>>637-639 そこで、
「戒」や「律」であり、
「未信者に信を生ぜしめ、已信者に信を増大せしめ」と言われる部分であり、
「仏の十号」「サンガの九徳」「法の六徳」と言われる部分であったりするんだと思うよ。
(つまり、内と外から輪郭を定めてゆくような・・。
外の輪を狭め内の輪を広げ、薄皮の円をそこに顕現させるように・・・。「◎」)
《蓋然性の高さを高めるということにしかならない》という指摘は御尤もだ。
637-639は内的経験の外部検証不可能性を言うものだが、
貴方自身が半分了承してくれるように、631は「当人に於ける確認」の為の要素だ。
が、632で補足したように、それを検証する方法が無いでもない。
それが上記であり、伝承されてきた各種教えであったりする。
勿論、もとより『完全検証』とはならない。だが、その「確からしさ」「精度」を極限まで高めることは可能だろう。
(*この「極限」は、レトリックとしての表現なw)
蛇足ながら、私は、内的経験の外部検証は不可能だと思っている。
が、上に述べたように、その確定をより高い精度で実現させることは可能だと考えるし、
その為の言葉やノウハウ(方法)こそが、釈尊が45年間示された教えであろうかと思う。
で、現在で言えば、「テキスト(仏典)の読み」「律存続の意義」「先達の指導」が重要なんだろう。