☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート27

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>>225>>238
国訳一切経を元に読み下してみた。
(現代語訳或いは意訳は、試みてみてもよいが私の手に余るw 天台の教義なぞ、よーわからんw)
(重要と思われる節には、≪≫を付すか末尾に☆印を記した。)
(てか、解題事典見たら、これってすげー重要なやつだったんだなw)

この法華玄義は、もともとが、
 (法華経説示の意義として)、「それまでの教えの詳説・プロセス」を下位に配し、
 「(法華経が説かれることによる)」「一乗思想の敷衍」、
 ひいては「瑣末な修道階位・プロセスを飛び越える、《悟り》へのダイレクトな突入」及び
 「《おしえ》そのもの(本義)を直接示す・挙揚する」こと、を「円教」として釈す、明かす
もののようなので(推測w)、
必ずしも[御隠居用法]への「明確な反例」とはならないが、それでも、
『単純イコールではない』ことを示し得るのではないかと思われた。
上記のような、天台大師の基本スタンスはもとより、この法華玄義中、
「煩惱即菩提、菩提即煩惱」「生死即涅槃、涅槃即生死」のフレーズは随所に見られる。
「不二」「不異」「無別」という語と併記される箇所も多い。
  *(故に、>>462矢印先のような読み下しでなく、それぞれ五文字セットの術語として見るべきかもしれない。)
また、三蔵(→諸行の説示)・通教(→呵責の説示)・別教(→煩悩の説示)と、従前の説示を釈しながら、
それらより更に優れたものとして、「円教(→清浄の説示)」が示されてもいる。

しかし、この段で重要なのは、(天台大師の基本スタンスとしてもだが)、
「円教以前の教え・プロセス」を【否定してはいない】ということだろう。
ざっと見だが、他の幾もの箇所に「衆生各々の機根によって適したものが説かれて来て、
今、法華経が(大乗が)説かれた」という意味合いのことが述べられている。
教相判釈にしても、「その〈説かれ方〉や〈個別の内容〉そして〈示されている本質・本題〉の別」
によって分かたれるものと思う。