1 :
神も仏も名無しさん :
2010/10/09(土) 10:00:10 ID:jrh1s3lL
2 :
神も仏も名無しさん :2010/10/09(土) 10:02:49 ID:jrh1s3lL
前スレを結構、消費したもんで、立てておきました。 07の0は、いらんかったなw
隠居ってまだ支配 被支配の生命原理が怖いんだw サイコパスは自然の意志が生むんだぞ?w
4 :
神も仏も名無しさん :2010/10/09(土) 11:33:42 ID:EETjFsmW
生命には二種類ある。 万人が示せるものと、 言ってる本人すら何も示せない不実在物とである。 後者の荒唐無稽ぶりは前スレで十二分に暴かれ793-795でまとめてある。 はじめてこのスレッドを見、隠居と呼ばれる名無しの いびつな「生命」論に面食らったら前スレ(6)をご覧ください。
5 :
神も仏も名無しさん :2010/10/09(土) 11:41:38 ID:jrh1s3lL
>>4 え〜〜〜と、どなたか存じませんが、紹介 乙です。
前スレ6の 793〜795 の作者ですwwwww
6 :
1/3 :2010/10/09(土) 14:17:23 ID:do+3fM4L
御隠居の言う『生命』ってのは、
我々が普段に言うところの『心』(『こころ』)と全く同じ位相なんだよね・・。
広く(語義)をとれば、「ある」、「万人が有する」、「(その存在を)知り得る」とは言い得るけれども、
それは、対話の(或いは認識上の)便宜上の仮設でしかない。(「あるということにしておこう」、と。)
それ自体、『心』そのもの、を捉まえることはできない。
他者に「これが俺の『心』だ!」「それが君の『心』だよ」と“突きつける”ことはできない。
(達磨が慧可に示した通りだ。)
では、「ない」のか?と言えば、
そう言い切ってしまうには、我々はあまりも多くのことを感受し、想い、意思し、
喜び、悲しみ、そして迷う・・。
そこに、確かに「心」がある。
*(隠居が主張の補強に使用しているのは、まさにこの部分の構図。)
隠居は、
≪「生命現象により」(生命現象の存在により、生命現象の観察により、生命現象が見られ・知られることにより)
『生命』のあることが知られる≫ と言った。
『心』もまた同様であり、
様々な「心的現象の観察により」、「心的現象が見られ・知られることにより」、『心』があることが知られる。
重要なことは、どちらも≪観察により、想定されているのみである≫ということだ。
*(仏教 議論スレッド その2
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1272850647/605 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1272850647/606 )
**(「根境の和合と識」「接触を縁とし、感受を縁として〜云々」等、この辺りから仏教との接点を見ることができる。)
7 :
2/3 :2010/10/09(土) 14:19:39 ID:do+3fM4L
隠居が常々言う「自体を認識できない(捉まえられない)」という点では、「心」も、また他の多くの抽象的概念も同様だ。 「ある」ということは、全てが同じように「ある」という画一的な謂いではない。 その「在り方」こそが問題なのだ。だから、「○○はある、××はない」と分別し得るわけだ。 そして、『心』と同様の在り方と価値と存在意義の範囲であれば、誰もここまで追及しなかったろう。 しかし彼は、そこを踏み越え、神的なもの、或いは生物の存在の根源・始原としての特権を付加してしまった。 (勿論、「心」をそのように特別扱いすることも可能だ。 なぜ可能かと言えば、どちらも 上で述べたような《認識の限界の際(きわ)に》位置するから。) そして、(各種宗教的見解は別にして)、現代的視線としては、 『心』が、心的現象の様相そのものである、そのようなものとして「ある」と見做し得ても、 実在するもの、根源としてのもの、とは見ない。そのようなものとしては「ない」とされるわけだ。 『生命』もまた同様であり、そのような視線で見るならば、「ない」と言われることになる。 これを「ある」と言おうとする時、人は宗教的領域に踏み込まざるを得ない。 そして、多くの宗教的思想は、それを自覚し、また進んでその方向を選び取る。 隠居にはこれがない。同じベクトルで同じ方向を向き、同じ立論の基盤であるにもかかわらず、 「自身は違う」との強弁とともに、宗教的姿勢への批判を重ね続ける。
8 :
3/3 :2010/10/09(土) 14:21:22 ID:do+3fM4L
隠居が強弁する≪生命現象の観察により、『生命』が「ある」ことが知られる≫というのは、 その在り様までもが、『心』でも同じであり、その後に種々付加される ≪根源・始原であり、唯一であり、原動力であり、全てに先立つ前提である≫というのは、 全くもって「推測」(或いは願望)の一つに過ぎません。 確かに、我々の多くの行動は「心」の動きに従っています。その意味で、各種行為の源であるとは言い得ます。 だが、それで全てではありませんし、行動が(或いは多くの情報流入が)「心」の在り様を変えていくこともあります。 隠居の言う『生命』には、こうしたフィードバックがありません。(この辺からが、「心」と異なる点となりましょうか・・。) そして、「心」が(動機・きっかけ的に)各種行動に作用するように、≪『生命』が【直接的に】作用することもありません≫。 そこには、必ず【仲立ちする】諸々が存在します。直接因足りえるものは殆どないでしょう。 *(「心」にも、それは言い得る場合があります。「心」の動きの前に、何かしらの因や縁を見ることもできます。) だから、≪根源・始原たること、前提たることを自明のこととできない≫のです。 第一原因として礎定することは、仮説の範囲を超えた、妄想一歩手前となるのです。 現代の我々が『生命』にそこまで求める必要はありません。 『心』が大切にされるように、『心』が「ある」と言われるように、 その範囲での『生命』への畏敬・依存、視線であれば、 誰も異を唱えないでしょう。 *(仏教的視座はとりあえず捨象しておきます。) 寧ろ、現代人が依拠すべき「スタンス」として評価されるかもしれません。 (この辺は少し、前スレでのフォローと被る。) せめて、自論の組み立ての不備にだけでも、気付いてくれることを願って已みません。 (-人-)
9 :
神も仏も名無しさん :2010/10/09(土) 15:30:29 ID:OEEYXFJg
>>8 >せめて、自論の組み立ての不備にだけでも、気付いてくれることを願って已みません。
だから、そういう無理な要求するのはやめれって
11 :
神も仏も名無しさん :2010/10/09(土) 19:45:47 ID:6/O1HgSP
>>6 「心(精神現象)」とは、生きた肉体から発生する「多くの生命現象のうちの一つ」
に過ぎない。勘違いしてはならない。死者には心はない。
「生命」は、個々の肉体単位で宿り、肉体と生死を共にする。しかし、「生命現象
の原動力」という意味では、すべての生命は同一で等価である。
認識可能なために、便宜上、生命とは、「生命現象を現す肉体」と定義する。しかし、
それら生命現象の原動力、即ち「生命そのもの」は、同じ生命を以っては
認識不能である。認識主体と認識対象とが同一だからである。自分自身を観測
できる観測機械は存在しない。
従って、生命とは、人間が対象化できない唯一の存在。一方、心(精神現象)とは、
環境に適応して生存を維持するために発動される、多くの生命現象のうちの一つで
ある。
12 :
前世は一在家 :2010/10/09(土) 20:05:03 ID:bwT8hAJi
【苦しみの縁起の例】 生命 → 執着 → 名称 → 苦しみ この縁起ですと、生命があるの者は「皆一切苦しむ」ことになりますので、 魚や鳥や獣も人と同様に「苦しむ」ことになるかと思料します。 もし、魚や鳥や獣に人のような「苦しみ」が無いとすれば、 「生命→苦しみ」という縁起が必ずしも成り立たないことが証明されます。 その理由は、魚や鳥や獣と人との差にあります。 人には「智恵」と「欲心」があります。 よって最初の縁起を修正すると下記になるでしょう。 生命&智恵(または欲心) → 執着 → 名称 → 苦しみ よって智恵が無い人と欲の少ない人は「苦しみ」も少ないことになりますが 日常生活でもそういう人々を見かけるかと存じます。
13 :
神も仏も名無しさん :2010/10/09(土) 20:10:10 ID:uTc/YJdG
>>11 どアホがww
スレが変わったら、知らん顔して、また同じことを喚いて回る。
前スレで、何の反論も出来ずに逃げだしたのをもう忘れたのか?
そういう姑息なことをするから、批判されるんだよ、お前はww
前スレの793〜795を100回読んどけ、カス隠居。
14 :
前世は一在家 :2010/10/09(土) 20:14:48 ID:bwT8hAJi
>>12 >生命&智恵(または欲心) → 執着 → 名称 → 苦しみ
「吾唯足知」ということを実践できる人は「苦しみ」が少ないことになるでしょう。
>>11 あのね・・w
それら全部、「心」についても言えるのw
で、最後3行中の「>唯一」が、無根拠な推測・願望の残滓なのw
「 >従って 」という接続をしているが、内容が全然「 >従って 」じゃないのw
前2段からその3行は導けないの。全く関係ないのw
その3行の後半も、「生命」を第一因と【仮定した時にのみ】成立することなの。
「生命」の代わりに「魂」でも「霊性」でも「聖霊」でも「意識体」でも、何でも成立しちゃうのw
また、「心」を二層に区分するスタンスをとる思想があったら、
(→まさに、「真我」と言う表現が大好物な思想と酷似したものとしてw)
「奥底の、隠された、真実の自己の心」として、それを第一原因とするかもしれないwww
貴方の主張は、その程度のものなのです。
再度、〔生命教と言われる所以〕を貼らなきゃなりませんか?w
16 :
神も仏も名無しさん :2010/10/09(土) 20:19:36 ID:uTc/YJdG
セブン、隠居に「構造的把握」を理解させるのは、 ゴキブリに因数分解を理解させるより難しいwww
17 :
神も仏も名無しさん :2010/10/09(土) 20:24:37 ID:uTc/YJdG
在家が珍しくまともなこと言ってるww
18 :
前世は一在家 :2010/10/09(土) 23:12:15 ID:bwT8hAJi
>>12 >【苦しみの縁起の別の例】
>生命&智恵(または欲心) → 執着 → 名称 → 苦しみ
>
>よって智恵が無い人と欲の少ない人は「苦しみ」も少ないことになりますが
>日常生活でもそういう人々を見かけるかと存じます。
この苦しみの縁起にて、旧約聖書の創世記を検証してみました。
肉体に神が息(霊)を入れて、原初のアダムが創造されました。
アダムには「生命」があっても、「智恵(または欲心)」が無いので「苦しみ」もなく
エデンの園で暮らしていたのでしょう。原初のイヴも同様でしょう。
アダムらは自由意志にてリンゴ=「智恵(または欲心)」を食べて、エデンを去り
「苦しみ」が発生しました。これをパウロは「原罪」と定義しております。
エデンにいた原初のアダムも、リンゴを食べてエデンを去ったアダムも「生命」が
宿っている点では同じですが、前者は「苦」を知らず、後者は「苦」を感じます。
「人間」として何れが完成度が高いか(より進化した姿か)を考察しますと、
「智恵(または欲心)」を宿して「苦」を感じる人の方が高いと思料します。
よって「人類の堕落」ではなく「人類の成長」という名称の方が適切ではないかと。
更に「智恵(または欲心)」を宿しても「吾唯足知」ということを実践できる人は
空っぽで妄想も「執着」もありませんので、「執着」を縁として起こる「苦」を
滅する人であり、所謂、中道の実践者なのかと存じます。
前スレの一見さん方は、呆れて帰ってしまわれたか・・・。 無理も無い・・w
20 :
神も仏も名無しさん :2010/10/09(土) 23:49:31 ID:mowj8MkZ
>>15 >あのね・・w それら全部、「心」についても言えるのw
死者には、心(精神現象)を含むいかなる生命現象も生じない。まず生命
(生命現象を現す肉体)ありき、である。
生命は、宗教ののうなチンケなものではない。宗教を含む、人間のすべての
営みに先立つ。釈迦が死ねば説教はできないし、弟子が死ねば、説教は聴け
ない。
古代人は、霊魂や聖霊を、正しく「生命」として把握・理解したが、創唱宗教
では、専ら、「肉体から遊離したもの」に改竄・捏造してしまっている。
21 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 00:02:23 ID:mowj8MkZ
>>18 >「智恵(または欲心)」を宿して「苦」を感じる人の方が高いと思料します
それこそまさに旧約のいう「原罪」ではないか。「高い」のではなく、「低い」
の誤り。
22 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 00:05:13 ID:vu+KC++q
>>18 釈迦もイエスも、原罪の権化であることは、旧約から明らか。
>>20 > 死者には、心(精神現象)を含むいかなる生命現象も生じない。
> まず霊魂(生命現象を引き起こす力)ありき、である。
言明は成立しますねw
> 人間のすべての営みに先立つ。
先立っているのかどうかは、まったくもって「未知・不可知」ですねw
別の何ものかかもしれませんよ?w (アンパンマンで言う「命の星」とかwww)
> 死ねば説教はできないし、> 死ねば、説教は聴けない。
まったくその通りですねw
> 古代人は、霊魂や聖霊を、正しく「生命」として把握・理解したが、
おやおやおやおやw 随分と撤退しましたねw
やはり「アニミズム」でしたかw
> 創唱宗教では、専ら、「肉体から遊離したもの」に改竄・捏造してしまっている。
肉体から遊離しないだけで、貴方の言う『生命』も同じですよ?w
> 古代人は、霊魂や聖霊を、正しく「生命」として把握・理解したが、
> 創唱宗教では、専ら、「肉体から遊離したもの」に改竄・捏造してしまっている。
「肉体」を、(便宜上とはいえw)『生命』と見做すんでしたよね?
それなのに古代人の霊魂(観念・概念)を《正しい『生命』の把握》なんて言っちゃっていいんですか?w
また、(埋葬時、胸に石を置くという行為が推測されるように)、
古代人の霊魂観もまた、肉体からの遊離が想定されているように見えますが?
24 :
隠居クリスチャン思考基盤mん :2010/10/10(日) 00:09:14 ID:g3Nj2hOn
隠居の思考は生命万能説である、 キリスト教徒が神、イエス万能説を唱えるように、 釈迦の様な人間の精神の分析は不要と隠居は言う、すべて生命が万能解決。 釈迦の様な人間の精神の分析は不要とキリスト教徒は言う、すべて神、イエスが万能であり基盤だからw
>>20 老婆親切で改変しときましょうか・・w
>>11 「心」は、個々の肉体単位で宿り、肉体と生死を共にする。
しかし、「心的現象の原動力」という意味では、すべての心は同一で等価である。
認識可能なために、便宜上、心とは、
「心的現象を現す肉体(正確には〈肉体の諸変化・諸行動〉の因である《脳内の電気的位相》)」と定義する。
しかし、それら心的現象の原動力、即ち「心【そのもの】」は、【同じ心を以っては】認識不能である。
認識主体と認識対象とが同一だからである。自分自身を観測できる観測機械は存在しない。
従って、心とは、人間が対象化できない唯一の存在。
(尤も、一般的な便宜上の礎定は、
「心的現象を現す肉体」を「心」と見做すのではなく、《「心的現象」を「心」と見做すこと》だけどね・・w
たとえ生命教であったとしても、たとえ便宜上であったとしても、
「肉体」を「生命」と見做しちゃったらイカンだろうと思う。
少なくとも、ワシが生命教信者なら、そんなのは、異端として断固破折の対象だwww)
26 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 00:21:23 ID:vu+KC++q
>>28 >先立っているのかどうかは、まったくもって「未知・不可知」ですねw
ほほう。死者が宗教や2chをやれるのかねw。
> やはり「アニミズム」でしたかw
宗教の起源はアニミズムである。宗教学を勉強せよ。
>肉体から遊離しないだけで、貴方の言う『生命』も同じですよ?
肉体から遊離するかしないかで大違い。後者なら、すべての宗教は消滅する。
>古代人の霊魂観もまた、肉体からの遊離が想定されているように見えますが?
霊魂と聖霊の原義を調べよ。それらが生命なら、死ねば消滅する。古代人は、
現代の宗教者ほど無知ではなかった。
>>26 > ほほう。死者が宗教や2chをやれるのかねw。
ハァ?(゚∀゚)
なぜ、「死者が〜」などという条件の質問返しになるのでしょう?w
『生命』が先立っているのかはわからないでしょう?と言っているのです。
「肉体」が先立っているのかも知れませんよ?
「遺伝子のプログラム通り分裂増殖を繰り返し、栄養供給を受け、母体内で肉体が整い」、
「各組織の機能開始により」、「生きている状態が現れる(→『生命』のある状態になる)」
のかもしれませんよ?w
また、
「霊魂が受精卵に入り込み、以降の成育が始まり」、「生きている状態が現れる(→『生命』のある状態になる)」
のかもしれませんよ?w
『生命』の出現は2番目3番目かもしれませんよ?w
> 宗教の起源はアニミズムである。
だから、貴方の主張は生命教なんじゃないですかw
> 肉体から遊離するかしないかで大違い。
そういうと思いましたw
遊離しなくても、【同じ性質】を持ち【同じはたらき】をし、【同じような崇高な位置付け】がなされてますね。
肉体との関係で言えば《「霊魂が肉体を離れる」から死ぬ/「生命が消失する」から死ぬ》。
何も変わりませんねw リンクだけじゃなく、本文貼った方がいいですか?w
> 後者なら、すべての宗教は消滅する。
少なくとも仏教は、その部分には関係ありませんがね・・w
> 霊魂と聖霊の原義を調べよ。それらが生命なら、死ねば消滅する。
> 古代人は、現代の宗教者ほど無知ではなかった。
ほうw
古代人は、死後を無・虚無だと考えてたんでしょうかね・・。
数々の考古学的事例を見ると、とてもそうは思えませんよね・・w
28 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 00:54:06 ID:vu+KC++q
>>27 そんなに信じられないのなら、まず君が死んでから、2chに書き込んでくれ。
私は死ぬのは御免だがねw。
>>28 いやいやいやいやw
【論点はそこじゃない】でしょ?w
「生命が先立っているのか、遺伝子が先立っているのか」、
貴方は明確に峻別し、断定できるのですか?できるならば、なぜですか?
「生命が先立っているのか、霊魂が先立っているのか」、
貴方は明確に峻別し、断定できるのですか?できるならば、なぜですか?
「生命が先立っているのか、受精が先立っているのか」
貴方は明確に峻別し、断定できるのですか?できるならば、なぜですか?
