【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】13

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978 考える名無しさん sage 2007/09/26(水) 15:31:57 0 ・・・・・・☆
(続き)
>時が経過しても、私は他人に変わる事は無いですし、過去においては他人であった
>という事もないでしょう。

常識的にはもちろんそうですが、哲学的には、必ずしもそうとは言い切れません。
通常、【「私の通時的同一性」を考えるには】
【「記憶」という主観的基準と、「肉体の時空的連続性」という客観的基準を使います】。
【これ以外に「本当の同一性」の基準はありません】。
そして、【両者は【通常は】矛盾しない】ので、問題は起きません。 ・・・・・・☆
しかし、仮に矛盾した場合を想定すると、いくらでも難しい事例が考えられます。
例えば福田康夫さんの体がグニョグニョと溶けて麻生太郎さんの体に変身し、
同時に麻生太郎さんの体がグニョグニョと溶けて福田康夫さんの体に変身した、とします。
唯物論的前提に立って、元福田康夫さんだった体は「私は麻生太郎だ」と感じるし、
元麻生太郎さんだった体は「私は福田康夫だ」と感じる、ということにします。
【いかにもありそうもない想定ですが、論理的に有り得ないわけでは全くありません】。
さて、この場合、過去に存在していた「福田康夫さんの私」「麻生太郎さんの私」は、
現在「本当は」どこにあるのでしょうか。これはなかなか答えの出ない問題、
というより、正解などなく「適当に解釈して決める」しかない問題なわけです。
【我々がこんな問題に悩まなくて済むのは】、
【現実にはそういう【不連続的な変化】が起こらないから】であって、それ以上でも以下でもありません。

しかし、ここで、>> 925における最高位氏のごとくw、
【「精神も、意識も、記憶も、肉体も関係なく、私は存在し得る」と考えると、全く別の答えが出ます】。
そのような純粋な「私」は、通常は「魂」と呼ばれるわけですが、
そのような存在を想定するなら、まさに、
【過去に存在した福田康夫さんの私、麻生太郎さんの私が、現在「本当は」どこにあるか】、
【それは客観的に定まることになる】わけです
(主観が関係ない以上、客観的に定まる以外はありません)。