【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】13

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520 考える名無しさん sage 2007/05/15(火) 10:18:49 0 ・・・・・・☆
(続き)
では、『この私』はどうかというと、【「肉体」を度外視するなら】、
【その通時的同一性は主観的な「記憶」によるしかありません】。そして、
【『この私』の記憶は「この体」としてのそれでしかなく】、
【この体が存在する以前の記憶は存在しないため】、
【『この私』の同一性はそれ以前には遡れません】。
ですから、『この私』が最初からこの体から生み出されず他の体から
生み出される、という事態は、定義上意味を持たず、有り得ないのです。

あなたご自身が、「この私は、45億年間存在しなかった」と断言しておられましたね。
これすなわち、「哲学者最高位としての何十年かの記憶しかない」という事実の帰結にほかならないのです。
【もし「私の同一性は肉体にも記憶にもよらない」というのなら】、
【【「この私は永劫の昔からずっと存在している」】と言っても「この私はソクラテスだった」と言っても
「ナポレオンだった」と言っても「徳川家康だった」と言っても「宇宙人だった」と言っても
「ティラノサウルスだった」と言っても、別に間違いではない】でしょう。

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「(西洋的?)(哲学的?)同一性」の定まり方は以上の【 】部分で十分でしょう。(長過ぎるのは事実だがw)
(個々の文意は文脈と密接に絡んでいる為、単独抽出を避けてこのような形になった。御寛恕を。)

さて、これに比して、
(仏教における)『世俗に於いて凡夫が見る同一性』は、どのようなものとなるだろう。
また、勝義に於いて、この同一性が解体されるべきものであるなら(虚妄であるなら)、
凡夫は、虚妄なる同一性に依存して、「倫理道徳・積善の動機」とすることとなる。
まず、虚妄なる同一性を信じなければ「倫理道徳・積善の動機」が生じないことになる。

以下、また後日・・・。  ノシ