30 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 01:06:48 ID:vu+KC++q
>>29 遺伝子を作るのも、受精するのも、細胞分裂も、すべて生命が原動力
となる。死体にはできない。
君は兎に角まず死んで見るしかない。それがまさに論点だ。論点は、
一挙に解決するw。
>>30 いやいやいやいやw
だからw
>遺伝子を作るのも、受精するのも、細胞分裂も、すべて生命が原動力となる。
他の可能性を排除して、そこに『生命』を据えることができる理由
(→『生命』が全てに先立っていると断定できる理由)を伺ってるんですw
論点は、
「全てに先立っているものは何か?」「それをそうやって見究め、断定し得るのか?」
ということです。
あ。。。 「 >そうやって 」じゃなく「 どうやって 」だなw 一応訂正w
33 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 02:22:09 ID:YQHgQ4In
>>31 「命あっての物だね」。圧倒的多数の生活者には自明の理。
「見極め、断定する」のも、生命の機能。
貴殿や他の宗教者が、その自明の生命の根源性を狂ったように否定する理由は、
一体何か。それを認めれば、君たちの宗教が吹っ飛んでしまうという理由しか、
考えられない。しかし、宗教も、生命の機能に過ぎないことを、忘れてはならない。
生命の否定こそ、宗教の最大の「病理」なのである。
「すべてに先立つもの」は、生命以外に何があるのか。逆に聞きたい。
34 :
前世は一在家 :2010/10/10(日) 06:27:31 ID:I0fZ6Z0J
>>27 >「霊魂が受精卵に入り込み、以降の成育が始まり」、「生きている状態が現れる(→『生命』のある状態になる)」
のかもしれませんよ?w
霊魂は胎児に入り、智恵が宿ります。 智恵は名称を生じ、「欲」が縁で「苦」が起こると
仮設しております。
細胞レベルの「生命」ならば、アメーバー、犬や猫や猿と人は同じでしょう。
アメーバー、犬や猫や猿の「生命」からは「苦」は縁起しないでしゅう。
まあ、食欲と性欲という原始の「欲」はあるでしょうが。
>>33 >生命の否定こそ、宗教の最大の「病理」なのである。
>「すべてに先立つもの」は、生命以外に何があるのか。逆に聞きたい。
宗教のミッションは「苦」を滅することと仮設しましょう。
アメーバー、犬や猫や猿の「生命」からは「苦」は縁起しないでしゅうから、
「生命」の肯定のみが宗教の重大事項ということではないと思料します。
お二人の議論とは筋違いですが、横からコメントまで。
35 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 10:52:18 ID:7vZt38J4
>>34 >アメーバー、犬や猫や猿の「生命」からは「苦」は縁起しないでしゅう。
アホか。どんな小さな動物でも、捕らえようとすれば必死で逃げる。細菌で
さえも、抗生物質に対する耐性を作って、己の生命を守ろうとする。口の
利けない動物である兔でも、生体解剖をやると物凄い苦痛の叫びを上げる(これ
は実経験)。動物たちは、自然の変化からその生命も守るために、肉体の形状
まで変化させてきた。ただ、これらの動物たちは、生存に関係しない苦などと
勝手に作り上げるほど愚か者ではない、ということだ。
そもそも、贅沢三昧に暮らした釈迦に、「本当の苦」など語る資格は、初めから
ない。修行による苦など、自己の欲望から作り出したもので、趣味・娯楽の一種に
過ぎない。本当の苦を味わったものは、それを他人に語ることはしない。
苦故に存在し得るささやかな楽を見出し、ひたむきに生きているだけだ。
他人に苦や罪の概念を植え付ける宗教者は、それからの離脱をちらつかせて
営利を計らおうとする、極めて悪質な詐欺師か、さもなければ精神病者にす
ぎない。
苦は、生命の維持に不可欠な機能を果たしていることを自覚し、それをあるがまま
に受け入れ、感謝すれば、苦は自ずからやむ。生命の喪失が最大の苦であるという
ことは、言い換えれば、生命の維持が最大の喜びであるということである。
36 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 11:10:17 ID:z00vgt7N
何も取り柄もなく 努力も忍耐もないやつは 仏教をやれ
37 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 11:34:58 ID:dEqBx9MD
38 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 11:42:07 ID:z00vgt7N
霊感商法がはびこってます 皆さん 仏教を研究して 霊感商法とはどういうものなのか研究しましょう 彼らはあなたの財布を狙ってます
釈迦は霊感商法など教えていない。 それは宗教を隠れ蓑にした犯罪組織なんだよ。 印鑑・壺など売って「運気が上がります」なんて、嘘っぱち。
40 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 14:19:19 ID:z00vgt7N
宗教の本質は霊感商法であり ねずみこうで拡大する そのうち権力に抱え込まれる 歴史があろうがなかろうが 本質は同じ
>>33 > 「命あっての物だね」。圧倒的多数の生活者には自明の理。
それは、《貴方の言う『生命』ではなく、一般的語義、概念に於ける「生命」について》ですw
(だから、ことわざとして継承されている(継承され得る)のです。)
> 「見極め、断定する」のも、生命の機能。
ですからwww
そう「結論」できる理由は何ですか?と何度も何度もお聞きしているでしょう?w
少なくとも、現代科学・(貴方が死のタイミングに於いて依拠するw)現代医学等に於いても、
そのようには考えられていません。
それらは、《【生命の】機能》ではなく、意識(の機能)でしょう?或いは脳の機能でしょう?w
「『生命』なる【根源】」を持ち出す必要はありません。なぜなら、一般的には、
「そうした諸行為・諸思考があること」が「生命がある(≒生きている)」ということだからです。
「そうした諸行為・諸思考をなし得ること」が「生命がある(≒生きている)」ということだからです。
「“生命(いのち)ある限り”と言われる時」でも、「そのようなことが可能である状態」である限り、という意味です。
そのような《「生きている」こと》を、《生命がある》と一般的には言うのです。
それは、具体的存在ではありません。寧ろ抽象的な、状態を表す語、概念だと言うべきでしょう。
≪【一般的には】、(受精・受胎・(出産)とは)「生命【から】誕生する」のではなく、「生命【が】誕生する」≫のです
> 貴殿や他の宗教者が、その自明の生命の根源性を狂ったように否定する理由は、一体何か。
生命を否定する思想など極僅かもあるか無いかでしょう。
批判されているのは、その《根源性》であることに、早くお気付きください。
誰も生命を否定してなどいません。(勿論、仏教もねw)
> それを認めれば、君たちの宗教が吹っ飛んでしまうという理由しか、考えられない 。
妄想乙www
> しかし、宗教も、生命の機能に過ぎないことを、忘れてはならない。
三つ前の段と同じw
>>33 > 生命の否定こそ、宗教の最大の「病理」なのである。
生命を否定する宗教なぞ、極僅かm
> 「すべてに先立つもの」は、生命以外に何があるのか。逆に聞きたい。
知りませんよwww
(つか、無いでしょ、そんなものはw
少なくとも仏教は、そこに「縁起」で考察の停止線を引きます。知りえないことの勝手な妄想と断定を避けています。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1282465343/775の通りです 。(また、本文貼りましょうか?w)
いいですか?再度言います
論点は、
「全てに先立っているものは何か?」
(その時、“何事か”を見出したとして、“それ”が先立っているということを)、
「それをどうやって見究め、断定し得るのか?」
ということです。
論点のはぐらかしはやめてくださいw
また、自分が答えられないからといって同じことを問い返すのもやめてくださいw
ちなみに、それが有効となる文脈は、
問い返す側が「答えのない問いであること」を知っていて、
「相手が答え得ないこと」でそれを証しようとするときです。
或いは、(自分の側には答えとしての手駒があっても)、相手には答えとしての手駒が無いことを知らしめる時、
くらいのもんです。答えに窮した問い返しほどみっともないものはありませんよ?w (´ー`)y━~~
43 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 17:07:33 ID:z00vgt7N
仏教なんて 所詮 権力側が民衆を混乱させ心の中まで 支配するために わざわざ輸入したものだから マジで考える必要ないよ まして今では単なる因習で金儲けに過ぎないんだから
44 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 17:11:06 ID:5DO8zUm+
45 :
前世は一在家 :2010/10/10(日) 18:17:00 ID:I0fZ6Z0J
>>12 :前世は一在家:2010/10/09(土) 20:05:03 ID:bwT8hAJi
>【苦しみの縁起の例】
>生命 → 執着 → 名称 → 苦しみ
>生命&智恵(または欲心) → 執着 → 名称 → 苦しみ
>>34 :前世は一在家:2010/10/10(日) 06:27:31 ID:I0fZ6Z0J
>細胞レベルの「生命」ならば、アメーバー、犬や猫や猿と人は同じでしょう。
>アメーバー、犬や猫や猿の「生命」からは「苦」は縁起しないでしゅう。
>まあ、食欲と性欲という原始の「欲」はあるでしょうが。
>>35 ご隠居(←仮設)
>アホか。どんな小さな動物でも、捕らえようとすれば必死で逃げる。細菌で
>さえも、抗生物質に対する耐性を作って、己の生命を守ろうとする。口の
>利けない動物である兔でも、生体解剖をやると物凄い苦痛の叫びを上げる
>(これは実経験)。
アメーバー、犬や猫や猿の食欲と性欲という原始の「欲」はあるということは
既に述べておりますが、読めなかったのでしょうか。
「名称」や「執着」を縁とした「苦」は犬や猫や猿にはないでしょうと申して
おります。
46 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 18:29:03 ID:RZejzWDv
新刊紹介 「キリスト教成立の謎を解く(改竄された新約聖書)(原題:Jesus, Interrupted)」 (バート・D・アーマン著、津守京子訳、2010年10月10日柏書房発行、 定価¥2400) かつては、聖書は神の霊感によって書かれた書物と信じる敬虔な福音派クリスチャン であった著者の、歴史家としての徹底的研究と考察の結果としての、新約聖書および イエス・パウロの全面的批判。 訳者は、英語学の専門家であるが、その訳文は、翻訳臭の全く無い、流麗な達意の 日本語。 この書における宗教批判の手法は、仏教に対しても充分に利用できるであろう。
畜生にも十界の生命は内在しているが、但し畜生界所具。 残骸の苦という「苦」はあるんだが、それに腹減ったー、散歩いきてーなど、 やつらも、生きている以上、苦はあってしかるべき。
48 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 18:40:39 ID:RZejzWDv
>>41 あなたのその書き込みも思考も、あなたが死ねば絶対に不可能。
死者には、「意識」も「脳の機能」も存在しない。死とは、「脳幹を
含む全脳機能の不可逆的停止」と定義される。
あなたの書き込み自体が、あなたの生命の根源性をすべて証明している。
49 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 18:53:02 ID:RZejzWDv
>>45 あなたの考えは、あくまで動物の一種属に過ぎない「人間」の立場からの考え。
あなたが他の動物に成り変れない限り、彼等の「心理」は全く理解不能。
人間にあらざる「神」の心理についても同様。
軽々しく勝手に想像すべきではない。
>>48 だからぁwwwww
最後の一行が、その前段と無関係なのw
> あなたのその書き込みも思考も、あなたが死ねば絶対に不可能。
はい。まったくその通りですw
> 死者には、「意識」も「脳の機能」も存在しない。
おそらく、そうでしょうねw
> 死とは、「脳幹を 含む全脳機能の不可逆的停止」と定義される。
はい。現代医学ではそうですね。(おそらくw)
> あなたの書き込み自体が、あなたの生命の根源性をすべて証明している。
ハァ?(゚∀゚)
上3件から、どのような論理で、この一行が導き出せるんでしょうか?www
生命の根源性など考えずとも、上記3件は説明がついていると思いますが?
なぜ、そこに、わざわざ、(貴方自身でさえ「不可知」とするw)
『生命』(の根源性)を持ち出す【必要】があるのでしょう?w
ここをこそ、先日来お尋ねしているわけです。
51 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 19:07:04 ID:RZejzWDv
>>50 あなたが死ねば、あなたの宗教も、2chへの書き込みも、その他如何なる
活動も不可能になるということ。あなたの肉体は、灰になるか、腐敗して
蛆虫がたかるだけ。
これだけで充分だろう。
生命の根源性について聊かでも疑問があれば、自分で死んで試してくれw。
>>51 もう一言ツッコんでおこうか。
>生命の根源性について聊かでも疑問があれば、自分で死んで試してくれw。
「死んでみること」(→《「死」が存在すること》)もまた、何ら『根源性』を担保していませんw
それは、「生命現象が消失したこと」をしか示していないのです。
(寧ろ、『限界性』こそが示されていますねwww)
《『生命』が根源だから、その消失により「死」(生命現象の消失)がある》と貴方が言いたいのは解ります。
しかし、
《種々の有機的結合・和合・はたらきによって、生物は生きていて、
そうした条件の一つ或いは幾つかが欠けることにより、「死」(生命現象の消失)がある》
という言明(仮設)に問題はありません。ここに、「根源的な『生命』」は必要ありません。
他の一切の仮設を排除して、「『生命』が根源であること」の断定が可能となる理由をお聞きしているのです。
また、(自分の死を知覚することは不可能ですから)他者の観察に於いてということになりますが、
「生命現象の消失」以外に、(我々が知覚し得るものとして)、
いったい何が示されていると言うのでしょう?
貴方はこれに一度も答えておられません。
54 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 20:43:49 ID:RZejzWDv
>>58 >《種々の有機的結合・和合・はたらきによって、生物は生きていて、
> そうした条件の一つ或いは幾つかが欠けることにより、「死」(生命現象の消失)があ>る》
「種々の有機的結合・和合・はたらき」によって生命体を作るのも、また生命の働き
である。生命そのものが、肉体を作る。
生命以外の何が、「生命現象を現す肉体」を作れるのかね。生命は肉体を作り、
同時に肉体と一体である。
生命を以って生命そのものを認識・思考できないことは、初めから言っている。
生命とは、君や私がこうやって2chに書き込んでいる「いま、ここに、ある」
だけ。即死すれば、書き込みはピタリと止む。生命は、認識・思考・議論・崇拝
のいずれの対象にもならない。それらも「いま、ここの」生命の機能に過ぎない
のだから。
君がそれほど必死に生命の根源性を否定するのなら、釈迦の「無明による苦の
根源性」こそ真っ先に否定すべきであろう。釈迦は、「無明である己の生命」
を以って、それを説いているのだから。
「苦しみを逃れる者は、その恐怖だけですでに苦しんでいる」(モンテーニュ)。
釈迦の、「苦の滅」こそ、全くのナンセンスであることになる。
君が、生命の根源性を否定するのなら、肉体は死んでも、生命は生きていて、
どこか他の肉体に宿るということか。それこそオカルト話である。
55 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 20:59:14 ID:4VeLm1Zy
>>54 >生命そのものが、肉体を作る。
>生命以外の何が、「生命現象を現す肉体」を作れるのかね。
バカたれがwww
んなこと言ってるのはお前だけだよ。
中学校から生物学の勉強やり直して来いww
>>54 >「種々の有機的結合・和合・はたらき」によって生命体を作るのも、また生命の働き
>である。生命そのものが、肉体を作る。 (以下略)
はい、思考、考察のマトリョーシカですねw
或いは「劣化版デカルト的懐疑」と再度言いましょうか?w
そう来るだろうと思ってましたよw
さて、貴方は、どこに『生命』というラベルを貼り、
無限に沈降してゆく《根源探しの旅》に終止符を打とうとしているのでしょう?
終止符を打った時、なぜそこを終点と知り得たのでしょう?w
これまでの批判・指摘とは逆に、その奥があるかもしれないのに・・・。
ここの所の理由や根拠を、ずっとお聞きし続けているわけです。
貴方が『生命』というラベルを貼った場所なぞ、まだまだ浅瀬かもしれませんよ?w(いや、知りませんけどねw)
>>54 >釈迦の「無明による苦の根源性」こそ
この根源性は、心・意識等の【縁起に於ける】貪瞋痴の三毒の根源、苦の根源としてであり、
“迷いの生存という「生」”の因である、という主旨となります。
貴方の言うような「事象の根源」というわけではありません。(これもまた、抽象的謂いとしての根源です。)
ましてや、無明が細胞分裂を生じさせ或いは促している、などといった方向性ではありませんw
条件付(ある文脈の上)での根源性です。貴方の言うような「スーパーナチュラル」なものではありません。あしからずw
>「無明である己の生命」を以って、それを
馬鹿ですかw
そんな奇天烈なことは、世界中どこの仏典を見ても書かれていないでしょうw
「生命」が無明であるなどとは言いません。我々が、「無明(の状態)にある」ということです。
諸法の縁起することに(真に)気付いた時、そこに既に無明は滅しています。
(少なくとも、法を説いた釈尊に於いてはそうです。そのように見做します。)
「生命=無明」などというのは、世界中で貴方だけのオリジナル解釈なのですw
>生命の根源性を否定するのなら、肉体は死んでも、生命は生きていて、どこか他の肉体に宿るということか。
馬鹿ですかwwwwwwwwww
誰がそんなことを言っているんですか?w
これも、視野の狭い短絡的決め付けですねぇ・・w
で、結局、違う話を沢山盛り込んで、無明なんて言葉も出して相手の側への問いかけに変換し、
自分への批判や指摘を有耶無耶にしようとするw
何という、狡猾で、姑息で、そして愚かな人物なんでしょう。まったく、貴方という人は・・・
┐(´ー`;)┌
58 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 22:34:56 ID:Cm3zq5q8
>>57 >何という、狡猾で、姑息で、そして愚かな人物なんでしょう。まったく、貴方という人は・・・
違う違う、哀れむべき人なんだって
59 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 22:46:39 ID:YUyc2043
>>57 中村元氏は、「無明」とは「生活作用を生じるもの」と解釈している。
生命以外の何があるかね。
ひたむきに生きている者は、「生命の根源性」など意識しない。それが、
根源性である所以である。
釈迦は、生命を「苦」であると対象化したことで終わっている。
おや? 終わりですか?
