☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート25

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619神も仏も名無しさん
さて、それでは質問だ。

>だからこそ修行によって認識を正しくし目覚めた聖者である師によらなければならないわけ・・

縁起一代はこのように、判断基準を「聖者」に求めるわけだが、「聖者」自身が
「正しく目覚めていなかった」可能性はやはり排除できない。
つまり、そこは真の聖者か?否か?の判断は個々に委ねられるわけで、
外部検証不能につき、あくまでも、そこは「聖者」であると『信じる』しか
ないわけだ。 ここに仏教は独我論を超えられるか?という問題が常について
回ることになる。

『仏教が独我論で何が悪いか?』
という見解もあろう。  (俺はどっちかというと、その意見だが)
「利他」は、とりあえず、おいておくとすると、仏教の根幹は、あくまでも
『個』の解脱を目指すものだろ?(犀の角のように)
他宗教的な表現をすると「個人の魂の救済」を目指すものだ。

ならばだ、今、精神病院に一人の患者がいたとする。この者は、「自己を神と思い
神の愛を施すために、人間界におりてきている」とまさに一片の疑いも無く、
信じきっている。周りの者は彼を精神異常者扱いするが、彼にとってみれば
一切の悩み、苦は存在しない。日々、愛に満ちているわけだ。
さて、いわゆる「聖者」と言われる者と、この精神病院の彼との差異は、あるのか?
どちらも「真理を了解している」と思い「一切の疑義、悩み、苦などは存在しない」
この両者は全く等価に思えるが?(勿論、周りの評価、認識などは問題外だ。
あくまでも、彼らの側においての話である)
この差異を明確にするものは何か?