☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート25

このエントリーをはてなブックマークに追加
6011/4 ID違うがw
ここは質問箱なんで、昨日の一連の応答は宜しくないなと思いつつだった。
 (が、一応、重要なポイントでもあるし、また、
 「(それが無意識的なものであるにしろ)、実は『彼自身が抱えている問題点』ではなかろうか」
 という感じもあったので、しつこく応答した。
 また、現時点での『私自身の心の在り様の観察』及びその様相の整理も兼ねさせて貰ったw
 (別の形では考察済みではあるが・・。))

そうしたことも踏まえて、あと少し続けてみよう。
彼の設問に関しては、昨日のもので十分なので、
・彼のレスの仕方の変遷 と ・彼の最後の指摘部分 の二つに関して
若干の蛇足を加えておく。(縁起馬鹿は、迷わず529に票を入れると思ったよw)
6022/4:2010/02/24(水) 10:30:43 ID:BIfjNJY0
彼の言葉は、>>561>>577もか)までは最初の問いと直結したレスになっている。
納得がいかない所に食い下がること自体は悪いことではない。
が、568で指摘したように、以降、レスの仕方が変わってくる。
「設問の解答として適しているかどうか、その内容がどうであるか」から、
「回答者のスタンス(或いはスキル)を糾弾する」ものになっている。(>>582が顕著な例だが。)
原仏スレ後期の阿呆陀羅は、そうした問い方の不備に異常な嫌悪感を寄せていたが、
そこまでいかずとも、カラスのように中身のないレスを繰り返すのであれば、
(ここが質問箱であるなら事例としての意味も込め)、スルーでなく指摘することも、まんざら無意味でもあるまい。

561以降、論点がシフトしている点に関し、「問いへの応答としては一応了解するが、
回答者の姿勢・スタンスとして、その“答え”は『回答者の在り方と一致』しているのか?」
と問い直されていれば良かったが、それ無しに回答者のスタンス・人格への批判へ変わっているので、
「こうした形(詰問)が、有効で、問いとしてふさわしいもの」と閲覧者者に思われないよう、釘を刺そうと思った。
(ま、これも私の我執と繋がってはいるが・・・w)
6033/4:2010/02/24(水) 10:31:41 ID:BIfjNJY0
また、誰も「自分は我執を断じている」などと言っていない。
寧ろ、みな「足りない自分、出来てない自分、我執に絡め捕られた自分を自覚しながら、
或る者は自嘲し、或る者は悔いつつ」書き込んでいる。(そうでないのは机くらいのもんだろうw)
私自身も昨日の応答は、仏典の記述を参考にし、
「自らの心の在り様を観察した時に、そこに見られた様相をもとに」作文した。
もとより、「できているから、断ぜられているから」応答したわけではない。「自身の我執の確認」でもある。
心ある住人たちの多くがそうであろうと思う。
そして、彼自身もまた、彼の我執・我見によりレスを重ね、言葉が紡がれ、
最後、(内容でなく相手の)誹謗に変貌したことが、>>588最後1行で指摘されている。

料理のレシピ同様、(完璧に実践できなくとも、理解していれば)
その理や手順、ポイントを述べることは出来る。
勿論、「できている」者が語るのが一番であるが、それ以外を認めない!と頑なになることもあるまい。
切磋琢磨という言葉もある。たとえ羽衣の厚さ程度でも、向上の足しになればよい。
皆、自分の我執と向き合って、格闘しているのさw

以下、お蔵入りにしてた(決着シリーズの流れの)ものを一つ貼っておく。
異論はあるだろうがw、一つの意見として貼っておく。
6044/4:2010/02/24(水) 10:37:56 ID:BIfjNJY0
 ──────────
(縁起馬鹿と重点的に絡むようになってから特にw)、
いろんな部分が洗練され、整頓されてきた。 (2chも馬鹿に出来んw)
そこでやはり思うのは、
仏教ってのは、結局「やるか、やらないか」「できるか、できないか」へと
最終的に帰結してくるんだなぁ・・・とw

異論はあるだろうがw、
基本的に「仏教の教義ってのは難しいもんじゃなくて、“実践”が難しい」んだってのが
昔からの持論で、それは、やっぱり今も変わってない。
勿論、ここで言う“実践”は「行」と言われるような修行・節制・調身調心だけでなく、
寧ろ《「無我」の実践》《「慈悲」の実践》、或いは縁起馬鹿の好きなフレーズを使えばw
《「普賢行」の実践》ということになろう。
 *(これらの実現のための準備・必要条件が「禅定による観」だったり「四念処」だったり
  「縁起」の現観だったり「各種修行階梯」だったりするのだろうが、今は措く。)
だから、「やるかやらないか」でしかない、と。
 *(この辺が、三世なんてどうでもよかろう?wの根拠でもあるわけだがw)
博識で、詳しくて、具に理解し解釈を垂れることができることは素晴らしい。
伝承・継承の一翼を担うことは可能だ。
だが、浅学で、知識も浅く、難しいことはよくわからないけど・・というような者でも、
それでも、
「できてる」人間の方が遥かに素晴らしい・・。
そういう人の方こそ、「応供」という呼称がふさわしいだろう・・・。