兵装を整えるのが大変ですねw
火縄銃に弾込めの最中かな?w
ノシ
>>58 以前、隠居のプロファイリングがネタになったことがあったが、
そうしたことを考慮すること、頭の隅に置いておくことも吝かではない。
だが、前スレ387の件が決定的だったよw
(宝珠の「カラス擁護」、「死の間際に安心(あんじん)は無い」の件、
或いは、在家の「数々のリフレイン」の時と同じだな・・w)
って、言ってる間にキタw
>>59 >と解釈している。 生命以外の何があるかね。
その訳に関しては、中村元が糞だということだw
>生命を「苦」であると対象化したことで終わっている。
そんなことはされてませんが?w
百歩譲って強いて言うなら、
「我見を持ちつつ(≒我見に従属しつつ)生きている状態にあることは苦である」
とした方が、まだ座りがいいw
で、仏教用語・術語の解釈へ話題をシフトさせることで、
自分の醜態を隠蔽しようということですかね?w
オワットルのはお前さんだよ・・w
61 :
神も仏も名無しさん :2010/10/10(日) 23:09:02 ID:Cm3zq5q8
62 :
隠居クリスチャン思考基盤mん :2010/10/11(月) 17:40:45 ID:A3vf5nei
隠居の問題点は人間の精神の問題分析を放棄して、 釈迦の苦の分析、解決を放棄して、 生命で万能的に解決できうるという妄想を抱くことであるw 隠居クリスチャン思考基盤mん 隠居の思考は生命万能説である、 キリスト教徒が神、イエス万能説を唱えるように、 釈迦の様な人間の精神の分析は不要と隠居は言う、すべて生命が万能解決。 釈迦の様な人間の精神の分析は不要とキリスト教徒は言う、すべて神、イエスが万能であり基盤だからw
63 :
:隠居クリスチャン思考基盤分析w :2010/10/11(月) 17:58:35 ID:A3vf5nei
>59 :神も仏も名無しさん:2010/10/10(日) 22:46:39 ID:YUyc2043 >中村元氏は、「無明」とは「生活作用を生じるもの」と解釈している。 生命以外の何があるかね。 隠居脳には、生活は人間の精神の働きである、と言う認識が欠落w キリスト教徒が生活すべてが神の計画の基盤と言うが如くに、生活の人間の精神の働きを無視放棄し、宗教的な万能な生命を設定している >ひたむきに生きている者は、「生命の根源性」など意識しない。それが、 根源性である所以である。 意識する、意識しない、とは精神の働きではないらしいw 隠居の一神教的痴呆思考が現れているw 人間の精神の働きの重要性を無視している病的宗教丸出しであるw >釈迦は、生命を「苦」であると対象化したことで終わっている。 釈迦は対象化している訳ではないし、生命とかの生物的機能を問題にしているわけではない、 人間の精神的働きによる、「苦」を問題視している、 その原因と解決を否定し、 隠居の特殊概念、病的宗教的「生命」概念で解決できると隠居は妄想するw
64 :
:隠居クリスチャン思考基盤分析w :2010/10/11(月) 17:59:55 ID:A3vf5nei
まず、隠居は63の指摘に真面目に答えよwww
65 :
神も仏も名無しさん :2010/10/11(月) 20:12:31 ID:C3DOsYf1
肉体以前に存在するという「生命」が、 肉体が死んだからといって消え去ると断言できるだろうか。 消え去ってしまうとすると、奇跡的に原初の生命が生まれたとしても(そもそも「生命」なしでどう生まれるのか、という問題はあるが) 次の世代は存在できず、よって今ごろ人類も存在しないことになる。 隠居的「生命」がそもそもするなら 生命現象が失せ、肉体が土に還っても、 「生命」そのものは余所で元気に肉体を作り生命現象を生んでいる 可能性が高い。いわゆる「前世」の記憶が無いのは 記憶やら精神活動は肉体の機能にすぎず「生命」が肉体を離れる度にリセットされるから。 ということになるだろうか。
66 :
神も仏も名無しさん :2010/10/11(月) 20:29:04 ID:qvGai4Zs
>>63 >隠居脳には、生活は人間の精神の働きである、と言う認識が欠落w
精神(心的作用)とは、専ら肉体から発し、環境に応じて肉体を維持する
ソフトウエアである。その逆ではない。
生存本能(生命)は、すべての人間、いや、すべての動物に共通する唯一の
普遍の事実。この普遍の事実に基づかない精神作用(思考)は百人百様と
なり、争いと狂気を招くだけ。
釈迦は、「苦」も、精神作用の一つとして、「生命現象を現す肉体」即ち
生命の維持に不可欠な機能であることに思い至っていない。低次元の狂気
である。
イエスは、お話にならない。イエスを信じる者たちによる、大虐殺の歴史と
現状が証明するとおり。
>>66 >釈迦は、「苦」も、精神作用の一つとして、「生命現象を現す肉体」即ち
>生命の維持に不可欠な機能であることに思い至っていない。
「苦」は「機能」ではない。「感受されるもの」だ。
「苦」に「機能」はない、ただ、感受されるのみだ。
豆腐の角に頭ぶつけて来い。
68 :
神も仏も名無しさん :2010/10/11(月) 21:44:19 ID:qvGai4Zs
>>67 >「苦」は「機能」ではない。「感受されるもの」だ。
「感受」も、肉体の機能として肉体からから発する「精神作用」である。
「感受」をつかさどる「神経」は、肉体の一部。死者は、苦楽を「感受」
できない。
69 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/10/12(火) 00:14:53 ID:3Zj3ipDE
>>66 御隠居殿
>精神(心的作用)とは、専ら肉体から発し、環境に応じて肉体を維持する
>ソフトウエアである。その逆ではない。
そんなことありません。ソフトウェアは、ハードウェアの中に自然発生するわけじゃ
ありません(こんなことを言う人こそが、侮蔑的な意味でオカルティストそのもので
す)。外部のハードウェア(の物理的作用)によって、インストールされます。
精神についても同じことが言えるはずです。断滅論は、唱える人の知性が疑われます。
70 :
神も仏も名無しさん :2010/10/12(火) 01:03:49 ID:jzO4gVWH
>>69 ソフトウエアは「例え」としていったもの。君は、人間の肉体とコンピュータ
とが「全く同じ」とでも思っているのかねw。
精神が肉体を動かすという点のみ、同じということ。
なお、ソフトもハードの機構と密接に関連していない限り、ハードは動かない。
その意味で、ハードがソフトを作るということも言えなくは無い。
71 :
神も仏も名無しさん :2010/10/12(火) 01:11:35 ID:jzO4gVWH
>>69 OSはハードと一体。そしてハードを設計するのにもソフトを使う。
72 :
前世は一在家 :2010/10/12(火) 06:57:53 ID:Wsmh2Xxv
>>69 :不説 ◆AnATTa/dJc :2010/10/12(火) 00:14:53 ID:3Zj3ipD
>そんなことありません。ソフトウェアは、ハードウェアの中に自然発生するわけじゃ
ありません(こんなことを言う人こそが、侮蔑的な意味でオカルティストそのもので
す)。外部のハードウェア(の物理的作用)によって、インストールされます。
貴兄の言う通り、ソフトウェアは自然発生しません。
霊=プログラマー
心=ソフトウェア
体=ハードウェア
ご隠居の提示したモデルの完成形は三位一体ですね。
原始仏典でも「入胎の法」が説かれております。
卵子と精子が結合した際に生命は宿るようですが、智情意は胎児に宿るという
ことでしょう。因みに菩薩は前世の記憶を持ったまま、入胎し出胎するとのこと。
73 :
神も仏も名無しさん :2010/10/12(火) 09:16:20 ID:E8cYC4lj
>>68 お前は、ほんっっっっっとに姑息な糞野郎だな。
>>67 は、「感受が作用かどうか(≒機能かどうか)」については触れていない。
ただ《「苦」が「機能」ではない》という指摘だけだ。(併せて、「苦」は感受されるもの、としただけだ。)
>>66 に於いて、「《「苦」は》精神作用の一つとして(不可欠な)《「機能」である》」
と述べられたから、67とレスを入れた。
つまり、≪《「苦」が「機能」である》という発言・考え方に【異議が出され】、その【誤りであること】が指摘された≫わけだ。
なぜ、そのことに触れず、(述べられてもいない)違う事柄《感受は作用(≒機能〉である》と述べる必要があるのか?
67に対して返すならば、
・『「苦」が「機能(作用)」である理由を述べる(詳説する)』か、
・『「苦」が「機能(作用)」であるという発言は誤りであった』と認めるか、
二つに一つだ。
別の事柄を述べたからといって、66中の発言が誤りであるという指摘に対する返答にはならない。
誤魔化し、話を逸らせているだけだ。
こういう、『論点のはぐらかし、スライド、誤魔化し』、それによる『誤謬の隠蔽』は、
一在家のやり方同様、醜悪な姑息の極みだ。
醜態晒しage
74 :
神も仏も名無しさん :2010/10/12(火) 15:23:08 ID:4eYkR3lV
>>73 機能(function)とは、「働き」「作用」の意味。
感受は、感受器官の機能によって生じる。釈迦は、「煩悩(苦・苦楽)」が
「我」の機能によって生じると考えたからこそ、「我は無い(無我)」という
「自己欺瞞」により、「苦楽」の根源を絶つことを、「己の我」を持って説いたw。
苦楽が、何の機能も持たないのなら、無いも同然。無理して苦楽(煩悩)を
絶つ必要は皆無である。
今朝は二日酔いですかw。
>>74 ハァ?(゚∀゚)
馬鹿か?
〈「感受」の説明〉なんぞ聞いていない。〈無我との絡み〉も聞いていない。
〈「苦(楽)」が機能を持たなかった場合〉も、まだ先の話だ。
いいか、
>>67 に於いては 『「苦」は機能ではない』 としただけだ。
このことに、同意するのか?しないのか?
これにまず答えろよ。他の事柄は全てそれが済んでからの話だ。
>>68 も
>>74 も、この点に関して一切触れていない。他の事を述べているだけだ。
っんとに腐った奴だよ、お前は・・。
それに、ついでにツッコんでおくと、
>「煩悩(苦・苦楽)」が「我」の機能によって
とあるが、 >「煩悩(苦・苦楽)」 この括弧書きは、《煩悩=苦・苦楽》という意味か?
だとしたら、これもダウトだ。少し譲って言えば不正確だ。
「或る事象・感受」を、「苦」と(苦・楽と)「分別し、受け止め」、苦悩・嫌悪し、又、歓喜・希求する「執着・こだわり」を、
或いは、「そうした心の動き・癖」を煩悩と呼ぶなら、まだ許せる。
「苦」(苦・楽)が「煩悩」であるわけではない。
「苦と感受し、思い悩み、嫌悪する」、この意識(≒心)の志向性が煩悩なんだよ。
76 :
神も仏も名無しさん :2010/10/12(火) 15:48:13 ID:4eYkR3lV
>>72 >霊=プログラマー
>心=ソフトウェア
>体=ハードウェア
人間(例えばプログラマー)の「心と体」をソフトとハードに喩えて
いるのに、「プログラマー」など持ち出したら、同語反復。「霊(spirit)」
とは、「精神」の意味。
精子と卵子の結合による生命は「白紙の状態」から始まる。感覚器官も
思考器官も、未だ形成されていないからだ。菩薩は、輪廻転生するのかね。
君には、前レスで紹介した最新刊の「キリスト教成立の謎を解く」の
一読を勧める。著者は、新約聖書の各福音書などを、「垂直的」ではなく、
「水平的」に読むことにより、それらすべての間の無数の矛盾と、それ
らがすべて著者不明の偽書であることを証明している。君の主張するヨハネ
福音書の「特異性」についても詳述されている。新約聖書には、「イエス
の生き様」などを確定しうるものは皆無であり、「信じられる」要素は
何もない、ということだ。そもそも、イエス自身も含めて、イエスの弟子
たちはは、低い身分の者ばかりで、パウロを除き、外国語であるギリシャ
語など読み書きはできない「文盲」だった。
著者のこの方法は、原始仏典についても応用しうると思われる。
>>76 >「垂直的」ではなく、「水平的」に読むことにより、それらすべての間の無数の矛盾と、
また自己紹介かよwww
「まず、『生命』を根源に設定し」、
「それを軸に >「垂直的」 にしか物事を見ない、各種文献・論文・解説をよまない」
貴方が言えたことですか?w
>「水平的」に 考察しないから、自分の数々の発言 >の間の無数の矛盾 に気付けないのが貴方でしょう?w
→ 著者のこの方法は、隠居の発言についても応用しうると思われるw
78 :
神も仏も名無しさん :2010/10/12(火) 16:06:48 ID:4eYkR3lV
>>75 苦(煩悩、苦楽)がいかなる機能も持たず、またいかなる他の機能からも生じ
ないとすれば、釈迦の出番はない。放置することしかなかろ。
また、苦が、生命の維持に不可欠の機能を有するとすれば、それを滅したら
大変なことになるw。
「意識(の志向性)」も生命(生命現象を現す肉体)の機能。死者には、
意識なし。
79 :
神も仏も名無しさん :2010/10/12(火) 17:30:48 ID:CHUly+/l
>>77 アホですか。著者が「水平的」「垂直的」を判断したのは、著者の生命ですよ。
生命「のみ」は、いつ、如何なる場合でも「垂直的」です。
80 :
神も仏も名無しさん :2010/10/12(火) 17:33:11 ID:CHUly+/l
>>77 人間の生命を以って生命を「対象化」することはナンセンスで不可能
だから、「水平化」による相互比較などできる訳がありません。
>>79-80 アホはどちらでしょうか・・?w
貴方の
>>76 に於ける指摘も、「【各個】福音書を、水平的に見る」ということではありませんでしたか?
(それは、「各所に述べられる事柄を水平的に見る」ということであり、
或る教義・原則を固定化し、それを基準とした垂直的視座への批判ではなかったのですか?)
同じように、【貴方の、これまでの数々の発言の個々】を水平的に見れば、矛盾が目につく、ということであり、
【「生命を根源に据える」という行為が】【そのことによる考察の固定化が】垂直軸になっている、という批判です。
>>77 のどこにも、《『生命』を水平的に見る》ということは述べられていませんwww
「各種福音書を水平的に読む」のと同じように、「【貴方の発言】を水平的に見るべきだ」という揶揄ですよ。
(
>>77 は、そのようにしか読めない筈ですが?w)
何をトチ狂っているんでしょうかwww
>>78 はい。まず3段目が不要ですね。差し当たっては関係ないことですね。
1段目もまた、不要ですね。「たられば」・仮説による議論を進める段階では、まだありませんね。
で、2段目です。これも、「たられば」の形の推論となっていますが(結局
>>66 の文と同じだがw)、
仕方ないので、「意を汲み取って」こちらから1000歩ほど歩み寄ってあげましょうw
それは、《結果的に「苦」に負わせているもの》、《結果的に「苦」が「機能した」と見做せるだけ》、
とも考えられますが、貴方はそうではないわけですよね。
この辺を詳説していただいて初めて、
>>67 への反論となるのです。
では、少し問いを変えましょう。 (ワシも辛抱きかんな・・w orz )
“それ”は《「苦」自体が持つ「機能」》と言い得るものですか?
また、
>苦が、生命の維持に不可欠の機能を有するとすれば
これは、いつも貴方が仰る
《「危険察知」、「身体防衛(生命防衛)に寄与している」》ということであり、
今回答弁として言いたいのは《「苦」の「機能」は、生命維持である》ということだと読んでおきますがw、
(―尤も、貴方の謂いは「肉体的痛苦」限定のような気もしますが・・・w―)、
しかしそれは、《〈「苦」として感受されること〉が、防衛的思考・行動を生じさせている》のであって、
《「苦」の「機能」》であると言い切るには弱いと思われますが、如何?
(まったく正反対の作用を生じさせる(→正反対に機能する)可能性もありそうですが如何?
これは、「相反する機能を併せ持つ」ということになりますが、
そのうちの一方だけを、それの「機能」としてしまうことに無理は生じませんか?)
>>78 ちなみに、
>>66 に於いては、「 >精神作用の一つとして 」「機能している」と述べられてますね。
これは、「Aは、○○の一つとして、××に資する機能である」という構文で述べられているわけですが、
ここで言う「機能」は、《【『××に資する』ということ】を『機能している』と【見做している】》ということです。
(ややこしくなるので、ここでは「作用」と「機能」を、便宜上「同義」として扱いましょう。
貴方自身も「機能」という表現を多用することが多いですし。)
この見做しは、「機能」を本質的に有するわけではないものについても言い得るわけです。
だから、『○○の機能』ではなく『〜として機能する』という言い回しとなるのです。
たとえば、「水は“洗浄する”という機能を持つ」という表現は不可能ではありません。
そのように「作用」する場面はあり得るわけです。
しかし、《「洗浄」という「機能」が、水が本質的に(≒原初的に)有するものであるか》、と言えば、
決してそうではありません。或る条件下でのみ出現するものでしかないからです。
【水は、水としてしかなく、そこには、《本質的『機能』》なぞありません。】
場面場面によって、条件によって、(或いはまた、寄与、役立ち的・目的的視線の上でのみ)、
「(様々な)機能をもったもの」として扱われるだけです。
(というか、そういう時に「〜として機能する」と言われるわけですが・・。)
どれか一つが、水固有の機能として特筆できるわけではありません。
(今回は、ボクちゃんには、かなり難しかったですかね・・w)
84 :
神も仏も名無しさん :2010/10/12(火) 21:40:21 ID:Qx92DlR3
隠居がセブンのレスを理解できない、または誤読するに 3000点。
85 :
神も仏も名無しさん :2010/10/12(火) 23:26:37 ID:GPjNnMuO
前レスで紹介した「キリスト教成立の謎を解く」の著者は、新約聖書の各文書 の「水平的検討」により、「各文書は、相互に矛盾だらけ」、「聖書は神の霊感 によって書かれた書物ではない」「イエスは神ではない」の自覚にまでは到達 できたが(非宗教者にとってはとっくに自明のこと)、イエスの言葉(それが 真実であれ、虚偽であり)の矛盾や誤りの批判にまでは至れなかった。未だに 「生きるための指針」などと認めている。彼の最初の福音派キリスト教徒とし ての洗脳を、完全に離脱することは不可能だったのである。 このことは、このスレの原始仏教徒たちにも当てはまる。「宗教による洗脳」とは 本当に根深く、恐ろしいものだ。
>>85 で、《「苦」は「機能」ではない》という異議には同意していただけるので?w
>>70 御隠居殿
>なお、ソフトもハードの機構と密接に関連していない限り、ハードは動かない。
>その意味で、ハードがソフトを作るということも言えなくは無い。
凄い知ったかぶりですね。(^^;
Javaでプログラミングされた、Webアプリケーションってどうなるのやら……
88 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/10/12(火) 23:58:23 ID:3Zj3ipDE
>>72 前世一在家氏
>霊=プログラマー
>心=ソフトウェア
>体=ハードウェア
これは、唯物論者という極端に対置する神霊論者というもう一方の極端です。仏教は中道です。
新規ハードウェアに対するインストール作業にプログラマーは必要ありません。
2台のコンピュータをネットワークで接続して、新しいコンピュータからインストールすれ
ばいいだけなので、そこにコンピュータ以外の第三者(神霊)の存在を介在させる必要は
ありません。プログラム(創造性)はソフトウェア自身が、自己プログラム可能なもので
あればいいのです。「全てのチューリングマシンは万能チューリングマシンである」こと
が証明されています。外部に創造者を妄想する必要はありません。
89 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/10/13(水) 00:11:28 ID:zoQlPp2e
>>88 続き
基本的に、あくまでも、御隠居の
>>76 の
>人間(例えばプログラマー)の「心と体」をソフトとハードに喩えている
をベースとしたものです。
ただ、御隠居が唯物論という(知性を問われる)思考方法に囚われているために、
この前提から出発した
>精子と卵子の結合による生命は「白紙の状態」から始まる。
これがもうアウトです。コンピュータというハードウェアの中に、インストールし
ないでも勝手にソフトウェアが湧いて出現するという、(侮蔑的な意味での)オカ
ルト思考。
90 :
前世は一在家 :2010/10/13(水) 00:19:54 ID:hA2GwSkI
>>88 :不説 ◆AnATTa/dJc :2010/10/12(火) 23:58:23 ID:3Zj3ipDE
>プログラム(創造性)はソフトウェア自身が、自己プログラム可能なもので
>あればいいのです。「全てのチューリングマシンは万能チューリングマシンである」こと
>が証明されています。外部に創造者を妄想する必要はありません。
>プログラム(創造性)はソフトウェア自身が、自己プログラム可能なもので
>あればいいのです。「全てのチューリングマシンは万能チューリングマシンである」こと
>が証明されています。外部に創造者を妄想する必要はありません。
現在、世の中にあるソフトの中で自己プログラムされたものは0.01%もありますか?
