【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】13

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986 考える名無しさん 2007/09/26(水) 17:42:32 O
>> 959
このような考え方を、時間の空間化と云うと。
時間の質的変化を、空間に変換してはじめて比較が可能となる誤謬。
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519 考える名無しさん sage 2007/05/15(火) 10:17:20 0
>> 512
>本来は、「他」しかいないのが通常の状態なんですよ
ですからw、「他」しかいない、ということは、有り得ない(というか無意味)
なのですよ。
「他」がいるためには「私」がいる必要があるし、「私」がいるためには
「他」がいる必要があるのです。
「私が存在する以前の世界」が「他」になるためには「私」が存在しなければ
なりません。「2006年」が「過去」になるためには、それ以後の時点が
「今」でなければならないのと、同じことです。

>> 508
>何がどうだから、他の肉体(他人)とは違う『私』であったのでしょうか
最高位氏、この問い方は混乱しておりますぞ。
この文脈なら、
>何がどうだから、他の肉体(他人)は「この私」を生み出さず、
>この肉体だけが「この私」を生み出したのか?
と、問わなければなりません。
他の肉体は「他の私」という別の主観性を生み出している可能性が大なのですから。
ただし、これだと、
【「何がどうだから、他の木は『このリンゴ』を生み出さず、
この木だけが『このリンゴ』を生み出したのか?」と、全く同型の疑問となります。
答えは、「他の木が生み出した何かは、『このリンゴ』との同一性を保てないので、
論理的に『このリンゴ』では有り得ないから」というものです。
『このリンゴ』の通時的同一性は、カタマリとしての時空的連続性によって判断するしかないので、
『このリンゴ』が最初からこの木に成らずに他の木に成っている、という事態は、定義上有り得ない】
からです。