」や「煩悩」の持つ役割に少しも思い至らず、「自分の苦」「自分の煩悩」
を逃れようと必死になっている釈迦の姿こそ、エゴイズムと無明の塊。
これは? 当然、お前の推測なわけだ。
それを「事実そのもの」と勘違いして、必死に批判してるわけだ。(笑)
馬鹿たれが。 全部、自分に返ってくるだろうが。
>>354 いいか? 精神異常者、隠居。よく聞けや。
お前の論法でいけば、「お前が必死に批判しているイエスや釈迦も
その存在は単なる「推測」に過ぎなくなるわけ。それをお前は
「事実そのものと勘違いして」必死に批判してるわけだ。」
わかるか?お前は、自己批判してるだけ。自分で自分の行為の
無意味さを宣伝してしまってるわけだ。
ホントに情けないやつだね、そのくらいは書き込みする前に
気がつけよ。(笑)
357 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 01:23:25 ID:v4O+FJbq
何が起きるかってたいてい、想像つくけど、それがなんだ、て気がするの? なんかすごい事件があって、みんながリツイートして広まる、くらいなことしか…? どうせリサーチしてドラマを書く人ではないので、 どうしたって、私生活からの発想になっていくのね。勃起ぃのお母さんが亡くなったから「お母さんの最後の一日」という とかそんな感じ?。 about 死とはなにかをどうやって知ったらいいのか、どうすればそれにおびえなくなれるのか 肉体の死と私たちの恐れてる「私」の死。二つの違いが分かるだろうか? ではなにかひとつの楽しみをとりあげて、ソレに対して死んでみろ、これはこうだ といえど今は問題の全部には立ち入りたくないので、ただある程度の事を指摘しておくだけにしようという事。 「私」とは多くの快楽と苦痛の集合物である。 その「私」がなにかあるひとつの事に対して死ねるだろか ある望み、快楽を望まないといえるか それを終わらせ、ソレに対し死ねるか 冥想についても何か知ってるのか そんなんであれ大人たちだって実は知らないのだ。
358 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 01:24:23 ID:LwNpX/j2
>>355 >>356 早速出てきたな。釈迦やイエスを批判されると、「それは真実の釈迦やイエスではない」。
これがまさに狂信者の特徴。
私が批判しているのは、仏伝上の、聖書上の、つまり「創作上の人物」。信者が信じて
やまないのも、これらの「創作上の人物」。だから「真実の釈迦やイエス」に対する
「人格誹謗」には少しもならない。それに怒り狂って、とどのつまりは「それは『真実の』
釈迦やイエスではない」と言い出す。
宗教の狂態、いや滑稽さ極まれり、である。
御釈迦さまから上座部はもちろん初期大乗まで ”〜でない” という形で真理や涅槃を示している。 無我がまさしくそうであるし、空もそういえなくもない。涅槃についての定義もそうですね ただ全ての仏教がそうであるかといえば、違う。 本覚や如来蔵がそうだろうし、方便としての十牛図もそうでしょう。 獲得するべきものとしての牛がいる。 隠居のようにそのままの命を肯定するのではないのですがね。 象徴ではあるが”牛”という形で命を使っている。 隠居の立場は十牛図の見牛に近いと思う。 命のわけのわからなさと、それを追う牧童の関係。 薄っすらとでも”命”がわかっていれば言葉には引っ掛りにくくなる。 それが仏教かどうか、はさておき、一生”見牛”でも問題ないと思う。 隠居が少しも懲りることなく、その場限りの嘘を付きまくって少しも恥じることがない。 それは隠居が彼なりに”何か”を掴んでいるからではなかろうか。
>>358 何いってんだ?隠居。 お前は全く論点がわかってないの?
だから真正の精神異常者だってんだよ、アホが。
いいか?俺は何度も何度も何度も繰り返し言ってるように、
「宗教とは全く関係ないの。」 だから、イエスや釈迦をどのように
言おうが全く関係ない。 好きなだけ勝手に批判してくれ。(笑)
さらに「真実のイエスや釈迦」なんてのも、もちろん関係ない。
俺がいったのは あくまでも「歴史上に存在した人物としてのイエス
であり、釈迦なの」 そいつらが何を言ったかなどは全くどうでもいいの。
そして、お前が「過去の地球の存在を単なる推測であり、事実と勘違い
してるというならば、全く同様に、『過去の人物であるイエスや釈迦も
実在していなかったことになり、その存在はたんなる推測で、事実では
ないことになる。』 わかるか? お前はイエスや釈迦は歴史上、そんな
人物は存在していなかったと言うわけか? それは単なる推測で、そいつらが
存在してるというのは『事実と勘違い』してるというわけか?」
イエスや釈迦が、なにを言って、どんなことを説いたかなど、どうでもよい。
お前は今まで、散々、イエスや釈迦を批判してきたが、それは
イエスや釈迦が歴史上実在した人物と認識した上での発言ではなかったのか?
それとも、この2人は創作上の架空な人物で、歴史上そんな人間は存在しなかった。
というわけか? 逃げずにきっちり答えろや、クソ隠居。
361 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 01:51:57 ID:LwNpX/j2
>>359 >隠居が少しも懲りることなく、その場限りの嘘を付きまくって少しも恥じることがない。
>それは隠居が彼なりに”何か”を掴んでいるからではなかろうか。
私はこれでも、大乗仏教の精髄を説いている積りだが。
問題は、このスレに、超カルトである釈迦仏教徒ばかりが群がっていること。
嘘を付いているのは、釈迦の嘘を見抜けず騙されている彼等のほうである。
「ダニヤの章」を読んだだけでも、釈迦の欺瞞性は明らかなはず。
362 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 01:59:03 ID:LwNpX/j2
>>360 そんなに猛り狂うなよ。君の「狂信性」が丸見え。
私は、「大昔のことにつにて、本当のことは何も分らん」と言っているではないか。
釈迦もイエスも、もちろん、「創作上の人物」。君がそんなに怒らなければならない
理由は、皆無なのだがw。
>>361 逃げるなよ、隠居。お前は
>>354 で、はっきりと「過去の地球」や「恐竜」の存在は、
「単なる推測」であり「事実と勘違いしている」と言ったな?
であるならば、
『過去において釈迦や竜樹という人物は実在したか?こいつらに
関しても、その存在は≪単なる推測に過ぎず≫ ≪事実であると
勘違いしている≫ ことになるわけだな?
お前が今まで、必死に批判してきた釈迦も、手放しで賞賛してきた
竜樹も、実在の人物ではなく、≪創作上の架空の人物≫ であると
いうわけだな? 』
これで本当にいいんだな? きっちりと答えろよ。
>>362 ほ〜〜〜〜〜、よくわかった。
>釈迦もイエスも、もちろん、「創作上の人物」。
釈迦もイエスも、歴史上そんな人物はいなかった。 とこういうわけだ。
すると、当然、竜樹も そんな人物はいなかった。 これも誰かが
創作した架空の人物なわけだ。
ついでに聞くが、豊臣秀吉も源頼朝も、そんな人物は歴史上存在しない、
架空の人物なわけだ? お前の見解はこういうわけか?
365 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 02:13:46 ID:LwNpX/j2
>>360 イエスは、その実在さえ疑わしい。これだけの「有名人」でありながら、クリスチャン
以外の同時代人による証言は「皆無」である。遺骨もないw。バチカンの、イエスの
遺骨の管理責任は重大だね。
釈迦は遺骨があるそうだから、実在したのかもしれない。しかし、その人物像に
ついての一次史料は皆無。すべて創作と考えても良い。
問題は、釈迦やイエスを、佛伝や聖書に書かれたとおりの「実在の人物」と信じて
止まない信者のほうにあるのではないのかね。
>>365 おい、どうした?
竜樹は? 豊臣秀吉は? 源頼朝は?
実在したのか? それとも、誰かが創作した架空の人物か?
どうなんだ?
367 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 02:21:25 ID:LwNpX/j2
>>364 秀吉や頼朝は、時代がはるかに下るし、同時代人の一次史料は無数に
ある。真筆も、肖像もあるぞ。竜樹の著作も、確認されているはずだ。
釈迦やイエスには「皆無」だなw。
368 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 02:30:05 ID:LwNpX/j2
釈迦やイエスよりはるか前の人物であるエジプトのファラオたちには、 同時代作の彫像やミイラまである。 釈迦やイエスの、同時代作の彫像が皆無なのは何故か。ミイラも真筆も ない。ナザレ村のしがない大工の子倅に過ぎなかったイエスはともかく として、王子である釈迦に字が書けなかったはずがない。いずれも、非 実在の人物であると考えるのが、自然であろう。
>>367 馬鹿たれが(笑) そう言い出すと思ったわ。
>秀吉や頼朝は、時代がはるかに下るし、同時代人の一次史料は無数に
ある。真筆も、肖像もあるぞ。竜樹の著作も、確認されているはずだ。
お前は、現在確認できる証拠から、「秀吉、頼朝、竜樹は実在した」
というわけだ。 釈迦やイエスはどうでもいいんだよ、アホが。
人間誕生以前の地球の存在も、恐竜の存在も、ともに現在確認できる証拠から、「存在した」
という結論になってるんだよ。
ところがお前は、「人類誕生以前の地球」や「恐竜」は、単なる推測に
過ぎず、それを「事実と勘違いしている」と言ったな?(
>>354 )
なら、何故、竜樹は実在していたと言える?
こいつの実在も単なる推測にすぎず、「事実と勘違いしてる」だけ
かもしれんぞ。 「恐竜と竜樹の違いはなんだ?」
説明してみろや。(笑)
370 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 02:38:02 ID:LwNpX/j2
>>369 「恐竜と釈迦やイエスとの違いは何だ」と言ってくれw。恐竜には、骨は残っていて、
知覚できる。釈迦の骨は、本人のものと確認できたのか。恐竜とは異なり、人間の骨
は無数に残っているのだから、誰の骨だか分ったものではないw。
>>368 >釈迦やイエスよりはるか前の人物であるエジプトのファラオたちには、
同時代作の彫像やミイラまである。
うんうん、そうだな。現在、残されている資料、証拠から、エジプトのファラオたち
は実在したと言いたいわけだな。 俺は同意するぞ。 俺もエジプトの
ファラオたちは実在したと思うぞ。 んで、恐竜は?
これも多くの化石などの資料が発見されていて、実在したと考えられている
のだが、ファラオは実在していて、恐竜がダメな理由は?
>>370 あっら〜〜〜〜〜?何だ?
>恐竜には、骨は残っていて、
知覚できる。
お前、
>>354 で言ってたことと違うぞ?
恐竜の実在を認めてしまうのか?
どうした?隠居。 ファラオは実在していて、恐竜がダメな理由は? それとも、ファラオも恐竜も、現在残されている証拠から推測して、 どちらも実在していたとするわけか? どっちだ?
>>370 天皇家は?いっとくけど古墳は被葬者がデタラメ 墓碑もない
記紀などは官製だからまったく信用できない
少なくとも奈良時代までに日本に天皇はいなかったことになるなw
それと隠居 人間は脳の記憶部分を機械で代替し共有できる
おまえさんがつかってるパソコンがそうだw
つまりこの人間を超えた時代に今はなりつつある
唯我論なんて時代遅れなのw
やっぱ隠居の一人は昆布だわwww 今夜の隠居は頭が悪いしwww
376 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 03:09:55 ID:LwNpX/j2
「知覚」は、「記憶」と、その記憶の「伝達」が可能である。 ファラオの彫像は、同時代人の知覚の記憶の伝達である。 恐竜の肖像や彫像はないからw、あくまで現在知覚できる骨からの推測 に過ぎない。「恐竜大百科」の画が実物どおりだと思ったら大間違いw。
>>376 過去のことは全て現在、確認できる証拠からの推測なの。当たり前。
だから、俺はその骨から 恐竜は
1・実在したと推測するの?
2・そんなものは実在してないと推測するの?
どっちなの?と聞いてるんだよ。
378 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 03:17:33 ID:LwNpX/j2
ところで、釈迦の墓はどこにあるのかな。イエスの墓は、日本の青森 にあるそうだw。
>>376 電脳で代用可能だよ
恐らく人間以上の知覚ができる電脳網ができる
ターミネーターのスカイネットは空想じゃないのw
>>378 意味ないです昆布の馬鹿哲学w
天皇家は存在証明ができなくても国体という架空ではあるが実態的な力を持つものを維持できてましたから
人間は個体で実存する生物ではないんですw
>>378 どうした?隠居。 また返答できずに逃走か?
いいか?俺が提示した問いは以下の2点だ
@
>>377 A お前はイエスや釈迦は実在しない架空の人物の可能性が強いと言ったな?
それでは竜樹は? こいつも誰かが創作した架空の人物か? もし、
そうではなく実在した人物であるとの見解ならば、その理由は?
さあ、逃げずにきっちりと答えろよ。おそらく、皆も、お前の回答には
注目してると思うぞ。
381 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 04:22:47 ID:bu0g6zUV
ブッダが言ったとされる教えの日本語訳でWeb上で手に入るものは 日本テーラワーダ仏教協会の物しかないのでしょうか? 日本に仏教が渡って来てからの訳も知りたいんですが200万円もする セットになっていたり手に入る物がなかなか見つかりません。 Web上でなくても手頃に手に入る物が有れば教えてくださいm(__)m
なんで200万もするのか耳疑うな 昔の僧侶も空海とか、今では数百円で売られてるスッタニパータとか求めて はるばる危険冒してまで海渡ったんだろ? この経典手に入れたら悟りに近いのだとかが 逆に悟りから遠ざかってるな
383 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/03(木) 07:29:06 ID:iz/anjJ9
>>253-254 ふーむ。
実に素晴らしい投稿で感銘を受けました-マジ。
私もそのように在りたいものと思います (つДT )
>>323 >「宝珠」は、すべて「神智学」の視線で読むから無理ですよ。
>「神智学」という色眼鏡を通しては、歪むから読み摂れない。
>全て自分に返ってくるぞ。(笑)
これくらいは神智学以前の問題です。
私は、神智学に出会う以前から、これらの仏教理解においては特に何ら変わりがありません。
私の投稿を見て感じる自分の無知を勝手に神智学のせいにしないこと。
384 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/03(木) 07:31:01 ID:iz/anjJ9
>>276 >その神霊って夜叉(ヤクシャ)じゃね?見覚えのある訳語だなとおもって
>岩波文庫の「ブッダのことば」読み返したら38、43、59ページに「神霊(夜叉)」とある。
神霊でも夜叉でも、そんなことはどうだっていい・・・。重要なことは、ここで出現した何者かは、『そのわ
たしは、人間の王(マガタ国の王)としてそこから没して、いま天の中で人間ならざるものの王となってい
るのです』といい、つまり、生前はマガタ国の王だったが、死んでからは天界にいると主張していること。
そして、『ここから七度、またそこから七度、あわせて十四回の輪廻を繰り返しつつ、わたしが経てきた
前世の、暮らした場所のありさまを、わたしはよく知っている。尊師よ、わたしは、長期にわたり、悪い場
所に堕ちることのなかったものであります。・・・わたしは〈一度だけもどってくる者〉〔一来者〕になりたいと
願い続ているのです』ということで、この中で「転生回数」(これを輪廻と呼んでいる)と、そして「前世」の
こと、更には「一来」という境地について明確に言及している点です。
この「一来」というのは、四向四果(四沙門果)の修行者レベルにおける「斯陀含」(シダゴン)の境地をいい、
三結(身見・戒取・疑)を断じて貪欲・瞋恚が薄らいだ状態を指す。この段階の修行者は更に、天上界と
人間界を一回往復してニルヴァーナに到達すると仏典は説く。
つまり、幽霊どころか・・・仏教にとっての重要が事柄が全部ここには記されている。
385 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/03(木) 07:43:59 ID:iz/anjJ9
>>341 >詳細は無理でも、どのような方向で、論証していくか位は提示できるはずだ。
>>342 >何度も言うが、「根拠はある」と断言するなら、普通、論証の概略ぐらいは頭の中にあるだろ?
だから、
前世の記憶を語るケースや記憶回復の施術(前世療法などの精神医療)
による前世の内容について、その真実性の確認する検証作業で、
見事に前世の存在を肯定せざる得ない事例が確認されていると、私は述べてきています。
エーと、セブンも読んだというのはどの著作だっか?
この私もイアン・スティーヴンソン著を1冊入手したところです。
今、「前世」話は一つの流行なので色んな書物が出回っている中では、私にはコレが良さそうに映りましたから。
これは前世が証明されたとする強力な事例二つについて詳細な記録が掲載された書物です。
『前世の言葉を話す人々』(春秋社刊)。
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/7-3.htm
386 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 08:45:02 ID:o1bHnOa2
>>380 >それでは竜樹は? こいつも誰かが創作した架空の人物か? もし、
>そうではなく実在した人物であるとの見解ならば、その理由は?
開祖・教祖に対する異常な個人的愛着心・執着心丸出しだな。それが
狂信者の病的心理であることを自覚せよ。
知覚の記憶さえ伝達されていない大昔の人間の実在・非実在を論じて、
一体どんな意味があるのか。伝記も、大半は創作であると考えるべき。
私は、伝釈迦、伝イエス、伝竜樹と信者が信じて止まない文献に基づいて
論じている。彼等に対する個人的愛着など皆無。
信者たちの、実在さえ疑わしい開祖・教祖に対する個人的愛着心は、もはや
生理的。性欲の一変形であると解している。オウム信者の麻原に対する
生理的愛着心と何ら変わりはない。宗教が、開祖・教祖の狂気の感染に
よる「感応精神病」以外の何物でもないことを、如実に証明している。
387 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 08:57:24 ID:o1bHnOa2
釈迦は、生まれるとすぐに、「天上天下唯我独尊」と言ったそうだな。 これだけでも、釈迦の伝記が「真っ赤な嘘」であることが自明ではないか。 いい大人なのだから、いい加減で「創作上の架空の人物」に対する異常な個人 的愛着心から離脱せよ。宗教とは、まさに「狂気の世界」であることを自覚せよ。
388 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 09:13:53 ID:now1y6bH
>>384 要点をずらさないように
>夜叉というのは超自然的存在ではあるが、そういう
>「生き物(生類)」であることに変わりない。
>転生もせずに死んだまま霊魂(幽霊、浮遊霊、憑依霊)がうろちょろするのとは違う。
>なのでここで挙げる例としては不適切。 (
>>277 )
ところで神智学では「業報」の基準がやけに人間視点なことの理由付けってあんの?
>>386 まったく論点を取り違えているな。
これまでの実在論議の文脈からすれば「愛着心・執着心〜」なんて言いがかりは出てこない。
現在進行形で自分が参加している議論さえ踏まえないなんてどんだけだよ。
389 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 09:21:02 ID:o1bHnOa2
>>388 宗教ですでに狂わされた人間が、何を言っても無駄。論理など皆無だから、
「論点」などありえない。
>>389 あのさw
アンタ 人間が社会の動物だってわかってる?w
>>385 >見事に前世の存在を肯定せざる得ない事例が確認されていると、私は述べてきています。
それについて反論したら、お前さんが再反論できずに逃げ出したのを忘れたのか?w
その方向性は捨てたと思ったんだが、ほとぼりが醒めたと思って、また同じ事を言い出すのか?
それとも、以前とは全く違った、新しい事例でも見つかったのか?
392 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 09:34:42 ID:o1bHnOa2
>>388 「釈迦の言葉だから」という理由だけでありがたがるのは、個人的愛着
心、執着心以外の何物でもないではないか。
「真理」とは、「誰が言っても真理」のことである。
393 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 09:43:22 ID:now1y6bH
>>389 なんでそうやって駄々をこねるの?
・化石やミイラのある恐竜やファラオはそれらが認識できるが故に存在する。
↓
・恐竜と違い、ある歴史上の人物(釈迦、イエス)は「推測」によって実在すると言われている。
↓
・竜樹はどうだ?もし架空でなく過去存在したとみなすなら、その理由は?
ちゃんと議論の流れがあって言われてるってのに
>知覚の記憶さえ伝達されていない大昔の人間の実在・非実在を論じて、
>一体どんな意味があるのか。伝記も、大半は創作であると考えるべき。
というだけで、答えない。つか、意味がないと思うなら仏教スレになんて来なけりゃいいのに。
創作が伝記にぶち込まれまくってるけど
それは「大半で」であって「そのものが、全体が」創作というわけでなく、
実在の人物の業績に肉付けをしたもの、というわけだ。
つまり、竜樹そのものは実在するんですね?
394 :
348 :2010/06/03(木) 09:53:56 ID:z2+l1/PA
>>353 >>392 そう論じるのは「未達」俗物隠居のイメージ=虚構でしかない。
「あるがまま」ではないのだ。』(
>>51 )
不生の一語に尽きている。(
>>54 )
実体がないのに否定などできるわけがない。
正確に「妄想」だと指摘しただけだよ。
その他すべて反論論破済みです。
もう壊れたレコードとおなじく被論破済みのセリフの繰り返しだけだよ。
時間の無駄だな。
>>386 おい隠居、いい加減にせいや。
>開祖・教祖に対する異常な個人的愛着心・執着心丸出しだな。それが
狂信者の病的心理であることを自覚せよ。
なんだ?これは。 俺は何度も何度も何度も繰り返し、言ってきたな?
何べん言っても覚えられないのか?ニワトリ隠居。
『俺は宗教とは全く関係ないの。だから、お前がいくらイエスや釈迦のこと
を誹謗中傷しようが全くお構いなし。好きなだけやれや。』
>>386 >>387 では、何の回答にもなってないことくらいは、お前の
小学生並みの知能でもわかるな?何とか、必死に俺を宗教者に仕立てて
逃げたいのはわかるが、そうはいかないの。
俺はイエスや釈迦には何の執着もないの。だから、お前がイエスや釈迦を
「歴史上存在しなかった架空の人物」としても別に何の問題もない。
いいぞ、それで。
俺が聞いているのは
『竜樹もイエスや釈迦と同じに歴史上存在しなかった架空の人物かどうか?』
を聞いているわけだ。 どうなんだ? お前が、『竜樹もイエスや釈迦と同じ。
歴史上存在しなかった、誰かが作り上げた架空の人物である。』というなら、
それでよし。 もし『いや、竜樹は実在した人物だ。』というのであれば、
何を根拠にそういえるのか?ってきいてるんだよ。
わかったか? 逃げずにきっちりと答えんかい。
それから、「恐竜」についてはどうした?
>>377 をよくよんで、はっきりと答えろや。
396 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/03(木) 10:41:27 ID:iz/anjJ9
>>388 >ところで神智学では「業報」の基準がやけに人間視点なことの理由付けってあんの?
具体的にお願いします。
例えばどんな部分ですか?
>>391 私はダメなどとは1度も認めてない。
ただ、これらの事例が証明されたとはいっても、
まだ残念ながら、その発表先が心霊協会(心霊科学の研究分野)あたりに留まっているようです・・・。
偶然や偽証を超えた現象が確認されても、ではそれが何故、どのようにして起こるのか?
そのメカニズム部分にまで、論理的な仮説と論証が添えられないと
どうもアカデミー世界では評価されない傾向がありますから。
397 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 10:46:50 ID:now1y6bH
>>396 >例えばどんな部分ですか?
つ
>>276-277 それとも、仏教やヒンドゥーと違って神智学では
転生先を決める業報基準は「道徳的」にはなっていないのかな?
398 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/03(木) 10:55:13 ID:iz/anjJ9
>>397 業報とは、人の行為にもとづくものですから、当然、それは道徳と重なります。
ただし、俗世間の価値観とは完全に一致しないでしょうが・・・。
>業報は業報でも「死んだときの時刻が昼だった」「魂が宿っている肉体の血糖値がコレコレの数字だった」
>のほうが「自然」に見える。人間的な「作為」が感じられないから。
>温度によってワニの卵から孵る子ワニの性別が変わるけど、あんなイメージ。
>>276 無関係でしょう。
「自分」の行く末ばかり気にする業報輪廻転生論は、 取引動機の我執エゴイズム論であり、謀略陥穽論です。 それに反し、縁起にのみ生きる釈迦仏教の自他不二縁起は、 不一不二でエゴイズムが入る余地がない全一のあるがまま=慈悲のみです。
400 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 11:06:45 ID:now1y6bH
>>398 >業報とは、人の行為にもとづくものですから、当然、それは道徳と重なります。
「当然」で大きな飛躍がある。行為と道徳はそりゃ重なる。道徳とは行為への評価だからだ。
だから「俗世間の価値観」といっても各文化によって内容に違いが出てくる。
しかし(業報のような)宇宙・世界の法則は道徳とは関係が無い。俗世間やら「既存の歪曲された」りしてる宗教とは
関係なく存在し、世界を律する法則として転生先を左右しているわけだ。
>無関係でしょう。
仮定としてあげたものであって、これが真理だ!と言おうとしてるわけではないよ。
宇宙とか生物のように自然発生し、意思の介在しない形で生成・進化がなされてきたとするなら、
「人間の感覚に重なっているほうがおかしい」という意見なわけだ。
重なっているとすれば「人間的な意志を持つ創造主」的なものが介在していると
考えるほうが筋が通っているのではないか、と述べている。
401 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/03(木) 11:13:07 ID:iz/anjJ9
>>399 >「自分」の行く末ばかり気にする--中略--
>謀略陥穽論です。
そうではなくて、
原因と結果についてを淡々と示すものですよ。
>縁起にのみ生きる釈迦仏教の
縁起というのは、現象界のあらゆる事象に当て嵌まるメカニズム論です。
しかし、業報はその中の人為的な結果による作用と反作用の性質を説くものです。
402 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 11:16:53 ID:now1y6bH
鹿を射て殺すのと、人を射て殺すのと、 やることが同じでも殺す相手によって転生先が違ってくるのなら、 それはなぜだろう?
403 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/03(木) 11:26:44 ID:iz/anjJ9
いいたい意味はわかりますよ!
>重なっているとすれば「人間的な意志を持つ創造主」的なものが介在していると
>考えるほうが筋が通っているのではないか、と述べている。
しかし、重なっていたのだからこれはショウガナイ。
“そこが神秘”ということですよ。諸宗教ではそこの神の存在を見るわけだし、
仏教では、これを単に宇宙の法(ダールマ)であると説く。
・・・そんなこといったら、
もともと単なる有機物の塊で物質の構成でしかないこの肉体が、
意識を持って、「あーでもないこうでもない」と2chで投稿(喋ること)してること自体が神秘そのものでしょ!!
どう、違いますか?
無機物と生物(生命)の違いを説明できますか?
見た目上は、同じただの物質に過ぎない。
>>402 ぶっちゃけ、同じ生命体でも尊さに差があるからですよ。
植物→動物→人間ということ。
けれども、ニラ(植物)を煮だった鍋に放り込むのと、
生きた子猫を放り込むのも同じだ(生命として平等)などという愚か者は、この私は相手できないね。
404 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 11:36:49 ID:now1y6bH
サーリプッタとモッガラーナに悪意を抱いて死んだコーカーリャは
紅蓮地獄に落ちちゃったわけだが、仮に隠居uzeeeee!!と思いながら死んだら
俺も紅蓮地獄に落ちるんだろうか?落ちるとしたら、どのへんの基準が
噛み合って落ちるんだろうか?落ちないとしたら何が行き先を変えるんだろうか?
