仏教 議論スレッド

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335神も仏も名無しさん
>>329
> むしろ同義反復して排除される。
ハァ?(゚∀゚)
レトリックとして重複表現はアリですが?w (龍樹がそれを意図したかどうかは別にして。)
(つか、「同義反復」「重複表現」ですらないと思うが・・・www)

> 世俗に説く場合には、世俗の生活経験、感情、慣行、考え方と一致しない限り、世俗は
> 納得(理解)できないということだ。
中論(中頌)は偈頌で述べられていますよね。
それが、どういう制限となるかわかりますか?
『韻の数が限られている』ということだ。語調が重視されるということだ。
特にSktなれば、『その〈形式〉の尊重され具合』はパーリ(≒俗語)の比ではないw
そうした制限の中で、龍樹は言葉を紡いでいる。
当然、「短く、一語で済み、且つ包括的な語義となれば」、上のように【冗長になることを避ける】意味でも、
採用されて不思議はないw  (中論が読み解き難い理由の一つはここにもあるw)


しかし、>>288後段を、まったく読んでないようですねw
> また、
> 《譬喩表現を使用する》としても、それは、《世俗の在り様に【仮託して】》《主題が(≒勝義が)示される》、ということだ。
>  ※(当然、譬喩表現(≒世俗の在り様への仮託)も、『世俗(の慣習・慣行)にもとづいている』ことにほかならないw)
>
> そして何より、「説示が言語によるしかない」とすれば、
> (ジェスチャーやパントマイムなら話は別だがw)、譬喩表現だろうが、個物の利用・引用だろうが、
> 全て『言語によってなされる』わけだ。
> それは、最大の括りとして(全ての表現・説示のラベルとして)『世俗の言説による』と一括して言われることになる。
>  ※(それは、「一切皆苦」と言われる時の構図と相似形をなす。)
> 諸註は、まさにそのように解しているのではないのか?