☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート25

このエントリーをはてなブックマークに追加
631試論
>>619
少し擁護してみよう。 たとえば、
「お腹が張っている」という表現は、日常よく見られるものだが、
なぜ、この言語表現と実際の自分の体感とが適切なペアとなり得るのだろうか。
(冷暖自知という言葉もあり、また、頭痛歯痛、喜び悲しみ、怒り憎しみ等、
種々(真には)言語表現不可能な、個別の経験(体感・感受)は多くある。
それらもまた同様ではあるが)、当然、『学習』によるしかない。
何が必要か。(何が学習されるのか。)
・《多くの使用例から導かれる、「張る」という言葉の指し示す事態(様子・感受共に含)の把握》
・《どのような時に「張っている」と表現されるのかという場面の把握》
・《意味が限定されることがあるなら、それはどのような時かという把握》
・《自身の経験の観察分析、把握》
・《自身の経験(状態)と「張る」「張っている」という表現が指し示す状態との突合せ・重ね合わせ》
などを経て、
≪『この体感が、「お腹が張っている」ということなのだ』と気付く、知る、理解する。≫
上で触れたように、痛みや感情も同様だ。
(また、特に子供の学びはこうしたものだ。→だから、周囲の大人の言動は重要なのだが・・。)
【ある言語表現の学習】と【語義の学習】と【自身の(経験の)観察】と【情報の集積整理】とによって、
個々別々の〈純〉内的な体験が、「追体験した」「同じ体験をした」「伝え聞いたものと同じだ」と判断される。

で、宗教的な体験(この場合で言えば「悟り」や「涅槃」)もまた、同様な構図の上にあるとは見れないだろうか。
だから、「師の言葉」や「文献(テキスト)」、「語義の理解」、
「自身の心や身体の観察、把握、分析」、「行(心身の調整及びその方法、或いは節制(律))」、
等が重要なのだ、と・・・。
(縁起馬鹿はココ〈教授する者の資質と学習される内容の重要性〉を言っているのではないか? と・・。)

このプロセスが適切に為されれば、独我論を超え、個の経験が伝承可能となるのだ、と・・・。
632神も仏も名無しさん:2010/02/24(水) 21:39:19 ID:nljj85Mw
>>619
故に、>精神病棟のその患者の体感と主張は、
>>631内の(重要な)幾つかを欠いて成立しているので、却下が可能である、と・・・。

(※これは、子供の「(言語)学習」「情操教育」でも同じだろ?w)
(※尤も、当人にそれを気付かせ、理解させるには、
  その人に「周囲の状況を見、理解する能力(或いは受け入れる余裕・冷静さ・謙虚さ・従順さ)」が必要だが・・。
  ただ、631のアレンジ形により、周囲の人間が判断を下すことは可能だと思われる。)