隠居は、以前、
≪「他者の心が【どのようであるか】」は、「(専門家の)観察により」「知り得る」≫(
>>54)
また、
≪「自分の心が【どのようであるか】」は、「自分の主観の域を出ない」≫(
>>54)
と言った。
※注意すべきは、
《いずれにしても、それは「現れ、様相」(→〔「心」現象〕・「心的現象」)の観察でしかなく、
なんら【「心」という何ものか】の【存在】を担保するものではない》ということ。
確かなことは、《そこに【心的現象(〔「心」現象〕)が見られる】》ということだけだ。
また今、
≪「知覚認識できる“現れ”(〔「生命」現象〕)により」「そこに『生命』が【存在する】」と【見做し】得る≫
と言った。 (
>>546>>586>>598)
また、
≪「死体には〔「生命」現象〕が【現れていない】」ので、「そこに『生命』が【存在する】」と【見做し】得ない≫
≪「《肉体》とは《〔「生命」現象〕が現れている》もののみを指す≫(→《死体》は《肉体》ではない)
と言った。 (現時点では、文脈上このようにしか読めない。) (
>>546>>547>>580)
※注意すべきは、上記「心」の場合と同じく、
《それは「現れ、様相」(→〔「生命」現象〕)の観察でしかなく、
なんら【『生命』という何ものか】の【存在】を担保するものではない》ということ。
確かなことは、《そこに【〔「生命」現象〕が見られる】》ということだけだ。