>>403 >しかし、重なっていたのだからこれはショウガナイ。
「人間の道徳風業報基準」を支持する人の存在は知ってるし、
その考え方がある事を踏まえたうえで、どういう成り立ちでそうなっているのか、
という説明が(教義・理論・説明原理として)あるのか、あるとしたらどういう内容なのか、尋ねたんだよ。
神智学にも無いってことでいいんだね。
>もともと単なる有機物の塊で物質の構成でしかないこの肉体が、
>意識を持って、「あーでもないこうでもない」と2chで投稿(喋ること)してること自体が神秘そのものでしょ!!
>どう、違いますか?
それはメカニズムを説明したり推測できるものだよね。
進化についても新しい自然変化に耐えられなかったやつが絶滅し、
どうにか対処できたものは生き延びて、遺伝子の分布からまたより分けられて……
という流れを説明できる。
>無機物と生物(生命)の違いを説明できますか?
>見た目上は、同じただの物質に過ぎない。
線引きをするとしたら、ある基準を定めることになるけど、
それは確認できるものになるよね。
405 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 11:44:47 ID:now1y6bH
>ぶっちゃけ、同じ生命体でも尊さに差があるからですよ。 その「尊さ」ってなに?イーシュワラから見たお気に入り度の違いかな。 そうでないとしたら、自然の法則として挙げるのは無意味だ。 「尊さ」のような価値判断を自然現象・法則に反映させる存在がいないんだから。 >けれども、ニラ(植物)を煮だった鍋に放り込むのと、 >生きた子猫を放り込むのも同じだ(生命として平等)などという愚か者は、 生きた子猫を鍋に放り込むことは駄目だが、ニラを煮るのはおk、という【価値判断】と 生きた猫だろうがニラだろうが生き物を鍋に投げ込めば行き先はそれなりの地獄になる、 という【自然法則】は両立する。 やったことで天界に生かされようが、地獄に落とされようが、 同じ善行の価値が左右されるとは俺は考えないな。これも価値判断だが、 自然現象とは別個にあるもの、ということの一つの例だね。
406 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 11:58:56 ID:YulF9GeJ
>>395 「宗教とは全く関係ない」といいながら、宗教批判や一部の宗教に対して何故
それほど執拗に反発するのか。竜樹の実在・非実在が何故それほど気になるのか。
宗教信者とは、自分の宗教の「真理」が一般社会にも通用すると信じて止まない
者のことである。宝珠の宗教も、「現実上の根拠皆無な妄想」という点では、
釈迦仏教、キリスト教と何ら変わりはない。立派な宗教だ。
私は、「人類の諸悪の根源としての宗教」を撲滅するために書き込んでいる。
君が、本当に「宗教とは全く関係ない」のなら、書き込みは一切止めてくれ。
スレの邪魔だ。
竜樹の知覚の記憶の伝達が存在しなければ、竜樹は架空の人物。中論は知覚できる
から実在。従って、中論は竜樹以外の誰かが書いたことになる。
恐竜の骨は知覚できるから、実在。恐竜の全体像は、知覚の記憶の伝達がない
から、非実在。骨から、恐竜の全体像を「空想する」のは自由である。しかしそれは
あくまで「空想上・架空の」恐竜像であり、実在ではない。
>>401 >原因と結果についてを淡々
原因も結果も勝手な世俗二項相対判断であり評価価値判断だ。
あるがままではない。
>>403 >ぶっちゃけ、同じ生命体でも尊さに差がある
二項相対の無明そのものだな、神智学とは。
俗物世俗「価値の観念」に捉われっぱなしだ。
愚かすぎる。
だから俗物世俗「価値の観念」のヒンドゥカーストも支持する。
>無機物と生物(生命)の違いを説明できますか?
分子生物学の知見では分子レベル、原始レベルではいわゆる生命体なるものの組成は
短時間で入れ替わっており、「実体」などと呼べるものは何もない。
そこにあるのはダイナミックな「流れ」だけである。(シェーンハイマー「動的平衡」)
まさしく、現代最先端科学知見=一切においては未練たらしい「非我」などではなく、
端的に「無我」そのものなのである。
シェーンハイマー「動的平衡」論および釈迦仏教においては、 神智学宝珠、生命根源教隠居の両者は愚かな迷妄者として、 全面却下される。
409 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/03(木) 12:12:14 ID:iz/anjJ9
>>404 >サーリプッタとモッガラーナに悪意を抱いて死んだコーカーリャは
>紅蓮地獄に落ちちゃったわけだが、
聖者に対する悪意はより相乗的に罪深いもの戒められています。
これは本当に事実かもしれないし、またある意味では脅しの意味合いも含むかもしれません
(聖者に対する尊崇の念と信仰心から繰り出される不届き者への戒め)。
私にもこれは分りませんが、一応、聖者への不要な不敬態度は慎むようにしたいものです。
>落ちないとしたら何が行き先を変えるんだろうか?
相手が誰ということだけではなくて、
自分が抱く憎悪感情の強大さの如何が自らを縛りつけて、
それが更に自身を苦しめる羽目になるということ。
最後の、死去の間際に抱く感情の持ち方が、
当人の死後の在り方にとっては非常に重要な事項であると神智学では教えています。
キリスト教徒などは、最後の瞬間に神父の祝福を得られないと天国に行けないと信じていますから、
本当に必死です。実際、何らかの事情で神父が来られなかったら、やはりかなりマズイことになるでしょうね。
当人の死に方の感情状態としては。
>神智学にも無いってことでいいんだね。
ここでやっていいの?www
とはいっても、これは神秘なので、やはり大した説明にはならないと思う。
神智学では仏教の姿勢も認めつつ、“ロゴスの意志と御径綸”に拠るものと説きます。
410 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/03(木) 12:14:17 ID:iz/anjJ9
>>405 >その「尊さ」ってなに?イーシュワラから見たお気に入り度の違いかな。
そのような感情的な意味合いではないです(聖書信者たちのような人格神信仰とは異なる)。
すべては進化の法則と進化の過程、及びその結果次第です。
進化を阻害するものが悪しき行為、進化を促進するのものが尊ばれる行為です。
これが“すべての基準”です。
相手の進化を阻害せず、より進化したものを尊ぶその結果です。
これが法則(ロゴスの御径綸)に沿ったものだからであり、
好き嫌いの感情の問題ではありません。
これ以上はココでは無理です。
411 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 12:15:03 ID:now1y6bH
>>409 >キリスト教徒などは、最後の瞬間に神父の祝福を得られないと天国に行けないと信じていますから、
ソースよろ
>ここでやっていいの?www
長くなるなら神智学スレで。
412 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/03(木) 12:17:00 ID:iz/anjJ9
413 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 12:25:02 ID:YulF9GeJ
>>51 >自己=「生命」とはDNAによる自己保存本能=生存欲を中核とする
>妄執と執着(我執=煩悩)によって仮構されて現象しているイメージである。
>そこに実体があるわけではない。
それがあるがままの人間なら、それを「仮構」だと判断する根拠はなにか。
釈迦が「煩悩と執着にまみれたあるがままの人間」を、仮構とすることこそ、
「あるがまま」が見えない、俗物ではないか。一体何を考えているのか。
生命(生命現象を現している肉体)は、「すべての人間」が「自分自身」で
有しているもの。「超越」「形而上」とは対極にある、現実中の現実。生死
は、盲人でない限り、万人に認識可能な事実。「不生不死」などを口にすること
こそ「仮構」の典型。竜樹の言ってるのは、「関係性」という抽象観念は、
不生不死だといってるだけで、現実に出生や死亡がない、などと言ってるのは
ないのだよ。何を勘違いしているのか。
君の釈迦仏教による洗脳は、特に深い。そんな説教をやったら、檀家は間違い
なく逃げ出す。君のような狂信者のお陰で、他のマトモな宗教者まで批判される
という結果が生じていることを自覚せよ。
もはや抗精神病薬による治療以外には、治療の方法はないと思われる。釈迦の狂気は、
実に根深いことを痛感させられる。
>>396 >私はダメなどとは1度も認めてない。
ああ確かに、単に、「反論に答えられなくなって逃げ出しただけ」だから、「認めてない」なwww
>偶然や偽証を超えた現象が確認されても、ではそれが何故、どのようにして起こるのか?
>そのメカニズム部分にまで、論理的な仮説と論証が添えられないと
>どうもアカデミー世界では評価されない傾向がありますから。
そんな事は無い。
単に、偶然や偽証の可能性が排除されてない情報しか存在していないだけだ。
科学界で、既存の論理で説明が出来ない現象(論理的な仮説と論証が添えられていない現象)が見つかったら、
無視するどこか、逆に、大喜びで飛びついて、喧々囂々侃々諤々と、論理的な仮説を編み出し始めるよ。
心霊協会(心霊科学の研究分野)で、「偶然や偽証の可能性が排除された現象」が発表されているというのなら、
是非提示してくれ。
言っておくが、もちろん、「どのようにして偶然や偽証の可能性を排除したか」が一番重要な情報だぞ?w
>>412 >相手できないからw
おまえは論破済みだから当然だろうなw
釈迦仏教において、「超越」論という二項相対比較でやっと成立する観念など
論破済みだ。
例えば
>>146 >>163 インチキばっかりやってないで、妄想ロマンチストは消えたほうがいいよw、
10氏との宿題を提出するまで。
417 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 15:13:50 ID:V87GMwC6
>>407 >分子生物学の知見では分子レベル、原始レベルではいわゆる生命体なるものの組成は
>短時間で入れ替わっており、「実体」などと呼べるものは何もない。
>そこにあるのはダイナミックな「流れ」だけである。(シェーンハイマー「動的平衡」)
釈迦に、そんなことが念頭にあったとでも思うのかね。盲信故の大した買い被りだ。
その「動的平衡」全体を、「生命(生命現象を表している肉体)」と呼ぶのだよ。
418 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 15:20:04 ID:V87GMwC6
>>415 >彼岸に達したら、すべての筏(仏典は当然、釈迦自身さえも導師として筏=手段だ)を捨てよと教える
>釈迦仏教は絶対カルトたりえない。
その彼岸に達する前に精神に変調をきたし、此岸には戻れなくなっている。
筏を捨てるまでもないw。このスレからも明白。
419 :
アントニオ・インキョ :2010/06/03(木) 15:20:43 ID:P8n1gTqS
生命唱えてますっかぁっ!!!! 生命唱えれば何でもできる!! メシア救世主インキョ師のお言葉に間違いないと信ずべきである。 一神教の様に、代わりに。
420 :
アントニオ・インキョ :2010/06/03(木) 15:23:15 ID:P8n1gTqS
生命唱えてますっかぁっ!!!! 生命唱えれば何でもできる!! メシア救世主インキョ師のお言葉に間違いないと信ずべきである。 一神教の様に、代わりに。 メシア救世主インキョ師のお言葉を信じられないのは釈迦仏教に洗脳されているからである。 もはや抗精神病薬による治療以外には、治療の方法はないと思われる。釈迦の狂気は、 実に根深いことを痛感させられる。
421 :
アントニオ・インキョ :2010/06/03(木) 15:28:14 ID:P8n1gTqS
生命唱えてますっかぁっ!!!!
生命唱えれば何でもできる!!
偉大なるメシア救世主インキョ師のお言葉
392 :神も仏も名無しさん:2010/06/03(木) 09:34:42 ID:o1bHnOa2
>>388 「釈迦の言葉だから」という理由だけでありがたがるのは、個人的愛着
心、執着心以外の何物でもないではないか。
「真理」とは、「誰が言っても真理」のことである。
偉大なるメシア救世主インキョ師のお言葉の解説。
すなわち、偉大なるメシア救世主インキョ師のお言葉信じない者は
「釈迦の言葉だから」という理由だけでありがたがるのであり、個人的愛着
心、執着心以外の何物でもないではないか。
すなわち、偉大なるメシア救世主インキョ師のお言葉信じることが、「誰が言っても真理」のことである。
>>406 >スレの邪魔だ。
笑わすなよ、クソ隠居。 スレの邪魔なのではなく『お前の邪魔』なんだろうが?
>竜樹の知覚の記憶の伝達が存在しなければ、竜樹は架空の人物。中論は知覚できる
から実在。従って、中論は竜樹以外の誰かが書いたことになる。
はい、了解だ。『竜樹ってのは、歴史上存在しなかった人物。
誰かが作り上げた架空の人物である。よって、中論も竜樹ではなく、他の
誰かが著したものである。』
これがお前の見解なわけだ。 うん、新説だな。
自分で言ったことだ。忘れるなよ。
さて、恐竜だ。 どうもお前は知能が低くて論点が把握できないようだな。 よって、問いの形式を小学生でも理解できるように変えてやろう。 「恐竜の骨」 これは、お前も実在と認めているわけだ。 さて、これは何かな? 世界中で発見されている「恐竜の骨」と呼ばれる 物質は何なだろうか? お前を除く世界中のほとんどの者は、これを「かつて地球上に存在した生物の 身体を構成していた物」と認識しているんだ。 そこで問題だ。 @『現在までに世界中で発見されてきた≪恐竜の骨≫といわれる物質を お前は、「かつて地球上に生息していた生物の身体の一部分である」と 推測するのか?』 Yes か No のどちらかで答えてもらおう。択一だ。 これなら、小学生並みのお前にも適切に回答できるだろう。 そして、第二問だ。これは@で No を回答したときに限るが A 『NO であるならば、 ≪恐竜の骨≫ と言われる物質をお前は何で あると考えるのか?』 これは具体的に記述せええよ。 例えば、「ある岩石の一部が変質して、できた鉱物である」とか「誰かが 皆をからかってやろうと考えて、製作し地中に埋めていた物」とか「宇宙からの 飛来物である」とか、まあ、いろいろあるわな。 さ、逃げずにきっちりと答えろよ。 まさかとは思うが、YesとNO の意味は知ってるな?
424 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 15:42:24 ID:V87GMwC6
>>423 既に述べたように、通常の頭脳があれば前レスから回答が引き出せるような愚かな
質問には答えないことにしている。貴重な時間の無駄だ。
425 :
アントニオ・インキョ :2010/06/03(木) 15:43:26 ID:P8n1gTqS
生命唱えてますっかぁっ!!!! 生命唱えれば何でもできる!! メシア救世主インキョ師のお言葉に間違いないと信ずべきである。 一神教の様に、代わりに。 メシア救世主インキョ師のお言葉は世界の真実よりも先行してある。 インキョ師聖書にある、 「初めにインキョ師の言葉があった、 インキョ師の言葉が世界を構築した」 すなわち、メシア救世主インキョ師のお言葉は世界の真理を創造するのであり、 メシア救世主インキョ師は創造主であり、 それ故に、 偉大なるメシア救世主インキョ師のお言葉信じることが、「誰が言っても真理」のことである。 と言う意味なのである。 また、偉大なるメシア救世主インキョ師は創造主であるがために、 下等な宗教者達に回答する、しないの主権、権力、裁量権をもっている。 下等な宗教者達は、偉大なるメシア救世主インキョ師のお言葉に反することを許されないのである!! 偉大なるメシア救世主インキョ師のお言葉信じよ!!!!
>>386 しかし、アホ丸出しだなw
ここで、仏教について述べている者の殆どは、
発言者←(伝承者)←(翻訳者)←文献←解説
矢印に沿って、(或いは時には引き返しをしながら)、理解し、把握し、評価し、讃しているんだよ。
「その上での」、伝承者及び発言者への【敬意】だよw
「文献」をすっ飛ばして発言者へアプローチしている者は誰も居ない。(〔極一部〕の者を除いてねwww)
スッタニパータすら読んだことなく、
中論も全頌でなく概説のみ、解説書のみで大言壮語している君こそ、滑稽の極みじゃないかね?w
「文献をすっ飛ばして龍樹を釈尊の上位へ置く」、
「文献をすっ飛ばすから、シャカムニと龍樹に通底する部分が見えない」。(そここそが仏教の核なのにw)
君の姿勢こそ、≪【文献に基づかず】w、発言者(龍樹)への妄讃に終始する≫典型じゃないかね?w
いったい、どこが文献に基づいてるんだか・・・w
(しかも、「(原典どころか)翻訳(漢訳)すら当てにならん」とか何とかほざいてもいたな、そう言えば・・w)
>>392 >「釈迦の言葉だから」という理由だけでありがたがるのは
だからw
どこに、そんな短絡馬鹿が居るんですか?とw
『「内容」の「吟味」「理解」の上での』採用・依拠・指針、文字通り「テキスト」だよ。
少なくとも君みたいに【「内容」を知りもしないうちから判断】したりしないw
>>424 おいおい隠居〜〜〜〜〜、それは完全な敗北宣言だろ?
前にも言ったが、お前も2ちゃんが長いんだから、
「それはすでに回答済み」ってのが、「反論できずに逃げ出す奴の
決まり文句、捨て台詞」だってことくらい承知してるだろうが。
みんなが見てるぞ。いいのか?(笑)
ちなみに
>通常の頭脳があれば前レスから回答が引き出せるような愚かな
質問に・・・・
はい、ここでいう「前レスから引き出せる回答」ってのは何?
「通常の頭脳であると思っている自分」には、
>>423 の@には
Yes しか回答が思い浮かばないんだがな。 しかし、お前は
なにしろ「通常の頭脳の持ち主」ではないので、あえて聞いている
んだがな。 とんでもない回答をして、また笑わせてくれると期待
してな。 んで、どっち? Yes? No?
それとも、回答できずに逃走か?
あ、一箇所変え忘れてた・・。まあいいか・・w
430 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 17:03:36 ID:ZmupDSEH
>>430 だよねぇ・・w
たとえば「集団(≒共同体!)の存続維持」という点に関しては、
蜂や蟻の社会性の方が、遥かに、無駄なく、効率的効果的に機能してるよね。
人間がひどく愚かな生物に思えるwww
※ただ、やはり重要なポイントは、
「意思・意志」とか「向上或いは余剰(過剰?)な利益を求める」といった
『複雑な(―コンプレクスとは良く言ったもんだw―)精神作用、心的変動』の有無、
ってことになるのかな。仏教で意業が設定されているのも、
そうした点への着目かもしれない。
或いは、「個(≒自我)」という概念、「『私』という想い」を持ちうるかどうか、という所かも。
ま、いずれにしろ「人間中心」であることに変わりはないが・・・。
ああ、だから、 「御隠居理論」に従えば、《ハチやアリは悟ってる》ということになるわけだな。 人間なんかよりも、遥かに(精神的に?w)完成された、 《「大乗仏教の精髄」を見事に「体現した」存在》なわけだ。 よし!みんな! これから、ハチやアリを拝むことにしよう!www
>>417 >釈迦に、そんなことが念頭にあったとでも思うのかね
思わざるを得ないね。もっと先を見ているといっていい。
ブッダは右脳直覚であり、シェーンハイマーは左脳経験論だ。
2500年前のブッダの無常=無我の教えは、20世紀のシェーンハイマー「動的平衡」論の
もっと先にある。
スタティックな生命「根源」論は、ブッダの『無常』、シェーンハイマーの『動的』平衡論という
ダイナミックな把握のまえに完全破産していることは当然だ。
隠居の『根源』発想は、宝珠の『超越』発想とおなじ戯論そのものであって、妄想外道だ。
*実を言うと、ブッダのダイナミックな縁起の動的把握(無常)を、
龍樹がスタティックな静的『関係性』に矮小化してしまったことが
仏教の根本問題のひとつだ、ということを指摘しておこう。
我々は龍樹の屍を乗り越えるときが来るだろう。
434 :
前世は一在家 :2010/06/03(木) 23:25:18 ID:psbXMlbF
3人の説法者に対して常識のある現代人にアンケート するとしましょう。 (説法者A) 「死とは肉体から霊魂が離脱することです。あの世で修行した 霊魂が胎児に宿れば生まれ変わります。」 (説法者B) 「苦しみの原因は執着であり、その執着は欲から生じます。 このことをよく認識すれば苦しみから救われます。」 (説法者C) 「時間というものは無いのです。ビッグバーンも今も未来も みな同時に存在しております。」 アンケート用紙には、それぞれの説法者に対して、 「宗教者」、「精神異常者」、「どちらとも言えない」と三択の 中から記入することになります。 このアンケート結果は皆さんも容易に推測できるかと存じます。
435 :
407 :2010/06/03(木) 23:31:09 ID:z2+l1/PA
>>418 >その彼岸に達する前に精神に変調をきたし
「精神に変調をきたし」ているのは隠居は自分のことだと告白しているのだろうw
壊れたアナログレコードである所為だ。
隠居のスタティックな『根源』論は、宝珠の『超越』論とおなじく、
ブッダのダイナミックな無常=縁起論のまえに鎧袖一触で粉砕済みだ。
因果撥無の外道である。
消えろ。
436 :
407 :2010/06/03(木) 23:38:08 ID:z2+l1/PA
>>434 >アンケート結果
常識のある現代人とやらは全員間違っており、
3人の説法者全員の説法がアウトだということは判る。
437 :
少々粗いがw :2010/06/03(木) 23:39:38 ID:wDTbruIw
>>318 > 「現象界」から解脱し、
> “現象界を超越した境地”であるところのニルヴァーナに到達することを説いているというのに、
「解脱」という漢訳(≒漢字)に引き摺られてませんか?
《「輪廻」及び「苦」からの「解脱」、「“苦なる生存”」からの解脱》ならば、筋が通ります。
(涅槃の別称としての解脱は、まさに《そこを指して》称されているのでしょう。)
しかし、成道後45年間、釈尊は《現象界に居ます》。『釈尊は45年間「解脱」していなかった』と?
だから、≪場所的思考を抜け出ていない≫と指摘するのです。
「なぜ、涅槃が多くの別称を持つのか」、その意味を、もっとよく考察してみることです。
ウダーナに於いては「nissaraNa」と言われています。訳の多くは出離となっています。
語(訳語)自体を見れば、「解脱」と変わらないと反論されるでしょう。
しかし、mokkha、vimokkhaにしろnissaraNaにしろ、解放・放免でこそあれ、
「【現象界から】どこかへ」というものではありません。
(貴方が「意識の次元」という言い方をするのも、ここが引っ掛かるからでしょう?w)
あくまでも《苦(なる生存)、苦なる在り方からの出離》であると知られるべきでしょう。
また、貴方の言うようなことが主眼であれば、当然、
≪【その場面で(文脈で)】、最も適切な、ふさわしいニュアンスを持つ語が用いられたことでしょう≫。
そして、もし≪ >【現象界からの】解脱(≒出離) ≫と言うならば、
それは、《輪廻の終わりに際しての五蘊の滅》以外にはありえません。
だから、≪場所的思考を抜け出ていない≫と指摘するのです。
仮に、『意識のステージが高次に移行する』という言明を受け入れたとしても、
それは、≪【現象界を出た】ということではありません≫。
だから、【知られる(paJJAyati)】と言われるのです。
「来て、見よ、と言われるもの」(ehi passika)、「時を置かず【見られる】もの(akAlika)」と言うのです。
> もう1度、この中村氏の解説を読んでウダーナ8:3と対比してみることですよ。
8:1、8:2、8:4は無視ですか、そうですかw
438 :
少々粗いがw :2010/06/03(木) 23:41:09 ID:wDTbruIw
>>319 > ニルヴァーナは現象界を超越したものである、というのが
>>437 で触れたように、
「輪廻及び苦からの解放」であり『苦の終わり』であるところの涅槃は、
現象界とは別に「(どこかに)」「ある」というものではありません。
現象界を【抜け出て】、【そこへ】【行ける】というものではありません。
(これは、「意識(viJJAna、manas)・心(citta、ceto)」だろうが「身体(色kAya)」だろうが同じことです。
『ニルヴァーナ意識』と称したとして同じことでしょう。
ウダーナ8:1、8:2、8:4をよく味わうべきです。)
> 中村氏の説明のまさにその通りです。
爆笑もんですねw
中村さんは、『【貴方が発言しているような所】まで踏み込んでない』ですよ?文脈にも見当たりませんよ?w
また「いちいち記述がなくても、それくらいは自分で読み取ろう!」とでも言いますか?wwwww
そういうのを 〔御隠居読み〕(独断と偏見による勝手な妄想読み)と、世間では言うのですよw
> 五蘊に拠らずして永久に存続するのがニルヴァーナです。
> ただし、ニルヴァーナを感受できるもの(何かが)が必要でしょうね。
だから、『劣化版デカルト』だと何度も言っt
> それが“意識”(自己意識)ですよ。
だから、『劣化版デカルト』だt
≪【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】13
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1251241875/ 343、346、348〜351、354、367、369〜370、373、376、380〜381≫
を百億回熟読しとけw ((専ブラ用)URL集には後日しといてやるw)
439 :
少々粗いがw :2010/06/03(木) 23:42:13 ID:wDTbruIw
>>319 > ニルヴァーナを自覚(現象界からの出離を覚知)しているのは何???
> それは“意識(自己意識)”に他ならないのですよ。
仏教 議論スレッド その2
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1272850647/23 【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】13
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1251241875/ 343、346、348〜351、354、367、369〜370、373、376、380〜381
>>320 > ここで云う、「われわれ」とは一体、誰々を指すのかは分ります? もう面倒だから答えてしまいます
> が、当然、ここでいう“我々”とは、凡夫、及びまだ未完の者、即ち一般修行者たちのことですよ。
水野さんがそう言ってたんですか?w
私は、てっきり、この場合の「われわれ」は、『人間、人類、ヒトという生物』のことだと思ってましたwww
いやぁ、ミズノサンガ ソノヨウニ カンガエテイタトハ シラナカッタナァ・・・(棒読)
(それとも、覚者は人間ではなくなっちゃうんですかね?w)
> 彼ら(我々)はまだニルヴァーナにはないので現象界に座している。
釈尊も45年間現象界にいらっしゃいまいたよね?w
その五蘊は(識は)現象界に存続しましたよね?
貴方の言う「パーソナル意識」もそうですよね?(五蘊の識(或いは三蘊)の異称と考えていいですよね?)
さて、ここからがポイントですね。
(唯識は別として(いや、五蘊の識の延長と捉えてもよいだろうとは思うが・・))、
五蘊の識(或いは想・行・識の三蘊)の他に識(意識)を立て得るだろうか?
(特に、【仏教の文脈】に於いて・・・。)
440 :
前世は一在家 :2010/06/03(木) 23:47:52 ID:psbXMlbF
>>407 >分子生物学の知見では分子レベル、原始レベルではいわゆる生命体なるものの組成は
>短時間で入れ替わっており、「実体」などと呼べるものは何もない。
分子レベルまでいかなくても、細胞は生まれ変わっており、細胞レベルでは3年前の自分は
存在しないでしょう。
でも、貴兄には3年以上前の記憶もあり、性格もそれほど変わっていないでしょう。
つまり、個人の存在を細胞や分子にてモデル化すること自体が間違っているという
ことでしょうか。
441 :
前世は一在家 :2010/06/03(木) 23:53:25 ID:psbXMlbF
>>440 遺伝子が同じ一卵双生児の間で優位な知能指数差がある場合に、
育った環境が異なるという言い訳を分子レベルの信奉者はする
のでしょうか。
兎に角、肉体的な類似性に比べて、精神的な差異が大きいようです。
442 :
少々粗いがw :2010/06/03(木) 23:56:49 ID:wDTbruIw
>>320 > 従って、我々が知り、理解できる範囲とは現象界のものに限られるのです。
> 要するに、これを超えたものについては所詮、理解できないので説明を避けたのです。
> それが無記の姿勢というものです。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1260569824/233 &「師の握拳」。
> 我々には感受できないし
感受できないものを、どうして【我々が】知り得ることがあろうか。
>>325 > はいはい、・・・・・・ というご批判でしょう?
