>>306 > 生存に最低限必要な物質に対する執着は、生命の維持に不可欠だからである。
> それが欠乏すれば、争いや暴力も生じる。それらから生じる苦を除去するための
> 唯一の方法は、物資を供給することである。
はい。 ですから、それをするのは社会であり、行政でしょう?
比丘が(宗教者が(聖者がw))物資を供給すべきだ、と?
その最初の原因を断つ、或いは、何が最初の原因か気付くことは、
その後生じ得る様々な悪しき事象の生じることを妨げ、或いは減らし、或いは無くすことができるかもしれません。
少なくとも、気付けた者は、その方向性で互いに歩み寄り、協力できるかもしれません。
そうした可能性の扉を開いているのが仏教なのです。
悟った者だけが仏教を利用する資格があるわけではありません。
触れ、感銘を受けた者は、誰もが、それを胸に抱き歩くことを妨げられません。(本来は、たとえ宝珠氏であっても・・w)
> すべての最低限必要な物質に対する欲望・執着・煩悩は、肉体的生命の維持の
> ために生じている自然の摂理、即ち「法」であることを、「物質的に満ち足りた」釈迦には理解でなかったのである。
社会が円滑に機能する為に必要であることを知っているからこそ、
各国の王を出家せしめていないのでは?
望む者は別としても、要職にあるものや社会的に必要な仕事を為す者を、無理に出家させてはいないのでは?
※注) ただし、当時の仏教が、(御隠居の指摘が半ば以上当たる形で)、
「エリートのもの」(出家後の厳しさ、出家前の前知識の有利さの面で)であり、
「出家できるのは限られた者」(出家が可能な環境という面で)であり、
「地域社会に寄生する形でのみ存在し得る」ものであり、
「現実問題として、或いは実際として、万人の無条件出家が可能だったわけではない」
ことは常に留意されていて良いと思う。