☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート25

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904神も仏も名無しさん
>>899
>…という考えは、生命が先天的に持ってる「勘違い」なのです。
>この「勘違い」こそが、あらゆる煩悩の親玉である無明です。
>この、生まれながらに持ってる「勘違い」(無明)を消したら、
>仏教の悟りの完成です

それはあくまで釈迦の鬱病の症状としての「勘違い」であることを忘れないでください。
当時は、精神医学がなかったから、釈迦が精神病であることが分らなかっただけです。
精神病者は希少だったから、有難がられ、それが信者に感染した。現代の精神医学では、
精神病は感染することが知られています(感応精神病)。

純粋に精神的苦悩は、自己中心主義から生じるもので、自我を離れて、家族などの
身近な他者に心を移すことにより、軽減・除去されます。人間界が、本質的に共同体性
である所以です。

釈迦は、その「心の病」故に、その自明の真理に思い至ることが出来なかっただけです。
905神も仏も名無しさん
>>900
そもそも、煩悩とは、種属としての生命の維持を含め、生命を維持するソフト
として精神の働きです。案じるべきことを案じなければ、生命を維持することは
できません。

煩悩は、「生きていることの証(あかし)」です。「煩悩を去れ」ということは、
「死ね」ということ、「生命の否定」にほかなりません。

釈迦の「苦悩除去法」は、方法論的に誤り。

苦悩は、自我を去り、他者に心を移すことにより、軽減・除去される。このこと
により、初めて、社会が維持されるのです。人間を初めとする如何なる生物も、
「独りでは生きられない」からです。

一切衆生は、意識的・無意識的に、この自覚を基盤としているから、共生が可能
なのです。

大乗仏教は、「真如としての衆生心」や「相互依存性・関係性」の原理の発見に
よって、このことに思い至りました。釈迦には、その片鱗も見出せません。
だニアの章からだけでも、明らかです。