仏教 議論スレッド

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288神も仏も名無しさん
>>281
>「説示」するのに、「言語習慣」によるのは当たり前。竜樹は、
>そんな分りきったことを繰り返すようなアホではない。
>>13-14>>4
> 100歩譲って「言語行為に限定しない」として、vyavahAraを
> どう日本語になさいますか?w
言い換えれば、
「説示するのに、言語習慣よるのが当たり前」で、且つ重ねて「世俗の慣行によって」と言われるとき、
それは『どのような説示』を指すのでしょう?



いいか、(ここが重要な所だがw(>>285))、
《世俗のみを真実として、「世俗のこと」を示す「世俗が真の姿であり基盤であること」を示す》ものではない、ということだ。
《様相としての事象が利用される》、ということだ。(モチーフとして個物(≒広義のrUpa)が用いられていたとしてもだ。)
《勝義を差し置いて、世俗(諦)のみが真実である》ということではない。(>>283
《勝義を示すにあたって、世俗諦が利用される》ということだ。
それを(平川氏も)『もとづかなければ』と表現しているのではないのか?
また、
《譬喩表現を使用する》としても、それは、《世俗の在り様に【仮託して】》《主題が(≒勝義が)示される》、ということだ。
 ※(当然、譬喩表現(≒世俗の在り様への仮託)も、『世俗(の慣習・慣行)にもとづいている』ことにほかならないw)

そして何より、「説示が言語によるしかない」とすれば、
(ジェスチャーやパントマイムなら話は別だがw)、譬喩表現だろうが、個物の利用・引用だろうが、
全て『言語によってなされる』わけだ。
それは、最大の括りとして(全ての表現・説示のラベルとして)『世俗の言説による』と一括して言われることになる。
 ※(それは、「一切皆苦」と言われる時の構図と相似形をなす。)
諸註は、まさにそのように解しているのではないのか?