そうではありません。
『 >【いかに】あるか 』という部分が、≪貴方の言う『ニルヴァーナ意識』なるものにも適用される≫
ということです。(だから、
>>279 前半の問いとなる。)
一言にまとめて再度問うておきます。 「『ニルヴァーナ意識』とは『所縁のもの』ですか?」。
> ただ私は詭弁が嫌いなのです。それは明確にしなかった(説かなかった)だけのことでしょう。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1260569824/233 &「師の握拳」。
> もちろん、読んでいますよ!ここで最も重要な解説は、無為とは「永遠」(の存在)だということです。
> 私は何も「有」として述べているわけじゃない。「有」の概念で述べたことは1度もありません。
上記「『ニルヴァーナ意識』とは『所縁のもの』ですか?」という問いをここでもすることになる。
「『ニルヴァーナ意識』とは『無為なるもの』(或いは無為という領域に属するもの(≒概念))ですか?」
> 水野氏が「客観的事実」としてではない、という解説をしていることについても理解しています。
> 客観的事実とは現象世界の概念だからです。客観的には捉えることができないのが無為、
> すなわちニルヴァーナなのですから。これは主観によって体験する世界なのです。
だからw
「無為」は(現象界と比肩し得るような)『世界』ではないでしょう?(←これは少し「表現の揚げ足取り」であることを認めようw)
443 :
前世は一在家 :2010/06/04(金) 00:00:46 ID:ZMKZVDDF
精神病患者に対して薬物によりニューロン間の伝達物質に 影響して治療することを説く人を見かけます。 昔から薬物に頼らずに、お酒で思考がハイになることは 分かっておりますので、プラシーボ効果を期待するのであれば お酒を薬だと言って使った方が人体に害はないのではと思います。 本スレでは名無しさんが、精神病用薬の実態について暴露されて ましたが、まったく同感です。 私の家族は精神科医なので、強い薬の話は良く伺っておりますよ。
444 :
神も仏も名無しさん :2010/06/04(金) 00:07:11 ID:OG/asjls
>>433 釈迦の「縁起」は、単なる「因果関係」である。石飛さんも、はっきり
そう言っている。そこには「平衡」という観念は見当たらない。「業報論」を
導き出すための布石に過ぎない。
「動的平衡」は、「自己複製可能性」と共に生命(身体)の特徴であるが、
釈迦は、生命・身体共に否定している。
むしろ、竜樹の「相互依存性・関係性」のほうが、「刹那」における
平衡状態を表している。「動的平衡」とは、刹那における平衡性の集合
である。
>>440 動的「平衡」の意味を理解してないなw
例えば、川は、常に水が流れていて、部分部分の水に着目すると、5分後には、視界の中の水は全て入れ替わっている。
だが、全体で見ると、5分前の川の姿と、それほど変わっていない。
この状況をみて、
「外見がそれほど変わっていないということは、川の流れを、水にてモデル化すること自体が間違っている」
と言えるか?w
>>441 狼少女の例を知らんのか?
人間の場合、遺伝的要因よりも、環境要因のほうが遥かに大きい事は明白だと思うがね。
知能だけでなく、肉体的にも、環境によって一卵性双生児でも大きな差異が出る。
「霊的な要素」を持ち出す必要は全く感じないんだがね?
>>443 >昔から薬物に頼らずに、お酒で思考がハイになることは
>分かっておりますので、プラシーボ効果を期待するのであれば
>お酒を薬だと言って使った方が人体に害はないのではと思います。
エタノール(お酒)が、「精神薬である」という認識が無いのか?w
それから言っておくが、精神病用薬全般が役に立たないといったんじゃないぞ?w
「うつ病治療薬」が、役に立たないものなんじゃないかと指摘しただけだ。
448 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/06/04(金) 03:11:00 ID:RELz14eu
>>440-441 前世一在家氏
閻魔大師の引用したシェーンハイマー「動的平衡」とやらは、あくまでも、分子生物学
的局面について無常=無我を述べたものにすぎません。要するに、色蘊の無常=無我の
みです。仏教では、あなたのおっしゃるような、精神的要素も、受・想・行・識の各蘊
として個体の構成要素として認めています。すなわち「五蘊」です。その上で、五蘊の
一切を、無常=苦=無我として見ます。
ですから、五蘊のうちの一部だけを取り上げて、「個体とは色蘊に属するものである(
唯物論者)」といったり、「いや、個体とは、色蘊ではなく識蘊などの精神的要素に属
するのである」というような、そういうやりとり(論争)は、仏教的には無意味です。
この点でも、仏教は(本来)「論争から離れて」います。このスレでの御隠居(唯物主
義)と、それに(相当の熱意をもって)論争する人々が、双方ともに、非仏教徒同士で
あるケースが目立つという事実は、一考に値するかもしれません。それらは、五蘊の中
のどの蘊に重きを置くかという争いであり、六処のうちの五感と意のどちらに重きを置
くかという境界線争いです。(本来の)仏教の思想は、五蘊全体を、六処全体を、現象
としては「あるがままに」その有意性を認め、その上で、それらから厭離することを目
指すものです。論争からも離れていますし、両極端から離れている(中道)というのも
そういうことです。
449 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/06/04(金) 03:29:59 ID:RELz14eu
>>287-291 でセブン氏が御隠居から引き出したやりとりから、御隠居の(常識教の)
「大人(おとな)の叡智」というものは、心的現象すなわち「意処」における《くま
のぬいぐるみ》に「話しかける」代わりに《俺の生命》に「『ありがとう』と独り言
を言う」と置き換えただけのものだということがわかりました。いずれにしても意処
の現象を前提とした行為です。
仏教でいう「大人(たいじん)の叡智」というのは、
>>448 で述べたように、五蘊全
体を、六処全体を現象としてあるがままにその有意性を認めること(その上でそれら
から厭離すること)による、論争・両極端から離れた立ち位置、醒めた眼で眺める状
態、それを仏教では「賢い(大人)」と考えます。
450 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/06/04(金) 03:59:54 ID:RELz14eu
>>448 にさらに加えて言うならば、なぜ、五蘊や六処のうちの境界線争いを
(唯物論者と神霊論者という)非仏教徒同士が繰り広げるかというと、彼ら
はいずれも、我(実体・アートマン)に執着しているという点では、同じ(
穴のムジナ)だからです。
執着しているから、その執着している我の有る場所に、非常にこだわってい
ます。だから、色蘊に我があると主張する唯物論者を、識蘊などに我がある
と考える神霊主義者は認められませんし、その逆もしかり、です。
基本的に、我に執着しているので、色蘊に我があると思う人間は、断滅論に
なり、識蘊などに我があると思う人間は、常住論になるのが普通でしょう。
我の執着が根にあるので、色蘊に認識が偏重しており(唯物思想傾向が強く)、
断滅論的傾向が強い人の場合は、私のように「無我を前提とした」輪廻肯定
を述べても、我の執着の強いゆえに、我を前提とした輪廻論にしか想起でき
ず、我を前提とした輪廻論を唱える者と同じにして批判したくなるようです。
我見というのが無明であることの好例です。
451 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/06/04(金) 04:32:51 ID:RELz14eu
>>448-450 補正
一説には、我見(有身見)というのは預流果に達して初めて消えるとされているもの
なので、仏教徒でも、預流未満の凡夫の場合は、我見に由来する誤った見解を持って
も不思議ではありません。仏教徒の方も当然いらっしゃると思うので、私自身を含め
て、物質論と精神論の境界線を巡って論争したら「その人は仏教徒ではない、非仏教
徒だ」というのは酷ですね。ただ、私が言いたかったことは、本来そのような行為は、
釈尊の教えからは「外れた(非仏教的な)行為だ」ということです。
452 :
神も仏も名無しさん :2010/06/04(金) 06:43:56 ID:bBzWqM4y
>>445 >「外見がそれほど変わっていないということは、川の流れを、水にてモデル化すること自>体が間違っている」と言えるか?w
喩えが簡単すぎて、喩にもなっていない。生物学における動的平衡とは、水だけでなく、
「無数の要素」が相互に絡み合う。その一断面を取ってみれば、竜樹の「相互依存性・
関係性」である。異なった一断面が無数に集合したのが、動的平衡である。川の流れの
一断面は水のみであり、そこには「相互依存(平衡)」は存在しない。
>不説氏へ
釈迦は、色蘊・識蘊はどこから発すると考えていたのか。
それらはすべて生命から発し、生命の維持に不可欠な役割を果たしている。それらの
否定は、己の生命の否定を意味し、本末転倒でナンセンスである。釈迦の「教え」は
基本的に誤りであるということ。
竜樹は相互依存を説明して否定しとるんだよ。 阿呆。
真実の「信」「念」を持って精進したいものですね
立派な事を口にするならそれを実際 具体的に自分が何ができたか書くべきだろうな。 言動不一致では誰からの信も得られんだろう。
尊い教えも欲の強い人の手に掛かると汚れてしまうんですね こんな閉鎖的な閉じたスレ1つにしても議論でなく煽りや攻撃 するのを楽しみにしている人が現れます。
>>452 横レスするなら、もう少し論点を理解してから書けよwww
ここでは、「相互依存性・関係性」の話なんかしてないんだよw
そもそも、「相互依存=平衡」じゃないw
>>440 では、「分子レベルで全て入れ替わっているのに、全体として変化が無いということは、
分子レベルの作用が個体を形成していると考えるのが間違っているからではないか?」という意見。
(つまり、分子以外の「霊的な」要素がある可能性が有ると言いたいんだと思うw)
それに対して
>>445 では、川の例をだして、「構成要素が水であるとしても、全体として変化が無い事例がある」
と指摘したんだよ。
つまり、人体は「平衡」状態にあって、「構成要素が入れ替わっても全体としては大きく変わらない」状態にあるんだ。
だから、「分子や細胞が入れ替わっても、全体として変わらないということは、分子や細胞は構成要素ではない」という考えは間違っている。
これを一言で突っ込んだのが、「動的「平衡」の意味を理解してないなw」(
>>445 )だよw
ちなみに、シェーンハイマー『動的均衡』論については、 一般啓蒙書籍としては「もう牛を食べても安心か」(文春新書)で 福岡伸一教授が詳しい考察をされているので一読をお薦めします。 実にいい本です。 とくに仏教上大問題の自己とはなにか⇒記憶の集合(記憶を完全に失えば自己意識=我執はなくなる)につき、 124頁以下で動的均衡論から非常に興味深い分析が行われています。
>>450 笑わすなよ、不説。
>・・・私のように「無我を前提とした」輪廻肯定
を述べても、我の執着の強いゆえに、我を前提とした輪廻論にしか想起でき
ず、我を前提とした輪廻論を唱える者と同じにして批判したくなるようです。
お前がいつ「無我を前提とした輪廻肯定論を提示したか?」
述べたというなら、ここにはっきりとあげてみろ。 まさか
「輪廻は真実です。業論も、もちろん真実です。しかし、実体はありません。
無我なんです。」 なんて言うんじゃないだろうな?
んな、ことなら小学生でも言えるぞ。 ポイントは「業」の対応関係と
それを担保するシステム提示だ。 それをちゃんと整合性のとれた論理構築で
解説できるのか? お前は。
縁起一代は、そこは「信仰するしかない」と言って語ることを止めた。
ならば、それはそれでよしだ。
お前はそれを語るわけだ。 やってみろ。
>>458 の下2行のアンカーは
>>440 >記憶もあり、性格もそれほど変わっていないでしょう。
世俗において『記憶』なるもの及びDNAのコピープログラムが
自我意識を担保し、無明の原因となる。
そこで、有時が前後際断(縁生即縁滅)されている(道元)とするならば、
記憶とはなにか、記憶は如何にして形成(変容)・残存と自意識されるのか、が問題となる。
『前世の記憶』!なるものの正体が明らかとなるだろう。
自己とは記憶の集合であり、それは現処からの時空分節そのものであって、
分節以前の縁起の現観においては記憶はあるわけがなく、
「無我」なのが当然なわけだからだ。
461 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/04(金) 11:14:00 ID:MK5WyCYq
>>414 >心霊協会(心霊科学の研究分野)で、
>「偶然や偽証の可能性が排除された現象」が発表されているというのなら、是非提示してくれ。
その通りです!
で、それを纏め上げるには、なかなか労力を要するのですよ。
>>416 >釈迦仏教において、「超越」論という二項相対比較でやっと成立する観念など論破済みだ。
しかし、ホント頑迷ですね・・・(涙)。いいですか?我々は二元性の中に生存しているのですよ。
『ウダーナ8.3』の説く趣旨とは、物質現象界ではないものが在る。であるから、物質現象界からの
出離を覚知できるのだ、と教えているのです。当然、そこ(ニルヴァーナ)が物質現象界ではない
からそういう言い方になるのですよ。そこが物質現象界ではないから、物質現象界からの出離をそ
れとして覚知するのです。
仏教というのは、そのような究極の境地を目指しているのです。だからこそ、途轍もない修行の
日々を生きることになる。ですから誰かさんのように、「あると思えばあり、ないと思えばない」などと
いった単純馬鹿なものなんかじゃないし、現象界とニルヴァーナ(そのような両極端)ではないその
中道を歩め、などというアホな教えも在り得ない。目指すは究極の不死なる境地/ニルヴァーナ。
仏教の目的とは、それ以外になし。
>>261-262 >>318 では、あなたのいってることを正統とするまともな仏教学者による解説部分を是非、ここに引用、
紹介してみて下さいよ。あなた一人の勝手な妄想ではなく。お願いします!
462 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/04(金) 11:17:18 ID:MK5WyCYq
>>426 >譬えて言えば、百均で売ってるようなコップを割るのと、
>子供が幼稚園で作ってきた紙粘土のコップを割るのとでは、
>その行為の意味付けが違ってくるようなもの。 かな?w
ですねぇ!
>>427 OH、パチパチヾ(^v^)
>>437 >「解脱」という漢訳(≒漢字)に引き摺られてませんか?
>《「輪廻」及び「苦」からの「解脱」、「“苦なる生存”」からの解脱》ならば、筋が通ります。
>(涅槃の別称としての解脱は、まさに《そこを指して》称されているのでしょう。)
まっ、面倒だから端的に「現象界からの解脱」と表現したまでのこと。それで分る者には十分に
分るから(このスレにはいないらしいがw)。簡単にいうと、現象界に縛り付けられている自己意識
からの離脱が解脱ですよ。
>しかし、成道後45年間、釈尊は《現象界に居ます》。『釈尊は45年間「解脱」していなかった』と?
>だから、≪場所的思考を抜け出ていない≫と指摘するのです。
それは肉体レベルの話に過ぎません。現象界を超越するのは(自己)意志です。意識の焦点(ピ
ント)がどの階層次元に集約しているかです。凡夫は肉体も自己意識も現象界に縛られています
が、けれども仏陀は異なる。ブッダの意識はニルヴァーナに留まっており、何ものにも妨げられる
ことがなく、肉体死(崩壊後)にも影響なく、そこに留まり続けるのです。
463 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/04(金) 11:19:01 ID:MK5WyCYq
>「【現象界から】どこかへ」というものではありません。 誰もそんなことはいってない(述べてこともないです)w ヒンドゥー及び神智学徒、或いは精神世 界やニューエージの人々は全部、普通に分かりますよ、コレで。何も、別の場所という意味ではな いから!これは意識階層、レベルの違いをいうのです。 「世界」「境《地》」などというのは便宜上の止む無き表現です。普通はこれで分ります!何故、セ ブンほどの学識レベルにあって、こんなクダランところで引っかかってるのかが、私には不思議で すね。 一応の確認のためならいい。けれども、私は物質的意味合いで別の場所ということではない、と いってるのですから、もういいでしょう。理解できないのはたぶん、セブン自身の問題です。他にもこ のスレにはいる・・。 >そして、もし≪ >【現象界からの】解脱(≒出離) ≫と言うならば、 >それは、《輪廻の終わりに際しての五蘊の滅》以外にはありえません。 >だから、≪場所的思考を抜け出ていない≫と指摘するのです。 仏陀というのは、生存中でありながら五蘊の影響、その束縛から解放されているのです。そして 肉体死と共に五蘊も滅するが、ニルヴァーナに在住するブッダは永久の存在です。 >あくまでも《苦(なる生存)、苦なる在り方からの出離》であると知られるべきでしょう。 それは結果としてですよ。ニルヴァーナに到達した者としての結果の一つ、その状態としての話 にしか過ぎません。これは心理カウンセルのレベルと同じではないのです。 私はセブンの苦の滅に対する理解のあり方(心理カウンセルのレベル)に対しては同意しません が、それ以外の涅槃についての説明には別段、異論はありませんよ。セブンは仏教学上のより正し い解説を詳しく提供していると、いつも感心してい見ていますから。 >8:1、8:2、8:4は無視ですか、そうですかw 読みましたが、「別に!」(エリカ言葉)。 ていうか・・・またまた、ここにも誤解されるような言葉(言い方)が確かにあるねぇ!
「縁起の現観」ねえ。はっきり言って、これがよくわからん。 縁起ってのは、ざっくり言うと「現在の状況を≪そうあらしめているもの≫」 このように、非常に概略的な言い回しのほうが、『法』などという定常的な ニュアンスをもつ言い方より、しっくりくると思うんだが、 それの「現観」 こいつがいったい何なのか? よく言うのが、ヴィパッサナー冥想によるものだろ? これでその体験が可能であるとは聞くが、実際にその体験者ってのは いるのか? いたら話を聞いてみたいものだが。 その際、最もポイントとなるのが、 それが 1・ 極度の緊張状態における認知システムの異常 2・ 単なる自己催眠 これらの可能性の排除をどのように行い、 「これは確かに仏教でいうところの『観』である」 との判断をくだしたのか? それって、例えば「先達、(師)」による判断、 「お前は確かに『観』を体験した。それが『観』なのだよ。」 こういうものに依存しているのか?
465 :
神も仏も名無しさん :2010/06/04(金) 11:29:16 ID:iVISk8+M
>>457 福岡伸一氏によれば、「平衡」とは、欠損組織に対する他の組織の「相補性」である。
まさに「相互依存性」である。分子レベルの話などではない。
生命体においては、この相補が「(自)動的」に行われる。生命体と機械との相違である。
466 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/04(金) 11:32:23 ID:MK5WyCYq
>>438 >現象界とは別に「(どこかに)」「ある」というものではありません。
>現象界を【抜け出て】、【そこへ】【行ける】というものではありません。
そんなことは私は主張してません。セブンが、勝手に現代心理カウンセルのレベルへと仏教を歪
めるから誤解するのですよ。
>水野さんがそう言ってたんですか?w
言わなくても分ってあげようね!(そのくらいは^^)
>私は、てっきり、この場合の「われわれ」は、『人間、人類、ヒトという生物』のことだと思ってましたwww
>いやぁ、ミズノサンガ ソノヨウニ カンガエテイタトハ シラナカッタナァ・・・(棒読)
>(それとも、覚者は人間ではなくなっちゃうんですかね?w)
ブッダ(覚者)というのは外見上は我々、同様のごく普通の人間に見えますけれど、でも全く違い
ます。こんなの常識だと思うけれどね・・・。なら、神智学的にはもっと面白い表現をしますよ。これな
どセブンなら引っくり返るでしょうね! “人間(人間王国)を卒業した方=超人(アデプト/奥義に達し
た不老不死者)”www
けれども、“ココ”(これが重要)が分らない内は、やはり仏教も理解できたことにはならないのです
ね。ブッダと普通の人間の違いとは何か??重要なのはコレですよ!!
>釈尊も45年間現象界にいらっしゃいまいたよね?w --中略--
>五蘊の識(或いは想・行・識の三蘊)の他に識(意識)を立て得るだろうか?
>(特に、【仏教の文脈】に於いて・・・。)
同じです。だから影響を受けないのです。それが解脱したということ。
467 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/04(金) 11:33:20 ID:MK5WyCYq
>>442 >
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1260569824/233 &「師の握拳」。
【語りえない(こと)】から説かなかったということでもあり、それは理解もされないから説くことをしな
かったともいえるでしょう。私はそう思います。これは、形而上についての議論には重きを置かない、
という徹底したゴータマ主義の姿勢の現れです。
けれども、そのことは「現象界ではないものは無い」という意味ではないから。寧ろ逆に“ある”とだけ
は述べたのです(ウダーナ8:3)。ただ、その説明解説にはゴータマはあまり精力的じゃなかった。
(尚、神智学の摂る姿勢は全く異なる。神智学の場合は不明確さを如何に無くすかに主眼が置かれ
ているので、より詳細を目指す。太古の宗教とは姿勢が異なる)
ゴータマ的には「師の握拳」で述べたように、必要な教えは与え終わったという姿勢でしょう。「体験し
なさい」と説き(現実主義者)、そのための修行(方法)については解説したのだから。
>感受できないものを、どうして【我々が】知り得ることがあろうか。
凡夫には無理ですが、修行することによって(いずれ)感受できるようになります。
>「『ニルヴァーナ意識』とは『所縁のもの』ですか?」。
違います。ていうか・・これについて返答するのは難しいことです。
あーぁぁ、ここに在りましたね。
『涅槃は勝義として存在する。それは依拠のないもの、生起のないもの、所縁のないものであり、苦の
終わりである。』(片山一良著『パーリ仏典入門』大法輪閣刊p119)
で、「涅槃は勝義として存在する」といって、そこで「存在」と書かれてあるから、実在論的な意味という
ことではなくて、ただ表現的に限界があるから、これも便宜上、使っているということに過ぎない。意味が
分れば、もう、それでいいことですよ。
ここでも同じです。『涅槃は一般に煩悩の消滅、寂滅の境地をさす。』(同p119)と。境地といっても「地」と
いうのだから、何処か物理的な場所ということではありませんから。
これはただ、そういう表現ですから。どうかそのように理解して下さい。この問題はこれでいいですか?w
468 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/04(金) 11:34:57 ID:MK5WyCYq
>「『ニルヴァーナ意識』とは『無為なるもの』(或いは無為という領域に属するもの(≒概念))ですか?」 そうです。現象界の客観的性質による「実在」や「存在」ということではありませんが、けれども、それは “ある”のです。存在としての状態の違いか、もしくは次元レベルが異なるのです。現象界の認識表現を超 えたものなのです。だから、こういうのを「超越」と呼ぶのです。 >「無為」は(現象界と比肩し得るような)『世界』ではないでしょう? >(←これは少し「表現の揚げ足取り」であることを認めようw) これを表現し得る術は実際、存在しないのです。従って、すべてが便宜上の表現に留まります。普通は 「境地」だけで(正常な)宗教者なら理解します。ただし、これは唯物主義者には認識できない事柄を扱って います。
>>463 おい、宝珠。
>・・理解できないのはたぶん、セブン自身の問題です。他にもこ
のスレにはいる・・。
いやいや、「お前の言うことが理解できてない者は」『他にもいる』
どころではないと思うぞ。 おそらく、お前以外の誰もお前の言う
ことを理解できてないと思うが?
わかった気になっているのは、お前ひとりなのでは?
少なくとも俺には、お前の言うことは、さっ〜〜〜〜〜〜ぱりだ。
「ニルヴァーナ」という聖なるところがある と主張するのであれば、
それはそれなりに理解はできる。
「ああ、お前はそういうところがあると信じているわけね。」で、話は
終わりだ。 だが、お前の主張はそうではないんだろ?
「実質はそのように主張しておきながら」 「いや、場所ではないよ。
次元なんだ。境地なんだ。」と言葉遊びをしているようにしか見えんぞ。
470 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/04(金) 11:40:42 ID:MK5WyCYq
追記補足:
>>466 の
>水野さんがそう言ってたんですか?w
以下のレスは、
>>439 についてです。
>>465 ちがうってw
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E7%9A%84%E5%B9%B3%E8%A1%A1 動的平衡とは、ミクロに見ると常に変化しているがマクロに見ると変化しない状態のこと。
まさしく、分子レベルで、常に変化してるけど、人間全体でみると、大きな変化がない状態の事。
それから、福岡伸一氏が提示している、「組織の欠損を埋め合わせるバックアップが存在する」という現象は、
別に「相補性」でも、「相互依存性」でもないと思うが?w
「相補」「相互依存性」には、「片方が無くなれば、他方も成立しなくなる」と言う意味合いがあるだろ?
それと、福岡伸一氏が言っている事は全く違う。
それから、「動的平衡」の「動的」とは、「自動的」の意味じゃないぞwww
まさにこの経の如し 中阿含經卷第三十八 東晉?賓三藏瞿曇僧伽提婆譯 T01n0026_p0668a14(01)?實無根本。但諸梵志聞已受持。世尊告曰。 T01n0026_p0668a15(01)?猶衆盲兒各相扶持。彼在前者。不見於後。 T01n0026_p0668a16(01)?亦不見中。彼在中者。不見於前。亦不見後。 T01n0026_p0668a17(00)?彼在後者。不見於中。亦不見前。摩納。 T01n0026_p0668a18(02)?所説諸梵志輩亦復如是。摩納。 T01n0026_p0668a19(06)?前説信而後復?聞。鸚鵡摩納瞋恚世尊。憎嫉不ス。
475 :
神も仏も名無しさん :2010/06/04(金) 19:04:20 ID:GXM129//
>>471 >ちがうってw
「相補的(complementary)」: making up what is lacking in one another
(意味的には、「相互依存」と変わりはない。)
福岡氏の「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)の261ページ以下を参照
のこと。
生命体は、動的平衡を「自立的」に行っている。だから「(自)動的」と言った
のである。
釈迦仏教では「相互依存性(相依性)」は認めないのではないか。認めたら、
釈迦仏教の「縁起(因果関係)」が崩壊するからである。石飛氏も「相依性」は
認めていない。
>>138 > 一般的に特定の・・・・・・それぞれが同様に)。
レベル差?
確かに、レベルの高低・優劣(どっちが偉いか的な)「序列」を求める姿勢が大半を占めるだろうが、
心ある者は、ちゃんと「質の違い」「効能の違い」を見ているよ。
だからこそ、認め合うことができる。
(勿論、歴史上それが困難だったことは隠居が指摘する通りだ。)
> しかし殊、・・・・・・ないのであって、
そうではなく、何の【基準、条件設定】も無しに「絵描きと小説家とどちらが優れているか」
を断定できないように、(特に宗教的領域の事案に関しては)、そこに序列をつけることはできない。
それだけのことだ。 何も殊更に「【同じである】!」と叫ぶ必要はない。
> 他の宗教を知らず、まともに学ぶこともしないのだから)。
今でこそ、買おうと思えば、小学生でさえ学校帰りに様々な書物を買うことができる。
ネット上には数多の情報が氾濫している。また、(内容的にも!)コンパクトな概説書も多々存在する。
【そのような現代だから】、余剰の時間を有効利用して、【テリトリー外(専門外)のこと】も学ぶことができる。
けれども、本来は、(職人さんの世界と同じように)、
『一心に、一筋に、一分一秒をも惜しんで、自分の関わる全ての時間を(思考・考察を)
学ぶべきことに傾けるべきだし、そうしなければ到底我が物とすることはできないだろう。
だから、他の事柄を同時に学ぶというのは、実は極最近のことであり、(だから、古の偉人達は凄いわけだが)、
「一つの教えを(それだけを)一心に学ぶ」というのは称賛されこそすれ、非難されることではない。
他の宗教を知らないのは、寧ろ「当たり前」のことなのだ。
(勿論、だからと言って「知らなくていい」とは今は言わない。その気になれば、
昔のような多大な労力と時間をかけずに、触れる(或いは学ぶ)ことができるのだから。
勿論w、その到達度(身に付く度合い(浸透力))は専修した者に遅れをとるであろうが・・。)
>>138 > これらが我々に違いとなって現れているのです。
なぜ、「【最初から違っていた(かもしれない)】」と見れないのでしょう?
