ふむ。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1273950612/34&
>>4を読んで。
御隠居の言う『生命』を代替させる言葉としては『神の御業(みわざ)』の方が適切だったな。
「働きかけ(作用)」であり「力」であり「それそのものは不可知(知覚認識不可)」であり
「そうした力を持つもの(主体・根源)を背後に背負っている」という構図の面で。
(ただ、《「神」と「神の御業」は、その作用と作用主が言辞上区別されている》のに対して、
隠居の方は《どちらをも『生命』の一語で示されている》点に違いがある。
尤も、(この場合の)作用と作用主との境界はもとより曖昧で、
表現としては、《「神の御業」の現れ》でなく《「そこに神が居ましますこと」の現れ》
となっても、何もおかしいことはないが・・。
(だから(同じ構図だからw)、隠居も、全てを『生命』の一語で済まし得るわけだが・・www))
以下、代入してみよう。
>【生命】は、「生命現象を現す肉体」として、万人に知覚・認識可能である
【神の御業】は、「生命現象を現す肉体」として、万人に知覚・認識可能である
うむ。どんぴしゃだなw
(※補:「擬態」というものがある。これら「生物の形態のデザイン」が
「【見事なまでに意図的な】【或る目的の為にそのようになっている】ように見える種々の形態」が、
自然に(≒自然界の突然変異と淘汰で)生じる生成すると考えられず、
そこに「神の御業」の介入を想定する姿勢と、そこに「生命」の介入を想定する隠居の姿勢は、
まったく同質だ。
参:
http://matome.naver.jp/odai/2009051118532603289 http://blogs.yahoo.co.jp/forestwinfox/24294238.html)