【最終】日本仏教はこのままでいいのか?!【決着】2

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767神も仏も名無しさん
人は大概、「世俗の楽しみ」や「癒し」をもって、都度都度に、出会う苦を克服してゆく。
そして、世俗の(世俗への)炎が消えた時(消えている時)
(世俗での享受、世俗的楽しみを求める心が消えた時)、
苦を処理すべき術(すべ)として、向かうべき究極は、自己の抹消か涅槃だ。
その時その人には、当然、「世俗の楽を用いよう!」などという気は起こらない。
 ※(これも一種の《不退転》だ。《眼の開いた者は、もはや世俗を望むことはない》。)
  ※そして、苦を処理する術(すべ)として涅槃への舵取りが不可能で、世俗が利用できないとなれば、
    自ずと破滅へと向かうことになる。(それは、水が高きより低きへ流れるが如く自然なことだ。)
    ※この時、輪廻への怖れはブレーキ・抑止力となりえるだろうか・・・。
だから、
≪〔世俗を厭うベクトル〕が(不退転なものとして)確立されたなら≫、
≪〔涅槃を目指し実現する術(すべ)が提示されるべき〕だし、
 その〔航路(手段・権利・機会)は確保されねばならない〕≫。
≪それが《修行》だったわけだし、《律》であったし(―ここでは、「戒」ではない―)、
「比丘」・「サンガ(僧団・精舎)」であったと言えるだろう≫。
日本以外の(諸外国(東南アジアやチベット等))の仏教は、
≪その「ノウハウ」「システム」「社会の中でのポジション」が確立され、或いは用意されている≫。
で、
≪〔日本はそれができない(→やめてしまった?)ので〕≫、
≪〔世俗を利用しながら涅槃(悟り)を《のぞむ》《見上げる》形〕で手を打った≫、と・・・。
  ※(必ずしも悪いことではないが、寧ろ非常に困難な手段を選んだことになる。
    ≪全てを内的要素(→心の調整)に凝縮し≫精神性・エッセンスを重視した。
    それはその人に、とてつもなく強靭な意志と忍耐を要求することになる。)
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(2chではない)別件での小考察だが、
決着シリーズ(このスレ)的にも適しているように思ったので、一部改変して書いておく。
(御隠居を交えてw)酒のツマミにでもどうぞ。

ノシ