>>277 自分の言っている無茶苦茶さに気付けないようなんで、解り易くしてやるよw
> 大昔の翻訳が「間違いだらけ」なら、
→自分が引用し、参照し、参考にしている漢訳仏典が「間違いだらけ」なら、
→次の項を参考にすれば、《論理的・合理的に解釈できない場合がある》ので、
《それは参考にならない。間違っている》。
→次の項を参考にすれば、《「間違っている」とは「自分の考えに合致しないこと」》。
> 「訳文」が現代人の論理で合理的に解釈できれば、それでよいのでは。
→その文章が《論理的・合理的に解釈可能ならば》【それでよい】。
(*【それでよい】とはどういうことか? おそらく《自分の考えに合致する》ということと推測しておく。)
→《「論理的・合理的に解釈可能である」ということは、「自分の考えに合致する」ということ》。
> それ以上、原典にこだわるどんな理由と必要性があるのかね。
→原典、つまり最初の内容・意図がどのようなものであるかは関係が無い。
→次の項を参考にすれば、《論理的・合理的に解釈できない》ので参照の必要は無い。
→上の項を承けて、《自分の考えに合致しないので参照の必要は無い》。
> その原典自体も、それほど当てになるものではあるまい。
→原典の内容は《論理的・合理的に解釈できない》ので参照の必要は無い。
→二つ目の項を承けて、《自分の考えに合致しないので参照の必要は無い》。
《【それでよい】というのが、どういうことなのか》が鍵となるわけだが、
よーするに、この4行は、≪まず、絶対的基準として「自分の考え」があり≫、
≪「自分の考えに合致するもの」は正しく≫≪「自分の考えに合致するもの」が仏教である≫という主旨だ。
まず、自分の考えありき。それに合わせて取捨選択をする。歴史的伝承や註釈・検証・研究なぞ無視。
これを『自分勝手な妄想』と言わずに何と言えばよいやら・・・w
都合の悪い部分はいつも通りスルーだし・・・w