☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート27

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268神も仏も名無しさん
>>256
>>207では「中国語ではどうか」という話はしていない。【その前段階】の話だよw

詳細な論考多謝だが、私は専ら「『中国語』としての訳文」の話をしている。
パーリやサンスクリットは「死語」であり、「死語」をいくらやっても、現実
生活にはクソの役にもたたないw。死語を教えて飯を食ってる人もいるけどねw。

なお、古代においては現代のような語彙論も文法論も全くなかったのだから、
それらの点からいくら突っ込んでもあまり意味はないのではないか。あくまで、
現代人としての論理で、意味を合理的に推測する以外には方法はない。辞書も
文法書も無かった当時の翻訳者にとって酷ですよ。彼等の翻訳は「間違いだらけ」
だったと考えていてよい。現代の翻訳でも、二ヶ国語に完全に精通した者から
みると、無数の間違いが見出されるのだから。

「即物的」と言われるが、少なくとも人類は、即物的であったからこそ、現在まで
生存していることを、片時も忘れてはならない。人間の心身は、生存に不必要な
ものは、知覚しない、思考しないようにプログラムされているのです。ありと
あらゆるものを知覚できたり、思考できたりすると、人間は間違いなく狂い死に
しますよw。歌舞伎を横から見る者も出てくるw。

たとえ話には、百人百様の解釈が可能なのは必然的。話者が、自分でも、ストレート
に話せるほどには自分の思考対象を理解してはいない、まとめ得てはいないから、
たとえ話をするのです。聖書の多数のたとえ話が、その好例。従って、あらゆる
突込みが可能になり、解釈についての混乱を招くのです。