☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート27

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今引用した部分にしても、三蔵・通教・別教として(方法論的ものとして)
「従前の《悟りへのプロセス・手法》」が提示されている。(また、語義の絞込みは他の多くの箇所との照合を有すだろう。)
その後、「円教」として《悟りへのダイレクトな繋がり》が示される。
《「真のおしえ」として、本当はこれ(清浄なること)が言いたかったのだよ》、と。
このことが意味するのは、
≪ここで述べられる(→大乗仏教に於いて言われる)○○即××というフレーズは、
 【二項を繋ぐ「細説及びプロセス」(≒方便)が踏まえられてこそ(あってこそ)である】≫と見るべきことだろう。
(或いは≪本来清浄なるが故に≫と。)だから、イコールで結び得るのだ、と。
だから、不二であり不異であり別無きものと示される。
また、≪いきなり「真のおしえ」を示しても、衆生は(或いは比丘達は)、
 【疑義し】【反発し】【理解できない】であろう。また【誤解し】【誤用する】であろう。
 だから方便として、「真のおしえ」の「表相」を、「真のおしえ」の「別の義」「(世俗諦への)顕れ」を説いたのだ≫、と。
既説の別義が《「真のおしえ」の別相》であるなら、もはやそれは『単純イコール』ではない。
≪「これこれこのような意味」「これこれこのような視線(→仏の視線、悟りの視線)」
 であるからこそ成立するイコールである≫と見るべきではなかろうか。(参:>>184-185>>224



門外漢が(パンキョー仏教概論並のレベルで)雑感を記してみた。 諸賢の批判を乞う。
 ※大正DB便利だね・・w
 ※個人的には、>>462矢印先のような読み方をしたい所だが、大乗的には、それは
  「従前の、方便としての、下位のもの、方法論的なものであり、本義に迫ってはいない」
  ということになるのだろうw