仏教 議論スレッド その3

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さて、『通常の影絵』は、上記のように
【スクリーンの向こう側の何か】の存在が【必然的に要請され】るし、【それ無くしては成り立たない】(→【影が生じない】)。
そしてこれが、一般的思考の形式(「人としての《思考の癖》」)に当たる。
今、(液晶表示等を想像してもらうといいのだろうが)
『スクリーンそのものに、影(としての映像)が映っている(生じている)』としよう。
この時、【スクリーンの向こう側には何ものも存在しない】。光源も影を生じさせるものもない。
ただ、(スクリーンの組成・構造、機能、働き等によって)、スクリーン自体に影が生じている。
しかし、≪【スクリーンの機能を知らない場合(情報の集積・分析による推測が十分になされない場合)】は、
【「思考の癖」に沿ってしまうので】【スクリーンの向こう側に】《【何かを求めてしまう】【何かがある筈だ!と考える】》≫。
>>24(及びhttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1272850647/609)の図を併せて思い起こしてほしい。
現代科学の知見は、この喩えで「スクリーンが影を生じさせる」如くに、
『肉体及びその機能(各種細胞やDNAの働き、生化学的働き)に拠っている』と見做している。
『スクリーンの組成・構造、機能、働きにより、【スクリーン(自体に)に影が生じている】』と見做している。
「生命現象」の発生因を不可知な領域に求めたりしない。

このように(現代科学の知見のように)、不可知な領域に踏み込まず、
既知の在り様のどこかに着地して「生命」のラベルを貼るなら、
隠居の主張も「現代科学の知見に則った、21世紀の人間が持ち得る、有効な有意義な世界観・人生観」
で一件落着したことだろう。しかし、彼はそこを踏み越えてしまった。
≪スクリーンの向こう側に「神」や「霊魂」等を設置する愚を批判しながら、
 自らは、何も無いスクリーンの向こう側に、『生命』を設置した≫。
「自ら踏み越えていながら、同じように踏み越えている他の宗教的思想を弾劾する」。
この滑稽さが指摘されて続けているわけだ。

解るか? >>隠居