数多の聖者も同じ人間です。環境(風土・社会情勢)の違いこそあれ、「人の心模様は、似通って」います。
教えが説かれるにあたり、
【環境による違いが生じるのと同様に、共通する部分が生じ】ても何の不思議もありません。
寧ろ、【違って当たり前】と、なぜ見れないのでしょう?
違っていて何がいけないのでしょう?何が問題なのでしょう?
(もし、(最大公約数的に)同じであると見做せる部分が抽出されるとしたら、
それは、至極単純で抽象的であるか、逆に、個別のケースとして超具体的になるか、どちらかでしょう。
深入りした主要な教義の面でも同じであると見るのは、聊か乱暴な気がします。
ましてや、根幹まで同じであるなどというのは暴論としか思えません。
上で触れたような「差異の発生源」は、「核(コア)の周縁」変容の理由となりますが、
根幹部分に於いての変容は、当然、当該伝承集団の中でも問題となります。
それが明確に伝えられていないということは、「正しく伝えられた」と見るべきです。
そして、「正しく伝えられて、他の思想と差異が見られるなら、そこには元々差異があった」
と見られるべきだと私は考えます。)
> 従って、・・・・・・とはしないようです。
駄文につき返答省略w
>>139 > 恐らく、 > 投稿者の中で同じような目線で物事を見ているのは、一在家さんでしょう。
人、それを「同じ穴の何とか」と言う。
> つまり、純粋な意味合いで自ら仏教徒を自認したり(或いは、キリスト教徒を自認したり)、
> している内というのは難しいということでしょう。
不純な意味合いならいいのか?w 不純な学び方ならいいのか?w
そんな奴が尊敬に値するか?www (そんなに自分(の立場)を正当化したいか?wwwww)
478 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/04(金) 19:28:02 ID:MK5WyCYq
>>475 >福岡氏の「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)の261ページ以下を参照
>のこと。
確認した。
そして、お前さんのほうが間違ってるぞw
「相補性」の語がでてくる文章の意味は、
「ある分子が、特定の分子に特異的に結合するのは、分子の形に相補性があるから」と言ってるだけ。
>「平衡」とは、欠損組織に対する他の組織の「相補性」である。
こんなことは一言も言ってない。
そもそも、文章全体の意味は、
「ある分子を作れなくする事で、平衡状態を崩そうとしたら、その分子の「替わりとなるもの」が出現した」
つまり、動的平衡には、バックアップシステムが存在したと言っているだけ。
>生命体は、動的平衡を「自立的」に行っている。だから「(自)動的」と言ったのである。
「動的平衡」の「動的」は、「自立的」や「自動的」という意味ではない。
まあ、語呂合わせのギャグとして言ったのなら、許容範囲の表現か……。
ギャグとしてはヘタすぎだがw
>>477 >違っていて何がいけないのでしょう?何が問題なのでしょう?
神智学の存在理由がなくなっちゃうから、違ってちゃダメだろw
各宗教には、共通する隠された真実の教えがあって、
それを解き明かしたのが神智学だという建前になってるんだから。
宝珠愚者氏の言動を見れば、よく分かる。
神智学の教えが一番正しくて、各宗教の神智学と異なる部分は、
「削除・付加・神格化・歪曲化した部分」と見なして排除していく。
481 :
神も仏も名無しさん :2010/06/04(金) 20:46:27 ID:GXM129//
>>479 「細胞塊(胎児)」は、さまざまな分子によって構成されている組織である。
生命体の「組織」間では、「動的平衡」は存在しないのか?
>>481 だからだなw
特定の組織間に相補性があること(ある分子が、特定の分子と特異的結合をする事)は俺も認めてるだろ?w
否定しているのは、
>>「平衡」とは、欠損組織に対する他の組織の「相補性」である。
つまり、「平衡」=「相補性」という、お前さんの勘違いだ。
喩えて言えば、エンジンが動いているという状態を見て、お前さんは、
「ネジがネジ穴と相補的に結合している。
だからエンジンが動き続けるという現象は、相補性・相互依存である」
と言っている様なものだ。
483 :
神も仏も名無しさん :2010/06/04(金) 21:31:38 ID:piIOWn2f
>>478 >天国に行けないくらいに思っているらしいと、この私は聞かされています。
誰から?
もしかしてうろ覚え?
484 :
神も仏も名無しさん :2010/06/04(金) 21:41:27 ID:cXyU+F4O
太陽の恩恵受けても太陽に恩恵与える人はおらんだろ。 相補は限定された現象だ。
485 :
1/5 :2010/06/04(金) 21:54:28 ID:HRlBLpOf
>>462 > 端的に「現象界からの解脱」と表現したまでのこと。
> 簡単にいうと、現象界に縛り付けられている自己意識からの離脱が解脱ですよ。
揚げ足を取る形になりますが、重要な点です。
上は、「【現象界から】脱け出すこと」です。
下は、「現象界の束縛下にある【(通常)意識から】脱け出すこと」です。
これを一緒にはできません。
なぜなら、《『現象界から脱け出す』という謂い》は、
「現象界が、具体的世界である以上」、【そことは別の世界が「(論理的)必然」として要請される】からです。
下の表現は、そのような(危ない)橋をわたる必要はありません。
(「宗教的再生」という言明のように、それこそ「心機一転」「生まれ変わる」が如く)、
「心の在り様(意識のステージ)」が変化したということで済ますことができるからです。
【現象界にありながら(≒身を置いたまま)】実現することが可能だからです。
そして、注記するならば、
「涅槃」が「意識」として(「意識的なもの」として)述べられている例はありません。
「涅槃」はあくまでも「涅槃」です。「苦の終わり」であり「煩悩の滅」であり、
「寂静」「安穏」であり、それはまた「知られ、見られるもの」でしかありません。
「そこへ行く」のでもなく、「それを得る」のでもなく、「そこにとどまる」のでもなく、
ただ「知られる」のです。
勿論「ニルヴァーナ意識」などでもありませんw 【「涅槃」には働きがない】からです。
(貴方が《働きのない「意識」》を定義できるなら、5ミリくらい歩み寄っても良いですが・・w)
> それは肉体レベルの話に過ぎません。現象界を超越するのは(自己)意志です。
ですからw
『現象界を超越した「意識・意志」なるものがあり得ますか?』ということです。
そんなものは部派仏教に於いても説かれてはいません。(おそらく大乗に於いても・・。)
パーリは勿論、原始仏教・釈尊に至っては「涅槃」以外の無為なぞあり得ないのです。
486 :
神も仏も名無しさん :2010/06/04(金) 21:54:53 ID:GXM129//
>>482 例えば、甲状腺ホルモン(TH)の分泌が増加すると、そのネガテイヴフィードバッとして、
甲状腺刺激ホルモン(TSH)の分泌が低下する。生命はこのような無数の「ホメオス)タシス」によって維持されている。これは「動的平衡」とは呼ばないのか。
福岡氏は、生命の定義として、「自己複製可能性」と「動的平衡」の二つを挙げた。
単に分子同士の相補性だけで、ホメオスタシスを動的平衡に含めなければ、福岡氏
の定義は不完全なものとなる。
487 :
2/5 :2010/06/04(金) 21:55:20 ID:HRlBLpOf
>>462 > 意識の焦点(ピント)がどの階層次元に集約しているかです。
ですからw
「意識」とは『現象界内の【存在】』であって、無為なるものであることはありえません。
どこにピントが合おうが、「意識」「意識的なもの」と見る以上、
【それら全て現象界内のこと(事象(→法))】です。
> 凡夫は肉体も自己意識も現象界に縛られていますが、けれども仏陀は異なる。
> ブッダの意識はニルヴァーナに留まっており、何ものにも妨げられることがなく、
「涅槃」と「意識」とがそこに存在することになります。
そのようなことはありえません。ウダーナ8:1、8:2、8:4をよく読んでください。
(後期大乗の「一如」「帰一」というニュアンスですか? ならば30センチほど歩み寄っても良いですが・・w)
> 肉体死(崩壊後)にも影響なく、そこに留まり続けるのです。
「色」無き「意識」なぞ(仏教では)あり得ません。
ましてや、【そこに】留まり続けるなぞ、断じて認められる筈がないでしょう?www
(中後期大乗の「法身」も、貴方のように捉えたら、縁起馬鹿が、悲嘆して号泣しちゃいますよ?w)
*(この(大乗的)「法身」も、上で述べてきたような「涅槃」と同質の在り方のもの、と見るべきなのかもしれません。)
>>463 > >「【現象界から】どこかへ」というものではありません。
> 誰もそんなことはいってない(述べてこともないです)w
いやいやいやw
そうとしか見做せないでしょう?貴方の発言はwww
> ヒンドゥー及び神智学徒、或いは精神世界やニューエージの人々は全部、普通に分かりますよ、コレで。
そんな、「私以上のw」外道による理解に、どれほどの意味がありましょうや?w
> 何も、別の場所という意味ではないから!これは意識階層、レベルの違いをいうのです。
それはそれで構いませんが、それらも全て【現象界内のこと】です。
488 :
神も仏も名無しさん :2010/06/04(金) 21:55:41 ID:cXyU+F4O
人に恩恵を与えたとしても果報を求めるようでは程度が知れる。 ショーのイルカと変わらん。褒美を貰えなくてキーキー鳴くのは無様だぞ。 無情の仏法を聴くべきだな。
489 :
3/5 :2010/06/04(金) 21:56:51 ID:HRlBLpOf
>>463 > 仏陀というのは、生存中でありながら五蘊の影響、その束縛から解放されているのです。
その意味合いは大いに首肯致しますよ。
だから、五蘊が存続している間は、五蘊が存することを排除しえない故に、
有余涅槃・無余涅槃という概念が要請されたのですから。
> そして肉体死と共に五蘊も滅するが、ニルヴァーナに在住するブッダは永久の存在です。
どこの大乗経典ですか?www
> >あくまでも《苦(なる生存)、苦なる在り方からの出離》であると知られるべきでしょう。
> それは結果としてですよ。ニルヴァーナに到達した者としての結果の一つ、
> その状態としての話にしか過ぎません。
何を仰いますかwww 「苦の滅」、「苦の滅を目指す」こと、(苦なる生存・輪廻よりの解脱)こそ
結果どころか、原点にして終点、仏教最大の目的であり、おしえが説かれた理由じゃないですかw
> これは心理カウンセルのレベルと同じではないのです。
現代の臨床の現場とはレベルが違っても、【その質、目的、手段】は同じだと考えます。
貴方にも「海苔工場と製紙工場の喩え」が必要なようですねw
> 読みましたが、・・・・・・あるねぇ!
その程度だから、「御隠居読み」と評するのですよw
490 :
4/5 :2010/06/04(金) 21:57:43 ID:HRlBLpOf
>>466 > そんなことは私は主張してません。
いやいやw
どの発言も、表現の限界による便宜上を逸脱しているように見受けられますが?
> >私は、てっきり、この場合の「われわれ」は、『人間、人類、ヒトという生物』のことだと思ってましたwww
> >いやぁ、ミズノサンガ ソノヨウニ カンガエテイタトハ シラナカッタナァ・・・(棒読)
> >(それとも、覚者は人間ではなくなっちゃうんですかね?w)
>
> ブッダ(覚者)というのは・・・・・・ですよ!!
あまりの駄文故返答省略w
> 同じです。だから影響を受けないのです。それが解脱したということ。
ハァ?(゚∀゚)
『諸々の感受が、凡夫にとっては「苦」や「楽」であるが(生じせしめるが)、如来にとってはそうではない』
という意味なら、その通りだと思いますが何か?(おぎやはぎ風)
>>467 > それは理解もされないから説くことをしなかったともいえるでしょう。
そうでしょうか?
それは既に、梵天勧請の段階で解決したことだと私は考えますが。
> 凡夫には無理ですが、修行することによって(いずれ)感受できるようになります。
修行によろうが、覚者のみであろうが、
『「感受可能なもの(知り得るもの)」は、(条件付であったとしても)「感受可能なもの(知り得るもの)」である』
というのが、仏典の説き方の基本だと思いますが? (だから、「師の握拳はない」と言われるのです。)
> 意味が分れば、もう、それでいいことですよ。
いやいやw
まったく理解してないじゃないですかw それじゃ片山さんも泣きますよ?w
491 :
5/5 :2010/06/04(金) 22:04:46 ID:HRlBLpOf
>>468 > >「『ニルヴァーナ意識』とは『無為なるもの』(或いは無為という領域に属するもの(≒概念))ですか?」
>
> そうです。現象界の・・・・・・呼ぶのです。
再度言います。「無為なる意識なぞあり得ません」。
> >「無為」は(現象界と比肩し得るような)『世界』ではないでしょう?
> >(←これは少し「表現の揚げ足取り」であることを認めようw)
>
> これを表現し得る術は実際、存在しないのです。従って、すべてが便宜上の表現に留まります。普通は
> 「境地」だけで(正常な)宗教者なら理解します。ただし、これは唯物主義者には認識できない事柄を扱って
> います。
>>467 > この問題はこれでいいですか?w
「無為法について」 水野 弘元 印度学仏教学研究 10(1), 1-11, 1962-01
これ↑が読めるといいんだけどなw PDF化されてない。
選集第2巻(p407-424)には収められているんだが・・。
今の流れに“ぴったり”該当する箇所も(幾つか)あるが、
引用するにはちょっと長いw (キーボード打つのも面倒だし・・w)
さて、どうしたものか・・・ (;´ー`)y━~~
>>486 だ〜か〜ら〜w
初期胚にも、ホルモンバランスにも、「動的平衡」は存在する。
初期胚において、各細胞は、特定の細胞と結合する。
ホルモンは、特定のレセプターと結合する。
だけど、「動的平衡」と、「相補性」・「相互依存」は、別物だってw
喩えて言えば、分子同士の相補性とは、ネジがネジ穴に一致するような現象。
動的平衡とは、エンジンが動き出したら、ガソリンを供給する限り動き続けるような現象。
この二つは、別物でしょ?
493 :
神も仏も名無しさん :2010/06/04(金) 22:08:50 ID:GXM129//
>>488 >無情の仏法を聴くべきだな。
釈迦仏教は、「苦」を逃れるのが目的ではなかったのかね。「無情」どころか、
感情・欲望(意蘊)に満ちている。
あ、
>>491 中段の引用文消去し忘れたw
どこかのどなたかさんが「涅槃」に興味を持っていたようだが、
(直接の関連、返答ではないが)多少の参考にはなるだろうか・・?
>>493 他人のレスだが、無常の変換間違いじゃない?w
>>464 完全な「縁起の現観」は仏陀のみ可能と教わりました。
具体的には過去六仏とお釈迦さまにのみ可能で次の候補者は弥勒菩薩。
そもそも464さんがこのような形で取り上げたり、スレッドがこのような形で成り立っているのは
上座・大乗に共通する緩やかな暗黙の了解があるからだと思います。
464のレス自体引っかけなのかもしれませんがポイントとなる
>1・ 極度の緊張状態における認知システムの異常
>2・ 単なる自己催眠
はサマタの時点で解消しているのではないでしょうか。
ビパサナについては個人的に思うところはあります。
多量に電波混入していますし外道の側からの話となります。
それでよければ話します。
497 :
神も仏も名無しさん :2010/06/04(金) 22:21:36 ID:cXyU+F4O
目的が随時変わるのが釈迦仏教。 筏の喩えのとおり。 その発展が竜樹であって取るべき主張など無いとする。 隠居の硬直とは違い現実対応にすぐれている。
498 :
神も仏も名無しさん :2010/06/04(金) 22:33:51 ID:GXM129//
>>492 不完全な分子を、他の分子が補充して完全な分子にするのなら、相補性、相互
依存性以外の何物でもない。
ホメオスタシスと動的平衡との関係は?
THとTSHとの関係は、分子同士の相補性ではない。
エンジンの速度も、状況に応じてアクセルでガソリンの量を調節し、速度を
変えなければ、マトモな運転(平衡状態)は不可能。生命体は、この調節
を自動的にやる、ということだ。
>>495 文脈からして、変換間違いではないようだよw。
さて・・・。 宝珠の反応が楽しみでもあるが、縁起馬鹿の戦線離脱は結構痛い・・w 私のレスの添削係でもあったのにwww 久しぶりに少々疲れたw・・・orz
>>496 >はサマタの時点で解消しているのではないでしょうか
そうではなく、
「自覚及び自己申告しかない」という点を指摘しているのです。
「幽霊の、正体見たり、枯れ尾花」という川柳がありますが、
『「これは幻覚ではない。確かに、生理的錯覚でなく、確かな体験、知覚である」という自覚』さえも
錯覚である可能性をゼロにはできない、ということです。
「枯れ尾花と見えている」という視覚・知覚自体が錯覚であり、
そこに枯れ尾花すら無いという可能性を排除できない、ということです。
501 :
神も仏も名無しさん :2010/06/04(金) 22:57:05 ID:GXM129//
>>497 >現実対応にすぐれている
すべて「苦」である現実から遊離するのが、釈迦の目的ではなかったのかね。
502 :
神も仏も名無しさん :2010/06/04(金) 23:13:03 ID:cXyU+F4O
一切皆苦で諸行無常なれば逃げる場所は何処にもなく逃げる必要も無いことは容易に解るというもの。
>>498 だ〜か〜ら〜w
>不完全な分子を、他の分子が補充して完全な分子にするのなら、相補性、相互
>依存性以外の何物でもない。
これは、OK。
(厳密に言うと違うが、今の議論に関係ないのでスルーw)
>ホメオスタシスと動的平衡との関係は?
ホメオスタシス(恒常性)=動的平衡
何度も言うように、問題は、ホメオスタシス(動的平衡)と、分子の相補性が、別の概念だという事。
>生命体は、この調節を自動的にやる、ということだ。
だ〜か〜ら〜w
「生体が自動的に調整する」と言う事は批判してないんだってばw
「動的平衡」の「動的」が、「自動的」を意味していないといっているだけだってばw
人の意見はキチンと読みましょうね?w
>文脈からして、変換間違いではないようだよw
ん〜、文脈からして「無常」だと思うんだけどね
まあ、書いた本人に聞かないと正確には分からんが。
504 :
神も仏も名無しさん :2010/06/04(金) 23:28:51 ID:cXyU+F4O
有情来たりて種を下し 地に依りてまた果を生ず 無情は既に種無し 無生にして無性なり うろ覚え
>『「これは幻覚ではない。確かに、生理的錯覚でなく、確かな体験、知覚である」という自覚』さえも >錯覚である可能性をゼロにはできない、ということです。 >「枯れ尾花と見えている」という視覚・知覚自体が錯覚であり、 >そこに枯れ尾花すら無いという可能性を排除できない、ということです。 これは自分についてはその通りです。 自分が駄目だと自覚した上で三宝を頼るのだと思います。 設問を正しく理解していないかもしれませんがとりあえず。
>>501 >すべて「苦」である現実から遊離するのが、釈迦の目的ではなかったのかね。
これだけ初歩が判っていない恒常性御都合主義意図的健忘症の人々(隠居と宝珠)を相手にするのは、
無駄です。
>>473 残念ながら、それの読み方がわからんかった。
>>474 上は読めなかったが、下はあった。時間のあるときに読む。
>>496 えーっと、 俺が言ったのは
>>500 の人も指摘してくれてるように
「自己認識の信頼性」についてなんだ。 たとえ、自分で何かがわかった、
何かを体験したと思っても、それが「錯覚や思い込み」の可能性は残る。
そして、それはどの段階でもありうるわけで(たとえサマタでも)
そのような「自覚の不確実性」をどのように排除していくのか?を聞きたいわけ
なんだが。
>>507 >上は読めなかったが
え、何で?
一番下は講演録なんで、上二つが主なんだが・・・。
どっかで立ち読みできるといいんだけどねw
>>473 はワシも読みたいw 474の一つ目中の一節より詳しいだろうし。
(473は書誌情報だけだと思うよ。)
>>474 やっぱりだめだった。「お探しのページはない。」と。
>473は、書籍情報か。ネットで読めればよいのだが。
>>509 ワシ、「h」抜いて貼ってるけど、ttpのままにしてない?
(専ブラでクリック一発ってことは、通常IEでも開ける筈だけど・・。)
>>507 書籍・仲間周囲の反応・先生の指導ではないでしょうか。
比量・論理的に考える能力も大切だと聞きますが難しいです。
それでも 錯覚である可能性をゼロにはできない と思います。
ある事を200遍以上聞いていて言われたことを実行していて、
ある日、本当に幸運な偶然が重なって言葉通りに理解できた事が何度かあります。
>>510 う〜〜ん、何度やっても上はダメだ。勿論、hはつけてるよ。
下は何の問題もないが。 結局、原因わからん。
>>511 まあ、外部検証不能事例なんで、「錯覚、思い込みの可能性」の
排除が高い確率で可能な方法論をご存知か?と思ったのですが、無理みたいですね。
と、いうのも仏教系のスレには「自称」悟っている人が、あまりにも多いでしょう?
彼らの話を聞いてみても、とても覚者であるとは思えない。
つまり、何かしらの理由で、自分は悟っていると「錯覚、思い込んで」
しまったわけですね。 彼らのうち、何人かは確信犯てきなウソをついて
いるのでしょうが、何人かは、どうも本気で「自分は悟った」と思い込んで
いるみたいですな。 そのようにならないためにも、「自覚の不確実性」を
補完する方法論を模索する必要性があると考えているわけなんですが。
>>512 う〜〜ん、
ワシはIEからでも辿り着けるんだが・・・(^^;
まあいいか・・。どっかで立ち読みでもしてくれw
寝る ノシ
>>513 乙。 「縁があれば」 いずれ読めるときが来るだろう。(笑)
515 :
前世は一在家 :2010/06/05(土) 00:56:24 ID:Ina5+zA9
>>938 >すべての人間が「神の似姿」なら、イエスの立場はどうなりますかw。
「すべての人が神の似姿、神の子」であるという真理(法)を説かれた
預言者だと思います。
ただし、イエス様が他の預言者と異なり聖霊による癒し(洗礼)を行われた
という権威から見て、創造主の御子達のお一人だったかと存じます。
もし説一切有部が「去るものは去らない」と言っていたら、龍樹は否定して
「去るものは去らないにあらず」と言っていたかも知れませんね。
確かに「机上空論」、言語の論理世界では無敵の大天才かと思います。
精神的に悩み苦しんでいる衆生を救うのが宗教者だと認識しております。
悟った後も何十年も「四諦」と「正道」を説いて回られた釈尊こそ偉大な
宗教者だったと思料します。
もし苦しんでいる人に会っても、「あなたは空であり、存在しないのですから、
悩む必要はないです。」と説く方を本スレでは時々お見かけしませんか?
516 :
前世は一在家 :2010/06/05(土) 00:58:31 ID:Ina5+zA9
>>515 前半はキリスト教板への投稿にて、失礼しました。
517 :
神も仏も名無しさん :2010/06/05(土) 01:07:10 ID:Rs6vostA
>>503 >何度も言うように、問題は、ホメオスタシス(動的平衡)と、分子の相補性が、別の概念>だという事。
君が「動的平衡」という言葉を、一貫して「分子レベルの問題」として論じていることの
矛盾を指摘したのだよ。「組織の相補性」も当然含まれている、ということだ。
>変換間違い
君が、
>>493 の書き込みに対して、あわてて「変換間違い」などという書き込みをした
ことは、君の宗教に対する「無批判の擁護」の立場を、期せずして暴露している。
宝珠を批判する資格はないな。
>>515 >もし苦しんでいる人に会っても、「あなたは空であり、存在しないのですから、
悩む必要はないです。」と説く方を本スレでは時々お見かけしませんか?
そんな奴いたか?
苦しんでいる人に「それは憑依霊のせいです。今から浄霊してあげます。」
とか言って、「手かざし」を始めそうな奴は、確かに、時々見かけるが。
おい、隠居。 >・・君の宗教に対する「無批判の擁護」の立場を、期せずして暴露している。 お前いい加減に、「自分に対する批判者は全て宗教者、またはその擁護者」と して逃げるクセは止めろや。 実際、 ID:zLdXDrxL さんが、宗教に対してどのようなスタンスの持ち主かは 知らんが、仮に宗教者だったとしても、それをもって他人に干渉するのでなければ 何の問題もなし。 お前のように、自己の偏見を強制する方が、よっぽど 問題だ。
520 :
神も仏も名無しさん :2010/06/05(土) 01:35:39 ID:Rs6vostA
>>515 自分から「人を救う」「人を愛する」「私は清らかで正しい」などと自称する
人間がいたら、事実はその正反対であると考えて間違いない。
「いのち」「いのち」と唱えながら、実際には日本人全体の「生命」を危険
にさらしてしまった、鳩山カルト総理もその一人。
>>517 >君が「動的平衡」という言葉を、一貫して「分子レベルの問題」として論じていることの
>矛盾を指摘したのだよ。「組織の相補性」も当然含まれている、ということだ。
どっから突っ込んだらいいのか迷うんだがw
というか、本当に、福岡氏の本を読んだのか?
俺は、「動的平衡」という言葉を、「分子レベルの問題」として論じていない。
「ミクロ(分子レベル)で見れば変化しているが、マクロレベル(人間全体)で見れば、あまり変化していない」
といっているんだ。
つまり、「動的平衡」とは、分子レベルと、人間レベルの、二つの領域での見え方の差の問題だ。
むしろ、この本に於いては、「相補性」の方が、「分子レベルの問題」として扱われてるぞ?w
そして、俺が問題にしているのは、「分子レベルが云々」ではなく、
「動的平衡」という概念は、「相補性」という概念とは、全く別物だという事だ。
もっと分かり易く言えば、「お前の動的平衡の理解は間違ってる」と言ってるんだw
>>517 >君が、
>>493 の書き込みに対して、あわてて「変換間違い」などという書き込みをした
>ことは、君の宗教に対する「無批判の擁護」の立場を、期せずして暴露している。
>宝珠を批判する資格はないな。
例えば、空を飛ぶ鳥を見て、「あ、ウルトラマンが飛んでる!」と騒ぐ奴を見たら、
つい、「アホ、あれは鳥だw」と突っ込みたくなるだろ?
俺が
>>495 を書き込んだのは、そういうことだw
むしろ、
>>488 のレスの内容ではなく、単語に過剰反応しているお前さんの方が……w
そして、俺は、宗教擁護の主張(お前さんを批判するレス)であろうと、
間違っているなら、突っ込んできたつもりだがね?w
そのどこが「無批判の擁護」だというんだ?
