526 :
1/3:
〔パターン1 (生命教の概観として)〕(…仮)
◎宗教は「生命無視」、仏教も「生命/世俗無視・否定」、「釈迦(≒原型)は病理」。
→世俗は無視されてませんよ。
↓
◎仏教は「生命/世俗軽視・否定」。
→仏教は世俗と勝義の二本立てですよ。在家もアリ・出家もアリ。勝義に於いて否定されるだけ。
↓
勝義は妄想。「生命の要請」であり、人の避けられない生活である世俗を否定するのは間違い。
→2種類の視線・見方があるということですよ。
↓
「生命の要請と個物の実在に従う世俗」の視線のみが正しく、それ以外(勝義)は妄想、病理。
→視線の質の違い、価値基準の取り方の違いですよ。
↓
生命以外に、絶対の、最上の価値などない。
→その「生命」とは何ですか? 五蘊存在としてであるなら、十二分に尊重されてますが?
↓
五蘊は生命ではない。《生命とは「生きよう」という生存本能》である。
これを否定する釈迦仏教は観念的妄想、病理である。
→だから、二本立てですよ。そうした生存本能に執着し、振り回されるから、
苦が生じる(苦として感受する)んですよ。それを解決したい人が、
苦の(完全な)滅を基準とする仏陀の示した教えに同意し、学び、行じるんですよ。
↓
それは、生存本能に反する価値観・考え方であり、病理。
→生存本能自体は、生物としての自然なものであり失くすことは不可能でしょう。
生存本能に【そのまま従う】から苦が生じ続ける(苦を感受し続ける)んですよ。
生存本能に由来する【欲望】・無い物ねだりを節制という形で制御することが言われているだけ。
もとより五蘊存在としてある以上、その維持自体は否定されていない。
↓