あと、他の方へも言いたいことではあるが、『静的に一瞬を切り取ったものを対象化することは、
対象を常に名詞として(静止した実体として)捉えることと容易に同義となる』わけで、
気をつけなきゃならないのでは?・・・と。(→それが人間の認識として可能かどうかは判りませんが・・・w)
また、『動き・働き(動詞)には必ず、【それとは別の】主体(主語)がある筈だ』というのも、
先入観に過ぎないのでは?・・・と。
以前にも書いたかもしれませんが、
『この世には「動き」しかない』のではなかろうか?・・・と。
『必要に応じて、都度、任意に最小単位を設定し境目を設けている』だけではないか?・・・と。
◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない88◆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1173236496/ 535 486 2007/03/10(土) 21:10:05 ・・・・・・★
>> 507
かりに3時1時の述べるように「私」とは仮設されたものだとする。では、
何(だれ)が仮設するの?という突っ込みを、最高位ならずとも入れたく
なるでしょう。
また「私」をどのように捉えようと、捉えるという言い方をするかぎり、
「だれが?」との問いを受けざるをえないでしょう?
この世は“動き”しかないだろう、というのはそのとおりだと思います。
仏教徒は、それを諸行無常というのでしょう?
このスレの唯物論・決定論者の言説の大半が事象(世界)を固定化して瞬間
を切り取って断じたものにすぎず、、非仏教的です。“真理”なるものは、
事象を固定化したときに主観に宿る幻想でしょう?
お聴きしたいのは、諸行無常の事象のあわいに泡のように浮き出た“私”
とは何か。仏教徒らしい答えをお願いしたい。
もし、唯識さんがいらっしゃったら、あなたにもお願いしたい。