523 :
神も仏も名無しさん :2010/06/05(土) 02:04:20 ID:Rs6vostA
>>519 宝珠愚者や「生命教w」に対し、罵詈雑言を吐き、執拗極まりない干渉を
行っていることが分らないのか。君は一体何を読んでいるのか。
524 :
神も仏も名無しさん :2010/06/05(土) 02:22:12 ID:Rs6vostA
>>521 福岡氏自身も、動的平衡を、「形の相補性に基づいた相互作用」という言葉で
説明している。君こそ、福岡氏の本をよく読んではいない。
ホメオスタシスを動的平衡とすれば、マクロレベル(人間全体)としても大きく
変化しているではないか。感染時における高熱を初め、その例は枚挙に暇がない。
すべての病気は、ホメオスタシスの結果であると言ってよい。
ウルトラマンの例は、釈迦仏教にも、キリスト教にも、全く同様に当てはまる。
525 :
神も仏も名無しさん :2010/06/05(土) 02:49:55 ID:Rs6vostA
>>584 >太陽の恩恵受けても太陽に恩恵与える人はおらんだろ。
>相補は限定された現象だ。
太陽の熱をそのまま受けたら、人類は焼け死ぬ。また、太陽光は、皮膚がんの
最大の原因。
オゾン層や海洋からの水蒸気によって、太陽の被害を防いでいる。人間も、
炭酸ガスの発生を抑える努力や緑の保護などにより、それに協力している。
竜樹の「相互依存性・関係性」は、万物について適用される永遠・普遍の
真理である。
「俺が、俺が」で、「相互」依存性に思い至らなかった釈迦の教えは、「真理」
から程遠い。
526 :
神も仏も名無しさん :2010/06/05(土) 02:55:02 ID:Rs6vostA
>>523 相変わらずの馬鹿っぷりだな、隠居。
>宝珠愚者や「生命教w」に対し、罵詈雑言を吐き、執拗極まりない干渉を
行っていることが分らないのか。君は一体何を読んでいるのか。
宝珠やお前の生命教に関しては、その人以上に俺のほうが強く批判して
きたと思うがな。 何故かわからんのか?
それはお前らが「自己の価値観をもって他者に干渉してきたからだ。」
「個人の信仰の範疇」に留まるなら、俺は何も言わん。
各人の内心の自由は尊重する。 しかし、それを他者に強制してきた
ときは遠慮しないぞ。 お前は「自己の信仰の範疇」を超えずに
自己の見解を他者に強制してこなかったと言うわけか?
「全ての宗教を撲滅せよ」と喚いていたのは誰だったのか?
全く何度同じことを言わせるのか? ニワトリ隠居が。
認知症の検査をしてもらえと言ったろうが?
まだ病院に行ってないのか?
>>523 さらに補足すれば、 ID:zLdXDrxL さんが 「普遍性を有しない
自己の価値体系を強制しているレス」というのが、見あたらないのだが、
お前は、どの書き込みをもって「他者に干渉している」と言ってるわけだ?
隠居、 ちょっとレス番あげてみてくれ。
俺には、単にお前や宝珠の「誤認、瑕疵の指摘」のようにしか思えないのだがな。
よく飽きないなぁ
学者かプロの方なの?
>>524 >福岡氏自身も、動的平衡を、「形の相補性に基づいた相互作用」という言葉で
>説明している。君こそ、福岡氏の本をよく読んではいない。
>君こそ、福岡氏の本をよく読んではいない。
具体的に、引用してみようか?
p263
「さまざまな分子、すなわち生命現象をつかさどるミクロなジグソーピースは、ある特定
の場所に、特定のタイミングを見計らって作り出される。そこでは新たに作り出されたピ
ースと、それまでに作り出されていたビースとの間に、形の相補性に基づいた相互作用が
生まれる。その相互作用は常に離合と集散を繰り返しつつネットワークを広げ、動的な平
衡状態を導き出す。一定の動的平衡状態が完成すると、そのことがシグナルとなって次の
動的平衡状態へのステージが開始される。
この途上の、ある場所とあるタイミングで作り出されるはずのピースが一種類、出現し
なければどのような事態が起こるだろうか、動的な平衡状態は、その欠落を出来るだけ埋
めるようにその平衡点を移動し、調整を行おうとするだろう。そのような緩衝能が、動的
平衡というシステムの本質だからである。平衡は、その要素に欠損があれば、それを閉じ
る方向に移動し、過剰があればそれを吸収する方向に移動する。」
つまり、動的平衡とは、「同じ状態を保とうとする働き」であって、欠落が生じれば、
それを埋める様に、調整を行う働きの事。
そして、「その際に使われるシステムの一つ」が、形の相補性に基づいた、分子間の特異的な相互作用。
つまり、「動的平衡」=「形の相補性に基づいた相互作用」ではない。
例えば、機械が壊れた時に元の状態のように修理する事が、「動的平衡」(厳密に言うと違うが)
修理する際に、ネジ穴に対応したネジを使用する事が、「形の相補性」
この二つは、別の概念だっていい加減分かってくれよw
>>524 >ホメオスタシスを動的平衡とすれば、マクロレベル(人間全体)としても大きく
>変化しているではないか。感染時における高熱を初め、その例は枚挙に暇がない。
ちがうってw
感染時には、高熱を出すのは、感染前の状態(平衡点)に戻そうという働きだ。
つまり、マクロレベルで、同じ状態を保とうとする働き。
そして、この高熱を出して感染を治そうという「動的平衡」の働きに、
「形の相補性」は関係ないだろ?w
>すべての病気は、ホメオスタシスの結果であると言ってよい。
ちょwww
ホメオスタシスとは、最近やウイルスが感染したら、それを排除して、恒常性を保とうとする働きだ。
つまり、お前さんの発言は、喩えて言えば、
「全ての犯罪は、警察が犯罪を取り締まる結果であると言ってよい。」
といっていることと、同じだぞ?w
>>525 レスの内容が対応してないぞwww
太陽が無くなれば、人類を含めた地球上の生き物が滅びるのは、理解できるよな?
つまり、人類はは、太陽の存在に依存している訳だ。
それに対して、人類が存在しなくても、太陽は存在し続けるよな?
つまり、太陽は、人類の存在に依存していない。
これらの事から、両者は偏利的な関係であり、相互依存性には例外が存在するから、
あらゆる現象には、適用できないと、指摘してるだけだろ。
まあ、厳密に言えば、
>>525 の主張は間違っていると思うが、
少なくとも、お前さんの頓珍漢なレスが理由ではないw
横レスだがね、隠居は基本理解力がどうも、かなり平均的一般人より劣るの で、喩えも身近なものを例にとったほうが良いと思われる。そこで、ひとつ 「動的平衡」を理解するのに、A小学校というのを想定する。 小学校というのは、毎年、新入生、卒業生の流動があり、随時、転校生や 転入生などもあり、その構成要素についてみれば常に流動的である。 10年もすれば、生徒は勿論、教師たちもほとんど入れ替わり、個々について みれば全く別物である。しかし、その構成要素の変化にかかわらず「A小学校」 というものは、存続し続け「教育機関」としてのシステム維持は恒常的である。 これが「動的平衡」というわけだ。 そして、ときには、その教師が急病により欠勤することもあるわけで、そんな ときは、教頭が出てきて授業をすることもあるだろう。その病欠が長期にわたれば 臨時教員を採用することもあるだろう。 これが「相補性」ってわけだ。 つまり全く別の概念。 「小学校」を例にとれば、「隠居にとっては馴染みの深い場所」だから 理解しやすいと思うのだが?
あ! それからセブン、上のも読めた。 どうも俺のコピペのやり方に 問題があったらしい。 今、読んでるところ。 乙。
538 :
神も仏も名無しさん :2010/06/05(土) 10:42:39 ID:G1eE+SQJ
隠居への優しさと親切さに俺は泣いた。
>>538 お〜〜〜〜〜、隠居に対する、俺の慈愛を理解して
くれる御仁がいたか。(笑)
人それぞれで幸せであればそれでいいよ。 大きなお世話だ。 苦しみ、不幸と感じるときに、どう考えるかはその人のセンスの問題だ。 ただ、他者への事実上の強制はよくない、というだけさ。
今、ざっと読んだわ、セブン。結論から言うと、俺はやっぱり「水野」はダメだ。 言ってることの何割かは同意できるが、例えば「疑」を断じるっていうところ、 三世に跨る「業報」を疑うべからず、そこは信じないとダメよ ってのは全く受け入れられんね。 無我を了解せよ てのは当然として、それと、業論との整合性、 例えば「天界」に生まれ変わる基体 との整合性などには、全く触れられてなか ったな。 信仰による方以外に、理論的了解も許容していたが、その肝心の論理的整合性が まったく図られていないわ。 要は、このように書いてある経典がある ってこと だけだろ? 「現観」ってのが、「正しく」観る ということはわかるとして その詳細が、単に伝統的仏教の教義を無批判に受け入れなさいよ って ことだけなら、あまりも浅薄過ぎると思うが。 水野のいってることは仏教徒限定で(それもかなり限定的だと思うが) 仏教徒以外のものにも妥当するような普遍性が欠けてると思うがな。 この我々の眼に現じている世界の実相を「仏教徒以外の者も」了解できる 形で認識するのが、「現観」であると思うのだが、どうだろうか?
>>541 まず一点。
「論文は、往々にして、『あるコンセンサスの上に提示される考察の一風景』である」ということ。
>仏教徒限定で(それもかなり限定的だと
仏教徒というカテゴライズとは限らないが、
多くの前提を(一旦は)受け入れた上で考察する人々用だとは言える。
(科学系を始め、多くの論文が共通して持つ性格じゃないかい?)
もう一点。
縁起馬鹿の姿勢とほぼ同様、相似していることに留意して欲しい。
彼が、水野さんの流れ(【伝承への敬意を踏まえた発言】)を評価していたことを・・。
そして、
今回も君が疑義を抱いた部分は、水野さんの著述力・考察の深度によるものではなく、
「(仏教の)業報思想が生来的に有する曖昧さ」だということだ。
>>541 >>542 補。
そして、水野さんは、(曹洞宗に限ったことではないが)、
(縁起馬鹿が讃するように) 「護教的スタンス」 を忘れていない、ということだ。
それが、君にとっての違和感になっているのだろうと思う。
>>542 あ〜〜〜〜〜、確かにそうだ。
あの論文自体が、伝統的仏教解釈を前提として、それを受容できる人むけに
書かれたものであるならば、俺の見解はまさに、余計なお世話ってことになるな。
そこに普遍性を要求すること自体がおかしいわ。
>>541 は、撤回する。
なんというか、業論肯定論者がよく言う台詞そのまんまなので、前提を
考慮しなかった。
また、「護教的スタンス」 これも十分、尊重する。
「仏教の多くの宗派では、このような見解です。」というのであれば、
部外者が口をはさむことではない。 反省。
さて、以上の上で、尋ねるが 「現観」
これは業論を了解しなければ、ならないものか?
それを必須要件とするものなのか?
少し言葉が足りないな。つまり 「無我」を否定する宗派がほとんどいないように、 仏教内の定説的な見解として、水野氏が言うように「まず、業論を 了解する」ことが必須要件として見なされているのか? ということなんだが。
>>544 それは、今の私には答えられない。
水野さんの考察上は、「その道理や(諸法の)在り様の如実な様を知る」ことが「現観」ということになるので、
(勿論、《本来は、そこに『体験が必須』》《自身の『日々の生活に具現化する』ことが必須》
なわけだがw、そこは大目に見てくれw)
縁起馬鹿が首肯するかどうかは知らんが、ほぼ至っているという自負はある。
また、「業論」「業報思想」自体は、仏教の主軸の一つだと私も考えている。
(それは、「縁起」(=因果)の具体的顕れなのだから・・。)
ただ、貴方の求めるような形・範囲での整合性は、求められてもいなかったし、解説されてもいない。
なぜなら、《【当然の】【異論を挟むべくもない】前提》だったから。
しかし、その前提が、時代や地域限定である可能性が、21世紀の今、浮上しているわけで、
《その中で、【護教的に】言葉を紡ぐ》ことは、未達の自分(語彙及び体験不足の自分)には無理だwww
せいぜい、片山さんの解説をなぞるくらいしかできない。
だから、 >業論を了解しなければならないものか? どうかは、
今の私自身、疑問符を外せない。(縁起馬鹿の答えは決まってるだろうが・・・w)
ただ、以下のような側面があることも忘れてはならない。
>>545 それはその通りです。
業論は、《「学び」と「その果」》を、
《行(→行住坐臥全てに於ける)による涅槃への道》をもまた、担保するのですから。
547 :
神も仏も名無しさん :2010/06/05(土) 17:27:47 ID:OWhCUk7Y
>>540 >ただ、他者への事実上の強制はよくない、というだけさ。
どこに「強制」があるか。生命は、生まれながらに、すべての人間にいわば「強制」
されているもの。そのことに思い至らない釈迦やイエスが「無明」であるに過ぎない。
己の生命を以って、生命を無明とする釈迦こそが、無明の典型である。
生活者である人間に、生命をいくら説いても、それは強制などにはなり得ない。
彼等はその自覚の上に日々の生活を営んでいるのだから、「自明の理」である。
自明でないのは、宗教の開祖の精神障害の症状である「観念過剰」故の無明にある。
生命を至上とすることは、人間共同体に生を享けたひとりひとりの成員の最大の
道徳的義務であり、宗教ではない。それに、生命を持ち出されると崩壊するような
宗教は、「生命の営み」として初めから誤っているということである。
「強制」がいけないのなら、反生命の宗教の布教活動は、直ちに停止されたし。
たとえ宗教者であろうとも、生命はすべてに先立つ根源である。釈迦もイエスも、
生活者の汗の結晶である食物の提供によって「生かされ」なければ、忽ち路傍で
野垂れ死にである。生命という「自明の根源」を「強制」と感じることこそ、
宗教者の、開祖の精神病の感染の結果としての反生命性、倒錯、無明を、如実に証明
するものである。人は、「パンがなければ生きられない」のである。
生命共同体においては、「何をやってもよい」などということは出てこない。共生に
反する行為、生命の軽視・否定の思想は、「悪」として絶対に許すべからざるもの
であることは、大人の基本的な常識である。
「他者の生存を害しない」という自覚さえあれば、すべての宗教は無用・有害な
営みに過ぎない。中東において既に「証明済み」である。
549 :
前世は一在家 :2010/06/05(土) 17:52:22 ID:OPgfHsSP
>>515 >もし説一切有部が「去るものは去らない」と言っていたら、龍樹は否定して
>「去るものは去らないにあらず」と言っていたかも知れませんね。
>確かに「机上空論」、言語の論理世界では無敵の大天才かと思います。
龍樹は否定して反証したのが「八不」。
その「八不」の土台の上に積み上げたのが「中論」。
その「中論」にて釈迦仏教の「因果の法」が変えられたのが「縁起の法」。
「縁起の法」では、ビッグバーンも現在も未来も同時に存在すると説く信者
を本スレではよく見かけます。
自称哲学者であれば、了解です。自称唯物論者であれば、自然な発言でしょう。
あまりにも何度も繰り返されるんで、一応ツッコんでおくかw
>>547 >生命を無明とする釈迦こそが
ほうw
そんなことは誰も言ってないし、仏典のどこにも書いてありませんが、
いったいぜんたい、どこでお知りになったので?w
意識的?に誤解、きめつけ、トンチンカン、クロ塗りする御仁との「議論」は、 徒労です。 憐憫のまなざしでスルーするのがベターです。 どれだけ時間を無駄にしたか・・ これだけの時間に何人の女を口説けたことか・・、徒労ですた。
552 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/05(土) 20:59:25 ID:FLBoqris
>>541 『外教が説くような常住の実体としての霊魂は仏教ではこれを説かないが、人格の主体としての
業(ごう)を保持している霊魂は三世を通じて存在するものとして、これを認めている。それは不生
不滅ではなく、輪廻の主体として業や経験に従って常に変化しつつ連続する有為法である。唯識
法相の学説で阿頼耶識といわれるものもこれに他ならない。』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』春秋社刊149p)
霊魂というのは、有為法としての三世輪廻の主体だと説明しているですから、まったく「無我」とも
矛盾しませんね。
>>552 >霊魂というのは、有為法としての三世輪廻の主体だと説明しているですから、まったく「無我」とも
矛盾しませんね。
何言ってんだ? 矛盾しまくりだ。
「無我に抵触しない業論」を論証できるというならやってみな。
今まで「唯の一人も」それに成功したやつはいない。
勿論、仏教学者を含めてだ。 お前ができるというなら、どうぞ。
ただし「それは実体のないものだから」とか「それは変化するものだから」
無我と矛盾しないなどという戯言をやめろよ。それは単なる言葉遊びに
過ぎない。
俺は「普遍的実証の前段階」として、無矛盾の論理提示を重視している。
よって、お前がそれを提示できると言うなら見過ごすわけにはいかない。
お前の言う「矛盾しない」というのは、「信仰の範疇」を超えて、整合性の
とれたシステム提示ができるということだ。
やってみろ。 (笑)
555 :
神も仏も名無しさん :2010/06/05(土) 23:36:01 ID:e4V4Idc+
宝珠愚者の考えは、 「(伝統的な仏教でいう)無我に抵触しない業論」を論証することはできない。 仏陀の述べた「無我」とは業論と抵触しない意味合いであるはずだ。 究極的には語りえない「霊魂」的なものの存在を仏陀は認めている。 地上の言葉では語りえない点で「無我」といえる、 というものだったとおもう。それで前はそれは単に「非我」であって アートマンが無い、と言ったわけじゃない。と発言していた。 それでアートマンなるものは【「非(ネーティ)」としてしか語れない】、 と書いてあるヒンドゥー本を引用していた。
>>555 つまり、本音は「無我なんてどうでも良い。」
「要は死後存続する基体が欲しいために、仏教の業論を利用しよう。」
ってことか? まあ、そんなとこだろうが。
557 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/05(土) 23:42:47 ID:FLBoqris
>>554 ですから、
その輪廻の媒体である霊魂は自己の本体などではないのであるから、
「無我」でいいじゃないですか?何がオカシイ?
仏典に説く、
死後にも存続する霊体の話を紹介したばかりでしょうが。もう、忘れた?
>>265-266
558 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/05(土) 23:53:08 ID:FLBoqris
>>556 誰がどうでもいいといったのです?
一切(有為)の中には確たる自己は存在しないから、「無我」でいいのですよ。
輪廻の媒体(霊魂)も縁起の存在でしかない。この辺がヒンドゥー聖典との違いなのです。
ただ、仏教生徒がニルヴァーナも「無我」などというデタラメをいうから、ダメなの!
ニルヴァーナも無我なら、何が如何にして有為からの出離を覚知するの?(ウダーナ8:3)
それくらい経典の記述になくても自分で解りましょう、ってことです。
まっ、よくよく考えることですわ。
では、またね-諸君。
>>557 だからなあ、今まで何度も言ってきたな?
「それは我ではない。心である。」とか「4次元的なものであり、変化する
のだから恒常的な我とはいえない。」 など、「名称を変化させてる
だけで、」その本質は我と全く変わらない。」お前の言う
「自己の本体でないもの」も全く同じ。
「自己といえないものが」なんで業を引き受けなければならいか?
いったい誰の業を引き受けてるわけだ?
>仏典に説く、
死後にも存続する霊体の話を紹介したばかりでしょうが。もう、忘れた?
アホか?仏典に記述があれば、それは全て真実か?
おまえ自身が「これは比喩。これは方便。」と識別してなかったか?
少なくとも俺は「天界に住する神々」など、「無我」と全く整合性を
有せず、
ヒンドゥーからの混入であると考えている。
>>558 >輪廻の媒体(霊魂)も縁起の存在でしかない
馬鹿か?その「媒体」を仮設してしまったら、それこそ「我」だ。
それにどのような修飾語を冠しようが、実態は何ら変わらん。
業論肯定論者にできるのは唯一「縁起による」という表現まで。
その詳細なシステム、内容の提示は一切不可能。そこは、とにかく
「縁起による」というのを「信じる」しかなく、整合性のとれた
説明は不可能。 縁起一代はそこを自認し、「そこは信仰のみ」と
言い切ったから、俺はそれ以上突っ込まなかった。
お前はできるというわけだ。 やってみろや。
クソ宝珠、逃げるんじゃねえぞ。
561 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/06(日) 00:10:42 ID:A5Q6Xk0+
>>559 >「自己といえないものが」なんで業を引き受けなければならいか?
>いったい誰の業を引き受けてるわけだ?
自己の本体ではない縁起する仮説の存在(霊魂)が業を引き継ぐのですよ。
コレ常識です!
もし、それが自己の本体であり、ブラフマンと同一不可分ならば、
業を形成し、業を受け継ぐわけがないでしょうが!
>アホか?仏典に記述があれば、それは全て真実か?
>おまえ自身が「これは比喩。これは方便。」と識別してなかったか?
この私は神格化や迷信、比喩と方便の部分を識別排除するだけ。
あなたの懐疑する部分を排除したら、それはもう仏教ではなくなる。
つまり、仏教としての存在意義は無くなり、従って無用のものと化すだけ。
あなたが仏教無用論、仏教の全面的迷信論を説くなら、ご自由に。
おやすみなさい。
「逃げるんじゃねえぞ」って、こいつに言っても意味ないか。 10氏への回答に、もう半年も逃げ回っているカスだからなあ。
563 :
神も仏も名無しさん :2010/06/06(日) 00:14:00 ID:vWy9eAsb
>>557 夜叉は超自然的ではあるけれど「そういう生き物」。
>側近として生まれたのは、
このように、ちゃんと生まれてます。
こまけぇことはいいんだよ!と続けると無用な
わかりにくさが残るだけ。
564 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/06(日) 00:16:39 ID:A5Q6Xk0+
>>560 >馬鹿か?その「媒体」を仮設してしまったら、それこそ「我」だ。
>それにどのような修飾語を冠しようが、実態は何ら変わらん。
違います!
この媒体は輪廻するのが役目であり、輪廻の終了と共に消滅します。
滅するものなど仏教では「我」とはいわない。
わからないのは私ではないから!!
(コレ強調です)
565 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/06(日) 00:25:27 ID:A5Q6Xk0+
追記: 解らないなら、別にそのままでもいいと私は思います。 どうしても、解らなければならないものでもないと思うから。 私自身は矛盾無く、スッキーリと気持ちが良いです。 ただ、それだけのことですから。 マジでおやすみなさーい(良い夢を)
>>561 >自己の本体ではない縁起する仮説の存在(霊魂)が業を引き継ぐのですよ
は? アホか? 過去世における「自己といえない」者が勝手につんだ
悪行の果を自分が受けてどうする? 今世で果を受けるには、過去世において
自己と識別できる者がつんだ業だからだ。 このように業論には「対応関係」の
概念が必須であり、それを認めなければ根底からこの思想は崩壊する。
業論を論理的に成立させるには「基体の設定」が不可欠なの。
これ常識!
>つまり、仏教としての存在意義は無くなり、従って無用のものと化すだけ。
「仏教の存在意義?」 何? 「それは苦の消去では?」
>あなたが仏教無用論、仏教の全面的迷信論を説くなら、ご自由に。
一言もそんなことを言っとらんな。また、お得意の「他者の発言の捏造」かい。
いい加減に、そのクセ止めな。
誰がいつ「全面的」迷信論を言ったかな? 俺の見解は、仏典の記述には
多々「方便、比喩、神格化」等がみられるというもの。
釈迦が母のわきの下から誕生したというのも、そのひとつ。
同様に天界に関する記述も、俺は「無我」との整合性のなさから、
神格化の一端としてヒンドゥーからの混入であると考えている。
>>564 >この媒体は輪廻するのが役目であり、輪廻の終了と共に消滅します。
なんだ?これは。(笑)
お前これじゃあ、アートマンスレで散々、否定されて論破された
「アートマン」そのまんまじゃないか。
結局、「アートマン」を主張したくて、話を蒸し返しただけかい。
何か新説でもあるのかと思いきや、 あほらしい。
そして、最後は反論できずにいつもの決まり文句で逃走かい。
少しは進歩しろよ。(笑)
568 :
前世は一在家 :2010/06/06(日) 00:42:32 ID:vo70/6TL
>>552 宝珠氏
>「それは不生不滅ではなく、輪廻の主体として業や経験に従って
>常に変化しつつ連続する有為法である。」(水野)
仏の四つの説き方=四悉檀
出典:「仏教要語の基礎知識」水野弘元著(春秋社)
「仏が人々に法を説かれる場合には、相手の智慧経験の
高下浅深によって、同じ教理を示すにしても、その説き方を
違えられた。(四悉檀、中略)最後の第一義悉檀とは、右の
ような方便施設を用いず、高い智慧や能力のある者に対して、
仏法の第一義的な真実義をそのまま説かれることである。」
法華経でも、これまで「常住不変のものは無い」と説いてこられた
釈尊が一転して、「実は世界も仏(神)も実相は常住不滅である」と
説き、弥勒菩薩ら高弟でも愕然とした次第です。(如来寿量品第十六)
>>554 >俺は「普遍的実証の前段階として、無矛盾の論理提示を重視している。」
釈尊は無矛盾の論理提示に心がけていたと思われますか?
矛盾を承知で、相手の修行段階に応じて説き分けたと思われますか?
真理と真如(真理の如き方便)を使い分けてましたか。
秘書のアーナンダは釈尊の説法の矛盾性により高弟の中では一番悟りが
遅れたという逸話もどなたかが語っておりましたね。
以上、横レスにて失礼します。
569 :
前世は一在家 :2010/06/06(日) 00:48:23 ID:vo70/6TL
>>568 >法華経でも、これまで「常住不変のものは無い」と説いてこられた
釈尊が一転して、
法華経の文脈的には、縁起の法は実は方便だったということでしょう。
さて、この「仏は常住」が第一義悉檀であったのか否かは不明でしょうか。
やれやれ、今度はオカルト在家かい。 少なくとも仏教は他の宗教に比して、「論理的整合性」を重視していると 思うぞ。 お前の真光のように、無根拠で手かざしをやるような 馬鹿を推奨するとは思えんね。
571 :
前世は一在家 :2010/06/06(日) 01:10:05 ID:vo70/6TL
>>945 >偶像や悪霊の演じたものとしてでなく神々として登場している章句が
あるのかな?
