>>462 > 端的に「現象界からの解脱」と表現したまでのこと。
> 簡単にいうと、現象界に縛り付けられている自己意識からの離脱が解脱ですよ。
揚げ足を取る形になりますが、重要な点です。
上は、「【現象界から】脱け出すこと」です。
下は、「現象界の束縛下にある【(通常)意識から】脱け出すこと」です。
これを一緒にはできません。
なぜなら、《『現象界から脱け出す』という謂い》は、
「現象界が、具体的世界である以上」、【そことは別の世界が「(論理的)必然」として要請される】からです。
下の表現は、そのような(危ない)橋をわたる必要はありません。
(「宗教的再生」という言明のように、それこそ「心機一転」「生まれ変わる」が如く)、
「心の在り様(意識のステージ)」が変化したということで済ますことができるからです。
【現象界にありながら(≒身を置いたまま)】実現することが可能だからです。
そして、注記するならば、
「涅槃」が「意識」として(「意識的なもの」として)述べられている例はありません。
「涅槃」はあくまでも「涅槃」です。「苦の終わり」であり「煩悩の滅」であり、
「寂静」「安穏」であり、それはまた「知られ、見られるもの」でしかありません。
「そこへ行く」のでもなく、「それを得る」のでもなく、「そこにとどまる」のでもなく、
ただ「知られる」のです。
勿論「ニルヴァーナ意識」などでもありませんw 【「涅槃」には働きがない】からです。
(貴方が《働きのない「意識」》を定義できるなら、5ミリくらい歩み寄っても良いですが・・w)
> それは肉体レベルの話に過ぎません。現象界を超越するのは(自己)意志です。
ですからw
『現象界を超越した「意識・意志」なるものがあり得ますか?』ということです。
そんなものは部派仏教に於いても説かれてはいません。(おそらく大乗に於いても・・。)
パーリは勿論、原始仏教・釈尊に至っては「涅槃」以外の無為なぞあり得ないのです。