プログラマーの意思が因となってプログラムが起こっておりますよ。
「便利なソフトを作りたい」、「人々を楽しませるソフトを作りたい」等々、
プログラマーの想いが縁となって色々なソフトが起こっております。
このインターネットでも、天才達の想いが形となったソフト(プロトコル)ですね。
91 :
神も仏も名無しさん :2010/10/13(水) 00:27:05 ID:eCsHXMRT
>>86 万物は相互依存である。従って、万物は、状況に応じて様々な機能(作用、
働き)を有する。
釈迦が、苦の生命維持のための必須の機能を有することに気付かなかった
だけ。だから、「苦」「苦」「苦」と苦に執着し、大騒ぎした。
水が機能を有しないなどとはとんでもない。あなたの肉体の60%は
水なのですよw。食物をしばらく摂取しないでも死ぬことはないが、
水を飲まなければ脱水状態で死ぬ。生命は、海水中で発生した。
92 :
神も仏も名無しさん :2010/10/13(水) 00:27:18 ID:8F67LMvD
てす
93 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/10/13(水) 00:39:37 ID:zoQlPp2e
>>90 前世一在家氏
ではそのプログラマーの意思が生じた因は何によるのでしょうか?
唯一神の意思でしょうか?
では唯一神の意思が生じた因は何によるのでしょうか?
唯唯一神の意思でしょうか?
……
「脳の中の小人が、視覚神経からの信号の入力を眺めている」という話と同
じ与太話です。
94 :
神も仏も名無しさん :2010/10/13(水) 00:39:37 ID:eCsHXMRT
>>89 いかなる生物も物質に100%依存しない限り生存しえない。その意味で、
すべての生物は「唯物論者」である。釈迦もイエスも例外ではない。
イエスは悪魔から、「この石をパンに変えてみろ」と詰問されて、変えられ
なかったため、「人はパンでけで生きるものではない」などと大見得を切った
が、彼はパン(食物)以外の一体何で生きられる積りだったのか。そもそも、
額に汗してパンを作り、彼を生かしてくれている人々に対する忘恩の言葉では
ないか。「自分を生かしてくれている者の恩恵に対する自覚と感謝」は、
人間が人間であるための条件である。
その物質の恩寵を忘却し、または否定する者こそ、まさに知性を問われる
べきであろう。
95 :
前世は一在家 :2010/10/13(水) 00:43:35 ID:hA2GwSkI
>>93 名前:不説 ◆AnATTa/dJc :2010/10/13(水) 00:39:37 ID:zoQlPp2e
>ではそのプログラマーの意思が生じた因は何によるのでしょうか?
>唯一神の意思でしょうか?
プログラマーの内にある仏性でしょうね。
仏性は菩薩になるまで、肉体から肉体へと宿っていくようです。
96 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/10/13(水) 00:45:22 ID:zoQlPp2e
>>94 御隠居殿
>彼はパン(食物)以外の一体何で生きられる積りだったのか
「人はパンのみに生きるにあらず」
は、
「人はパンで生きるのではない」
と明らかに違います。
イエス「パン+他の何か」
であって
御隠居「パン」の代わりに「他の何か」
ということではありません。これはいくらなんでも小学生にも笑われる国語能力
の問題ですよ?
97 :
神も仏も名無しさん :2010/10/13(水) 00:51:16 ID:eCsHXMRT
>>96 イエスは、そんな言葉を、「額に汗してパンを作ってくれている人々」
の前で吐けるのかね。「パンの軽視」が含まれていることは、否定でき
ないだろう。
イエスは、神どころか、人間としても人格低劣。その例は、他にも無数
にある。
98 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/10/13(水) 00:51:20 ID:zoQlPp2e
>>95 前世一在家氏
では、その仏性はどうやって生じたのですか? という話になるわけです。
基本的に、菩薩が、「自己が将来仏陀になる」という祈願を立てるのは、通常
の意識によって、そのように思考して、行なわれるわけです。そうすると堂々
巡りの話になって、原因を訊ねられて、結果で答えるという頓珍漢な論法であ
り、それは「脳の中の小人が、視覚神経からの信号の入力を眺めている」とい
う話と同じ轍になります。
99 :
神も仏も名無しさん :2010/10/13(水) 00:57:23 ID:eCsHXMRT
>>98 仏教には「作られないもの(無為)」という概念があるのではないですか。
「仏性」や「生命」が、まさにそれでしょう。
100 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/10/13(水) 00:58:34 ID:zoQlPp2e
>>96 御隠居殿
イエス「せっかくの手作り高級パンだ。どうせなら、最高級のワインと一緒に飲みたいね」
(パン=物質、ワイン=精神)
それが、パン屋さんに失礼に当たりますか?
御隠居のおっしゃりようは、合成添加物てんこ盛りの安かろう悪かろうのパンを作ってお
いて、「政府のパンを不味いなんて言って食べるなんてことは許さん! 涙を流して喜ん
で、他に何もいらないと言うのが筋」と腕組みしている社会主義配給体制下の政府高官み
たいな雰囲気ではないですか?
101 :
神も仏も名無しさん :2010/10/13(水) 01:04:41 ID:eCsHXMRT
>>100 極限の飢餓状態においては、どんな粗悪なパンの一切れでも、生命を
救える。
一般論として、「自分を生かしてくれている物質やそれを供給して
くれる他者」に対する感謝を忘れた、貴方の仏教徒には相応しからぬ
「知性の貧困」こそ、自覚されたし。
>>90 不説氏が言ってるのは、
ソフトとハードという譬え方なれば、
《インストール済みのハードから、無線LANでインストールされていく流れ》のイメージを、
縁起する連鎖と見ているということでしょう。そこに、インストールさせようという人意・神意は不要だ、と。
(或いは、ウィルスによる自己複製やスパムメールの乱送信のような感じとか。)
また、そうした他のPCとの接続なきハードに、ソフトウェアが突如起動する、ということも無い、と。
(
>>69 >>88 >>89 からの推測)
こういった感じのようです。
当然、現代的感覚からいけば、
「最初のソフトウェアは、どうして発生したインストールされ得たのか(誰がインストールしたのか)?」
という疑問も湧きますが、ここでの予想される答えは、『縁起は「無始無終」と言われる』
といったものになりそうですw
>>91 だからぁw
それは、(或る状況下で)『生命維持の為に【機能している】』ということであって、
「苦」が【「機能(≒作用)」である】わけではないでしょう?と言っているのです。
貴方は、「苦」は『生命』の「機能」である、としていますが、これは
『生命』が、「苦」という「機能」を有しているという意味です。『生命』が機能を有しているわけです。
この時、『生命』は「機能」ですか?
また貴方は、
「苦」が、「生命維持」という「機能」を有しているとも言いますね。「苦」が機能を有しているわけです。
「苦」を、(そのことにより)「機能」であるとするなら、
『生命』もまた「機能」であることになりますが、それで宜しいですか?
>あなたの肉体の60%は水なのですよw。
>食物をしばらく摂取しないでも死ぬことはないが、水を飲まなければ脱水状態で死ぬ。
>生命は、海水中で発生した。
とりあえず関係ない話ですねw 水の存在が不可欠であることが示されているだけで、
これを《水の機能である》とは、【普通】表現いたしません。
「具体的にどういった機能なのか」、が詳説されて始めて、「〜として機能している」と言い得るわけです。
しかし、それでもまだ、「水=機能」を確定するものではありません。
上の例は、【水があることにより、何がしかの存在或いは状況が成立している】というだけです。
それを「機能している」と見做すことは可能ですが、「それが水の機能」である、というのは不適切だということです。
ペットボトルは、ロケットのモデル(圧力とその解放の実験)としてよく使用されますが、
《「圧力の解放」が「ペットボトルの機能」である》とは言わないようなものです。
パンの話wも面白そうですが、今夜はこれくらいにしときましょうw ノシ
104 :
前世は一在家 :2010/10/13(水) 01:10:32 ID:hA2GwSkI
>>93 名前:不説 ◆AnATTa/dJc :2010/10/13(水) 00:39:37 ID:zoQlPp2e
>ではそのプログラマーの意思が生じた因は何によるのでしょうか?
>唯一神の意思でしょうか?
>では唯一神の意思が生じた因は何によるのでしょうか?
>唯唯一神の意思でしょうか?
人類が誕生する以前から「因果の法」が連綿と繰り返しております。
その「因果の法」の源を探そうとしても無益なことでしょう。
前世か前々世以降を「仮設」して、自身のカルマと今世でなすべきことを
悟ることも世俗としては有益かと思料します。
兎に角、釈尊は三明智にて「輪廻の法」を悟り、八正道とともに苦を滅する
法を私達に説いて下さったことにまず感謝致しましょう。
105 :
神も仏も名無しさん :2010/10/13(水) 01:20:16 ID:/wL/kt6p
>>104 >人類が誕生する以前から「因果の法」が連綿と繰り返しております。
地球が誕生する以前の「因果の法」って何だ?
もしかして「宇宙人の業」とかで地球が誕生したのか?
106 :
神も仏も名無しさん :2010/10/13(水) 01:26:29 ID:eCsHXMRT
>>103 既に釈迦に洗脳されている貴方が何を言ってみても、釈迦が、苦の生命維持
のための不可欠な機能(働き)に思い至らず、苦を「排除すべき異物」である
と「誤解」していたのは確かである。
苦に何の機能(働き)もないのであれば、釈迦は「苦」「苦」「苦」と苦に
執着して大騒ぎすることはなかった。
107 :
神も仏も名無しさん :2010/10/13(水) 02:15:04 ID:ov/IGSN4
私は仏教徒というよりは釈迦派なんですけど、 釈迦の教えで貧乏人に起こるほとんどのことは自己解決してしまいます。 裕福な方や高学歴エリートの方の見識をお教え願いたいです。
108 :
神も仏も名無しさん :2010/10/13(水) 02:29:23 ID:/wL/kt6p
>>107 >裕福な方や高学歴エリートの方の見識をお教え願いたいです
さ〜て、このように聞かれると、回答するものは
「裕福」か、または「高学歴エリート」の者になるが、果たして
このスレに該当者はいるかな?
109 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/10/13(水) 02:32:13 ID:zoQlPp2e
>>102 セブン氏(?)
>当然、現代的感覚からいけば、
>「最初のソフトウェアは、どうして発生したインストールされ得たのか(誰がインストールしたのか)?」
>という疑問も湧きますが、ここでの予想される答えは、『縁起は「無始無終」と言われる』
ここで時折登場する無人島の例を考えてみれば、御隠居(唯物)説も、前世一在家(神霊)説も、
説明が付かないことがわかります。
ハードの中に自然発生的にソフトが生じるのであれば、無人島に放置された赤ん坊は、や
はり、普通の大人として育つであろうし、外部の第三者的存在(神霊)がいるのであれば、
やはり無人島で孤独であろうが、普通の大人として育つであろうということになってしま
います。背理法により、これらの仮定がそれぞれ間違っていることがわかります。
110 :
神も仏も名無しさん :2010/10/13(水) 03:14:17 ID:r/55QQoo
ts
111 :
前世は一在家 :2010/10/13(水) 06:55:43 ID:MvIq74Ql
>>112 >ここでの予想される答えは、『縁起は「無始無終」と言われる』
>といったものになりそうですw
予想される龍樹教では、「縁」と「起」とは刹那で生じるようですが、
人間の知覚に関わる縁起には時間を要します。所謂「因果の法」でしょう。
1回の輪廻も数百年を要するようですが、前世と現世との間を刹那でない
ということです。
このことは前世の記憶がある菩薩と、前世を思い出すことができた
修行完成者達は知っていたことになります。
釈尊が輪廻の法を説きましても、舎利弗もその通りだと認識しており、
長部経典の自歓喜経などに輪廻に関わる複数の法を記載して残しております。
112 :
隠居クリスチャン思考基盤分析w :2010/10/13(水) 09:17:44 ID:rcXN/daA
隠居のソフト、ハードウェアの指摘は一番重要だw ワシも昔から、コンピューターは電気で動くから、 電気が根源で、コンピューターは電気なのか? と言う隠居の妄想的一神教的生命教を指摘するのだが、 隠居は一神教の生命に妄信していいて、 隠居の妄想的一神教的生命教マイコン患者には理解できないようだw
113 :
隠居の妄想的一神教的生命教マイコン患者 :2010/10/13(水) 09:37:31 ID:rcXN/daA
人間の精神の働きを軽視する、 生命万能説の一神教的生命教マイコン患者の隠居w
114 :
隠居の妄想的一神教的生命教マイコン患者 :2010/10/13(水) 09:40:55 ID:rcXN/daA
>生存本能(生命)は、すべての人間、いや、すべての動物に共通する唯一の 普遍の事実。この普遍の事実に基づかない精神作用(思考)は百人百様と なり、争いと狂気を招くだけ。 この上記の文章だと、人間の精神のカウンセリングは不要と言うことですか?? 隠居の生命妄想で、精神疾患はすべて解決ですか?? もしくは、生命と服薬で治療できると妄想しているのですか?? きちんと答えましょうw もし、隠居が宗教マイコン患者でないならばw
115 :
神も仏も名無しさん :2010/10/13(水) 10:03:53 ID:QlyWf0ut
>>109 人間は、オギャーと生まれただけでは人間にはなれない。人間界は、
徹頭徹尾共同体であるから、人間が長い長い年月を通じて築き上げた、
「共生の技術」としての「社会常識」を身につけて、初めて人間と
なる。人間としての行動は、一挙手一投足、この社会常識によって
規制される。ある思想家は、このことを「生命」と並べて、「力として
の歴史」と呼んでいる。
狼少女は、社会常識を身に付ける機会を奪われたので、結局は「人間」
にはなれなかった。
世俗界を離れて独りで修行する修行者や閉鎖的宗教団体内の宗教者たちも、
結局は「人間」にはなれない。
116 :
神も仏も名無しさん :2010/10/13(水) 12:28:10 ID:QlyWf0ut
チリ被害者。まず一人目救出成功!!人間の持つあらゆる知恵、知識、技術、労力を 傾注して「生命」を救う。そして、家族の喜び。 殆ど毎日のように殺し合い、争い合いを続ける「宗教」とは、どれほど対照的か。 すべての宗教者は、己を恥じよ。
>>106 ・仏教議論スレッド 5
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1278424122/470 470 3/4 sage 2010/08/01(日) 14:41:30 ID:O91zmw29
>> 454
> 釈迦は、生を「一切皆苦」としたことで終わっている。
ほうw では、龍樹は、その先のどこへ向かわれたので?w
参: 〔最大カテゴリとしての「苦」について]
仏教 議論スレッド その3
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/203 > 一切衆生(健常者)はそのようには考えない。
我執に捉(捕)われた凡夫ですからね。当然でしょう?w
> 「苦あれば、楽あり、楽あれば、苦あり」という「真理」を悟っている。
だからwwwそれは世俗諦だと何度も言っt
いいですか。老婆親切で図式化しといてあげますが、
苦・・・(無常、変遷するもの、永遠の保持ができないもの、思い通りにならないもの)
┌─┴─┐
苦 ← → 楽
ってこと。 で、
下段の「苦」は、上段の性質を有すもののうち『好ましくない、望まれない、二度と生じないで欲しい事柄(事象・感受)』、
下段の「楽」は、上段の性質を有すもののうち『好ましい、望まれる、更に欲しくなる事柄(事象・感受)』、
ってこと。 下段の苦楽が、皮相なもの(≒善悪・好悪・恣意的我執による分別)だと解らんか?w
―――――――
そういえば、このレスもスルーしてましたねぇ・・・w ;´ー`)y━~~
119 :
神も仏も名無しさん :2010/10/13(水) 20:54:05 ID:0EFCOU5E
>>117 ならば、超カルト原始仏教の「スローガン」を、「一切皆苦」から、「一切苦楽」
へ変更しろ。
釈迦とは異なり、竜樹は、万物の「相互依存性・関係性」の原理の発見により、
苦を根本から消滅させた。釈迦の無理な屁理屈の「自己欺瞞」では、苦は消滅
せず、ますます深まるばかりである。「苦を逃れる者は、既に苦に怯えている」
(モンテーニュ)
「勝義諦」の根拠は何か?「妄想」だろ。
120 :
神も仏も名無しさん :2010/10/13(水) 21:06:00 ID:cxKbxCX6
勝義諦とは、現実逃避なり。 心を空っぽにして、家出するね。 ヤクで苦もなくハイセンス。 釈尊は苦を空にせず、正見してたよ。
>>119 >ならば
「ならば」?(゚∀゚) 何が「ならば」なんでしょう?www
117の内容は、sabbe saNkhArA dukkhA に抵触しませんが?