(クムランテキスト、申命記32:8)
「至高なるおん方は、人類を分けられたとき、国々を割り振られた。
おん方は、神の子らの数にしたがい民族の境を固定された。」
おん方(天の父)には、神の子ら(複数の御子)がおられることを
意味しております。
572 :
前世は一在家 :2010/06/06(日) 01:15:30 ID:vo70/6TL
>>571 隣のキリスト板と間違えました。失礼。>各位
573 :
前世は一在家 :2010/06/06(日) 01:30:15 ID:vo70/6TL
>>570 >お前の真光のように、無根拠で手かざしをやるような馬鹿を推奨する
とは思えんね。
無根拠で瞑想や座禅を組んだ後に体験を通してその意味を悟るという
仏教のアプローチもあるでしょう。
手かざしをしておりますと、時々相手の憑依霊が浮霊してきて、
その人に憑依した経緯(因縁)を話したり、指で畳に字を書いたりして
伝えてきます。
通常は聞き流すだけですが、後にその憑依霊からのメッセージが正しい
ことが検証されることも度々あります。
釈尊の弟子達も入門時期に根拠を理解していた訳ではなく、修行が完成に
近づくにつれて法の意味を悟られたことと思料します。
象使いのチッタらがアートマンについて質問した時に釈尊は黙して答えません
でしたが、「私の弟子として修行すれば分かる」とも説かれております。
(長部経典「ポッタパーダ経」)
574 :
神も仏も名無しさん :2010/06/06(日) 01:34:49 ID:SwAHDJsN
>>550 >>生命を無明とする釈迦こそが
>ほうw
>そんなことは誰も言ってないし、仏典のどこにも書いてありませんが、
「無明によって生活作用があり・・・。生活作用によって識別作用があり・・・、
・・・ないし・・・このようにして、この苦しみのわだかまりがすべて生起する。
しかし・・・このわだかまりがすべて止滅する。」
(Vinaya, Mahavagga I, 1, 1-7)
生活作用が生じるのは、「生命」以外にはない。己自身の「生活作用(説法等)」
も無明によって起こっていることになる。
Snのダニヤの章からだけでも、釈迦の「一切衆生の生活の軽視・否定」は、明白に
証明されている。釈迦が真に偉大であれば、むしろダニヤこそ讃えるべきであった。
大乗は、もはや「苦」は問題にしていない。釈迦の狂気と倒錯を是正したのである。
>>573 >手かざしをしておりますと、時々相手の憑依霊が浮霊してきて、
その人に憑依した経緯(因縁)を話したり、指で畳に字を書いたりして
伝えてきます。
通常は聞き流すだけですが、後にその憑依霊からのメッセージが正しい
ことが検証されることも度々あります。
wwwwwwww
とにかく、そういう話はオカルトスレで。
万が一、こういうとこで話すと、それを信じちゃう奴がいないとも
限らんのでね。
今度は隠居かい。 ほらほら、隠居。 カルト信者の在家がいるぞ。 叩かんでいいのか?(笑)
577 :
神も仏も名無しさん :2010/06/06(日) 02:00:32 ID:SwAHDJsN
>>576 釈迦仏教とキリスト教とを徹底的に叩いておけばよい。すべてのカルト
は、この両者から発生している。両者こそ、カルトの根源であることに
気付け。
なんだ? 在家のような小物はほっとけということか?(笑) しかし、こいつは最近、キリスト教スレに常駐して、しきりと イエスを語っているぞ。
579 :
前世は一在家 :2010/06/06(日) 02:13:56 ID:vo70/6TL
>>577 言語論理学世界のみで空を証明した「中論」は叩く必要はないでしょう。
ただ、バーチャル世界の証明をリアル世界の証明だと勘違いしたまま
論理世界に嵌っている方には一言声をかけております、お節介ですが。
580 :
前世は一在家 :2010/06/06(日) 02:30:50 ID:vo70/6TL
>>579 >ただ、バーチャル世界の証明をリアル世界の証明だと勘違いしたまま
>論理世界に嵌っている方には一言声をかけております、お節介ですが。
ビッグバーンと現在と未来は同時に存在すると主張されますので、
バーチャル世界、論理世界に嵌っている方を容易に認識できます。
581 :
神も仏も名無しさん :2010/06/06(日) 02:36:57 ID:SwAHDJsN
>>536 君の考えこそ、小学生的で浅薄。出てゆく卒業生や教師の代わりに、新入生
や新たな教師が入ってこなければ、教育機関としての同一性は維持されない。
まさに「相補的」ではないか。「外部の状況(例えば人口や教師数の減少)に
より、新入生や教師の数が激減すれば、その学校は「廃校」の憂き目を見る。
外部の状況により、新入生や新教師の数が多すぎれば、分校や別の学校を作ら
なければならない。卒業生があるからこそ、新入生が入れる。卒業生や教師が
居座ったらどうなるか。
君たちが執拗に相補性に反対するのは、それを認めると、釈迦の縁起(因果関係)
が崩壊して、「業報」の根拠が消滅するからに過ぎない。
>>581 >君たちが執拗に相補性に反対するのは・・・
何言ってんだ? 俺がいつ「相補性に反対した」???
お前、マジで頭おかしいの?
ホントに頼むから、せめて「中学生並みの」読解力を身につけろや。
俺が言ったのは「動的平衡」と「相補性」ってのは、違う概念ですよって
ことだけ。
あの小学校の喩えを見てもホントに理解できなかったわけ?
おそらく、お前以外の全ての人間は理解できてると思うぞ。
>>581 隠居、これは真面目に言うが、お前本当に最近、精神に
異常を感じてないか?
>>581 のレスはどう見ても異常なんだが。
まず、俺が誰だかわかるか?
このスレでは、「業論」の批判者の筆頭だと、自分では思っている
んだがな。 その俺に対して、
>・・・釈迦の縁起(因果関係)
が崩壊して、「業報」の根拠が消滅するからに過ぎない。
これは? もう、自分で何言ってるのか、わからなくなってるんじゃないのか?
自分に対して、批判的レスをする者は全て「釈迦の原始仏教、または キリスト教の信奉者である。」 みたいな、被害妄想的な観念に取り付かれて 正常な判断ができなくなっているんじゃないのか? マジで初期の統合失調症の症状ではないかと思うのだがな。
良い子の皆さんは認知症のお方の立場に立ってそっと見守ってあげませう。 クソ、バカ、マヌケ、アホ、基地外などは禁句です。 エゴイストの認知症の方ほど自尊心が強く、妄想癖があり、許容性に乏しく、凝り固まる傾向があります。 他者の意見はまず聞き入れません。 年寄りに頑固なお方が多いのは、初期認知症の発症があるからです。 良い子の皆さんは暖かく見守り、スルーしてあげましょう。
586 :
神も仏も名無しさん :2010/06/06(日) 07:29:51 ID:PYh37FaK
>>585 >エゴイストの認知症の方ほど自尊心が強く、妄想癖があり、許容性に乏しく、凝り固まる傾向があります。
>他者の意見はまず聞き入れません。
>年寄りに頑固なお方が多いのは、初期認知症の発症があるからです。
それって、君たちが愛着して止まない釈迦(やイエス)にも当てはまりませんか。
開祖の精神状態の診断から、まず初めてくださいね。
>>589 あなたがそう思うなら
⇒暖かく見守り、スルーしてあげましょう。
わざわざ時間を潰してこのスレに出入りしなくてよいのです。
小さな親切、余計なお世話です。
588 :
神も仏も名無しさん :2010/06/06(日) 07:55:59 ID:PYh37FaK
>>587 開祖の精神状態の診断だけは、何故絶対にできないのか。その自分の精神状態(一般に、
宗教のマインドコントロールといわれる)も併せて診断すべきだろう。
宗教のマインドコントロールは、自傷・他害の恐れがあるから、暖かく見守る訳には
行かない。
589 :
神も仏も名無しさん :2010/06/06(日) 08:02:51 ID:PYh37FaK
麻薬は、依存性を生じ、結局は心身を蝕み、破壊する。だから、厳しく取り締まられて いう。「自分が気持ちいいから」では済まないのである。 明らかに精神の麻薬である宗教も、厳しく禁止し、取り締まる必要があるのではないか。
590 :
神も仏も名無しさん :2010/06/06(日) 08:11:56 ID:PYh37FaK
>>587 「麻薬の取り締まり」が、小さな親切・大きなお世話か。本人と社会とを
防衛するためではないか。
麻薬と宗教との弊害を比較してみるとよい。
またポッタパーダ経か・・・。
>>573 捏造すんな。
そんなことは微塵も書かれていない。
>>574 菩提樹下の十二縁起か。
相変わらず、トンデモ訳に基づいたトンデモ解釈なんだな。
んとに、馬鹿馬鹿しくなってきたが、一言だけ指摘しておく。
一千億歩譲って「生活作用」という読みを受容したとしても、(いや、やっぱりありえないが・・w)
『 >生活作用が生じるのは、「生命」以外にはない 』←これが、
脈絡無き「唐突な」前提になってるのが解らんらしい・・。
また、『“それ”は無明によってある(生じている)』という、自身の引用によっても、
『無明=生命という意味にはならない』ということも解らんらしい・・。
在家といい隠居といい宝珠といい、なんだかもう、
ねっとりとした疲労感に包まれちまうな・・・ orz
>>588 耄碌隠居の精神状態の診断だけは、何故絶対にできないのか。その自分の精神状態(一般に、
自縄自縛のマインドコントロールといわれる)も併せて診断すべきだろう。
自縄自縛の認知症患者のマインドコントロールは、自傷・他害の恐れがあるから、
暖かく見守る訳には行かない。
>>590 釈迦仏教は信仰宗教ではない。
水野弘元の仏教は信仰宗教である。
生命根源教はアプリオリに生命を根源と信じ込む信仰宗教である。
アートマン教といってもいい。
従って、認知症隠居の論によれば撲滅対象でなければならない。
釈迦仏教は超越性(宝珠神智)だとか、根源性(隠居生命教)だとか、業論了解=信じ込み(水野小乗)、などは認めない。 これらは実質的な『神』観念以外のなにものでもない。 たとえ仏教を名乗っていても、ヒンドゥまたはジャイナ潜入『仏教』である。
>>590 認知症隠居
俺は親切だから、措置入院制度を教えておいてやる。
「ただちに入院させなければ、精神障害のために自身を傷つけ、または他人を害するおそれがある」と、2名の精神保健指定医の診察が一致した場合、
都道府県知事または政令指定都市の市長が、精神科病院等に入院させる制度(精神保健法27条、29条)だ。
ただちに都立松沢病院を受診することを薦める。
597 :
神も仏も名無しさん :2010/06/06(日) 10:43:47 ID:bCWzQeim
>>591 >菩提樹下の十二縁起か。
>相変わらず、トンデモ訳に基づいたトンデモ解釈なんだな。
>んとに、馬鹿馬鹿しくなってきたが、一言だけ指摘しておく。
>一千億歩譲って「生活作用」という読みを受容したとしても、(いや、やっぱりありえな>いが・・w)
>『 >生活作用が生じるのは、「生命」以外にはない 』←これが、
>脈絡無き「唐突な」前提になってるのが解らんらしい・・。
>また、『“それ”は無明によってある(生じている)』という、自身の引用によっても、
>『無明=生命という意味にはならない』ということも解らんらしい・・。
これは、中村元氏の訳。中村氏は、大乗にも通暁しているのだから、考え抜かれた
訳文だと推定される。
「生活作用」の原語は何か。死者に「生活作用」が生じるかw。「無明によって生活
作用があり」に、「生活作用は無明から生じる」以外の解釈がありうるか。釈迦の
「説法」が「生活作用」でなければ、それは一体何か。釈迦も、説法により収入
を得て生活した。僧侶も、食ってゆくための職業のうちの一つである。
釈迦仏教の基本だから、詳しく教えてください。トンデモ訳、トンデモ解釈では
ない、貴方自身の訳と解釈を示してくださいw。
>>581 >出てゆく卒業生や教師の代わりに、新入生
>や新たな教師が入ってこなければ、教育機関としての同一性は維持されない。
この、「同一性を保とうとする機能」が、「動的平衡」の事。
「相補的」ではないw
>「外部の状況(例えば人口や教師数の減少)に
>より、新入生や教師の数が激減すれば、その学校は「廃校」の憂き目を見る。
その通り。
福岡氏の本にもあったが、動的平衡の緩衝能力以上の変動があると、
平衡点を保持しきれなくなり、平衡が崩れてしまう。
>外部の状況により、新入生や新教師の数が多すぎれば、分校や別の学校を作ら
>なければならない。
コレも書いてあったが、平衡に完全に崩れない程度の外部状況の変化があれば、
新たな平衡点(分校など)が生まれる事になる。
>卒業生があるからこそ、新入生が入れる。卒業生や教師が
>居座ったらどうなるか。
これが、動的平衡の「動的」の意味。
常に、新陳代謝して、入れ替えが起こっている。
以上、お前さんの例示は、いずれも「動的平衡」の説明にはなっているが、「相補性」は全く関係ない。
小学校の、相補的な部分は、
「子供が入ってきたら、対応する年齢の学年に配属され、
教員免許を持っている人間が入ってきたら、生徒ではなく、教師となる」
という部分。
「出てゆく卒業生や教師の代わりに、新入生や新たな教師が入って、教育機関としての同一性を維持する」
という機能は、「動的平衡の機能」であって、相補性の概念とは全く別。
>>581 >君たちが執拗に相補性に反対するのは、それを認めると、釈迦の縁起(因果関係)
>が崩壊して、「業報」の根拠が消滅するからに過ぎない。
アホかw
>>583 が指摘しているが、俺も、業報を批判する立場だぞ?w
認知症隠居の決め付ける釈迦仏教とは、龍樹「中論」の論敵となった 説一切有部や上座部などのアビダルマ部派をいう。 やっぱりドンキホーテ的認知症だ。
>>597 自分のせいじゃなく、引用元の文を書いた者のせいにするかw
宝珠や在家も、全く同じ「逃げ」を打っていたな。腐り切っとるな・・。
こういう姑息さにはつくづく呆れるほかはない。
>「生活作用」の原語は何か
知らねーよwwwww
そんな訳語にはお目にかかったことがない。
よって、≪「生活作用」の原語を提示する義務があるのは貴方の方≫ですよ?w
604 :
前世は一在家 :2010/06/06(日) 13:49:55 ID:vo70/6TL
>>573 >象使いのチッタらがアートマンについて質問した時に釈尊は黙して答えません
>でしたが、「私の弟子として修行すれば分かる」とも説かれております。
>(長部経典「ポッタパーダ経」)
【ポッタパーダへの釈尊の分析】
「ポッタパーダは、異教の見解・忍耐・目的・実践・師によっているから
『心理作用とアートマンは異なる』ということを、知り難いのです。」
(※文脈から見て、釈尊を師とすれば正解が分かるという意味でしょう。)
8:1 (因縁略)。 『比丘たちよ、このような境地(Ayatana)があります(atthi)。 そこには、地(paThavI)もなく、水(Apo)もなく、火(tejo)もなく、風(vAyo)もなく、 空無辺処(AkAsAnaJcAyatana)もなく、識無辺処(viJJANaJcAyatana)もなく、 無所有処(AkiJcaJJAyatana)もなく、非想非非想処(nevasaNNAnAsJJAyatana)もなく、 この世(loka)もなく、あの世(paraloka)もなく、月・太陽(canima-suriya)の両者もありません。 比丘たちよ、私は、そこに来ること(Agati)も、行くこと(gati)も、止(とど)まること(Thiti)も、 没すること(cuti)も、生まれかわること(upapatti)も説きません(na vacAmi(vadAmi))。 依り所のないもの(appaThitta)、生起のないもの(appavatta)、 所縁のないもの(anArammaNam)が、すなわちこれ(etamM)です。 これがすなわち苦の終わり(anto dukkhassa)です』 8:2 (因縁略)。 『「不屈(anata)というものは、見難い(duddasa)。 なぜなら、真理(sacca)は見易いもの(sudassana)ではないからである。 知る者(jAnato)に、渇愛(taNhA)は洞察され(paTividdha)、 見る者(passato)にいかなるもの(kiJcana)も存在しない(natthi)。』 8:3 (因縁略)。 『比丘たちよ、 生まれもしないもの(ajAta)、生成もしないもの(abhUta)、 作られもしないもの(akata)、形成されもしないもの(asaNkhata)がある(atthi)。 比丘たちよ、もし、 生まれもしないもの、生成もしないもの、作られもしないもの、形成されもしないものがなければ、 この世において(idha)、 生まれるもの(jAta)、生成するもの(bhUta)、 作られるもの(kata)、形成されるもの(saNkhata)の出離(nissaraNa)は知られないであろう。 しかし、比丘たちよ、 生まれもしないもの、生成もしないもの、作られもしないもの、形成されもしないものがあるから、 生まれるもの、生成するもの、作られるもの、形成されるものの出離が知られる(paJJAyati)。』
8:1 ''atthi, bhikkhave, tad AyatanaM, yattha na eva pathavI, na Apo, na tejo, na vAyo, na AkAsa-anaJcAyatanaM, na viJJANaJcAyatanaM, na AkiJcaJJAyatanaM, na nevasaJJAnAsaJJAyatanaM, na ayaM loko, na paraloko, na ubho candimasUriyA. tatra-apa-ahaM, bhikkhave, na eva AgatiM vadAmi,na gatiM, na ThitiM, na cutiM, na upapattiM; appatiTThaM, appavattaM, an ArammaNaM eva etaM. esa eva anto dukkhassA'' ti. 8:2 ''duddasaM anataM nAma, na hi saccaM sudassanaM; paTividdhA taNhA jAnato, passato natthi kiJcanan'' ti. 8:3 ''Atthi, bhikkhave, ajAtaM abhUtaM akataM asaNkhataM. No cetaM, bhikkhave, abhavissa ajAtaM abhUtaM akataM asaNkhataM, nayidha jAtassa bhUtassa katassa saNkhatassa nissaraNaM paJJAyetha. yasmA ca kho, bhikkhave, atthi ajAtaM abhUtaM akataM asaNkhataM, tasmA jAtassa bhUtassa katassa saNkhatassa nissaraNaM paJJAyati'' iti. 8:4 ''nissitassa calitaM, anissitassa calitaM natthi. calite asati passaddhi, passaddhiyA sati nati na hoti. natiyA asati Agatigati na hoti. AgatigatiyA asati cutu-upapAto na hoti. cutu-upapAte asati nevidha na huraM na ubhayamantarena. esa eva anto dukkhassa'' iti.
608 :
神も仏も名無しさん :2010/06/06(日) 16:59:20 ID:ZxoQQx1Z
>>601 >そんな訳語にはお目にかかったことがない
仏典を広く読んではいないということだな。小乗ばかりに異常に執着するから、
そういうことになる。大仏教学者の中村元氏が、ありきたりの仏教語ではなく、
何故「生活作用」という誰にも理解できる言葉を使用したかを、充分に考えて
みる必要があろう。軽々しく、「トンデモ訳」「トンデモ解釈」などというべ
きではあるまい。一般人が読めば、私の解釈以外の解釈は出てこない。
ちなみに、中村氏は「涅槃」を「安らぎ」と訳しているようだ。これなら誰
にも理解できる。「境地」では、「どんな境地」なのかさっぱり分らん。
それに、一切衆生は、生存努力から得られた、それぞれの「境地」を有する。
ダニヤの「境地」こそ、「涅槃」に相応しい。そこには、充実した、深い
「安らぎ」がある。その安らぎを破壊して、ダニヤを狂わせたのが、超カルト
教祖としての釈迦である。
釈迦は、「悟った、悟った」と大騒ぎしているが、悟るとこんなに大騒ぎする
ものなのかw。釈迦の「自画自賛」ぶりは、常軌を逸している。原始仏典を
読んで得られるものは、釈迦の「狂気」のみである。
609 :
神も仏も名無しさん :2010/06/06(日) 17:21:18 ID:Z4OmO9y5
質問です。 今日はじめて教会に行きました。 作家三浦綾子の「信仰入門編」を読んだことがきっかけで聖書を読み始めた ことから、近所にあるプロテスタント教会へ行ったみたのです。 下記質問を、よろしくお願いします。 質問1 伝導係みたいな人が丁寧に隣で教えてくれましたが、面白さというか 心ひかれるものがないまま、帰ってきてしまいました。 最初はこんなものでしょうか? また、教会へ行かなくても聖書を読み、神を信じることだけでも信仰は成り立ちますか? 質問2 礼拝の最後に「今日はじめていらした、〇〇町一丁目からお越しの名無しさんです。」 とフルネームで呼ばれ、立つように促され、お辞儀だけしてきました。 知らない人ばかりの中で住所名前をいきなり公表されたことに抵抗を感じたのですが、 ふつうのことでしょうか?
>>609 .| | | | | | | | | | || | |
.| | | レ | | | | | J || | |
∩___∩ | | | J | | | し || | |
| ノ\ ,_ ヽ .| レ | | レ| || J |
/ ●゛ ● | .J し | | || J
| ∪ ( _●_) ミ .| し J|
彡、 |∪| | .J レ
/ ∩ノ ⊃ ヽ
( \ / _ノ | |
\ " / | |
\ / ̄ ̄ ̄ /
 ̄ ̄ ̄ ̄
キリスト教スレと、仏教スレに常住している人間の、釣りレス誤爆か?w
>>608 wwwww
貴方は「煩悩の全面肯定者」じゃなかったでしたっけ?w
「涅槃」とは「煩悩の滅した境地」のことを言うんですよ? (だから、「安らぎ」という【意訳】が許容されるのですが・・(^^;))
つか、 『そういう定義』 なのですw
ですから貴方は、≪「涅槃」(という境地)をこそ否定、排斥せねばならない≫筈ですが?
認めちゃっていいんですか?w
で、「生活作用」の原語は何?w
で、大人は「くまのぬいぐるみ」を用いるの?用いないの?w
612 :
神も仏も名無しさん :2010/06/06(日) 19:24:17 ID:oNRVj+C/
>>611 「煩悩」が、「環境に適応して生命を維持するために不可欠な心的現象」である
ことを悟れば、煩悩は、もはや「苦」ではなくなる。むしろ、「生きていること
の証」として、「大いなる安らぎ(涅槃)」に転化する。
釈迦は、12因縁において、「生命現象のすべて」を「苦」として排除する。
これは、「生命の否定」以外の何物でもない。但し、己の生命現象(苦から
の離脱の欲望・煩悩)だけは、ちゃっかりと維持しているw。自己矛盾である。
隠居wwwよいことを教えてやろうwww 群れで暮らすチンパンジーは外に向かって戦争を仕掛ける ある群れが分裂したときに かつての仲間や肉親の相手と殺し合い 片方がもう一方を全滅させた チンパンジーには致命傷負わせる武器がないので 孤立した敵を数時間かけて殴ったり噛み付いて殺すんだとw 何でこんなことが起きるんだい?w
615 :
神も仏も名無しさん :2010/06/06(日) 19:35:45 ID:oNRVj+C/
>>611 >で、「生活作用」の原語は何?w
それをここの「小乗仏教徒」に尋ねているのだが、誰も判らないらしい。12因縁の
順観の二番手だから、「行(samskara)」ではないの?
>で、大人は「くまのぬいぐるみ」を用いるの?用いないの?w
大人は、「くまのぬいぐるみ(宗教)」という「おもちゃ」は用いる必要がない。
おもちゃが必要なのは子供だけ。
616 :
神も仏も名無しさん :2010/06/06(日) 19:53:00 ID:oNRVj+C/
>>593 >日本の現行法による明確な法的根拠を出してください。
宗教は、反世俗の営みのはずだろ。法律は、世俗の最たるもの。宗教なら、法律の
縁って立つ基盤を思考すべきもの。
しかし、どういう訳だか、宗教団体は、やたらと法律に頼りたがるw。
>>616 お前のイエを探し出して実力行為がいいんですねwww
619 :
神も仏も名無しさん :2010/06/06(日) 21:29:41 ID:zTxifmAM
>>617 >「saNkhAra、saMskhAra」なれば、
>「生活作用」などという日本語は『通仏教的に』不適切だ。
>それとも、『貴方の大好きなwww』岩波辞書にでも載ってるんですか?w
「通仏教的に」、「行」にはどれほど多数の意味があるか、まず岩波辞書で確かめる
こと。翻訳は、「辞書の字面」に頼るのではなく、文脈からその「真意」を探り出すこと。
「直訳」は、「翻訳」ではない。中村氏の訳がどれほど考え抜かれたものであるかを
理解すべきである。以前のレスで出た、平川氏の「世俗的なことにもとづかなくては」
の訳も同様。
宗教は、宗教者にとっての「大人のおもちゃw」。
釈迦の方法では、「苦から逃れる欲望」という「新たな苦」が生じるから、ダメである。
「苦」を「生」の一部として取り込み、昇華させ、よりよき生への更なる原動力とする
ことが、本当の「苦の除去」である。
620 :
アントニオ・インキョ :2010/06/06(日) 21:53:34 ID:3AUIURMF
生命唱えてますっかぁっ!!!! 生命唱えれば何でもできる!! メシア救世主インキョ師のお言葉に間違いないと信ずべきである。 一神教の様に、代わりに。 メシア救世主インキョ師のお言葉は世界の真実よりも先行してある。 インキョ師聖書にある、 「初めにインキョ師の言葉があった、 インキョ師の言葉が世界を構築した」 すなわち、メシア救世主インキョ師のお言葉は世界の真理を創造するのであり、 メシア救世主インキョ師は創造主であり、 それ故に、 偉大なるメシア救世主インキョ師のお言葉信じることが、「誰が言っても真理」のことである。 と言う意味なのである。 また、偉大なるメシア救世主インキョ師は創造主であるがために、 下等な宗教者達に回答する、しないの主権、権力、裁量権をもっている。 下等な宗教者達は、偉大なるメシア救世主インキョ師のお言葉に反することを許されないのである!! 偉大なるメシア救世主インキョ師のお言葉信じよ!!!!
621 :
アントニオ・インキョ :2010/06/06(日) 22:12:44 ID:3AUIURMF
生命唱えて信じてますっかぁっ!!!! 生命唱え信じれば何でもできる!! インキョ師は関西大阪神戸近辺の生活者では心配している。 偉大なるメシア救世主インキョ師の憎いキリスト教会への消火器投げ込みのテロ行為が発生しているからだ。 偉大なるメシア救世主インキョ師は聖戦がお好きですから。
一個アンカー間違った。
>>619 >平川氏の「世俗的なことにもとづかなくては」の訳も
>>58
625 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/07(月) 00:43:37 ID:lfYoqBr7
>>566 >は? アホか? 過去世における「自己といえない」者が勝手につんだ
>悪行の果を自分が受けてどうする? 今世で果を受けるには、過去世において
>自己と識別できる者がつんだ業だからだ。 このように業論には「対応関係」の
>概念が必須であり、それを認めなければ根底からこの思想は崩壊する。
>業論を論理的に成立させるには「基体の設定」が不可欠なの。
>これ常識!
それは、同一の魂(これは輪廻する間だけ媒体として存在する)だからです。
尚、これは他人のではなくて、あくまでも自己の魂ですから、その辺を誤解なきようお願いします。
そして、自己の魂ではありますが、自己(我)そのものではないと。
これが理解できない内は無理ですから。
これ常識!
>俺の見解は、仏典の記述には
>多々「方便、比喩、神格化」等がみられるというもの。
>釈迦が母のわきの下から誕生したというのも、そのひとつ。
了解しました(識別しようという姿勢はいい)。
また、“脇の下話”が神格化の迷信だという判断は、この私と全く一致ですね^^
626 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/07(月) 00:44:47 ID:lfYoqBr7
>同様に天界に関する記述も、俺は「無我」との整合性のなさから、
>神格化の一端としてヒンドゥーからの混入であると考えている。
この辺の識別に問題が生じているようです。
仏典に説くような心霊話
>>265-266 は、なにも迷信ではありませんよ。
この誤解が晴れれば、無我の誤解も転生の誤解もあなたなら氷解することでしょう。
私自身は自己体験によって、心霊の実在を事実と知っていますから(まっ、体験しなくても解ってたが・・・)。
まず体験することですね(て、どうやって?w)。
なんなら、真光にでも出向いてみたら如何です?
ここなら心霊現象の事実について確認できるらしいですよ!
まっ、私だったら自分の目と足で真偽の確認に出向きますがね・・・。
(実際、20歳頃にどんなところか1度だけ行ってみたことはある。「崇教」のほうでしたが・・・)
>>575 >万が一、こういうとこで話すと、それを信じちゃう奴がいないとも
>限らんのでね。
たぶん、あるでしょね!
私は心霊現象そのものを(悟りに到る教えとしての価値としては)殆ど重視はしませんが、
けれども、現象で苦しんでいる人々を無視できるというものでもないし、
そして、この分野で真摯に奉仕に打ち込んでいる本物の霊能者たちもいます。
また、唯物主義者が自己の誤った見解を打ち破るキッカケとしては、これも十分に役立つ世界ではある。
在り得ないと考えていた心霊の実在を認めざる得ない自己体験を得ると、
当然、その人の人生観は180度転換するでしょうね(当然、正しく良い方向へと)。
そうなるとき、経典中のブッダの言葉に対する姿勢も変わるでしょう。
こんなものは当たり前のことであり、不思議でも何でもない。
寧ろ、無い方が不自然でどうかしてるでしょう。
627 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/07(月) 00:53:17 ID:lfYoqBr7
>>567 わたしは論破された覚えは1度もありません。
あなた方が理解できないだけのこと。
自分の無理解(無知)を相手のせいにしないことです。
>>491 >再度言います。「無為なる意識なぞあり得ません」。
ではセブン、
何が現象界からの出離をそれとして自覚するのでしょうか?
