>>292 > 「すべてが無常」なのなら、むしろそれらをあるがままに受け入れることが、
> 唯一の苦の除去の繋がるのではないか。
はい。
まさしく、お釈迦さんはそのように説いていらっしゃるのですw
>>306 > >庶民の切実な苦の原因をたどると、無常であるものに執着することから起こる。
> そんなことで、例えば子に与える食物の不足で苦しんでいる人間が納得すると
> 思うか。赤ん坊がオッパイを求めて泣くのは、生命を維持するために不可欠である
> からである。釈迦は、そんな赤ん坊に「執着するな」などとでもいうつもりか。
その通りです。貴方はスッタニパータはお持ちなのでしょう?
お釈迦さんは、牛飼いダニヤとどんなやりとりをしてますか?
また様々な場面で、親しい者・愛する者を亡くした者に何と言っているか。
「泣いても疲労が堪るだけだから泣くな」と言うのですw
しかし、ここで忘れてはなりません。
比丘は(比丘尼は)子を持たないからです。赤子を育てたりしないからです。
子を持ち、赤子を育てる者は、当然のことながら義務を背負います。
過剰な執着はしないまでも(―それは往々にして却って子供を不幸にする―)、
そこには、「関心と、注意と、働きかけ」等が必要です。
出家者にとってそれらは煩いである、と言われますが、
世俗の者は、【その方向性】を【知る・気付く】だけでも良いのです。
それが、日々の負担(ストレス等)の軽減・緩和に繋がれば十分です。
そこで、「さらに求めよう」と思った者が釈尊の(或いはサンガの)許へ行き、出家を願うのです。
出家と在家、聖と俗、このニ面性なくして仏教はあり得ません。
貴方は、これを一元化したいのかもしれませんが、それは無理です。
出家の(勝義の)視線、価値観あってこその仏教なのですから・・・。
すべては、そこから敷衍されねばなりません。
だから、(心理的)カウンセリングの枠を超え得るのです。(これは、超常現象や神秘的事例とは一切関係ありませんw)