それらが、なぜ【自分達の世界と違う領域のこととされる】のか?
なぜ、【そこに、区分が(結界が)設けられねばならない】のか?
少し考えてみられたら如何でしょう?(人類学や民俗学の話になっても来ますが・・・w)
この理由こそが、仏教の、「出家」と「在家」という二面性であり、「経」と「律」というニ本柱の理由であり、
「法」と「僧」という両輪が敬うべき三宝の内に収められている理由とも繋がっているのです。
この理由が、それらを支えているのです。
「聖」と「俗」は(世界各地どんな宗教的事象に於いても)互いに補助し合うものなのです。
互いができないことをサポートし合っているのです。
決して、対立するものではありません。原初的に優劣のあるものではありません。
「主観的『頷き』」と「向上の想い」の上に(解脱や涅槃を基準とした時に)初めて、優劣が生じるのです。
(或いは、俺が俺が、という自己愛・自己保身が基準となった時、優劣が生じるのです。)
「優劣」(【という価値観の別】)が先にあるのではなく、初めにあるのは(単なる)「違い」のみなのです。
その「違い」に、「優劣」がまとわりついてゆくのです。(これも、人の心の動きの、見据えるべき姿です。)