【最終】輪廻転生説はどう扱うべきか!?【決着】5

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556宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk
>>124
>釈迦の目指したものは、あくまでも「現実の、今そこにある」苦の排除であり、
>釈迦の探求したものは、その方法論である。その結果、たどり着いたのが「無我」という
>認識の一大変換であり、至った境地を涅槃と呼んだのではないだろうか?
>無我を教義の根幹とし、「個」の基体を否定した釈迦が転生を説いた?
>この論理矛盾を解消しない限り、輪廻が仏教の前提であるとする主張は論理的整合性を
>有しませんな。それとも、無我を捨てて、輪廻転生をとりますか?それも無理でしょう? 

 だから、仏教というものは、基本的に世俗(でいうところの“幸せ”)には否定的なアプローチなのです。
ただの苦の滅なら仏教は無用なの。それなら、心理カウンセルにでも伺えばいい。お悩み相談するところ
も沢山あります。
 あなたの理論では、何故、仏教においては世俗を捨てて出家修行を理想とするのかが説明できません。
普通に幸せを求めて感受する道がいいのではありませんか?できれば健康で長生きできて、対人関係も
良好で人付き合いが楽しく、人々にも親しまれ、または尊敬され、ある程度の財も得て不自由なく生活がで
き、欲しいと思うものは難なく手に入り、理想の異性と巡り合い伴侶を得て、子供にも恵まれて仲良く暮らせ
れば、何もいうことないでしょう。
 出家するとは、それらの望むことなく放棄する生涯(後世)を自ら選択するということ。その必要がどこにあ
るのか?あなたの論の中では説明不能なのです。
 仏教的には、世俗の生活というのはこれまでの繰り返し転生の人生で経験済みだということ。この得難い
機会を逃すことなく、解脱の道を進もうとして、世俗の幸せなどに目をくれないのです。でないと・・再び、世
俗生活の中で悲哀の人生を繰り返すだけだからです。これが無限的に続いていくと。涅槃という価値観に目
覚めた修行者は世俗(でいう幸せ)を捨てるのです。

「無我」とは、この現象界には“確たる自己など存在しない”ということ。
従って、仮和合の五蘊なる自己は無我であるから、転生現象も無我である。 >>36