【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】11

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135初代スレ7
527 2/3 sage 2008/08/27(水) 14:30:04 0
【私】を記述してください【私の存在性】17
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1214006280/
448 考える名無しさん sage 2008/06/25(水) 10:43:49 0 (素人)
そろそろ、
≪なぜ、思考は「私の思考」(当人の思考)としてしか現われないのか≫
その理由を考察してもいい頃じゃないでしょうか。
そしてそれは、特に最高位氏に義務付けられてきます。
なんとなれば、そここそが、最高位氏の最大にして最初の、そして最終の砦となっているからです。
(「俺はここにいる。今まさにこのように思考している(≒実感されている)」感が、全ての根拠となっているのですから)

ここに於いて戯れに試みてみるならば、一つの解は
≪「思考」が、(唯物的に言えば「顕われている精神活動」が)、『私』である≫
と、セットにしてしまうことです。
≪「思考」が『私』であるならば、【「思考」が、『私』として現われている】ということは、
  他の可能性の入る余地のない、それしかありえない、自明すぎるほど自明な、論理以前の必然となる≫
のではないでしょうか。
≪「『私』として現われている思考」が「私の思考」となることもまた、それ以外に可能性を含まない自明なこと≫
にならないでしょうか。

そして、ここから先の「なぜ?」は、(なぜ、「思考」を『私』と見做せるのか?は)、
それを問うならば、神学的問いに等しい迷宮に入らざるを得ないのかもしれません。
宇宙の始原を問うことと同種のものになるのかもしれません。
(「ブラックボックスとして捨象する」という卑怯な態度かもしれませんが・・・w)
或いは、≪「思考」を『私』と見做せるのは、そのように実感されるから≫ という逃げを打つ手もありますwww

455 考える名無しさん 2008/06/25(水) 11:08:04 0 (ネコ)
>> 448
『私』と“思考”を切断するのが最高位です。
あくまでも『私』の“思考”であり、『私』の“心”なのです。
それらを=で結ぶことに終始、彼は反対してきました。