仏教 議論スレッド その3

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442少々粗いがw
>>320
> 従って、我々が知り、理解できる範囲とは現象界のものに限られるのです。
>  要するに、これを超えたものについては所詮、理解できないので説明を避けたのです。
> それが無記の姿勢というものです。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1260569824/233&「師の握拳」。

> 我々には感受できないし
感受できないものを、どうして【我々が】知り得ることがあろうか。

>>325
>  はいはい、・・・・・・ というご批判でしょう?
そうではありません。
『 >【いかに】あるか 』という部分が、≪貴方の言う『ニルヴァーナ意識』なるものにも適用される≫
ということです。(だから、>>279前半の問いとなる。)
一言にまとめて再度問うておきます。 「『ニルヴァーナ意識』とは『所縁のもの』ですか?」。

>  ただ私は詭弁が嫌いなのです。それは明確にしなかった(説かなかった)だけのことでしょう。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1260569824/233&「師の握拳」。

>  もちろん、読んでいますよ!ここで最も重要な解説は、無為とは「永遠」(の存在)だということです。
> 私は何も「有」として述べているわけじゃない。「有」の概念で述べたことは1度もありません。
上記「『ニルヴァーナ意識』とは『所縁のもの』ですか?」という問いをここでもすることになる。
「『ニルヴァーナ意識』とは『無為なるもの』(或いは無為という領域に属するもの(≒概念))ですか?」

> 水野氏が「客観的事実」としてではない、という解説をしていることについても理解しています。
>  客観的事実とは現象世界の概念だからです。客観的には捉えることができないのが無為、
> すなわちニルヴァーナなのですから。これは主観によって体験する世界なのです。
だからw
「無為」は(現象界と比肩し得るような)『世界』ではないでしょう?(←これは少し「表現の揚げ足取り」であることを認めようw)