宝珠の保管庫で、〔最大カテゴリとしての「苦」について〕のリンク先を全部読んできなさい。
>>118 を百億回読みなさい。 《御託》は、その後で聞いてさしあげましょうw
> 釈迦とは異なり、竜樹は、万物の「相互依存性・関係性」の原理の発見により、苦を根本から消滅させた。
だからw 異なってないでしょ?とあれだけ事例を示されながら、尚言いますかwww
また、名色の名はどこへ行ったのか?と、想は、識は、心(citta)はどこへ行ったのか?とwww
物と物の関係しか考えられませんか? 貴方の喜びや悲しみ、怒りは「物」ですか?
まだ、龍樹が「物と物の関係性」しか述べていないと思ってるんですか?w
> 釈迦の無理な屁理屈の「自己欺瞞」では、苦は消滅せず、ますます深まるばかりである。
(三世に跨らせない場合のw)、初期仏教の整合性は宗教・哲学界随一だと思われますw
勿論、「物」だけに限ってもいませんw いや寧ろ、心的現象について特化した思想ですよ?仏教はw
どうせ、「内縁起・外縁起」という(便宜上の)考え方も知らないんでしょう?w
知らないことばっかりじゃないですかwww そんなんで、よく偉そうに講釈を垂れる事ができますね。
無理な屁理屈は御自身のことでしょう? また自己紹介ですか?wwwww
貴方がスルーしてきているレス全てが、貴方の支離滅裂な屁理屈や矛盾のミルフィーユを明らかにしています。
目を閉じてもログは消えませんよ?w
>>119 > 「苦を逃れる者は、既に苦に怯えている」(モンテーニュ)
モンテーニュだかモンタージュだか知らんがw、たいした台詞じゃないだろw
「怯えるから、逃れようとする」のだろう? 何も不思議なことじゃないw
「“逃れている最中の者、逃れようとする者”は、まさに、怯えている者」だろ? 何も不思議なことじゃないw
この台詞で何が言いたいんだ?w
> 「勝義諦」の根拠は何か?「妄想」だろ。
【貴方の期待するような】根拠なぞありませんよw
(強いて言えば、「ああ、確かにその通りだ」という頷きでしょうかねw)
「苦の滅へと向かう道程において、その為の視線、解釈」を「勝義(諦)」と称するのですから。
そうでない視線に於いて(例えば他宗教、或いは貴方のスタンス、等からすればw)は、
「諦」(真理)でなぞないでしょうw 正しくなぞないでしょうw
真理なんてそんなもんですwww
(唯一の統一的真理を夢想する思想もあるようですが、ちゃんちゃらおかしいですね・・w)
どっちが妄想かは、眼が開けば(頷きがあれば)わかることですw
(また、中論は、まるまる勝義の集成なんですけどねぇ・・w)
参:仏教議論スレッド 5
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1278424122/125
124 :
神も仏も名無しさん :2010/10/14(木) 00:16:24 ID:IojO9c1F
やっぱ 仏教は病気だわ
125 :
神も仏も名無しさん :2010/10/14(木) 20:07:36 ID:8MSj0OrN
仏教関係者は神道のことをどう思ってるんだ?
126 :
神も仏も名無しさん :2010/10/14(木) 20:38:54 ID:I0GWXhdt
神道は古代ユダヤ教。 その逆かもな。 ヒトゲノム研究が証明するだろうさ。
127 :
神も仏も名無しさん :2010/10/14(木) 20:42:18 ID:I0GWXhdt
古代インドにも日種族と月種族がいたな。 釈尊は日種族だったな。
また規制範囲が広がったかな?
129 :
神も仏も名無しさん :2010/10/15(金) 18:30:02 ID:HL7x3aLN
試みにage
しかし、ほんとに人減ったなぁ・・w
>>130 いえいえ、ちゃんとロムってますので、がんばって下さいw
何をがんばれと?www もう、何度目の台詞かさえ忘れたがw、こういうのを退役のきっかけにすべきなんだがなw 近年のこの規制で、旧き善き2chへと回帰するのか、(ワシは黄金時代を知らんがw)、 粗い網で漉したかの如く滓しか残らないのかわからんが、 いずれにしろ、結果が出るまでは時間のかかる事案だ。 で、(仏教系で)少数精鋭なスレを残し得るかと言えば、甚だ望み薄だろう。 (決着シリーズ&当議論スレは稀有な例だよw) 人が関わる事案に於いての(レベルの)継続(≒継承)とは、 すなわち、人材の(≒スキルの)引継ぎに他ならない。 (また、現役人材の変質もマイナス要因だ。(この例が原仏スレw)) いろんな意味で潮時だよ。決着シリーズ以来のコテを外してからも随分と経つ。 新たに述べたいことも無い。 ツッコミ用レスが無い限り、自然、書き込みも減るw 哲板に殴り込みをかける気も無いしねwww これも何度目の台詞かわからんがw、(2chでは)色々やりきった感がやっぱりあるよ。
>>132 いやいや、まだまだww
これは個人的テーマだが、まだ議論のうえで考察を深めたいものが残っている
1 認識主体と認識対象(その二項対立の解消)
2 時間と因果の関係(因と果の同時性の可能性について)
などなどwww
これらについて仏教的視点からもアプローチを期待したいので、もう少し
続けようや、セブン。
(今は他スレで遊んでいるが、いずれネタ投下しにくるぜwwwww)
あ、そうそう、以前からひとつ聞きたいことがあったんだが、 仏教でいう『一如』 これを、だれか分かりやすく解説できないものか? 唯識や禅系の概念だよな? 勿論、通り一片の知識はあるが、ここは もう少しイメージを広げたいのでね。 よろしくねw
135 :
前世は一在家 :2010/10/16(土) 07:51:21 ID:s9baOtIr
>>133 >これは個人的テーマだが、まだ議論のうえで考察を深めたいものが残っている
>1 認識主体と認識対象(その二項対立の解消)
>2 時間と因果の関係(因と果の同時性の可能性について)
因と果とが刹那で成り立つ同時性のものも一杯ありますし、
人の認識に関わるものは同時ではなく認識に時間を要します。
為替の変動と株価の変動との間には更に時間を要しますし、
政権交代と政治変革とは更に時間を要します。
世俗世界では、「縁起の法」は「因果の法」だということでしょう。
因みに「因果の法」は「輪廻の法」の前提条件です。
3 原始仏教を現代仏教に変容させた真因
議論というよりも調査、考察を深めたい個人的テーマです。
と言いましても、龍樹は時間を消滅させたという中村元先生や、
龍樹は時間を消滅させたわけではないという石飛先生と、仏教研究者でも
解釈が分かれております。水野先生や片山先生らはどういう解釈であったか
もご紹介いただけると幸甚に存じます。
>>134 > 唯識や禅系の
『一如』の原語が何であるかは恥ずかしながら知らないのだがw、
(「一なる“真如”に帰す」という意味の造語か? 織田仏教辞典でも参照できると良いのだが、手許に無い・・w)
おそらく大元は「華厳」教学へ行き着くことになると思うので、唯識や禅系という推測は当たりだと思う。
(少なくともパーリや上座部、部派の概念ではない。)
その意味でも、一代の見解を待つべきだろう。 私の意見は、類推と個人的見解の色が濃すぎるw
大乗の伝統的見解にどこまで迫れているか、といえば、自信はあまり無いw
ちなみに、禅学大辞典(大修館書店/駒澤大学内禅学大辞典編纂所編/2000年新版6刷)には、
@一は絶対唯一。如は不変不異。 絶対平等の意味。唯一無二の真如、真実ありのままの道理をいう。
A一も如も同じの意。全く等しく違わないこと。全く同じ行動をとること。
とある。 言い換えた(語釈した)意味があまりありませんね・・w(@なぞ、術語のオンパレードでワケワカメ・・w)
この語義のニュアンスをもう少し多く承けるなら、
>>136 的視線に加えて、
「他の視線(≒世界観)はありえず、仏の視線としての(勝義としての)、真実にしてただ一つの諸法の相(≒在り様)」
であるから「一」「一なるが如し」と言われることとなるのだろう。
*(特に禅系は、「無」と並んで「一」という表現を非常に好むw)
139 :
神も仏も名無しさん :2010/10/16(土) 09:04:07 ID:RnMEqF2Q
バカな思想ほど 難解にする この邪教で日本人は憂鬱になる
>>136 >(これは貴方のレスでしょう?w)
そのとおりww
改めて、ざっと見直してみたが、「レゴの喩え」と仏教 議論スレッド その3
の191が、やはり良いなw
このテーマは非常に大きすぎて扱いにくいね。
この「一」をヒンドゥー的に捉えるか、それともキリスト教的に外部に絶対者を
設定するか、 そのどちらも俺は好まないから、これに拘るのだがwww
結局は『個』とは何か? 『私』とは何か? と言うことなんだが
これについて直覚による、頷き以外の「言語によるアプローチ」によって
どこまで迫れるか? つまり演繹的思考による可能性を知りたいわけだw
「大海の喩え」は秀逸だと思うが、それも「大海そのもの」についての解説という
ものはない。それを「宇宙そのものが神」みたいに、絶対者を投影して終了させるのは
いかがなものかと、俺は考えてしまうんだがな。
とにかく、「まずは論理的思考によるアプローチ」をしてみないか?
これが俺のお勧めww 「思考を捨てろ」と、よく禅では言われるが
「直覚」に頼リ過ぎることの危険性は、この宗教板にそれこそ、腐るほどいる
「野狐禅バカ」を見てればよくわかるww
「個人的了解、頷き」というものを俺は決して否定しないが、(というより、
寧ろ最終的にはそれのみだと思うが)そこに行き着くまでの過程をすっ飛ばして
「あ!わかった」と安易に『悟っちゃう』危険性は常に意識しておきたいねww
ということで、この「個」と「一」について、また秀逸な解説があったら
よろしくwww
141 :
神も仏も名無しさん :2010/10/16(土) 11:11:51 ID:iA7LM7zr
>>135 「因果関係」と竜樹の「空の思想」とは似て非なるもの。前者は「因」と「果」
という「実体」を前提とする「実体論」。「相互依存性・関係性」という「抽象
的観念」である「空の思想」は、どこからも出てこない。釈迦の「中道」も、
その両端には実体を前提とする実体論である。
釈迦は、「世界を空と『看做せ』」と言っているのだから、「世界の実体性」を
前提とする。彼の「因果関係」は、「業報論」を導き出すための概念。
石飛、水野、片山氏は、小乗信者だから、言うことは同じだろう。
竜樹の「空の思想」は、端的には「万物の相互依存性・関係性」という「抽象
観念」のこと。「抽象観念だから、執着すべき自性はない」と言っているので
ある。
143 :
神も仏も名無しさん :2010/10/16(土) 11:27:12 ID:iA7LM7zr
「大乗の法門はただ凡聖一如、迷悟不二これ肝要なり」(雑談集10)。
>>135 >水野先生や片山先生らはどういう
水野要語p164〜165(89年17刷)、「原始仏教」p136〜140(サーラ叢書4/88年14刷)でも読んどけw
145 :
神も仏も名無しさん :2010/10/16(土) 12:01:45 ID:iA7LM7zr
>>144 既に釈迦に洗脳された小乗教徒が何を言っても無駄w。
「勝義」という言葉は使用しないほうがよい。現実上の根拠は皆無。単なる
妄想。
149 :
神も仏も名無しさん :2010/10/16(土) 13:05:09 ID:yDpudEe9
瞑想体験を伴わないで、観念上の想像をこねくり回して 真実が分かるわけがないでしょ。
>>145 > 既に釈迦に洗脳された小乗教徒が何を言っても無駄w。
質問は、(貴方の使用した言い回しを踏襲すればw)、
「小乗ではどうなんですか?」というものだ。小乗の枠内で参照先が提示されることに何の問題がある?w
ちょうど、「関西でたぬきうどんと言えば、具は何ですか?」という問いのようなものだ。
このとき、「関西のうどんの話は無意味。関東についてのみ語るべき」、と横槍を入れてるようなものだw
自身の滑稽さに気付けませんか?wwwww
> 現実上の根拠は皆無。単なる妄想。
貴方の言う『生命』もねw
【貴方の言う】『生命』の、どこに【現実上の】根拠があるのでしょう?w
貴方は一度もそれを示し得ていませんが?w ( ̄ー ̄)
少し踏み込んで言うならば、
貴方の言う《『生命』の根拠》(及びその『生命』を巡る様々な謂い)もまた、
《【貴方の主張する世界観、スタンス、視線、枠組みに於ける「勝義」】に於いてのこと》なのです。
(これも、構図上全く相似していますw 他人(ひと)のことを言えた義理じゃないわけですwww)
151 :
神も仏も名無しさん :2010/10/16(土) 16:08:46 ID:eBnFp/eR
時間的因果無き人の認識はありえないだろう、のセブンに座布団を二枚。 精子と卵子の結合と出産が刹那である筈もない。 出産と他界は刹那の筈もなかろう。 出産という因があって他界が起きる。 他界という因があって、再生が起きる。 因果の法を説いた釈尊に敬礼します。
152 :
隠居反論せず逃亡ww :2010/10/16(土) 17:57:49 ID:Vfb2ebAr
116 :神も仏も名無しさん:2010/10/13(水) 12:28:10 ID:QlyWf0ut チリ被害者。まず一人目救出成功!!人間の持つあらゆる知恵、知識、技術、労力を 傾注して「生命」を救う。そして、家族の喜び。 で、隠居は、一般論として、PTSDのカウンセリングが必要と言われるが、 人間の精神の「苦」を否定する、妄想生命教一神教の隠居はカウンセリング不要でw 隠居の妄想生命で解決できるんですか?? 妄想生命ばかり唱えてないで、きちんと反論したらどうだww
153 :
神も仏も名無しさん :2010/10/16(土) 19:57:57 ID:v434uxvf
>>151 小乗は、時間的因果関係を認めない限り「業報論」が導き出せないから、
必死で執着しているだけ。しかしそれは竜樹の「空の思想」とは、似て非なる
もの。
>>152 チリの作業員たちは、生命が助かった喜びで、PTSDなどもはや存在しない
ようだな。
>>150 >《【貴方の主張する世界観、スタンス、視線、枠組みに於ける「勝義」】に
>於いてのこと》なのです。
その前提となるのも生命。生命は、「すべて」に先行する。
>>153 >生命は、「すべて」に先行する
だからwwwww
それが、《【貴方流の】(無根拠な)「勝義」》なわけです。
貴方の依拠する、現代科学・医学の知見は、
「生命」の発生を一番に持ってきてはいないと思うんですけどねぇ・・w
>小乗は、・・・・・・似て非なるもの。
時間的因果関係を捨象しているのに、「 >生命は、「すべて」に先行する 」んですかw
御都合主義丸出しですねw
『生命』が全てに先行しているという時間的因果だから、貴方の主張は成立するんじゃないですか?違いますか?w
時間的因果を排除するなら、『生命』が先行することもないと思われますが、その辺どうですか?www
155 :
神も仏も名無しさん :2010/10/16(土) 23:35:55 ID:TLN9+Wwh
>154 「先行する」で理解できなければ、「前提とする」「優越する」ではいかが? 生命とは刹那的である。即死すれば、その瞬間に、すべての認識、思考、宗教は 消滅する。 「水の流れ」を「無常」というが、極小時間を取れば「水」という「変化しない実体」 である。従って、「諸行無常」は実体論に過ぎない。
156 :
前世は一在家 :2010/10/17(日) 06:48:08 ID:79P8fKMA
>>155 >「水の流れ」を「無常」というが、
横レスですが、「ポッタパーダ経」では、乳→牛乳→バター、クリーム、ヨーグルト
と時系列的に「無常」ですが「乳製品」という本質は変わらないという法を釈尊が
説かれたと記憶しております。
輪廻の法では、姿、名前、職業、生まれ等は「無常」でも「本質」は変わらない
ということでしょう。
尚、本件ではセブン氏との議論は尽くされております。
157 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 07:39:05 ID:+BPWdW8v
>>156 縁起・無我・空・仮設に反する完全な誤解。
そういった本質がないというのが、縁起・無我・空・仮設。
そういった本質を想定・追求するのが、アートマンやアルケーといった本質主義・実在論で、
これが有身見・我見・有自性などと言われて仏教で否定される無明の根源。
158 :
前世は一在家 :2010/10/17(日) 08:04:23 ID:79P8fKMA
>>157 >縁起・無我・空・仮設に反する完全な誤解。
>そういった本質がないというのが、縁起・無我・空・仮設。
そうですか。
釈尊は「アートマンがある」とも「アートマンがない(無我)」とも
説かないというのがスタンスではなかったでしょうか。
長部経典の「ポッタパーダ経」を3回読みましたが、「霊魂が死後に
存続するのか否か」を釈尊はご存じだったようですし、釈尊のもとで
修行すれば悟れるとのことです。
知っていても説かない理由は修行のプラスにならないからだそうです。
159 :
前世は一在家 :2010/10/17(日) 08:09:40 ID:79P8fKMA
>>158 >長部経典の「ポッタパーダ経」を3回読みましたが、「霊魂が死後に
存続するのか否か」を釈尊はご存じだったようですし、釈尊のもとで
修行すれば悟れるとのことです。
この経は阿羅漢となって再生することがなくなった、で終わりますので
「死後存続」は暗黙の内に肯定されているでしょう。
160 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 08:20:18 ID:mLAVfj3a
聖書を水平的に読んだりするような 知的機能が「生命」によるものだとすると どうして肉体を創造したときのことを誰も覚えていないのか? 即死する際、実体としての「生命」がまず消失し、それに引きずられる形で 肉体やその機能も失われるのか。 それとも肉体が傷つきそれによって呼吸などがまかなえなくなり、 それに引きずられて「生命」も消えるのか。 認識やらが消える直接の原因は「生命」が消えるからか、 それとも脳が機能停止するからか。
161 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 08:41:20 ID:+BPWdW8v
>>158 >釈尊は「アートマンがある」とも「アートマンがない(無我)」とも
>説かないというのがスタンスではなかったでしょうか。
アートマンの問題は外道の問題なので無いとは明言しなかったが、
もちろん、そんなもの認めない。
>長部経典の「ポッタパーダ経」を3回読みましたが、「霊魂が死後に
>存続するのか否か」を釈尊はご存じだったようですし、釈尊のもとで
>修行すれば悟れるとのことです。
死後、意識が存続するのも縁起であり、無我であり、空であり、仮設ですよ。
なんで分かんないかな? 石飛先生の『龍樹』よんだんでしょ?
