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※つまり、
《そこに確かに、〔「生命」現象〕が現れていることが観察された》としても、
《【何が】【〔「生命」現象〕を現しているのか】、
【どのようなメカニズムで】【〔「生命」現象〕が現れているのか】、
は、(多くの情報の蓄積・精査・分析による)【推測】や【見做し】にしかならない》。
《現代科学の知見は、そうした情報の蓄積と推測により、
たとえば『「心(心的現象)」なら「脳の活動」だと見做している』し、
『〔「生命」現象〕なら、生化学的に説明がされ、霊魂や神などを持ち込んではいない』。
【そうした「知り得ない・不可知な何ものか」(たとえば『生命』)など持ち込んでいない】。
だから、
【『〔「生命」現象〕を現している何ものか』として『生命』を持ち出すこと】は、
【『霊魂』等を持ち出すこと】と、【構図上同じである】と指摘されている。
古代人は、【〔「生命」現象〕の現れを『霊魂』等による】と【見做し】、
御隠居は、【〔「生命」現象〕の現れを『生命』による】と【見做し】ているわけだ。
よーするに【仏教・宗教関係なしに】、
「御隠居の論立ては、強引且つ独善的妄想に過ぎない。矛盾だらけ」と言い得るわけさ。