>>345 > そのような分別からは、「あるがままのすべての人間」に
> 対する「慈悲」が出てくることは困難ではないでしょうか。
すぐ上の文 ≪ >同じ人間を「聖」と「俗」に分類することは ≫ という言い方から察するに、
貴方は、
≪「聖」=善、優、有価値、目標、理想、あるべき姿≫・≪「俗」=悪、劣、無価値、捨てられるべき姿≫
と見ているのではありませんか?
仏教に於いて、解脱や涅槃を目標として設定した場合、確かにそのように見做す必要が生じます。
「解脱や涅槃を目標として設定した場合」にはね・・・。(これは、先日のレスの通り。)
少なくとも、神と悪魔、光と闇のような険悪な対立ではありません。(ここを押さえるだけでも大分違うんですけどね・・・。)
そのような序列の上での考え方
私には、貴方自身こそが、キリスト教的価値観に汚染されているように見えてなりません・・・。
上で述べてきたように、その実情を鑑みるなら、(貴方が「聖と俗」という言い方に差別的匂いを感じるなら)、
別に「AとB」でも「甲と乙」でも「薔薇と百合」でも「月と星」でも「鶴と亀」でも何でもいい。
そこに、【差異をベースとした区分】が設定できればそれでいい。
また、「慈悲」の生起に関して、そのような危惧を抱く必要はないでしょう?w
「慈」であろうと「悲」であろうと、原点は《わが身に引き当てる》ということなのですから。
慈悲はそこから生じてくるものであるし、それが、最も確かで、力強いものとなるでしょう。