意識でも、心相続でも、霊魂でもなんて言ってもいいけど、それは本質でも実体でもないよ。
162 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 08:43:34 ID:+BPWdW8v
>>158 >知っていても説かない理由は修行のプラスにならないからだそうです。
それは如来の死後の話。なんでそれをごっちゃにするかな。
だから、何度もいうように今までの知識は忘れて。
水野先生の『要語』石飛先生の『龍樹』をそれぞれ三回読んで。
163 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 08:46:17 ID:mLAVfj3a
「乳製品」に相当するのは「存在すること」程度のことでは。 牛乳にもバターにもヨーグルトにも「核」のようなものはない。 あったらそんな固形物有りは不良品ということになる。
164 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 09:01:52 ID:+BPWdW8v
>>163 >>156 >横レスですが、「ポッタパーダ経」では、乳→牛乳→バター、クリーム、ヨーグルト
>と時系列的に「無常」ですが「乳製品」という本質は変わらないという法を釈尊が
>説かれたと記憶しております。
これは全くの誤解。名称が仮設であることを説明してるだけ。
「存在すること」みたいな抽象概念の本質を与えることなど釈尊はなさりません。
彼は何か輪廻する実体を仏典の中に見いだしたいので上のようなことを言ってるだけ。
しかも、毎回否定されているのに。
165 :
前世は一在家 :2010/10/17(日) 09:05:02 ID:79P8fKMA
>>162 >それは如来の死後の話。なんでそれをごっちゃにするかな。
確認しましたが「修行完成者」の話でしたね。
普通の人の死後存続は当たり前だったようです。
166 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 09:23:12 ID:+BPWdW8v
>>165 だから、君が見いだしたい輪廻や死後は仏教でもあたりまえのことだけど、
そこに本質や実体を見いだしたいなら、それは無理だって。
しかしながら、仏教は輪廻を否定するとか、仏教はアートマンを認めるとかいう学者がいることも事実。彼らはただの誤解者ですからね。
167 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 09:35:39 ID:mLAVfj3a
仏教で(否定される)いう本質とは? Wikipediaの本質の項目で言えば冒頭の一行目も含まれるの? 一在家はどういう意味で使ったの? 乳製品というカテゴリを霊魂に相当させるのはきついと思うが。
168 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 09:39:36 ID:Owgd889I
一般大衆を救わない、机上の空論に終始している宗教は必要とされていません。
169 :
セブン :2010/10/17(日) 09:47:37 ID:eWQW/3o+
>>156 >尚、本件ではセブン氏との議論は尽くされております
>>165 >確認しましたが
>でしたね
ワシのことをおちょくっとるとしか思えんなw
>>156 も
>>158 も
>>159 も
>>164 も、すべて詳細に反論済みなんだがな・・。
当該経の記述上は絶対にあり得ない読み方である、と。
(それ以上は、読み手の願望を投影した、経を逸脱した、独自の読み解き方でしかないのに・・。)
いいですか。上記4つのレスアンカー、全て誤読及び飛躍です。
貴方の主張は、経典にも依らない単なる貴方の願望の吐露でしかありません。
そのようなことは当該経に於いては一切述べられていません。
過去レスを無視し、嘘をつき、捏造し、自身の願望に沿うように経典の記述をバラし、願望通りに組み立て直す。
姑息で、狡猾で、厚顔無恥で、自省なき醜悪な人格。 御隠居と並んで、悪の権化両巨頭だな。
最低だよ、お前は・・・。
>>155 馬鹿だろwww
その言い換えで済むと思える、その感性が信じられんよw
> 「先行する」で理解できなければ、「前提とする」「優越する」ではいかが?
「前提とする」では何も変わらない。先行していなければ前提にならないからだ。
後発したものならば、前提でなく「導き出されたもの」「既にあるものに依拠するもの」となるからだ。
「優越する」では、後から出現したものであっても構わない。
後発したものが、先行しているものより優越性をもつことはありえる。
貴方の言い換えには何の意味もありません。
> 生命とは刹那的である。
これ自体は、仮説・一説として、意見として、あっても構いませんがw、
そのことと、下記
> 即死すれば、その瞬間に、すべての認識、思考、宗教は消滅する。
の間には、何の「脈絡」も「論理的関係」もありません。文章表記上、連続して記述されているだけです。
また、> 即死すれば、その瞬間に、すべての認識、思考、宗教は消滅する は、
『生命』なぞ持ち出さずとも、現代医学、生物学、生理学の範疇に十分収まります。
> 「水の流れ」を「無常」というが、極小時間を取れば「水」という「変化しない実体」である。
・極小時間なぞ切り出し得ません。そのように(極小であると)見做しているだけです。
また、
・>「水」という「変化しない実体」 って何ですか?w H2Oという分子1個のことですか?
(それはそれで構いませんが・・w 日常レベルではそう見做した方が都合が良いですからw)
ま、だとしても、水の【流れ】の中、それが静止しているということなぞあり得ませんが・・・w
> 従って、「諸行無常」は実体論に過ぎない。
「従って」という言葉を間に挟めば、何でもかんでも繋がった内容になるとでも思ってるんですかねぇ・・・ ┐(´ー`;)┌
この場合の「諸行」には、喜びや悲しみ、怒り、愛、友情等も含まれるんですけどねぇ・・w
171 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 10:21:31 ID:+BPWdW8v
>>170 馬鹿じゃなくてそういう人なんだよ。
労ってやろうよ。
174 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 12:43:50 ID:aHyp55Ft
>>170 馬鹿のなのは、君や釈迦のほう。
どんなに高速で運動しているものでも、極小時間においては、静止している。
超高速度のシャッターで写真を撮れば、運動によるブレは現われない。
古代ギリシャの哲学者ゼノンは「飛ぶ矢は飛ばない」と言ったが、これに「関係性」
という普遍の原理を付け加えたのが竜樹である。
変化している対象の構成を把握するためには、時間を一旦停止することが必要。
さもなければ、常に「別の対象」を観測していることになってしまう。
それを初めてやったのが竜樹であり、釈迦ではない。
従って「諸行無常」の概念から「空の思想」は出てこない。「諸行無常」は、あくまで
極小時間における「固定した実体」を前提とする「実体論」である。
やはり「空の思想」は、「相互依存性・関係性故の無自性」からしか導けない。
175 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 12:50:59 ID:aHyp55Ft
ゼノンの「飛ぶ矢は飛ばない」と竜樹の「去りつつある者は去らない」 とは、似て非なる概念。ゼノンは、単に「時間性の否定」だけ。竜樹は それに「関係性」という前人未到の原理を見出したのである。 竜樹の「相互依存性・関係性」の原理は、万物に、そして未来永劫に 通用する永遠・普遍の真理である。
176 :
真言・念仏・禅は謗法邪宗 :2010/10/17(日) 13:09:51 ID:bhE5zqpR
いまだに「真言・念仏・禅」の邪宗が多い理由 まず、邪義「真言」が、なぜ広まったのか。それは、像法の末に伝教(最澄)が 「法華経最第一」を確立した「後」に、空海(弘法)によって伝来したからである。 つまり、天台・伝教の破折を「まぬかれている」のだ。 伝教(最澄)が南都六宗の邪義を破った後に、空海(弘法)によって伝来した真言が、 後に天台宗の人々が真言に「籠絡されていく落とし穴」となってしまった。 真言は、天台の一念三千の法を「盗み入れて」自宗の極理となし、「真言宗は天台宗と 法理の次元では同じだが、天台宗にない印と真言という事相があるから勝れている」 との邪義を立てた。その策略にかかり、天台宗を真言へとおとしめてしまったのが 比叡山第3代座主の「慈覚(円仁)」である。 伝教が一生の闘争で確立した「法華経最第一」の原則を崩し、「理同事勝」の邪義を唱え、 天台宗の真言密教化に踏み切ってしまった慈覚が、謗法の端緒を開く元凶となった。 さらに、慈覚の弟子「安然」は、禅宗を促し、「恵心」は、念仏を広める役割をした。 高徳・碩学と仰がれた慈覚が、後世の安然や恵心の邪義を引き出す呼び水になったのだ。 法をより深くむしばむ害虫は、他宗ではなく正法を護るべき天台宗の中にいた。 (よって現在の天台宗は、慈覚・安然・恵心の謗法を引継ぐ邪宗・謗法宗である) そして、謗法に毒された人々を救うため、末法悪世の変革のために、次々と起こる 大難・迫害に命がけで戦い勝ち越えてきた、末法における妙法流布の法華経の行者が 日蓮である。謗法の人々も今は法華経を誹謗しているが、亡国・亡身の危機に直面した とき、一切の仏寺・一切の神寺を捨てて、「南無妙法蓮華経」と唱えるようになるだろう。
>>158 >釈尊のもとで修行すれば悟れるとの
これは、
>>177 とも絡んで、
「“そのようなこと”が知り得る(教示される)」ということではない。
《「“そのようなこと”は誤った見解である」ことが知られる》ということであり、
《「“そのようなこと”とは違う、仏法の勝義が知られる(教示される)》ということだ。
*(ポッタパーダ経に於けるこの構図は、梵網経の62見の時と相似する。)
修行のプラスにならないのはその通りだが、
「後で教えてもらえる」なんてことはない。それが、教えの内容として、要として説かれることはない。
当該経の記述をどう読んだとしても、
《「(如来の)死後」や「アートマン」について、「修行が進めば、それらについて知り得る」》
なんてことは一切書かれていない。 「別のことを知ることができる」ということだ。
てめぇは、いつまで、その腐った根性で、捏造・でたらめを吹聴し続けるんだ?
貴様には地獄すら生温い。
>>169 のアンカー、一個ずれてたな・・w (164、すまんw m(_ _)m )
その一行だけ修正しておく。
>
>>156 も
>>158 も
>>159 も
>>165 も、すべて詳細に反論済みなんだがな・・。
>>174 何ですか?この御伽噺はwww
> どんなに・・・・・・現われない。
今時、高校生でもそんな幼稚な考えはしないんじゃないですかねぇ・・w
開いた手の位置に鉛筆を下げてもらい、鉛筆を落としてもらう。
その鉛筆を掴めるかどうか、という遊びをしたことがありませんか?
ヒトの認識の限界を、きちんと受け止めるべきです。
ちなみに、超高速だろうが低速だろうが、写真は過去の像ですよ?w
フィルムが感光した時、既に撮影対象は、シャッターが切られた時点よりも後の状態へ移行しています。
その意味で、【ヒトは過去しか認識できない】のです。
> 変化している対象の構成を把握するためには、時間を一旦停止することが必要。
> さもなければ、常に「別の対象」を観測していることになってしまう。
それが『見做し』であることを理解しましょうw
【切り取るスパンを短いものとし、そのスパンの間は変化していない(或いは無視しても構わない変容である)】
と見做しているだけです。
朝7時、コップに注いだ牛乳を、昼12時に飲んでも問題ありません。
その変化は、5時間のスパンに於いては無視しても構わないからです。(真夏だとヤバイかもしれませんがwww)
しかし、一ヵ月後にその牛乳を飲めば、トイレに駆け込むことになるでしょうw
極小時間でも刹那でも何でもいいですがw、
それは、【切り取ったスパン内での変容が、捨象し得る程度のものである】に過ぎません。
或いは、【観察目的に即した抽出条件に照らして、その変容の程度が捨象し得るものである】にすぎません。
0.1秒間隔で明滅する電灯があったとして、これを0.01秒のスパンで切り取るなら、
静止状態と見做し得て、正確な観察と把握ができたと言い得ます。
しかし、1秒間隔で切り取るなら、正確な観察と把握にはなりません。
これは、どんな事象でも、どれだけスパンの幅を狭くしていっても、避けられないことです。
(カメラの事例など愚の骨頂ですw)
>>174 > それを初めてやったのが竜樹であり、釈迦ではない。
そうなんですか?w
(龍樹について言及は避けますがw)、釈尊(初期仏教)に於いては、
寧ろ「静止したものと見做す」ことへの警鐘であると言えるんですけどね・・w
> 従って「諸行無常」の概念から「空の思想」は出てこない。
またですかw 「>従って」前後の文章に、文脈・論理的関係はありませんが?www
また、(大乗の)「空」は「無常なること」の別称でもあるんですけどねぇ・・w
> 「諸行無常」は、あくまで極小時間における「固定した実体」を前提とする「実体論」である。
上で触れたように、寧ろ逆でしょうw
『「静止し、固定した実体」を前提とするな』というのが「諸行無常」なのですからw
> やはり「空の思想」は、「相互依存性・関係性故の無自性」からしか導けない。
「>からしか導けない」のかどうかは知りませんがw、
少なくとも、(貴方の言う)『生命』の根源性も同時に否定される
ということに早く気付きましょうねwww
隠居と在家は、壊れたレコードの如きリフレインだから、 (今のところは)、これでほぼ全てレスし終わったかな・・・。 ポッタパーダURL集は、作ってはあったが、まだ書き込んでなかったんだなw ・ポッタパーダが異教徒だから高弟用の教えが説かれなかった とか ・刹那で切り取れば静止している とかも 昔から気になってたが、この機会に一言二言触れておいた。 あぁ、あと ・「これあればかれあり」の「これ」や「かれ」は実体を指す が残ってんなぁ・・。 面倒臭ぇなぁ・・w 反論へ向けた導入レスもしてあるのに、スルーしたまんまだもんなぁ・・。 (隠居がスルーしてる案件がどれくらいの数になってるか、もはや見当もつかんw) レスしたかと思えば、そのレスの主題、主文とは関係ない1・2行についてだけ。 一番肝心な部分についてはいつもスルー。 無関係なレスを返して、論点から逃避する。 相手がそれに反応して、話題がその流れにシフトすれば、ここぞとばかりにレスを重ねる。 そうして、自分には瑕疵なぞ無かったかの如き鉄面皮。 自分がスルーしているだけなのに、まるで相手が反応・反論していないかのような詰問調。 なんという傲岸不遜。なんという無礼の極み。 そして、ほとぼり冷めれば、また同じ発言を繰り返す。これまでの反論を無かったことにして・・。 なんという、姑息で恥知らずな態度・・・。 んとに、二人とも腐りきっとるな・・・。 orz 文字通り、気怠い休日だったよw 今日は・・ (^^;
183 :
さすが妄想生命教隠居神w :2010/10/17(日) 17:58:23 ID:MbGXtoUk
153 :神も仏も名無しさん:2010/10/16(土) 19:57:57 ID:v434uxvf
>>152 チリの作業員たちは、生命が助かった喜びで、PTSDなどもはや存在しない
ようだな。
さすが、精神科医よりも、隠居の妄想生命教解釈で解決てかw
さすが一神教生命教妄想丸出しだわw
184 :
前世は一在家 :2010/10/17(日) 18:52:59 ID:79P8fKMA
>>178 セブン氏(仮設)
>修行のプラスにならないのはその通りだが、
>「後で教えてもらえる」なんてことはない。それが、教えの内容として、要として説かれることはない。
>当該経の記述をどう読んだとしても、
>《「(如来の)死後」や「アートマン」について、「修行が進めば、それらについて知り得る」》
>なんてことは一切書かれていない。 「別のことを知ることができる」ということだ。
貴兄提示の過去ログが読めないので済みませんが、「修行が進めば、それらについて知り得る」
という箇所はありませんでしたか?
ポッタパーダ経24「あなたは、異教の師によっているため、『心理作用は人のアートマンである』
とか、『心理作用とアートマンは異なる』ということを知り難いのです。」と手元訳にあります。
この文章から
>>159 釈尊のもとで修行すれば悟れるとのことです。
と解釈した訳ですが、誤訳や誤解という貴兄の意見であれば分かりますが、嘘をつき、捏造し、
姑息で、狡猾で、。。。は言い過ぎではないかと思います。
185 :
前世は一在家 :2010/10/17(日) 19:15:50 ID:79P8fKMA
>>184 ポッタパーダ経24を再読して分かったことですが、
「霊魂と身体は同じものか、異なるものか」
「修行完成者は死後存在するのか、否か」
これらの問いに対して釈尊は黙して答えませんでした。
「人の霊魂は死後存在するのか、否か」という普通の問いはこの経にはなく
よって釈尊が黙して答えないというシーンもなかったことを確認しました。
>>166 >だから、君が見いだしたい輪廻や死後は仏教でもあたりまえのことだけど、
>そこに本質や実体を見いだしたいなら、それは無理だって。
「人格の主体として業を保持している霊魂は三世を通じて存在するもの
として、(仏教は)これを認めている。それは不生不滅ではなく、輪廻の
主体として、業や経験に従って常に変化しつつ連続する有為法である。」
(「仏教用語の基礎知識」水野著、P164)
所謂、阿頼耶識とのことですね。
186 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 20:06:46 ID:+BPWdW8v
>>185 >これらの問いに対して釈尊は黙して答えませんでした。
そうだよ。
>「人の霊魂は死後存在するのか、否か」という普通の問いはこの経にはなく
>よって釈尊が黙して答えないというシーンもなかったことを確認しました。
仮設された識=霊魂はあると仰られている。
だが、それはアーラヤ識と言ってもいいけど、アーラヤ識も仮設であり、
実在でも実体でも本質ではないよ。
187 :
1/2 :2010/10/17(日) 21:02:04 ID:eWQW/3o+
>>184 > という箇所はありませんでしたか?