628 :
アントニオ・インキョ :2010/06/07(月) 00:53:21 ID:mg7JKqZL
宝珠愚者は真光か・・・ 程度の低い妄想体系の・・ スレ中心者も大概だから、まあ・・・ 妄想錬金術ていうのが新興宗教の特色。
629 :
アントニオ・インキョ :2010/06/07(月) 00:55:44 ID:mg7JKqZL
妄想体系大量生産にシフトすると 妄想体系を製造する嗜好を繰り返す。 同じ妄想体系を繰り返す喜びは人間には確かにある。
@
>>625 >そして、自己の魂ではありますが、自己(我)そのものではないと。
馬鹿か?それが単なる「言葉遊び」だっての。
なんだ? 「自己の魂」ではあるが「自我」ではない。 てのは?
肝心のそこの説明が全くないだろうが? それは、お前に限らず、多くの
者が「無我との整合性」をつけるために、やってきた言葉遊び。
代表的なのは、あげたな?
「輪廻するのは『心』であって、それは『実体のないものだから』無我である。」
「輪廻するのは4次元的なものであり、これは変化するから『無我』である。」
お前はこれらが何の説明にもなってないこともわからないくらいバカなのか?
「業の継承の対応関係」が成立しなければ、「業論」自体が根底から成り立たないわけ。
自分と全く関係のない他人が犯した殺人の業を自分が被ったら大変でしょ?
そしてここには「はっきりと自己と他者という概念が不可欠なの。」
過去のAさんが犯した殺人の業は、その生まれ変わりであるaさんが引き受けるわけだ。
それを全く関係のないbさんが被ったのでは、たまらんわな?
aさんが殺人の業を甘んじて受けるには、過去のAさんを「自分である」と考える
ことができるだけの何かが不可欠なわけだ。つまり
Aさん→aさん へと「継承、連鎖する何か」が必要なの。そして、それは
Bさん→bさん へと「継承、連鎖する何か」とは異なるわけ。
そしてこの「継承、連鎖する何か」とは、aさんとbさんとを「異なるもの」と
識別する属性を有するもの なわけだ。 それを「心と呼ぼうが、4次元的なものと
呼ぼうが、霊と呼ぼうが呼称はどうでもよい。」 肝心なのは「それが基体どうしを
分別する属性を有する」ことなんだよ。 そして
「自己と他者を識別する属性」 これこそが「我」だ。
わかったか? 「業論と無我は両立しえない。」これは論理的整合性においては、
絶対なんだよ。 今まで「唯の一人も」それを論証し得たものはいない。
全てが「言葉遊び」による誤魔化しなの。
A
>>626 >仏典に説くような心霊話
>>265-266 は、なにも迷信ではありませんよ。
はい。それらが現実に観測、確認、実証された例は現時点において皆無。
>私自身は自己体験によって、心霊の実在を事実と知っていますから
はい。その「お前の体験」が「お前の認知システムの異常でない」ことを
実証しなければ、「ワシは神様と話をした。」と言ってる病院の患者さんと
何ら変わりがないわけだが?
(さらに、これは助言だが、その『体験』とやらが、何度も繰り返される
ようであるなら、一度専門医に相談したほうが良いと思うぞ。)
>なんなら、真光にでも出向いてみたら如何です?
お前は、人にカルト入信を薦めるのか?
隠居が怒るぞ。(笑)
>そして、この分野で真摯に奉仕に打ち込んでいる本物の霊能者たちもいます
そしてその結果、「その心霊現象が普遍的現象であると実証されたこと」が、「唯の
一度もない」事実から目をそらさないように。
B>在り得ないと考えていた心霊の実在を認めざる得ない自己体験を得ると、・・・
「自己体験」ね。そこが問題なのが理解できないのが、お前らオカルトマニアの
最大の問題点なの。例えばなあ、
「僕は昨日、不思議な体験をしたんだ。僕の部屋に突然、坂本竜馬と西郷隆盛の
霊が現れて、フォークダンスを踊り始めたんだ。これは絶対、ホントなんだ。
だって僕も一緒に踊ったんだから。」 と、
このような「霊の存在を認めざるを得ないような体験」を語る人がいたら
どうする? この話を聞いたほとんどの者が、まず冗談を言ってると考えるな?
そして本気で言ってるとわかれば、それ系の病院に行かせるわ。
お前の言ってることは、これと変わらないわけだ。
>>627 >わたしは論破された覚えは1度もありません。
うんうん、お前がこう言うのは理解できるわ。 つまり、
「自分が論破されたことも理解できてないわけね。」
633 :
前世は一在家 :2010/06/07(月) 06:44:44 ID:oeo256Ec
>>631 >はい。その「お前の体験」が「お前の認知システムの異常でない」ことを
>実証しなければ、「ワシは神様と話をした。」と言ってる病院の患者さんと
>何ら変わりがないわけだが?
故人しか知らない事実を、家族以外にかかった憑依霊が語ったのを複数人で聞き、
後日複数人で確認して検証されたという事例は多数あります。
その地域で有名な○○姫の話などでなく、独りで亡くなった日の出来事などです。
これは私の所属するグループで数年以上実践している者ならば体験済みです。
>>633 だからなあ、在家よ
>故人しか知らない事実を、家族以外にかかった憑依霊が語ったのを複数人で聞き、・・
「故人しか知らない事実」 これがどのように担保されてるわけ?
そんな与太話は本屋に行けばいくらでもそれ系の本を入手できるわ。(笑)
そういうレベルの話を安易に「霊の存在が実証された。」などと信じ込んで
しまうから、お前らは簡単にカルトに引っかかってしまうんだよ。
>これは私の所属するグループで数年以上実践している者ならば体験済みです。
そりゃ、お前ら「まひかり」は手かざしなど本気で信じ込んでるわけだから
当然、みんな信じるわな。
>>627 サンスカーラ宝珠
>現象界からの出離
現象界⇔超越界の二項相対の妄想にすぎない。
世間とニルヴァーナにはいかなる間隙もないからである。(中論25-19・20)
そういう妄想を廃した状態であるがままを直覚することを
パーリ語やプラークリットでは abhisamaya(現觀)が生じる(を得る)というのだよ。
ブッダの悟りとはそういうものだ。
saMskhAra=行は形成力、意志作用、他に対するはたらきかけのことだが、
そういう妄想を産み出す誤れる思い込み(←無明)として作用する。
サンスカーラ(宝珠+隠居+在家)三馬鹿カルト・トリオには
馬の耳の念仏、馬耳東風、猫に小判、豚に真珠だなw
「本当の自分」というものがある。それは身体が滅んでも決して 滅することはない。それを仮に霊と呼ぼう。 これは修行することにより、どんどん高めていくことができる。 次元をあげていくことができる。 そして、我々の真の目的は、そのような高い次元に到達することである。 そして、聖なる永遠の存在となることだ。 と、まあ、こんなとこかな? 「電波さんたちが」言うことは。 「自分が信じることは」自由だ。しかし、それを悩んでいる人に 「真実であるかのように語り」、引きずりこむのは止めろよ。 ましてや、心理セラピーの限度を超える「心霊治療」などは、もってのほかだ。 わかった?
サンスカーラ隠居の「生命根源」などはもちろん 無明saMskhAraによる妄想だ。 abhisamaya(現觀)=中道ではありえない。 サンスカーラ在家は妄想×妄想の論外だ。
639 :
神も仏も名無しさん :2010/06/07(月) 12:59:33 ID:EnwODjNR
宝珠や在家だけをいくら批判しても無理。彼等も、キリスト教と釈迦仏教の影響を 受けたためこうなった。聖書や原始仏典には、「この手の話」はいくらでも出てくる。 両教を信じながら、宝珠や在家をいくら批判しても、それは単なる「異端論争」に 過ぎない。いずれも、「同じ穴の狢」。 釈迦やイエスが、「すべて」は、己の「生命現象を現している肉体」、即ち「生命」 から発していることをすっかり忘却し、生命の機能の一つに過ぎない「観念」を至上 とする、本末転倒、倒錯に陥ってしまったからである。そして、その生命は、五感で 知覚できる世界、即ち現実界以外では、瞬時も維持できないのである。 すべての動物は、生まれた瞬間からこのことを知り、現実界に適応して、ひたむきに 生存しようとする。進化の過程を通じて、この生存のためには、己の肉体さえ変化 させてきた。 知らないのは、開祖の精神障害が感染して「観念の遊戯」に陥った宗教者だけである。
>>639 >宝珠や在家をいくら批判しても、それは単なる「異端論争」に
>過ぎない。いずれも、「同じ穴の狢」。
そのおなじ穴には、サンスカーラ隠居というしょぼい認知症患者もいることを忘れるなw
ところで、この<saMskaara(サンスカーラ)による「主観や思い込みによって捉えられた世界」>と,
<「あるがままの世界」=そのabhisamaya(現觀)>との間には必ずギャップがある.
この誤れる思い込みによるギャップのことを「苦」(行苦:saMskaara-duHkhataa)という.
そしてサンスカーラを抑え,「あるがままに世界を見る」ことに縁って「苦」を超克することをブッダは薦められた。
これって、釈迦仏教の基本中の基本、初歩中の初歩でしょ。
超越も生命根源観念もなにもない、ひたすらあるがままでしょ、釈迦仏教は。
いわば歪んだサングラスをはずして、裸眼のままで観えるものに超越も根源もヘチマないのは当然でしょ。
龍樹が世間とニルヴァーナにはいかなる間隙もない(中論25-19・20)っていうのは当然だよね。
歪んだサングラスを外して、な〜んだそうだったんだ!って納得するのだから。
641 :
神も仏も名無しさん :2010/06/07(月) 13:46:08 ID:dPFYw0WE
>>640 その「釈迦仏教の基本中の基本」が釈迦の鬱病から生じているのが、誤りの原因。
生命体は、生きている限り、生命というサングラスを外すことができない。
生命体にとっては、その生命というサングラスを通じて見る世界のみが「あるが
ままの世界」なのである。
原始仏教は、釈迦の狂った主観の結果に過ぎない。
世間という「あるがままの世界」に背を向けて、「自己のニルヴァーナ」という
妄想を追い求めているのが、まさに釈迦であり、小乗仏教徒ではないか。
>>627 644付記:
(これは、私の(個人的w)興味だが)、
仏典中多くの場面で、ブッダは
「私は、〜」とか「私が○○の時、〜」とか「私に於いて、」とか述べている。
だが、同時に、「如来は、〜」という記述もあることに留意してもいいと思っている。
判り易く有名所で、梵網経に於いては「これについて【如来の知るところは】こうです」という箇所がある。
(全文献を精査して、この区別を抽出してみると、存外面白い結果が出るんじゃないかと推測しているんだが・・w)
ま、それは別として、いずれにしろ貴方の疑義は上のリンク先で全て解決する。(筈のものと思うw)
【《知覚・自覚する何者か》が居るのではなく、《知覚・自覚(という作用)のみが、そこにある》】
というのが、縁起の骨子だと俺は思う。諸法無我(非我)とはこのことである、と・・。
*(そしておそらく、いま少し触れた「私(aham)」と「如来」の区別も同様に見ることが出来るだろう。
「私(aham)」と言われるときは、
《「具体的、既に生起済みの(或いはこれから生じるであろう)、当該個人の諸々」に密着関連した事象だから》、
「私(aham)」で言及されるのだ、と。
「如来」と言われるときは、そうした個別的な「個人を特定する必要のない場面」或いは「おしえ・勝義に関する場合」等、
《そこに「(世俗的)主体を立てることがふさわしくない場面」》、或いは、
《誰とかと特定せずに、行を完成した聖者全てを(→誰でもを)指す故である》、と言えるのではないか、と。)
644付記2:
再度言う。
≪「無為」とは【「有為でないもの」の総括・総称】≫であることを忘れるな。
そして、貴方が延々主張していることも、(ニルヴァーナ意識だろうが高次の意識だろうが)、
全て「有為」なんだよ。
646 :
てすと :2010/06/07(月) 20:03:56 ID:e4Yatvui
>>641 ご隠居へ、
宗教っていうのは、貧乏人がやるもんじゃなくて、金持ちの高尚な趣味なんだよ。
生命がどうの言っているけど、食料もたくさんあって安全が保証されている人に生命生命いっても無駄だよ。
釈迦だって王子の生活が暇だったから出家したんだし。
死ぬまで他にやることないなら宗教やってもいいと思うけど。だめ?
>>646 「宗教」という分類上の定義に切り込むことになるけど、
『「貧しい階層の者達の(何らかの)信仰」は「宗教」に分類すべきでない』
ということになるのかな・・。(´・ω・`)
648 :
神も仏も名無しさん :2010/06/07(月) 20:27:31 ID:m/9esDpy
>>646 テスト君、随分しばらくだな。どこで、何やってたw。フーテン、りょん、
昆布氏などは、どこへ消えうせたのか。大王だけは、このスレに居座って、
私に毒づいてるがw。皆、宗教など止めて、「正業」に就いたのかなw。
趣味と宗教との本質的相違を忘れてはならない。宗教は、生来の人格そのもの
を変容させ、現実や社会常識からの逸脱を生じ、その結果として、家庭や社会
における軋轢を生じ、破壊的となる。それに、いつまでも精神病患者の相手を
しているのは、ナンセンスではないか。得られるものは、狂気だけである。
趣味の違いから、戦争やったり、殺し合ったりすることがあるかねw。
共同体では、「自分が気持ちいいから何をやってもよい」ということには
ならない。麻薬の取り締まりは、何の為にあるのか。宗教とは、精神的麻薬
なのである。麻薬の害毒は局所的だが、宗教の害毒は、はるかに広範である。
649 :
てすと :2010/06/07(月) 20:46:36 ID:e4Yatvui
>>648 >どこで、何やってたw。
贅沢な生活を満喫してましたw
>趣味の違いから、戦争やったり、殺し合ったりすることがあるかねw。
自分が兵士になることはないが、他人に戦争させるのは趣味の範囲でしょ。
庶民だってK1とか好きじゃん。観客が一番興奮するのは殺し合いだよ。
>麻薬の取り締まりは、何の為にあるのか。
取り締まられない奴もいるんだよ。
650 :
てすと :2010/06/07(月) 20:52:43 ID:e4Yatvui
>>647 羊飼いと羊はセットだろ。
羊は羊飼いに牧草地へ誘導してもらい、羊飼いは羊の肉を喰らう。
なんで分類するの?
>>650 御隠居が、「『宗教』は存在してはならない!」っていうから、
『宗教』でなければいいのかなぁ、とw
>>648 >趣味の違いから、戦争やったり、殺し合ったりすることがあるかねw。
つ サッカー戦争
サッカー(趣味)が原因で戦争になってるぜ?w
つ マイウエイ殺人
カラオケが原因で殺しあってるぞ?w
653 :
神も仏も名無しさん :2010/06/07(月) 21:14:39 ID:m/9esDpy
>>652 規模と態様が大違い。スポーツの勝敗で、国と国とが殺しあったことがあるか。
それに、一時の激情による殺人と、人格そのものの変容による殺人(宗教)とは、
区別すべきである。
>>653 >規模と態様が大違い。スポーツの勝敗で、国と国とが殺しあったことがあるか。
だから、それが、「サッカー戦争」だってw
相変わらず教養が無いなw
1969年、サッカーの試合での遺恨がきっかけとなって、エルサルバドルとホンジュラスとの間で勃発した戦争。
100時間戦争やエルサルバドル・ホンジュラス戦争とも呼ばれてる。
655 :
てすと :2010/06/07(月) 21:27:59 ID:e4Yatvui
>>653 なんで戦争のニュースが視聴率高いか解る?
失われた生命に同情したいからじゃない。殺し合いに興奮するからさ。
いい加減認めようよ。
>>651 >『宗教』でなければいいのかなぁ、
宗教でない悪しきものであっても宗教が原因だという論法で、
「宗教でない」かどうかはご隠居が主観で判断するのだから、宗教でなければいいというのはありえないと思う。
>>655 鶴の一声ならぬ御隠居の一声かよw
まるで独裁政権だなw 勘弁してくれよ・・(^^;
657 :
てすと :2010/06/07(月) 21:41:45 ID:e4Yatvui
ご隠居は宗教が狂気と戦争を生むと言っているが、十字軍の前線にローマ教皇が直接立つ事はないと認めなさい。 ご隠居に何度もいうけど、価値のあるのは自分の命と自分に親しい人の命であって、 ご隠居のいうように普遍的な命という言葉にはなんの価値もない。 地球の裏側で誰かが死ぬことよりも、生存に直結する目の前の貨幣の方が大事。 貨幣制度を採用している国に生まれて、金がなきゃ生存のための食料と交換できないのだから当たり前の話だ。 赤の他人に優しくするのはその方が自分の生存の確率が高くなるという経験則からきているだけで、情ではなく利己的なもの。
659 :
てすと :2010/06/07(月) 22:26:28 ID:e4Yatvui
>>658 うん、そのとおり。
同情や宗教的求道なんて快楽主義の最果てであって、超利己的だと思うよ。
宗教否定者も同じ穴のムジナ。ご隠居の生命賛歌はただの利己主義。
やらぬ善よりやる偽善ともいうので、利己主義を否定しているわけじゃなく、相手の利己的感覚を理解した上でゲームすればいいと言っているだけ。
660 :
前世は一在家 :2010/06/07(月) 22:41:50 ID:7FrrxKvE
>>640 >いわば歪んだサングラスをはずして、裸眼のままで観えるものに超越も根源もヘチマないのは当然でしょ。
>龍樹が世間とニルヴァーナにはいかなる間隙もない(中論25-19・20)っていうのは当然だよね。
>歪んだサングラスを外して、な〜んだそうだったんだ!って納得するのだから。
釈迦仏教にとって最大の歪んだサングラスは龍樹の「机上空論」だという仮説を
立てています。机上(言語論理世界)で空を論じた(証明した)という意味です。
自分の家族を見ても「本当はお前らは空で存在しないんだな。」とか、
「ビッグバーンも現在と同時に存在するのだよ。」とか、リアルな現実世界を
バーチャル(言語論理学上)世界と見ているのに、本人はそれがリアルだと信じて
疑わない、そういうサングラスがあるかも知れませんね。
そのサングラスで世界を見れば、運動も時間も消え、因果の法は消滅しますので、
因果の法を説かれた釈尊に敬意をはらうことも無いでしょう。
産婦人科で自分の子供の出産に立ち会って「不生不滅」と称えて、感動もない
人を見かけたら、生きたいと「生命」に執着する人の方がずっとまともな普通の
現代人かと存じます。
どなたかが指摘しておりましたが、不可知な素粒子界の相互作用を縁起の法に
求めても、人類の日々の生活に影響を与えるほどの意義があるでしょうか。
661 :
前世は一在家 :2010/06/07(月) 22:43:36 ID:7FrrxKvE
>>660 もし説一切有部が「去る者は去らない」と言っていたら、龍樹は「その通り」と
賛同したでしょうか。それとも否定の論理で「去る者は去らないに非ず」と否定
したでしょうか。 私は後者のように思います、一切破邪の論理ですから。
クマラージュ訳の「龍樹菩薩伝」では、龍樹は一人の僧に尋ねました。
「貴方は私がこの世に永く生きながえることを願っておられますか。」と。
その僧は「実は願っていないのです。」と答え、龍樹は一人庵室に入り、
蝉のもぬけの殻になったそうです。
もしその僧がサングラスをかけていたら、「あなたは元々存在しないのです。」
と答えて、龍樹もにっこりと笑ったかも知れませんね。
663 :
神も仏も名無しさん :2010/06/07(月) 23:00:35 ID:m/9esDpy
>てすと氏へ それは、既にイエスで狂った君の意見に過ぎない。 十字軍では、ローマ教皇が「神」を利用して、殺戮を煽ったことには疑いは あるまい。 勿論、生存本能は個人ごとのものではあるが、身近な肉親ほど、その死による 悲しみが深いのは、種属としての生存本能に基づくものである。そして、他人の 死を喜ぶものは、宗教者以外にはいない。宗教観念によって、生存本能が変容・ 破壊されているからである。正常人であれば、肉親はもとより、他者の死に 心を痛めない者はいない。そして、社会は、生命の救助にあらゆる努力を行って いる。 他者の死を悼むのは(葬儀など)、生者の、自己の生存本能から生じる無意識的な 死への恐れを癒そうとする努力である。必ずしも、死者のためではない。
>>663 葬儀の原点は、
『「自己の死」への恐れ』ではなく、『「死者による災い」の回避』だよ。
んとに何にも知らないんだな・・。
なんか、新コテさんが登場してるな。 どうも極論が好きな人みたいだな。
>>666 ほ〜〜〜〜、なるほど。
それなら、文面を額面どおり受け取ると間違えるか。
なにやら、今までとは変わった視点からの書き込みをする人なので
楽しみだ。(笑)
>>668 それは、ますます楽しみだ。
とりあえずは宝珠あたりと、やりあって欲しいなあ。(笑)
670 :
神も仏も名無しさん :2010/06/07(月) 23:13:14 ID:m/9esDpy
>>664 それは、自己の生存本能から発する、深層心理的な死への恐れである。
死体を見ると、不気味で、恐ろしい感情が生じるのが、その証拠である。
死体を見て、楽しいと思うのは、恐らく精神障害者のみであろう。
正常人が人を殺すと、例外なく良心の呵責が生じるが、宗教者にとっては、
異教徒・異教派を殺すことは、無上の喜びなのである。
>>670 アホだなぁ・・w
《君の大好きな「共同体」w》の安泰の為だよw
《「自分の死」に影響しなくとも、「共同体の安泰」を脅かす可能性がある》からだよ。
だから、「共同体の規定する儀礼を行なわない者、規定に従わない者」は
叱責や糾弾の対象となり、最悪の場合、放逐されるわけさ。
また、別件になるが、ここに何の概念が作用してると思う?w
霊的な、魂という概念だよ。
それこそが、君の言うような理想論以前の、
「生命」や「“生命由来の”思考」が生じさせる、『リアルな』『ヒト』の姿だよw
ああ、隠居の相手はもうやめたんだった・・w 宝珠待ちなんで、ついついレスを入れてしまうなw
この現象界(世俗)においては常に「行為とその行為主体」はセットである。 例えば「認識する」と言えば、必ずそこには「認識する主体」が(たとえ言及 されなくとも)暗黙のうちに了解されている。 この視点を「涅槃」に適用すると、@「涅槃の境地にいるのは誰か?」という 問いとなる。 ここに問題が生じる。 世俗の視点を「涅槃」に適用すること自体が、果たして妥当であるのか? 世俗の視点により「行為の主体を不可欠のもの」として要求することは必然 なのか? これを考察してみよう。 この現象界(世俗)には、「時間」というものがある。これは変化に付随する 概念である。言い換えれば「変化のないところに時間はない。」 「何も生じることがなく、何も滅することがない。すなわち『変化』という ものが全くない世界」があったとすると、そこには「時間という概念が存在しない」 「時間がないのではなく」 『時間と言う概念そのもの』がないのである。 また、この現象界(世俗)においては、「数の概念」は当たり前であり、誰もそれに 疑問を呈するものはいない。しかし、もし「唯一つのものよりなる世界」が あったとすると、そこには2や3という概念はもちろん「1」という概念さえもない。 つまり「数の概念」そのものが存在しない。
では、「自己」とは? これは「他者」がいて初めて成立する概念である。 自分ひとりしか存在していないのであれば、そもそも「自己」という概念自体が あり得ない。『自己』と言う限り、自己と他者を分別する『個(我)』という概念がある。 それでは「涅槃」には、「自己と他者」あるいは「個(我)」という概念が成立 するのであろうか? 「涅槃」とは、「無我」を了解した上で成り立つのが大前提であり、そこには 変化もなければ、それに相依する時間もない。当然、「自己と他者」という『我』 も存在しない。そのような、あらゆる「識別、分別が存在しないこと」が『涅槃』 である。 であるならば、@の問い 「涅槃の境地にいるのは誰か?」 この問いにおける『誰か?』という部分が 矛盾していることになる。 「誰か?」という問いかけ自体が、それぞれの 「個(我)」の存在を前提としたものであるからだ。 「涅槃と言う《我の存在を否定≫した上でなりたつものに関して、≪我の存在を 前提とした問い≫を発すること自体が成立し得ない。」 すなわち、涅槃においては「行為に対する主体」を想定する事自体が、論理矛盾 となる。主体を想定した時点で、涅槃ではなくなってしまうからである。 さて以上は、セブンと宝珠のやり取りを見て、ちょっと「涅槃について」考えてみた ことであるが、どうだろうか? 如何せん、仏教徒ではないもので涅槃に関しての勘違いや、あるいは論立て自体が 矛盾内包しているかもしれん。(正直あまりつめてない) よって、間違いの指摘があれば幸いである。
675 :
てすと :2010/06/08(火) 07:37:22 ID:ftR+hJ04
>>663 >既にイエスで狂った君の意見に過ぎない。
だからいつも言うけど、イエスがこの世に存在していたという科学的物証を出しなさい。
釈迦は墓が見つかるまでは非存在学派があった。
ご隠居は聖書という空想物語から演繹しているので、バチカンが「ごめん、聖書は実は巧妙な捏造ですたw イエスなんていねーよw」
といったら今までご隠居がイエスに捧げた人生の時間が無駄になるよ。
676 :
てすと :2010/06/08(火) 08:09:36 ID:ftR+hJ04
涅槃も天国もないよ。 手の届かないところに人参の絵をぶらさげて、走らされているだけ。 遠くのゴールを目指すより、日々の雑事をこなしましょう。
>>675 あれれ?変だな。
>だからいつも言うけど、イエスがこの世に存在していたという科学的物証を出しなさい
隠居は、ちょっと前の俺とのやりとりで「釈迦もイエスも竜樹も歴史上の実在の
人物ではなく、誰かが創作した架空の人物である。」 と、このように
言っていたんだがなあ。 もしかして以前は、イエスや釈迦を実在の人物として
語っていたのかな?
>>676 >涅槃も天国もないよ。
天国は置いておくとして、「涅槃はない。」
このように断定できる根拠は何なんでしょうか?
