>>318 > 「現象界」から解脱し、
> “現象界を超越した境地”であるところのニルヴァーナに到達することを説いているというのに、
「解脱」という漢訳(≒漢字)に引き摺られてませんか?
《「輪廻」及び「苦」からの「解脱」、「“苦なる生存”」からの解脱》ならば、筋が通ります。
(涅槃の別称としての解脱は、まさに《そこを指して》称されているのでしょう。)
しかし、成道後45年間、釈尊は《現象界に居ます》。『釈尊は45年間「解脱」していなかった』と?
だから、≪場所的思考を抜け出ていない≫と指摘するのです。
「なぜ、涅槃が多くの別称を持つのか」、その意味を、もっとよく考察してみることです。
ウダーナに於いては「nissaraNa」と言われています。訳の多くは出離となっています。
語(訳語)自体を見れば、「解脱」と変わらないと反論されるでしょう。
しかし、mokkha、vimokkhaにしろnissaraNaにしろ、解放・放免でこそあれ、
「【現象界から】どこかへ」というものではありません。
(貴方が「意識の次元」という言い方をするのも、ここが引っ掛かるからでしょう?w)
あくまでも《苦(なる生存)、苦なる在り方からの出離》であると知られるべきでしょう。
また、貴方の言うようなことが主眼であれば、当然、
≪【その場面で(文脈で)】、最も適切な、ふさわしいニュアンスを持つ語が用いられたことでしょう≫。
そして、もし≪ >【現象界からの】解脱(≒出離) ≫と言うならば、
それは、《輪廻の終わりに際しての五蘊の滅》以外にはありえません。
だから、≪場所的思考を抜け出ていない≫と指摘するのです。
仮に、『意識のステージが高次に移行する』という言明を受け入れたとしても、
それは、≪【現象界を出た】ということではありません≫。
だから、【知られる(paJJAyati)】と言われるのです。
「来て、見よ、と言われるもの」(ehi passika)、「時を置かず【見られる】もの(akAlika)」と言うのです。
> もう1度、この中村氏の解説を読んでウダーナ8:3と対比してみることですよ。
8:1、8:2、8:4は無視ですか、そうですかw