>>292 > あくまで釈迦の鬱病の症状としての、彼の特殊(病的)な心象世界、主観的な「生存苦・実存苦」のように思える。
そうだよ。
仏教は、敢えて、抽象的に「苦」を括り、その抽象的在り方の苦の解消を提唱した。
なぜか?
病気は医術・医療が治す。貧困は社会が(行政が・政治が)解決する。
暴力は治安維持のシステムが、物資の不足は生産効率と過剰消費の緩和が解決策となる。
誇大広告を打たないのさ、仏教は。
具体的にアレが治ります・コレが解決します。こんなに豊かになります、とか言わないんだよ。
勿論、何とかの水を売ったりもしないw
まさに、『 > 【主観的な】「生存苦・実存苦」 』の解決・解消が目的なのだからwww
シッダッタの病的な素養に関しては知る術もないが、そうした傾向があったろうことは想像できる。
が、だからと言って、その後説かれた教えに曇りが生じることもない。
むしろ、シッダッタにそのような傾向があったからこそ、仏教は誕生し得たとも言えるわけだw
> 「無常なるもの」が何故「苦」に連なるのか。
とにかく貴方は、なるべく多くの仏典を読むことです。南伝が嫌いなら、漢訳阿含でいい。
そうすれば、何が、どのようなことが「苦である」と言われているのか、少しは見えてくるでしょう。
このスレでも前シリーズでも、何度となく色んな方が述べていたと思うが、一向に届いていないようだ・・w
御自身で、読み、見出されることを祈るばかりです・・・。
> 庶民は、そんなものは「苦」などと感じてはいない。もっと「切実な」苦があったはずである。
そうでしょう。
だから、「この法は見難い」のです。
「anusotagAmin(流れに随い往く者)、paTisotagAmin(流れに逆らい往く者)」という言葉があるが、
まさに、一般的・世間的・日常的価値観とは逆の【視線】を要求するから、
仏教は「難解、困難、反世間的、特殊な生き方、等々」として距離を置かれてしまうわけですw