「リンク先の引用中に」ということでなく「当該経全体」を見ても、無い。
> ポッタパーダ経24「あなたは、異教の師によっているため、『心理作用は人のアートマンである』
> とか、『心理作用とアートマンは異なる』ということを知り難いのです。」と手元訳にあります。
当該箇所の片山訳。(底本がビルマ第6結集版(以下「Be6」)なので、24節じゃなく15節。)
『「しかし、尊師よ、〈想は人の我である〉とか、〈想と我は異なる〉ということを、私は知ることができましょうか」
ポッタパーダよ、そなたは、**異なる見解によっているため、異なる信仰によっているため、
異なる目的によっているため、異教の実践によっているため、異教の師によっているため、
〈想は人の我である〉とか、〈想と我は異なる〉ということを知り難い**のです」』
(当該経はこの後、『「尊師よ、もし私が、**〜**というのでありますならば――
それでは尊師よ、世界は常住でありましょうか。これのみが真実であり、他は虚妄でしょうか」』
と、**〜**をリピートして、無記に関する記述が続く。 今は関係ないので措く。)
上記引用の前段に於いて、
《「我の獲得」とはどういうものか》
《「想」と「我」が異なること、及びその理由として、「想」が所縁によって生滅するものであること》
が述べられている。
【《「我」が、どういうものであるか(通常、どのように考えられているか)》は、まだ述べられていない】。
つまり、一段前の件(くだり)を承ければ、仮に貴方のように
【“裏の文意(→異教の徒でなければ知り得る)”を想定し、比丘として出家し、行を修めて知り得るとしても】、
それは
《「我の獲得」とはどういうことか》《「想」が(人の)「我」でないこと、「想」と「我」が異なること》
が知られる、ということだ。
当該箇所の引用文中の【「知り難い」と言われる事柄を知り得る】ということだ。
188 :
2/2 :2010/10/17(日) 21:04:00 ID:eWQW/3o+
>>184 そして、さらにその前段は、この一連の話が説かれるきっかけでもある、仏教外の修行者達の対話が記されている。
(面倒なので略記すればw)、
『「想の滅」は、いったいどのようにして起こるのだろうか?』
或る者は『想は無因無縁にして生起し、また滅す。生起する時、(人は)有想者になり、滅する時、無想者になる』、と。
或る者は『想は人の我である。それが(その人に)近付く時、有想者になり、離れる時、無想者になる』、と。
或る者は『大神力ある行者が、想を移入した時、その人は有想者になり、移出する時、無想者になる』、と。
どれも、「想」と「我」の間に大きな違いを見ず、寧ろ、同様のものとして扱っている。
だから、「想が所縁によって生滅するものであること。(故に「我」ではないこと)」が次の段で触れられる。
そして、チッタ登場後、外教の、我に関する様々な考察を踏まえ、否定し、(梵網経(Be6版)75・76節に同じ)、
再度「我の獲得」が述べられ、それらもまた捨てられるべきと言われる。
(「肉体」としてであろうが、「想」(≒意識)としてであろうが、何であろうと)、
【「我」についての考察自体が、涅槃に資さないものである】、と。
はっきりと「我(アートマン)」については否定され、捨てられるべき見解とされているのに、
どうして、後から教授されるような秘密の教えとなろうか・・。
50歩譲って、比丘となり梵行を行じ、後に知り得る(頷く)ことがあったとしても、
それは【「我がある」・「○○が我である」・「我は永遠不変である」等は誤った見解である】
ということが知り得るということだ。
併せて経中に言われる。 如来は、
《(上記のような「無記」に関することや「我」に関することといった)【「不確かなこと」は「不確かなこと」として】、
(「苦の滅」に資する)【「確かなこと」は「確かなこと」として】、説くのである、と。(具体的には「四諦」)》
だから、脈絡無視の一文抽出でなく、全体を俯瞰して読みなさいと言うのです。
189 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 21:16:16 ID:NM3fTlJl
>>180 論理的には、「諸行無常」という概念そのものが、「静止した、固定的実体」の概念
を前提としているということだよ。竜樹流に言えば、「動あるとき、静もある。相対
的ならざるものはない」。釈迦は、「去りつつある者は去る」という命題の論理矛盾
に思い至ってはいなかった。
釈迦の思考からは、いかなる「空の思想」も生じ得ない。「世界を空と看做せ」と
言った時、既に「世界の実体性」を前提としている。初めから「空」であれば、
わざわざ「看做す」必要はなかろう。
「生命の根源性の否定」も生命の機能だから、否定すればするほど、「生命の根源性」
を確証していることになる。
しかし、184最後3行を読んで胸がチクっとするようじゃ、ワシもまだまだだな・・w
ま、いつも通り、これまでの数々の蛮行を承けての評だよ。
>>184 最後3行
191 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 21:49:17 ID:NM3fTlJl
>>187 釈迦の単なる異教排斥と自分の宗教への勧誘ですかw。
ポッタパーダが釈迦に対して、「では、尊師のその教え(想)は、一体どこから
出てきたのですか」と切り返してやれば、釈迦は一発で眼白黒。
釈迦の教えもあなたの書き込みも、いずれも「強力な我の表現」。
我(生命)を以って、我(生命)を否定することはできない。釈迦の「無我」
は無理・無理w。
192 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 21:51:10 ID:+BPWdW8v
>>189 >論理的には、「諸行無常」という概念そのものが、「静止した、固定的実体」の概念
>を前提としているということだよ。竜樹流に言えば、「動あるとき、静もある。相対
>的ならざるものはない」。釈迦は、「去りつつある者は去る」という命題の論理矛盾
>に思い至ってはいなかった。
ライプニッツの問いに象徴される実在論・本質主義の形而上学に基づく西洋論理学的には、そういう還元主義的思考を取ってきたんだが、
現代物理学の観測がそういった形而上学的前提が誤りだと指摘されて以来、
西洋思想は蜂の巣を突いたような百家争論状態。
ところが、仏教、特に釈尊、龍樹菩薩、三論宗、天台宗、華厳宗、真言宗あたりは、
当然のように縁起・空・仮設でやってきたので、還元主義は間違いで、
基体・アートマン・アルケーなどと呼ばれるものは無く空っぽの空性であるとしている。
それこそが一味平等の法界に他ならず、それはアートマンではありえない。
193 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 22:04:07 ID:NM3fTlJl
>>192 単に「無」「空っぽ」「空」というばかりでは、説得力は皆無。やはり、竜樹菩薩
以下の「関係性」の概念を持ってこなければ、「空の思想」は完成しない。
釈迦の「因果関係」は「実体論」そのもの。「業報論」を導き出すための前提としか
考えられない。
194 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 22:08:56 ID:+BPWdW8v
>>191 そんな甘いものじゃないよ。釈尊は仏教以外の世界の思想で釈尊に迫るものは全くない。
その答えも経典の中にあるし、概説書にもあるぞ。
>>193 早く、ネットから縁切って療養した方がいいぞ。
それと自分が相当、無能だと自覚した方がいい。
195 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 22:21:45 ID:NM3fTlJl
>>194 >仏教以外の世界の思想で釈尊に迫るものは全くない。
それはあなたが釈迦によって洗脳されているからとは思いませんか。
彼の論理矛盾は、無数にあります。竜樹はそれを的確に批判できている。
「自灯明・法灯明」の教えは、一体何のためですか。それとも釈迦は、
「自分で考えよ。しかし俺の教えには従え」などというアホなことを
言ったのですか。
196 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 22:24:22 ID:NM3fTlJl
>>194 釈迦はダニヤを洗脳した超カルト教祖であることを、忘れないでね。
197 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 22:32:26 ID:+BPWdW8v
198 :
前世は一在家 :2010/10/18(月) 00:26:20 ID:4KUaYzyr
>>166 非セブン氏(仮設)
>しかしながら、仏教は輪廻を否定するとか、仏教はアートマンを認めるとかいう学者がいる
>ことも事実。彼らはただの誤解者ですからね。
文意から読みますと、仏教は輪廻を否定してはいないが、アートマンは認めて
いない、というのが貴兄の見解になるでしょうか。
「霊魂は不生不滅ではなく、輪廻の主体として、業や経験に従って常に変化しつつ
連続する有為法」という水野先生の解釈とも重ねますと、
「無常のありてある者」の仮説ということでしょうか、イメージしずらいですがね。
200 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 00:51:15 ID:+zKEvkSU
>197 >君は何も分かってないよ それが「すべてのカルト信者」の口癖。「自分が何か分かった積りにさせられて いる」だけw。 釈迦仏教は、大乗仏教によって「換骨奪胎」された残りかす。釈迦の精神病から 離脱したもの。何時までも残りかすや精神病の教祖に執着するのは見苦しい。
201 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 01:49:40 ID:SG6qq6lf
>>191 異議あり。
「スレイヤーズ」というアニメ化されたファンタジー小説を喩えに使います。
小説に出てくる魔族は、精神的な生き物なんだけれども、
自分も含めた生きとし生けるものすべての滅びを目指している生き物なんです。
ブッダもこの魔族に似ている。
悟りを得た者とは、生命に執着することが悩み苦しみの原因だと気付いた生命体です。
では、なぜブッダは悟ったあともすぐ自殺せずに生きながらえているのか?
それは、教えてくれと頼みにくる人がいるから、
それに答えてあげるために死ぬのを延期してるだけ、なんだそうです。
202 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 01:56:43 ID:+zKEvkSU
>>201 仏陀は「生命に執着するのが苦の原因」だから、「自殺」を教えるのか。
確かに魔族だな。現代では「自殺教唆」という犯罪だ。
馬鹿馬鹿しいな。 単なる麻酔の無い時代の安楽死だろ。
204 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 06:11:22 ID:KKzGHBT1
>>200 君の場合は誤解を丁寧に指摘されても、なにもなかったように繰り返すだけだから、何を言っても無駄。
サムサーラから始まって、自灯明、関係性など全て誤解であることが指摘されているのにずっと強情に言い続けているだけ。
だから、一番はスル〜するのが正しい。
205 :
前世は一在家 :2010/10/18(月) 06:39:04 ID:yrFlP1Ux
>>202 >仏陀は「生命に執着するのが苦の原因」だから、「自殺」を教えるのか。
原始仏教を読んでの認識ですが、「生命に執着」というよりも
「名称や見解に執着」するのが苦の原因かと思料します。
若くて健康なアスリートでも、苦はあるからです。
また学生の自殺は「生きることに執着しない」から、または心が「空」
空っぽだからでしょうか。
206 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 07:49:30 ID:SG6qq6lf
>>202 そういうことを言いたいのではなくて、
生命が生命でありながら生命の価値を否定することは、可能でしょう、と言いたかったのです。
ブッダは悟ったあとの人生を説法にささげた。
それは、人々から説法や指導を頼まれ続けたからです。
つまり、他人のために自殺せず生きながらえたのです。
207 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 09:45:28 ID:PtzZ+XNt
208 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 10:10:07 ID:s4JLWFW9
>>195 他
>>182 レスしたかと思えば、そのレスの主題、主文とは関係ない1・2行についてだけ。
一番肝心な部分についてはいつもスルー。
無関係なレスを返して、論点から逃避する。
相手がそれに反応して、話題がその流れにシフトすれば、ここぞとばかりにレスを重ねる。
そうして、自分には瑕疵なぞ無かったかの如き鉄面皮。
自分がスルーしているだけなのに、まるで相手が反応・反論していないかのような詰問調。
なんという傲岸不遜。なんという無礼の極み。
そして、ほとぼり冷めれば、また同じ発言を繰り返す。これまでの反論を無かったことにして・・。
なんという、姑息で恥知らずな態度・・・。
>>189 >>179
209 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 10:18:31 ID:ip5JwqOT
>>206 生命を以って生命を否定するのは、少なくとも矛盾だといっているの
です。
自殺者も、「生きたいが」苦しくて生きられないから、自殺するのです。
鬱病患者の自殺率は15%に達するといわれています。
「一切皆苦」という鬱病に悩まされた釈迦が、生きながらえて一体何を
説いたのですか。
>>204 超カルト宗教である釈迦仏教に嵌ったあなたが、何を言っても外部者には
「理解不能」ですよ。「理解した」と思った瞬間が、洗脳された時点です。
「誤解」「誤解」といわれるが、あなたは、「日本の仏教」である大乗を
どれほど理解できているのですか。岩波仏教辞典くらいは読んで理解して
いるのですか。テラワダ信者である師の影響で洗脳され、小乗ばかりやってる
ような印象を受けますね。
「日本の仏教徒」を自称するのなら、それでは「片手落ち」だとは思わない
のですか。
日本の仏教を議論しているのに、小乗信者ばかりが群がってくるのは、
異常だとしかいい様がありませんよ。道元について何故語らない、語れない
のですか。
210 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 10:35:17 ID:ip5JwqOT
>>206 >原始仏教を読んでの認識ですが、「生命に執着」というよりも
>「名称や見解に執着」するのが苦の原因かと思料します。
その苦は、専ら原始仏教から人為的に植え付けられた「苦」ではありませんか。
「一切皆苦」という命題がそもそもの誤り。それでは鬱病患者の心理にしか
過ぎません。正しくは「一切苦楽」というべきでしょう。これが、圧倒的
多数の生活者たちが自覚している「真実」です。原始仏教による「苦」も
キリスト教による「罪概念」も、いずれも「脅迫と甘言」により信者を
「獲得」しようとする、極めて悪質な信者勧誘手段です。
あなたは法華経も読まれているようだから、例えば、原始仏教と法華経との
本質的相違についても語ったらいかがですか。
釈迦が言ったから、仏典に書いてあるから正しい、などということは、
「論理的にはど」こからも出てきません。キリスト教徒が、「イエス(パウロ)
が言っているから、聖書に書いてあるから正しい」と言っているのと
全く同じです。いずれも、教祖・開祖と教典盲信の思考停止による
カルトです。
211 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 10:40:06 ID:ip5JwqOT
>>208 原始仏教カルトのあなたと論点が合致したら、こちらも洗脳された
ことになりますので、警戒しなかればなりません。
あなたは、カルトの論理が一般に理解されるとでも思っているのですか。
212 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 10:43:40 ID:KKzGHBT1
やっぱ会話にならんは。早くネット止めて静養した方がいいよ。
213 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 10:52:10 ID:s4JLWFW9
>>210 >>211 >>182 レスしたかと思えば、そのレスの主題、主文とは関係ない1・2行についてだけ。
【一番肝心な部分についてはいつもスルー】。
無関係なレスを返して、【論点から逃避】する。
相手がそれに反応して、話題がその流れにシフトすれば、ここぞとばかりにレスを重ねる。
そうして、自分には瑕疵なぞ無かったかの如き鉄面皮。
【自分がスルーしているだけなのに、まるで相手が反応・反論していないかのような】詰問調。
なんという傲岸不遜。なんという無礼の極み。
そして、【ほとぼり冷めれば、また同じ発言を繰り返す】。【これまでの反論を無かったことに】して・・。
なんという、姑息で恥知らずな態度・・・。
214 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 11:01:07 ID:ip5JwqOT
>>212 あなたがたカルト信者こそ、静養ではなく「治療」が必要なのではありませんか。
釈迦の鬱病は、現代医学では専ら治療の対象に過ぎません。多数の抗うつ薬が
次々に開発され、使用されていますよ。単に、脳内神経伝達物質の異常を是正すれば
治るか、少なくともかなり軽快します。薬を止めると、明らかに悪化します。釈迦の
時代に精神医学がなかったことは、彼にとって不幸なことでした。
宗教やる前に、まず精神医学を勉強するのが、科学が宗教の奇跡も及ばない
驚異的発達を遂げた現代人のなすべきことです。いつまでも、精神病者に執着
すべきではありません。精神病は感染します(感応精神病)。精神の健康のため
には、「係り合わない」ことが最も大切です。
>>189 ほらほらw
>>179 を完全スルーwww
>>180 は
>>179 を承けてるんですがねぇ・・w 実に見事なスルースキルですなwww
> 論理的には、
> 「諸行無常」という概念そのものが、「静止した、固定的実体」の概念を前提としている
ハイ?(゚∀゚) いったい、どの辺が論理的なんでしょう?w
>>174 の 『 >「諸行無常」は、あくまで極小時間における「固定した実体」を前提とする「実体論」である 』
と同じ文章ですが、何か目に見えない真新しい説明でも加わってるんでしょうか?w
(「論理的に」というフレーズを付加すれば、その文章が論理的になるとでも思ってるんでしょうかね?w)
1「高速度カメラで撮影すれば判る通り、静止状態がある(→実体を把捉できる)」
2「その静止状態(実体t1)と静止状態(実体t2)の間を変化として捉え、無常と評している」
3「だから、静止状態(≒固定的実体)を前提としている」
こういったことですか? (そもそも【1が怪しい】というのに?www)
スパンの切り取りは、ヒトの認識に於いて必須です。
しかし、そのことは、『(絶対的)静止状態』(≒固定的実体)があることを【担保しません】。
【切り取ったスパンの中で、無変化に見えるから】【静止している(無変化である)と】【見做す】のです。
(牛乳や電灯の例を出したでしょう?w スパンの長短ではないのです。)
で、そうした“見做し”が日常の便宜上(手段・方便)を超えて、絶対的なものと執されることが、
仏教では誡められているわけです。
「変化しているものを変化していない(静止状態、固定的実体)と見る」、或いは「変化しないで欲しいと望む」、
これらが誤った見解とされるわけです。(まさに貴方のことですよwww)
そして、現代科学等に於いても、そのような絶対的静止状態は無いとされているのではありませんか?w
再度言いましょう。高速度カメラの事例なぞ愚の骨頂ですw
「絶対的静止状態なぞあり得ない」から(→固定的実体なぞ無いから)「無常」なのです。
216 :
2/6 :2010/10/18(月) 15:42:00 ID:s4JLWFW9
>>189 > 竜樹流に言えば、「動あるとき、静もある。相対的ならざるものはない」。
だから何?w
それは「【概念上の】【相対的関係】」であり、実際に《「動」ある時、同時に「静」がある》わけではありませんw
必ずどちらか一方です。(だから去来品なんじゃないですか?w)
*(これは、ヒトの認識(≒思考に上る事柄)についても同様です。)
**(だから、無限遡及する必要がないのです。)←誰かさん用w
> 釈迦は、「去りつつある者は去る」という命題の論理矛盾に思い至ってはいなかった。
