【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】13

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31 考える名無しさん sage 2007/10/30(火) 19:35:34 0 ・・・・・・☆
985 考える名無しさん sage 2007/10/30(火) 11:07:52 0 (感嘆子)
(続き)
「それでは、『私』の同一性はどこにあるのだ?」と言われそうですが、
『私』の【同一性は現時点の記憶と、カタマリとしての人体の時空的連続性によって判断される】もので、
本当は極めてあやふやです。ですから、その意味での
『私』の【同一性は「言語的解釈の上にある」】としか言いようがないでしょう。

最高位氏の好きなw「この体のコピーを作る」話において、仮に唯物論が
正しいとすると、そのコピーには元の体と寸分違わぬ自我が発生するはずですが、
その自我は、当然「私は何十年も前から存在する唯一のこの『私』だ!」と主張するでしょう。
【客観的にはそれは間違いだと判断されるでしょうが】、
【それは肉体の時空的連続性がないから】でしかありません。
「この体が二つに分裂する」話だと、文字通り「一つだった『私』が
二つの別個の『私』に分裂する」ことになります。これは別段不思議でも
矛盾でもありません。現在の『私』の後継者が未来においても一つしかない、
というのは、「経験的にそうである」という以上の意味はありません。
このように、『私』の通時的同一性というのは極めてあやふやなもので
あって、とても「純粋な存在性」などと言えるものではありません。
【『私』とは特定の瞬間の特定の場所にしか存在できない何か】であって、
【その通時的同一性は仮想のもの】だ、と言っても、間違いではないと思います。

この体が死んで消滅して百年後にコピーを作る場合と、この体が夜眠って
主観性である意識が消滅して、翌朝目覚めて主観性である意識が発生する
場合と、【どこが違うのか、実は本質的には違わない】とも言えます。
私は生物学や大脳生理学には全く無知ですが、恐らく現実に起こっていることは
むしろ、「『私』は瞬間ごとに消滅しては似たものが再度発生するを
間断なく繰り返している」という方が実情に近いのではないか、
という気もいたします。