【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】15

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>>292
> 「すべてが無常」なのなら、むしろそれらをあるがままに受け入れることが、
> 唯一の苦の除去の繋がるのではないか。
 はい。
 まさしく、お釈迦さんはそのように説いていらっしゃるのですw

>>306
> >庶民の切実な苦の原因をたどると、無常であるものに執着することから起こる。
> そんなことで、例えば子に与える食物の不足で苦しんでいる人間が納得すると
> 思うか。赤ん坊がオッパイを求めて泣くのは、生命を維持するために不可欠である
> からである。釈迦は、そんな赤ん坊に「執着するな」などとでもいうつもりか。
 その通りです。貴方はスッタニパータはお持ちなのでしょう?
 お釈迦さんは、牛飼いダニヤとどんなやりとりをしてますか?
 また様々な場面で、親しい者・愛する者を亡くした者に何と言っているか。
 「泣いても疲労が堪るだけだから泣くな」と言うのですw

 しかし、ここで忘れてはなりません。
 比丘は(比丘尼は)子を持たないからです。赤子を育てたりしないからです。
 子を持ち、赤子を育てる者は、当然のことながら義務を背負います。
 過剰な執着はしないまでも(―それは往々にして却って子供を不幸にする―)、
 そこには、「関心と、注意と、働きかけ」等が必要です。
 出家者にとってそれらは煩いである、と言われますが、
 世俗の者は、【その方向性】を【知る・気付く】だけでも良いのです。
 それが、日々の負担(ストレス等)の軽減・緩和に繋がれば十分です。
 そこで、「さらに求めよう」と思った者が釈尊の(或いはサンガの)許へ行き、出家を願うのです。

 出家と在家、聖と俗、このニ面性なくして仏教はあり得ません。
 貴方は、これを一元化したいのかもしれませんが、それは無理です。
 出家の(勝義の)視線、価値観あってこその仏教なのですから・・・。
 すべては、そこから敷衍されねばなりません。
 だから、(心理的)カウンセリングの枠を超え得るのです。(これは、超常現象や神秘的事例とは一切関係ありませんw)