☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート26

このエントリーをはてなブックマークに追加
5ID違うが
>> http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1265848995/898
>> http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1265848995/904-905

 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1257855450/767
 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1265848995/514
 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1265848995/897
 御隠居のような考え方、視線は、勿論「アリ」だ。
 だが、それは《「苦の完全なる除去」にはならない》という立場が「仏教」であるだけ。
 家族や子供に「苦の軽減或いは昇華」を依存してもいい。
 が、それは、その家族に何かあった時、失った時(感謝の念も生じようがw)、
 一瞬にして憂いが、苦が生じるわけさ。何かなくても、行く末や挙動に一喜一憂するわけさ。

 御隠居の主張・スタンスは、(“目を逸ら”したり、“対象の代替”或いは“別の案件をそこに嵌め込む”こと等による)
 苦の《「緩和・軽減」「隠蔽」ではあっても、「根本的解決」ではない》
  (〔注〕:病等による肉体的苦痛は医学等に頼りましょうw)

━━━━━━━━━━━━
仏教が、『鬱のベクトル』を含有することを私は認める。(縁起馬鹿が賛同するかどうかは知らんがw)
ただ、(御隠居風の立ち位置を選ばず、仏教(仏道)という枠内を選択するなら)、
そのベクトルを『向上のベクトル』(涅槃への、安楽へのベクトル)へと
転換するツール・要素が、「行」(或いは律)であり、「学友」であり、「師」であり、
「仏の言葉」(仏典)であるわけさ。 或いは「慈悲(心)」だったりするわけさ。
向上のベクトルを顕現(実践)し得る環境、顕現(実践)し易い環境であるわけさ。
(で、日本仏教に決定的に欠けているのが、この後者の「環境」なわけさw
 で、御隠居風の立ち位置でありながら、且つ仏教的であろうとしたのが「(近代)禅」だw
 「整っていない環境の中」、「世俗の誘惑・諸事に晒されながら(関わりながら)」、
 (ボクシングのスウェーじゃないがw))捉われず拘らず、
 「飄々と生きる」ことが目指される、と。)