「負けるが勝ち」という言い回しがあるが、
これを《「負即勝」と【表現する】ことは【可能】》だ。
(
>>192にあるように)その字句通りに接続するなら、
単純イコールで《「勝負に負けること」は「勝負に勝つこと」と同じ》と結ぶことになる。
だが、誰もそのようには読まない(解釈しない)。「負けは負け」「勝ちは勝ち」という原則を外れることはない。
≪或るケースに於いて、【「負けること」に付随する要素・様相に】【ピントを合わせ】、
【それを再定義、価値の再付加を行い】【「勝つこと」に付随する要素・様相に】
【転換・再配置する】ことにより、【相反する概念をイコールで結んでいる】≫。
そして、この「勝負」の例が単純イコールで結ばれない理由は、
大多数の者が(無意識裡にでも)こうした手続きを踏んでいるからだ。
仏教・禅の類似語に於いても、同じ手続きがなされている。
また、他の箇所(経・論・註釈)、言い回し等との照合によって、その『接続の仕方』が絞り込まれる。
差別即平等平等即差別然り、五蘊即是空空即是五蘊然り。
※(特に禅系は、その手続きを略したり、端折ったり、無視したりする傾向があるが、
決して、『手続きを踏んでいない』わけではない。踏んだ上での省略であることが知られねばならない。
特に禅の語録を読む際は、この「略された部分」が見えているかどうかが鍵となる。
※この手続きが頓に為されるか漸に為されるかは又別問題。踏まえられていることに変わりはないし、
逆に言えば、踏まえていることが了解の証でもある。)
勿論、隠居は手続きを踏まずイコールと解しているし、
机は端折ることにスタイリッシュさを感じているんだろう。
どちらも滑稽であることに変わりはないが・・・。