また、「ない。」と言っているわけだから「涅槃が何であるか?」も
ご存知なのですね。
「涅槃がなんであるかの解説もあわせて、何故それがないと言えるのか」
の説明をよろしくお願いします。
678 :
神も仏も名無しさん :2010/06/08(火) 09:56:18 ID:tlP9saJP
>>675 今まで何度も言ったように、私は、クリスチャンが「実在」だと信じて止まない、
聖書という「フイクション上の」神やイエスを批判している。これは、すべての
クリスチャンをその妄想から目覚めさせるためには、無駄な努力ではない。
これは、釈迦仏教徒についても同じ。見つかった白骨が、釈迦本人のものとの証明
はない。どこかの行き倒れの人間か、犬猫の骨かもしれない。ましてや、釈迦の
「生前の行為」が真実であるとの証明は皆無である。生まれると直ぐ「天上天下唯我
独尊」と言ったことからも、嘘であることはバレバレ。
これほどの「有名人」である釈迦やイエスに、真筆や、同時代人が作成した彫像が
存在しないことは異常である。彼等よりもはるかに前の時代の人物であるエジプト
のファラオについては、同時代人による彫像や本人のミイラまで現存する。
679 :
てすと :2010/06/08(火) 10:04:39 ID:ftR+hJ04
>>677 なんかここの過去レス読んだら、ご隠居のスタンス変わっているね。たぶん、俺のせいかな。。。
以前ご隠居が「イエスは大工の息子」といって馬鹿にしていたので、俺が「それなら大工道具はどこにあるんだ?証拠だせ。」と反論したんだよね。
>また、「ない。」と言っているわけだから「涅槃が何であるか?」もご存知なのですね。
その論法がそもそもおかしいんだけど、存在っていうのは観測からくる帰納法で判断するものなにで、
先に涅槃とはなにかという定義をして演繹して存在のあるなしを示す事はしない。
例えば、「母」、「りんご」、「水」、が存在しているかどうかを示すときに、先に言葉の定義はしないで、
あるものを母、あるものをりんご、あるものを水と名付けるのが先であって、定義は時間軸で後になる。
神とか天国とか涅槃というのは観測されたことがない、ただの概念をそう名付けただけなので、
万人に共通な普遍的な観測による定義はできないし、主観による「宣言」しかできないので、「ない」という判断になる。
680 :
てすと :2010/06/08(火) 10:07:32 ID:ftR+hJ04
とりあえず、涅槃という状態に達成したという人を目の前に連れてきて欲しい。 話はそれからだ。
681 :
神も仏も名無しさん :2010/06/08(火) 10:12:50 ID:tlP9saJP
>>679 それは「聖書というフィクション上のイエス」の意味。クリスチャン
たちの妄想に付き合っていただけ。
君も、「教典にはない真実のイエス」を追い求めているのだろw。
682 :
てすと :2010/06/08(火) 10:28:07 ID:ftR+hJ04
>>681 >君も、「教典にはない真実のイエス」を追い求めているのだろw。
君「も」って、ご隠居はやっぱり真実のイエスを追い求めていたのね〜〜〜
きんも〜〜〜
前にご隠居に指摘したの俺じゃんw 俺がいない間にいろいろパクッているようだね。
まあ、いいけどw
>>679 観測、確認可能な物理量に関してならば、「現時点、および
観測可能域」において、その『存在の是非』を検証できる。
(これも、あくまでも現時点の技術に依存するが)
それでは、ある『心的状態を指示する概念語』
愛、悲しみ、怒り、不安・・・・
などは「存在しない」のか?これらは、勿論、外部検証不能であり、
お宅の言うように『主観による「宣言」しかできない』ものであるが、
存在しないと断定できますか? 勿論、そんなことはないですね?
では、数の多少の問題なのでしょうか?
愛、怒り、悲しみ、不安・・などは、多くの者がそれを自覚するから、
「ある」のであり、「涅槃という心的状態」は、それを自覚する者が
少数であるから、「ない」という見解なのですか?
この「涅槃」という語が指示するものとして、(宝珠がいうような) 『場』的なものであるならば、正に「そのようなものは観測、確認 されていないので、存在する可能性は限りなくゼロに近い。」という 結論に帰結させるのも妥当であると考えられる。しかし、「涅槃という 心的状態などない。」という断定は妥当でしょうか? 分子レベルにおける脳の解析が可能になり、それにリンクして「こころ」というものが 何であるのか完全に解明され、定量観測により、「涅槃という心的状態 などない。」と言うことが実証されたなら、まだしも、「現時点において」 そのような断定をくだすのは、いささか時期尚早なのでは?
685 :
てすと :2010/06/08(火) 10:57:08 ID:ftR+hJ04
>>683 「悲しんでいる人」
「怒っている人」
は本当に悲しんでいるか、怒っているかはともかく、観測可能ですよね?
「涅槃している人」はどこにいますか?
「涅槃を目指している人」はたくさん観測できますが。
>数の多少
多少じゃなくて、ゼロです。
686 :
てすと :2010/06/08(火) 11:03:32 ID:ftR+hJ04
ある時Aさんが「私は涅槃に到達した」といいました。 Bさんは涅槃というものを目指していましたが、 BさんからみてAさんが自分の望む状態なら 「あれはまさしく涅槃だ。俺ももっと頑張ってああいう人になろう。」 違うなら 「あんなのはAが勝手に涅槃と言っているだけで、真の涅槃は違う。」 と言うでしょう。 とりあえず、ID:zQCFlGDIさんからみて、涅槃状態になっている人をここに呼んでください。 普遍性はともかく、個人的にこれが涅槃だというものを提示してください。
687 :
てすと :2010/06/08(火) 11:09:06 ID:ftR+hJ04
>分子レベルにおける脳の解析が可能になり、それにリンクして「こころ」というものが いやだから、脳を解析するときに被験者が悲しんでいる時に機能する部分、 怒っている時に機能する部分は観測可能ですが、涅槃しているときに機能する部分は観測不可能です。 被験者が「あ、私いま涅槃しています。」と言えなくてはなりません。 ですから、 >「涅槃という心的状態などない。」という断定は妥当でしょうか? この断定は妥当です。
>>685 ん?
「解脱者、覚者」と言われている人たちは、チベットなどには結構、
いるらしいですぞ。勿論、俺はそれらの人たちに会ったことはないし、
その人たちが「覚者」であるのか判断のしようもないが、当地の事情に
詳しい「縁起一代」という人物が、そのように語っていた。
さて、それではここに「悟っていると言われる人」がいたとしましょうか?
(事実、チベットにはそのように言われている人たちがいるわけだ)
彼らは
「本当に悟っているかはともかく、観測可能ですよね?」
これと悲しんでいる人が
「本当に悲しんでいるかはともかく、観測可能ですよね?」
との差異は何ですか?
また >多少じゃなくて、ゼロです。
このように断定できる根拠は?
689 :
てすと :2010/06/08(火) 11:18:00 ID:ftR+hJ04
>>688 いやだから、そのチベットの高僧達は「私悟ってます」って言っているんですか?
>>686 >とりあえず、ID:zQCFlGDIさんからみて、涅槃状態になっている人をここに呼んでください。
普遍性はともかく、個人的にこれが涅槃だというものを提示してください。
はい、これは不可能です。なぜなら俺は「自分で涅槃といえるような
心的状態を『体験したことがない』からです。」 だから当然、
「涅槃という心的状態がある」 などと主張するつもりは全くありませんよ。
同様にあなたのように「ない」と断定することもしません。
自分で把握してない心的状態に関して「これがその人である」などと
提示するような無茶なことはできません。
>>687 >いやだから、脳を解析するときに被験者が悲しんでいる時に機能する部分、
怒っている時に機能する部分は観測可能ですが、涅槃しているときに機能する部分は観測不可能です。
これは「ある特定の感情とリンクする脳の部位が指摘されているに過ぎない
でしょう?」 人間の思考、感情、認識などその全てと脳のシステムの
全容が解明されていますか? あなたが「血の赤色」を見たときに
抱く感情と「夕焼けの赤色」見たときに抱く感情の差異を脳の観測から
説明できるほど、その解析は進んでいますか?
>「涅槃という心的状態などない。」という断定は妥当でしょうか?
この断定は妥当です。
よってこのような断定を下すのは、まだ時期尚早であるというのです。
>>689 >いやだから、そのチベットの高僧達は「私悟ってます」って言っているんですか?
それはわかりません。なにしろ俺はその人たちに会って話をしたことが
ありませんから。 これは推測ですが、何人かは「自分は悟った。」
と言ってる人たちもいるのでは?
(あるいは『悟った』という表現を使用しなくとも、十分それと理解できる
表現で自己の心的状態を語る人はいるのでは?と考えますがね)
692 :
てすと :2010/06/08(火) 11:41:32 ID:ftR+hJ04
>よってこのような断定を下すのは、まだ時期尚早であるというのです。
>なぜなら俺は「自分で涅槃といえるような心的状態を『体験したことがない』からです。」
だからあなたではなく、誰が体験できるのですか?脳科学者がどうやって涅槃という心的状態を体験できるのですか?
高僧は体験できるのですか?100年経てば体験できるのですか?1000年ですか?
判断する時期は「誰が」決めるのですか?
>>691 >これは推測ですが、何人かは「自分は悟った。」と言ってる人たちもいるのでは?
これは推測ですが、涅槃や悟りはないのでは?
693 :
てすと :2010/06/08(火) 11:50:28 ID:ftR+hJ04
>その解析は進んでいますか? 観測技術が進むまで判断保留じゃなくて、進んだら判断を変えればいいだけ。 「左にいこう」 カバンから望遠鏡が。覗いたら右に隠し扉が。 「んじゃ右にいこう」 「お前最初左に行こういっただろ。」 「はあ?それが何か?」 ID:ftR+hJ04さん 「カバンのポケット全部開けるのにどれだけ時間かかるかわからないけど、中身確認するまで、左にいくかどうか決めるのは時期尚早だ。」
俺の見解は「涅槃という心的状態がある」と主張するものではないので 誤解のないように。 俺が言ってることは 「涅槃」というのは少なくとも現時点では外部検証不能な心的状態である ので、少数ながら「自己申告、あるいはそのようなはっきりとした自己申告が なくとも、その他の言動から「そうであろう」という判断が十分妥当である と考えられるもの達」が存在しているわけだから、 「涅槃などない」という『断定は不適切』である というものだ。 つまり、「涅槃を体験したことがないものは」 「ある」と断定できないし また同様に「ない」とも断定できない。 と、まあ、こういうものですが?
695 :
てすと :2010/06/08(火) 11:54:29 ID:ftR+hJ04
>少数ながら「自己申告、あるいはそのようなはっきりとした自己申告がなくとも、その他の言動から「そうであろう」という判断が十分妥当である と考えられるもの達」が存在しているわけだから、 だから具体的にどこの誰?そろそろ教えてよ。
>>692 >これは推測ですが、涅槃や悟りはないのでは?
だから「推測」といってるよな?
お宅は「推測」ではないよな?
「ない」と断定してるのでは?
>>693 だから、俺は
>>684 で
>この「涅槃」という語が指示するものとして、(宝珠がいうような)
『場』的なものであるならば、正に「そのようなものは観測、確認
されていないので、存在する可能性は限りなくゼロに近い。」という
結論に帰結させるのも妥当であると考えられる。しかし、「涅槃という
心的状態などない。」という断定は妥当でしょうか?
このように書いたよな?
観測、確認できる物理量であるなら、それが観測、確認できない
現時点では、それを「ないもの」として認識することは間違いではないの。
俺はこのことは今まで何度も繰り返し言ってきたわけ。
だから、霊魂などは現時点では「ないもの」と認識しているの。
では、愛は?怒りは?不安は? これらは観測確認できませんよ。
これらも「現時点ではないものとして、観測できるようになってから」
あるものとして認識を「修正」しますか?
違うでしょ?
お宅は「心的状態を表す概念語」と「その存在を検証可能な対象物」を
並列に扱うから、おかしなことになる。
>>695 >だから具体的にどこの誰?そろそろ教えてよ。
なんだ?これは。 今までの書き込みは無視で、このような
煽りを入れてくるような者なのかな? お宅は。
とりあえず、時間がないのでいったん落ち。
699 :
てすと :2010/06/08(火) 12:17:53 ID:ftR+hJ04
>>696 >お宅は「心的状態を表す概念語」
だから涅槃というのがどのような心的状態を表しているの?そろそろ教えてよ。
愛、怒り、不安、これと涅槃は性質がちがうじゃん。
>>697 えええ、いちおう答えてるつもりだけど、どっか無視した?
俺は最初から涅槃に達した人を教えてくれって一貫してるのに、これが煽りなの???うそーん。
700 :
てすと :2010/06/08(火) 12:33:11 ID:ftR+hJ04
「涅槃はない」 「断定いくない」 「だって涅槃してる人一人もいないじゃん。断定してもいいでそ。」 「少数だけどいるよ。」 「どこの誰?」 「なんだ?これは。 今までの書き込みは無視で、このような煽りを入れてくるような者なのかな? お宅は!!!」 「。。。。。(俺が悪いのか??一体どうしろと)」
701 :
てすと :2010/06/08(火) 12:48:26 ID:ftR+hJ04
推測推測ばかりじゃ、宗教板がつまんなくなるだろ。 他人の否定ばかりして、自分の意見を投げない奴が大杉なんだよ。 宗教っていうのは独善と極論と断定のキャッチボールこそが醍醐味なんだよ。 究極の暇つぶしなめんなよ。 オチ ノシ
隠居www 戦争がチンパンジーの社会が日々実践してるぞwww ジェノサイトもやってるしw 似たような痕跡はネアンデルタールの遺跡から見つかる 戦争は生命の本源から生まれるのだよwww
703 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/06/08(火) 15:12:24 ID:gl4CnNcp
>>452 御隠居殿
>釈迦は、色蘊・識蘊はどこから発すると考えていたのか。
>
>それらはすべて生命から発し、生命の維持に不可欠な役割を果たしている。それらの
>否定は、己の生命の否定を意味し、本末転倒でナンセンスである。釈迦の「教え」は
>基本的に誤りであるということ。
十二縁起の考え方では、色・受・想・行・識などの五蘊(名色)は識によってあると考
えます(すなわち唯識)。その識は、行によってあり、また行は無明によってあります。
無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死・愁・悲・苦・憂・悩
御隠居が主張されるのは、「生命によって生命自身を否定しようとすることは、自己矛
盾でありナンセンス」ということでしょうが、十二縁起の考えと対照してみれば、御隠
居の考え方は、「無明」と「生」を混同・同一視したことによる誤りです。
まず、御隠居の「生命」と呼ばれる概念が、五蘊の根源であるという意味では、それは
十二縁起の「無明」に相当する位置のものであることがわかります。一方、「生命」と
いう名付け方から、それが十二縁起の十一番目の「生」をも意味していることがわかり
ます。仏教では、「生」は、あくまで、「無明」(五蘊の根源)から派生した下位のも
のであって、結果であって、「生」自体が根源そのものであるとは見なしません。
だから、「無明を滅することによって、生を滅しようとすること」は、「生によって生
を滅しようとすること」を意味しないので、本末転倒・自己矛盾などではないのです。
根源である「無明」が存在するとき、「生」があることは確かですが、それらが同時に
存在するからといって、同一視することは誤った物の見方です。唯物論は、六処のうち
の五感しか認めないという歪んだ認識ですから、その認識では、いきなり「生」からす
べてが始まっているかのように見えてしまうのです。基本的に誤りがあるのは、御隠居
の認識の方ではないですか。
>>701 >・・・「なめんなよ。」
何ですか?この汚い言葉は。
『イヤだなあ、人を汚い言葉で罵倒するなんて。
品格が疑われますよ。 もっと、上品にいけないんですか?』
時間がないので続きは夜にでも。
(それまでは他の人と遊んでてね。)
705 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/06/08(火) 16:27:29 ID:gl4CnNcp
>>459 ,
>>630 あなたのその「業論像」の想定自体が、確固たる「我」を前提として作り上げられた
ものであり、それだから「無我」と「業論」が衝突・矛盾するのは当然でしょう。そ
して、あなたが「提示しろ」と言ったり、「提示すると言ったわけだ」と一方的に決
めつけて言う、「論理構築されたシステム」というもの自体、(十二縁起的な)「有」
に捉われた概念の提示を要求するものです。
無我というからには、「Aさんが(犯した業)」とか「Bさんが(犯した業)」とい
った考え方がそもそも成立しません。その考え方をしているのはあなた自身です。
そういった自他の別(有)の次元による認識ではなく、無明から行があると考えるの
です。「自分」の犯した業を受けるのでもなく、「他人」の犯した業を受けるのでも
ない。無明から行があり、その行から識、……老死・悲・苦・憂・悩などがある。
Aさんが何らかの罪を犯した場合、その前提としてそのような罪を犯す無明があるこ
とが確実となる。だから、その無明によって、老死・悲・苦・憂・悩という結果(報
い)がもたらされることは自明の理である。──それが私の仏教的な「無我と業」の
考え方です。
>>705 続き
また、輪廻についても、同様に十二縁起的な表現で示すことも可能です。有も生も老
死も、無明によって生じた結果的な認識である。無明がある限り、何度でもそれら下
位の認識は生じてくる。その上で、一旦生じた、それら下位の認識だけでもって、そ
れ(今、生きてこうやって認識している状態)が絶対確固たるものだという思い込み
を前提にして、その中で納得する論理など求むべくもない、──というのは御隠居に
対して
>>703 で答えたものと似たような話になります。
基本的に、《「無我」を前提とする》といった場合に、例えばこのあたりは閻魔大師
の方が好んで論じる点ですが、我という概念の存在を前提とした上で、その「我を除
外すること」を論じているわけではないのです。我による「自他の認識」を「前提と
しない」ことを言っているわけです。あなたの「無我」というキーワードに対する解
釈の仕方は、「我執」のある人特有の反応であり、「無我」という姿勢を得ている人
のものではないのです。それが、「世の中皆、我(自分の主義信条)がある。だから
互いに我を尊重して、干渉せざるべし」というあなたの主張につながるのでしょうが
(そのルールをまたあなた自身は他人に押し付け干渉しようとしていることに気付い
ているのでしょうか?)。
>>674 「変化」と「時間」の関係は、相似形として考察の種とはなる。
「『時間』というもの」が「『ものとして』或いは『固有のものとして』存在する」わけではない、という意味合いで。
だから、「『時間』などない。あるのは『変化』だけ」というスタンス・論立てと同様に、
>>676 のように、「涅槃などない」という言明も成立する。
(また、そのスタンスを少し緩めれば(→【“ある”という言明の質を少し変容させれば】)、
それは、おそらく「生死即涅槃」や「般若心経の謂い」とシンクロする。)
ただ、一つ違う所(喩えとしての大きな不備が生じる所)は、
時間と変化は単純イコールで結ぶことが可能(たぶんw)だが(→「同義と見做し得る」が)、
涅槃には、「そのように比較考察対象として設定し得る(【同義として結び得る】【有為の】)
ものが無い」ということになろうか・・。
四諦八正道が行じられ、完遂されたところに、涅槃はある(見られる)わけだが、
それは、(以前も一度触れただろうか)、
《「苦の滅」が涅槃であるが故に、『論理的同時性』を有する(→無時間的である)》という側面を言う。
(中論は、諸法の縁起をもこのように見ている、ということかもしれない。)
「苦の滅」が成じた時、「そこに涅槃が顕現する」という謂いをしてもいい。
「苦の滅」と「涅槃」が同義である(涅槃の定義が(語源的にも)そのようなものである)というのが前提ではあるが、
この時、(涅槃は勿論)、「苦の滅」は『ものとして』『固有のものとして』あるわけではない。
上で見た『時間』の際の考察と同じだ。
(《『涅槃』が「苦の滅」の別称であり、「苦が完全に滅したところに『涅槃』が顕現する」》
というのは同義(同語)反復になるとしても)、
そして、《『時間』が「変化」の別称であり、「変化するところに『時間』が顕現する」》ように、
《「苦の滅(涅槃)」もまた、【「四諦八正道の観察と体現」の別称】であり、
「四諦八正道が観察・体現されたところに『苦の滅(涅槃)』が顕現する」》と【言う】ことができるだろう。
*(涅槃の語義上、「苦の滅」は「煩悩の滅」と置き換えても同様。)
>>701 少し彼を擁護すれば、
当事者○ →← ●当事者
という論議の場があったとする。
この時、当事者同士は、貴方が言うように(「或るときには極論でもって」)「断定し合って」もいいし、
それが宗教の姿(≒面白味)だと言えるだろうが、ここに
当事者○ →← ●当事者
↑
■
.外野
外野(観客席)が存在し得る。
(以前、貴方がスポーツの観戦に譬えたように―そして、今でも貴方の立ち位置は外野でしょう?―)、
外野は、理解は示せども、どちらの立場に組するでもなく、双方の言い分を【それなりに】受け止めながら
議論に参加することが可能だ。勿論、野次にしかならないという意見もあろうが、
それでも、議論に加わることは出来る。そして、外野の者は『(極論でもって)断定する必要は無い』ということだ。
『●に言わせれば、××だそうだよ』で十分だ。
(それを実証する義務が生じるとすれば、当事者の方であろう。(また、この件での以前の貴方の指摘は、
まさに、その『当事者なればこその実証義務や言行一致が必要である』というものだったと思うが?
『それをするのは「外野である自分たち」ではなく、「当事者(である仏教徒)」であるべき』というものだったと記憶する。))
で、当然、彼は外野の者だ。彼に対してそこまで追求することもあるまい?
また、
貴方は、(ディベートが如く)当事者の立場に自分の身を移設して発言することが多い筈だ。
だから、
>>701 のような発言になると思う。だが、皆が皆その手法を取らねばならないということもあるまい?
>>701 また、或いは、
外部の者□ →← ●内部の者
こういう図式も立てられる。この時もまた、対論者である外部の者は、
上で述べたような責務を負う必要は無い。相手の発言を理解する上で、
「●は××という風に言っているけれども、それについてはコレコレこうである」
【という評】をすることに何の問題も無い。
(勿論、「(自らが)証拠を探し出して検証する」という手法はあってもいいが)、
(絶対的なものとして)『証拠提出の義務』を負うことはない。
彼の立場はそういうものである、と許容できないかい?
(またこれも、以前貴方が指摘していた形式だと思うが・・?
「外部の者が【歩み寄りとして】予習してあげてるのに、
【きちんと説明せず(或いは「実践・実証」せず)】、相手の不勉強のせいだとするのは傲慢である、と・・。)
まあ、貴方が言うような
「つまらなくなる」「面白味の減少」、へと繋がるものでもあろうとは思いますが・・w
(また余談ながら、
今の貴方の問いとほぼ同じ(或いは相似した)問いを、彼は既に過去しているよ。
で、今は、それはそれとして、(そうした仏教内部の伝承(≒悟りの継承)を認めた上で)、
じゃあ、どう考えられるのか、という考察をしているのだと思うよ。)
711 :
神も仏も名無しさん :2010/06/08(火) 17:36:04 ID:9g1ekFQm
>不説氏へ 死者には、「行」以下は一切生じませんね。また、生命がなければ、11番目の生 も生じません。 釈迦は、己の説法自体が「生きている」からこそ出来るもの、己が「多くの他者によって 生かされているから」こそ出来るもの、ということに思い至れなかったのでしょうか。 己の「根源」を忘れるとは、単純ミスにしても大きなミスですね。彼が「故意に」生命 を否定したとしたら、それは人間界にあける最大の「悪」であることは自明でしょう。 どこの人間共同体においても、「殺人」は最大の悪です。 生命は、すべての人間に既に「押し付けられて」いるもの。「無為」の最たるものです。 釈迦は、その無為を、己の有為で動かそうとしたのでしょうか。これ以上の「思い上がり」 はありません。 根源である生命に従うことと、「苦」を押し付けることとは、いずれがより大きな「悪」で あるかは自明でしょう。 釈迦も、大昔に「他者によって生かされていた」一人の人間に過ぎません。「誤りや欠陥 のない人間はいない」。これこそ「普遍の真理」です。あなたが、「釈迦の言ったことはすべて正しい」と結論する根拠は一体何ですか。現代人として、「釈迦の鬱病の症状」である 可能性を考えたことはないのですか。 大乗は、もはや「苦」は問題にはしていないそうです。日本は大乗仏教の国です。 あなたが日本人なら、「日本の仏教」としての大乗を少しは語ったらどうですか。 個人崇拝、個人の神格化は「偶像崇拝」であり、「知性の欠如」と「愚かさ」の 典型であることを、忘れてはなりません。
>>711 >死者、生命、他者、根源、ミス、悪、誤り、欠陥・・・・・
まるで仏教がぜんぜん分かってないじゃん!
あなた、アタマ大丈夫アルカ?
二項相対によってようやく成り立つ無反省な戯論概念そのまま振り回してるやんw
それを無明サンスカーラによる誤れる思い込み=アキメクラという。
⇒「俗物二項相対根源論がすべて正しい」と結論する根拠は一体何ですか。
証明してください。
>もはや「苦」は問題にはしていないそうです。
そうです、だと?
証明してください。
三または四法印撥無の教義が仏教でありうるわけがない。
>「釈迦の鬱病の症状」
資格のある精神科医の診断書によって中傷ではないことを証明して下さい。
なんども認知症隠居に証明をお願いしているのですが、いつだされるのでしょうか。
なんなら、代わりにおまえでもええで、証明しろや。
>個人崇拝、個人の神格化は「偶像崇拝」であり
仏典にしても、釈迦にしても『筏』=手段にしか過ぎない。
彼岸に達したら、導師(釈迦)さえ捨てよとの教えの真の凄みが判っているなら、
おまえのような馬鹿論難など出るわけがない。
黒く描いて黒さを批判するサンスカーラ隠居教に毒されていますよw
よーするに、おまえはなにも掴めてはいない。
顔洗って出直して来い。
念のため、上記の筏の譬えは、中部経典二十二「蛇喩経」より。 執着切断のためとはいえ、ここまで徹底して説き切ったのはブッダしかいない。 神秘的なるもの、超越なるもの、アプリオリな根源wなるものとは無縁の峻厳さであって、 鎧袖一触だ。
715 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/08(火) 21:14:55 ID:mgKkGnJs
>>478 追記:
聞いてきました。以下が参考レスかな。
*もうすぐココ、いっぱいで投稿できなくなる?
『特に死ぬ前に一生の罪を悔い改め、神と和解することが大事である。
一瞬の深い反省でもたくさんの罪がゆるされる。教会は臨終にあたって司祭を呼び、
ゆるしと聖体の秘跡、病者の秘跡を受けることを強く勧めて、これを「ヴィアティクム」
(旅のための食糧)と言っている。司祭に来てもらうのが不可能であれば、そばにいる人は
一緒に祈り、死を迎える準備を手伝うことは非常に大事である。
そして世の終わり(神の国の完成の時)にすべての死者が復活し、イエス・キリストが再び
現れ(来臨)、愛を基準にしてすべての人を裁く(最後の審判)。』
(キリスト教質問箱)
『臨終のときに塗癒秘蹟を受けられなかったら天国に行けずに地獄に落ちてしまうん?
塗癒秘蹟ね プロテスタントにはない秘蹟ですから キリスト教全般のこととしては回答不能ですね』
(同)
716 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :
2010/06/08(火) 21:17:00 ID:mgKkGnJs >>673-674 実に素晴らしい理解だと思いました。
こういうことであれば、私としても特に異議はないです。
ただ折角なので、
もし、強いていわせて頂くとしたならば2点ほど・・・。
>では、「自己」とは?
>これは「他者」がいて初めて成立する概念である。
>自分ひとりしか存在していないのであれば、そもそも「自己」という概念自体が
>あり得ない。『自己』と言う限り、自己と他者を分別する『個(我)』という概念がある。
自己を自己であるとして感じるところの“自覚”というものは、他者を他者であるとして認識すること
で初めて自己(他者との違い)として自覚できる、というものではないということです。
この“自己意識”というものは、何か周囲の無機物をそれ(自己)として自覚したりすることも決して
起こり得ず、また誰に自分が自己であるなどと教わることもなしに認識します。よって、他者を認識し
てから、ということではないのです。
他者とは“自己ではない者”をいい、自己が認識されて初めて他者であるとして認識できるのです。
従って、これは誰かに教わることなしに、初めて目にする人間を最初から他者(自己ではない別人)
であるとして自然認識します。何故なら、自己意識の自覚こそが一番、最初に生じるものだからです。
これが自我の神秘(生命の持つ意識の神秘)というものなのです。
これが第一人称(わたし)というものです。他人であるところの第二人称は、必ずその後に生じます。
大抵、それは母親だということになります。