【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】13

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30 考える名無しさん sage 2007/10/30(火) 19:34:51 0
984 考える名無しさん sage 2007/10/30(火) 11:04:50 0 (感嘆子)
@>> 22
>その「これ」に唯一性があれば、誰になってもおかしくないという考えは否定されます。
>所謂魂が浮遊していてたまたまその人になったというような。「これ」だから「この『私』」しかあり
>得ないと断定できます。

お話はわかるのですが、私が言いたいのは、まさに「誰になってもおかしくないという
考えを否定する」ためには、「これ」の唯一性を突き止めることなど不要である、という
ことなのです。
というより、唯物論的に考えれば、「これ」というのは一回性の出来事、この世界の
特定の時間に特定の場所に発生した特定の人体の脳細胞の特定の構造と運動のことなのであって、
否応なく「唯一」なのです。というか、世界にあるどんな物質も構造も運動もすべて唯一であって、
【本当は「固有動詞、固有形容詞、固有副詞」等々によって記述しなければならない】わけですが、
しかし言語というのは世界を同一性によって捉えるためのものなので、
それでは意味がないからそうしていないだけのことです。

>脳細胞が『私』と対応しているのだとすれば、脳細胞を順次入れ替えていった場合、
>『私』は消滅する筈です。

ですから、ある時点の特定の脳細胞群(もちろんそれだけではないですが便宜上)の
特定の組み合わせがすなわちその時点の『私』の原因だということになります。
そして、肉体の質料はつねに入れ替わり構造も状態も常に変化していますので
(静止していたらそれは死んでいるということなので、常識的には自我になり
ようがありません)、次の時点の特定の脳細胞群(前の時点とは違う)の
特定の組み合わせ(前の時点とは違う)がすなわちその時点の『私』の原因だと
いうことになります。