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「涅槃なるもの」
涅槃(nibbAna)とは、煩悩の消えた(nir-√vA)状態、あるいは煩悩を離れた(nir-√vR)状態を言います。
具体的には、最上の悟りを得た人である阿羅漢の境地を指し、貪・瞋・痴の滅尽(khaya)という、
いわば三毒のない状態であるとされます。また涅槃は、「不死」(amata)、「不生」(ajAta)とも呼ばれますが、
それは、阿羅漢には、煩悩が断たれ、
もはや【渇愛(taNhA)・邪見(diTThi)に満ちた凡夫として】【生まれることも死ぬこともない】、
つまり業(kamma)による生死の輪廻(saMsAra)がないという意味です。これに関連して原始仏典に、
煩悩のある一般的な凡夫の死を「死ぬ」(marati)「時を作る」(kAlaM karoti)と表現するのに対し、
阿羅漢の場合には「入滅する」(parinibbAyati)「時を待つ」(kAlaM kaNkhati)とし、
はっきり両者を区別していることが注意されます。
それは、仏や阿羅漢は、身心が滅びても、死ぬことがない、
それゆえ仏教には「仏の死」とか「阿羅漢の死」という言葉は存在しないということです。
涅槃の状態は、「有余依」(saupAdisesa)と「無余依」(anupAdisesa)の二種によって説かれることもありますが、
それは、身心の有る涅槃か身心のない涅槃か、
つまり「煩悩の滅尽」か「蘊(煩悩の素因)の滅尽」かを区別しただけのものです。
後者は前者の単なる帰結に過ぎません。
これを、後者に重きを置き、真の涅槃は死後にあるとして、涅槃を死と結びつけるならば大きな誤りになります。
【涅槃は死に関わらぬものです】。その意義は、あくまでも、
【この世で、戒・定・慧の実践によって獲得される】【「煩悩の滅尽」に、目覚めた者の境地にこそ】あるはずです。
その意味でまた、成道について言われる「涅槃」(nibbAna)と入滅について言われる「般涅槃」(parinibbAna)とは、
言葉の使用において明確に区別される必要がありましょう。
なお涅槃は、縁によって生じない無為のものであり、【勝義的には】【常住】、【寂静】、【無我】のものでありますから、
【いわゆる絶対的な我としてのアートマンと同一視されることはありえません】。
(季刊原始仏教第5巻(平成5年四月八日発行)P.143) ※(【 】は、重要と思われる部分に引用者が挿入。)