お釈迦さんは、そんなこと仰っていませんが?w また、中論の偈としても不正確に過ぎませんか?w
> 釈迦の思考からは、いかなる「空の思想」も生じ得ない。
なぜでしょう?w 仏典のどこを見てもリンクしていますが?w
> 「世界を空と看做せ」と言った時、既に「世界の実体性」を前提としている。
ハイ?(゚∀゚)
「見做す」ということが、「実態と違うように見なさい」という意味だとお考えで?w
「世界は実体であるけれども、実体でないように見なさい」という意味だとお考えで?w
全く逆ですwww (そのフレーズをどこから持ってきたか知りませんがwww)
「仏教以外の見解が、世界を実体と見ているから」、「そうではなく、実体ではないと見なさい」ということです。
「これまでの見方を変えなさい」という意味だから、そのように言われるわけです。
「正しく見做せ」(→諸相を如実に見なさい)ということであり、「実態と違う見方をするな」ということですが、
何か問題でも?www (歌舞伎の書割の話を蒸し返しますか?w)
どちらも、諸法の相に対する「見做し」であるわけですが、そのうちの一方を採りなさい、というわけです。
「〜であると見る」の「〜であると」の部分が大事なわけです。
217 :
3/6 :2010/10/18(月) 15:44:10 ID:s4JLWFW9
>>189 > 初めから「空」であれば、わざわざ「看做す」必要はなかろう。
いやいやいやいやw
上で述べたように、「空」なることに気付いていないから、「気付きなさい」と言われるわけで、
見做さないなら、いつまでたっても「世界は実体である」と見続ける、【誤った見解のまま】ということになるわけです。
この場合の「見做す」は、それまでの見方と違う視線だから、
或いはまた、日常生活を送る上で必要な視線として(世俗諦としてw)一方を許容する為に、
【私は】敢えてそう表現することが多いわけです。
(また、上でも少し触れましたが、「空と見做しなさい」というフレーズは、原始仏典の中にありましたっけねぇ・・w)
仏典中に「見做す」という使われ方はまず無いでしょう。全て「見る」の筈です。(これは大乗経典でも同じこと。)(・・・少し憶測w)
*(「見做す」のニュアンスを出す時は、「○○として(の如く)見る」という表現となるでしょう。)(・・・少し憶測w)
> 「生命の根源性の否定」も生命の機能だから、否定すればするほど、「生命の根源性」
> を確証していることになる。
いきなり何を言い出してるんですか?w
貴方の言う《「時間的因果・先後」を排除した「相対的関係性」(→=等価性?)、「相互依存の関係」》に於いては、
『根源なるものの存在』は到底認められないでしょう?と言っているのです。
アナタ ニホンゴ ワカリマスカ?w
>>191 > 【単なる】異教排斥
ちゃんと、【なぜ】誤った見解であるかも述べられているんですけどねぇ・・w
読んでない貴方に何が言えると言うんでしょうかねぇ・・・w
> 自分の宗教への勧誘ですかw。
その通りですよ。 問われて答えているだけですけどねw
併せて、「このように実践すれば、こうなる」ということが付言されているだけです。
(デパートの試食みたいなもんですなw 納得して、望むならば来なさい、とw)
218 :
4/6 :2010/10/18(月) 16:54:41 ID:fECTOBH/
>>191 > ポッタパーダが釈迦に対して、「では、尊師のその教え(想)は、一体どこから
> 出てきたのですか」と切り返してやれば、釈迦は一発で眼白黒。
『「五蘊十二処」』『「根と境の和合」及び「接触を縁として」というフレーズ』を理解してない貴方なら
当然の考え方でしょうなぁ・・w (勿論、ここでの「接触」は、物と物の接触だけではありませんよ?www)
丸括弧書きでの「その教え=想」からして既に頓珍漢なわけですがw、
百歩譲っても、(ポッタパーダによる問いかけという)縁によって生じているに決まってるじゃないですかw
> 釈迦の教えもあなたの書き込みも、いずれも「強力な我の表現」。
私の書き込みが我執に依っていることを否定はしませんがwww、
ここで貴方の言う「我」は(法を説いているのは)、五蘊和合の自己ですよw
貴方は、この辺の分類が苦手なようですね。
(「存在」・「ある」という語のときも、その在り様のバリエーションに無頓着でしたね。
「あれ」や「これ」や「かれ」という代名詞の時も、その指示対象の幅に無頓着でしたね。)
> 我(生命)を以って、我(生命)を否定することはできない。釈迦の「無我」は無理・無理w。
「我」=『生命』(或いは「生命」)なんてのは、貴方だけのオリジナル語義ですよw
百歩譲って、(語源的に)「我(アートマン)」が生命的なコアを指すとしても、
「そんなものは無い。全ては因により縁により生じ滅している」、
その中での「五蘊和合の存在が自己である」と言われるわけさ。
ここで、同じ「我 attan 」という語だからといっても、因により縁により生じている、
所縁によって五蘊として顕現している、諸法の一相に過ぎないわけですw
219 :
5/6 :2010/10/18(月) 16:55:43 ID:fECTOBH/
220 :
6/6 :2010/10/18(月) 16:57:06 ID:fECTOBH/
>>195 > 「自灯明・法灯明」の教えは、一体何のためですか。
何のためでしょうねぇw
少なくとも、「妄想を基準とするな」ということではあるでしょうねぇwwwww
> それとも釈迦は、「自分で考えよ。しかし俺の教えには従え」などというアホなことを言ったのですか。
「 >【俺の】教え 」ではなく、「諸法の在り様」と「苦の滅への道標」なんですけどねぇ・・w
「自分で考える」という意味では無いんですけどねぇ・・w
百歩譲ってそうだとしても、
「言われたまま、聞いたまま、教わったままでなく、【法と照らし合わせて】吟味しなさい」
ということなんですけどねぇ・・w 大般涅槃経には「四大教法」なんてのもあるんですけどねぇ・・w
>>196 > 釈迦はダニヤを洗脳した超カルト教祖であることを、忘れないでね。
仏教が聖と俗のダブルスタンダードであることが、まだ理解できないようですね・・。
漫画家を志してもいいし、医者を志してもいいんですよ。
企業の営業を志してもいいし、役者を志してもいいんですよ。
ただ、それぞれ、それなりのスキル取得が必須なわけです。
その為に離れねばならない事象、離れねばならない見解・価値観、
近付かねばならない事象、身に付けねばならない見解・価値観があるわけです。
ちなみに、医者であるのに、人体の構造・仕組みを知らないとか、
患者がどういう心理で受診に来ているかを慮れず、自分の都合しか考えないような在り方が現代日本仏教なわけですw
(勿論、そうでない面があることも重々承知しておりますよw)
また、漫画家になるのに、人体に関する詳細な知識は必須ではありません。(手塚治虫という特殊な例もありますが・・w)
医者を目指すなら、そのために押さえねばならないこと、自戒せねばならないことがあるわけです。
視線の取り方に違いがでるわけです。 で、この流れの中の構図で言えば、仏教は
「医者になる為には(医者である為には)こういうことが必要です、こういうことに気をつけなさい」
ということが説かれており、漫画家になる為の(漫画家である為の)教えではないということですw
(勿論、医者の価値観・視線をもって漫画を描くこともアリですw)
221 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 19:38:22 ID:ic+q5LIL
個人的な感覚としては、仏教は、キリスト教などと違って、 「信じる」宗教ではなく、「理解する」宗教だと思います。 盲目的に神を信じるのではなく、自ら真理を理解し悟る。 だからこそ、すべての人に仏性があると言うのでは?
222 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 20:39:05 ID:l7XTt8Ye
私には仏性はありません だから日本では村八分になっています
理解する宗教…うん、例えばキリスト教でもアメリカでは複数の宗派を集めた「異宗派教会」がある。「信じないと地獄へ墜ちる」なんて誰も信じていない
日本の大乗仏教は世界仏教の精華だよ…なぜ、例えば法華経に語られる物語や比喩を読み解き、なぜそのような事実なり、伝承、その時代を生きた人々の下した結論が語られたか、意外と真剣に考えてるもの…是非はともかく、まず理解することが大事なんだ
225 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 22:11:00 ID:ic+q5LIL
>>222 それは違います。
あなたもきちんと考え、理解し、真理を悟る力をお持ちです。
ただ悟るまでの時間がどれくらいかかるか、それだけが人々の資質によって差があるだけです。
226 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 22:29:21 ID:wgESPf3D
>セブン氏へ 膨大なレス多謝。気付いたところからコメントします。 1 釈迦が果たしてあなたほど考えているかは不明だが、彼の思想に、その鬱病 の症状から生じる部分があれば、それは除去しなければならない。自然科学に おいては、厳然として実在する自然と人間という確固たる判断基準がある。 彼の思想が基盤とする「確固たる判断基準(正邪、正誤の判断基準)」は一体 何か。それがなければ、単なる妄想に過ぎない。竜樹は「世間の一切の慣習」を 無条件の前提としている。釈迦の思想に、「世間の一切の慣習を破壊する」要素 はないか。 2 「相対性」は概念であるが、それは「もろもろの存在」に適用しうる。釈迦には この意味での「相対性」があるか。「因果関係」は「相対性」とは似て非なるもの。 3 釈迦は、己の教えの「根源性」を何に認めているのか。彼の生物的生命がなければ、 いかなる教えも不可能であることには、思い至っているのか。 4 「聖俗のダブルスタンダード」が仏教であると言われるが、「聖」の根拠は何か。 同じ人間を勝手に「聖」と「俗」に区別するのは、「人間差別」ではないか。医学は、 人体という確固たる判断基準があるのだから、医者との比較は当てはまらない。
227 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 22:31:17 ID:wgESPf3D
>>226 の続き
5 「五蘊の仮和合」などというが、五蘊とは、人間の生命の維持に不可欠な、認識・
感情・思考のことである。その仮和合している五蘊の一つ一つは一体どこから生じて
いると、彼は考えているのか。和合させている原動力は何か。五蘊を統合する主体が
なければ、五蘊はばらばらのままであり、人間は崩壊する。「精神の分裂」である。
統合失調症(精神分裂病)とは、この統合力が欠如した状態である。
6 デパートでの試食の例を引かれたが、「まず食べて(やって)みなさい」と誘って
洗脳に持ち込むのが、カルトの常套手段である。
7 釈迦の最大の論理矛盾は「一切皆苦」であろう。「一切苦楽」が、人生における
真実である。
8 「法灯明」における「法」を「釈迦の教え」と解している者がいる。これでは、
「自灯明・法灯明」は全く矛盾した命題となってしまう。
9 仏教に、「根本分裂」が起こらざるを得なかった理由は、どう考えるか。「小乗」
と「大乗」との根本的相違は何か。「この二つは異なった宗教」「大乗は小乗を換骨
奪胎した」という、奈良氏や三枝氏の指摘にどう反論できるか。
228 :
1/3 :2010/10/19(火) 00:32:04 ID:tIVO6O0b
>>226-227 あの6レスに対するダイレクトな返答ではないが、 「コメント」 とあるので妥協しましょう。
直接繋がっていることが明らかな文も幾つかありますし。
(尤も、あの6レスの中だけでも、全く触れていない重要案件も幾つか残ってますがね・・w
他にも沢山あるんですよ?貴方の主張の根幹に関わるような案件が・・。
まあいいでしょう。流れの中で触れることになるかもしれませんし。)
貴方が、
「何も知らない」&「大きな誤解・誤読の上に自分の妄想を打ち立てている」
というのが明らかになる,(まとまった形の)貴重なレスですw
(また膨大な文章量になりそうだが・・w orz )、一言一句丁寧に否定して差し上げましょう。
ちなみに、貴方が触れていない件として、
《「刹那」及び「静止状態を把捉し得る」という錯覚》、《それによる「実体」の想定・設定》、
《そのような「ヒトの認識」の限界、癖》、
《因果なき相対性の中、『生命』は如何にして根源足り得、先行し得るのか》、
《「代名詞の指示対象は実体」という主張への反論序》、
《相対性・相互依存性は、同時性を含むのか、または同時性をしか持たないのか》、
と、こんな感じでしょうかね。 返答、気長に待ってますよw
さて、馬鹿馬鹿しいんで、私も(隠居宜しく)スルーしてましたがw、流れのついでです。
この226・227及び今後の応答に関わる部分でもあるので(前座的意味合いも兼ねてw)、
掻い摘む形で、一レス拾い上げてみましょう。
追加コメントが生じた時は、逐次書き込んどいてくださいw
ゆっくり作文しますからw
229 :
2/3 :2010/10/19(火) 00:34:39 ID:tIVO6O0b
仏教議論スレッド 6
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1282465343/381 ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1282465343/375381 > 「諸行無常」なら、時間が経過すれば、その関係性に微妙な変化を生じ、厳密に言えば「別物」になる。
ハァ?(゚∀゚) その通りですが?www
何を血迷っているんでしょう?w というか、文章の(文節順の)マジックに踊らされている感じですねw
《諸行無常だから》ではなく、(貴方の文をそのまま使えば)、
《 >時間が経過すれば、その関係性に微妙な変化を生じ、厳密に言えば「別物」になる 》ことを
《 >「諸行無常」 》と言うんですよw
> 常に変化している対象の構成は、刹那においてしか確定・把握できない。
はい。先ほど(
>>215 )申し上げました「ヒトの認識機構」の問題でしかありませんね。
> 「諸行無常」という言葉も、実はおかしい。
> 「常に変化している」ということは、極小時間において、「変化しない実体」があるということだ。
ハイ?(゚∀゚) 「 >極小時間において 」かどうかなど問題ではありませんw
≪ >「常に変化している」ということは、 >「変化しない実体」があるということ ≫
何ですか?コレはwwwww
しかも、「固定的実体」を想定し、前提としているのは、まさに貴方じゃないですかwww
> これは「空(無自性)」ではない。「流れる水」も、刹那においては、「水」という実体である。
「実体」があったら「空(無自性)」になりませんが?w
龍樹はまさに、『 >刹那において 実体がある』ということを論破する為に中論を著したのではないですか?
貴方は「反龍樹」ですか?www
> 「水」が「無自性(空)」であるというためには、
> 極小時間におけるその原子の相互依存関係の面から捉えなければならない。
貴方は、ホントに「物」でしか考えないんですね・・w まあいいですw
その原子の自性云々は問わないんですか? また、「悲しみ」はどのような相互依存ですか?
230 :
3a/3 :2010/10/19(火) 00:38:34 ID:tIVO6O0b
また、上で『 >刹那においては、「水」という実体である 』と仰ってますが、 この実体が原子の相互依存であるわけですよね? この原子間の関係如何で、上位カテゴリである「 >「水」という実体 」に変化は起きますか?起きませんか? (まるで「実体」のマトリョーシカですねw) > なお、小乗側からの、「相互依存関係」を否定する動きがあるようだが、 > 竜樹は「相対的ならざるものはない」と言っているのだから、この大前提から、相依性は維持される。 否定ではなく、『それのみである』という考え方が誤っている、と言われているだけですw 下の『 >別名に過ぎない 』を受ければ、別名・同義であるものが、なぜ『大前提』足り得るのでしょう?w まさに、同義反復、何も言ってないに等しいですよね?前提にも何もなってないですよね?w > 「相対的」とは、「相互依存的」の別名に過ぎないのだから。 まあ、どっちの言い方でもいいですがw、(貴方の主張上は差異がないようですしw)、 「相対的」も「相互依存」も、そのままで「同時である」ことを意味しませんよ?w 貴方の言う『生命』も「相対的」「相互依存的」であるということで宜しいですか? ならば、なぜ、『生命』の方が先行するんですか? 【先行している以上】、【他のものと相互依存していない『刹那』】が、あり得てしまいますよ? それで宜しいので? それとも龍樹は、 ≪「相対的ならざるものはない」。但し、『生命』を除く。≫とでも、のたまったんですかね?www なんかもう、メチャクチャですな・・・w ┐(;´ー`)┌
このレスで明らかになることの一つは、 隠居は、《「物」と「物」の関係性しか見ていない(それしか考えられない)》ということですかねw まず、「物」ありき。「最小単位」ありき。 そして「動き」「変化」が無い。いや、寧ろ積極的に排除している感じか。(「刹那」にこだわる所からもそれが伺える。) そこへ、それ以上分割できない極小時間としての「刹那」という見方を加え、 【「粒」(という実体)】によって構成された世界を描く。 その世界では、粒自体は変化せず、粒と粒の係わり合い(→「相互依存」)で全てが成り立っている、と。 (感情・心情等も、粒と粒の係わり合いになるんでしょうかね?w) 何ですか?w この激しく劣化した物質至上主義はwww
232 :
前世は一在家 :2010/10/19(火) 07:18:17 ID:/K2YLo6Z
>>231 >その世界では、粒自体は変化せず、粒と粒の係わり合い(→「相互依存」)で
>全てが成り立っている、と。
>(感情・心情等も、粒と粒の係わり合いになるんでしょうかね?w)
分かり易いご隠居(仮設)の唯物論のモデル化だと思います。
233 :
神も仏も名無しさん :2010/10/19(火) 09:54:41 ID:1ZF3bzLB
>>231 >その世界では、粒自体は変化せず、粒と粒の係わり合い(→「相互依存」)で全てが成り>立っている、と。
>(感情・心情等も、粒と粒の係わり合いになるんでしょうかね?w)
よーく観察してみれば、その通りではないですか。
人間は、物質に100%依存しない限り、一瞬も生存できない。例えば、この大地
及び酸素という物質を考えてみてください。そして、すべての物質は、粒子の相互依存
により形成されている。
感情・心情は、物質界(環境)に適応して生命を維持するための手段です。物質界に
何らかの変化やその影響が無ければ、感情・心情も生じない。物質的には充足・安定
しているのに、自分ひとりで、苦しんだり喜んだりしているのは、精神障害者です。
そして、感情も心情も、電子という粒子の働きであり、その物質の実在・非実在を
判断するのは、五感という生命の機能です。
すべての人間は物質至上主義であり、同時に生命(生存本能)至上主義です。
そして、道徳や倫理も他者への思いやりも、「共生の技術」として、生存本能から
生じます。
234 :
隠居カルト教会脳精神病爆発してますなあw :2010/10/19(火) 10:35:01 ID:vE8ZKafC
さすが、隠居カルト教会一神教脳精神病だけある、 人間の精神の分析を見事に拒否w 隠居脳によると、人間の精神を分析する釈迦は精神病らしいですw
235 :
隠居カルト教会脳精神病爆発してますなあw :2010/10/19(火) 10:39:20 ID:vE8ZKafC
隠居脳によればアフガン、パキスタンで精神病釈迦の仏教は滅びたのは素晴らしい事のようですw 隠居脳は一神教徒なので、むしろ、イスラムの方が素晴らしいwと、 隠居の理想はタリバン、アルカイダらしいですうw タリバンのバーミヤン仏像破壊に隠居は生命教の喜びを感じていたようですうw
236 :
隠居カルト教会脳精神病爆発してますなあw :2010/10/19(火) 10:43:12 ID:vE8ZKafC
隠居脳によれば、アフガン、パキスタンにおける貧困などの生活苦の原因を釈迦のように分析するよりも、 生活苦、貧困を忘れる為に、物質麻薬で救いを求め、自爆テロで生命機能を停止させる事が最善のようですうw 隠居の理想はタリバン、アルカイダらしいですうw 釈迦の様に苦しむ原因の分析は精神病なのですうw
237 :
神も仏も名無しさん :2010/10/19(火) 11:22:40 ID:fMUa27lx
>>235 イスラム教は「生命の根源性」など認めない。他の反生命の宗教も、原理的
には全く同じ。
釈迦は、「貧困による生活苦」の原因など分析していない。彼は、贅沢三昧
に暮らした億万長者だ。釈迦の「苦感情」はどこから生じたのかを心理分析
することが必要。
>>233 >感情・心情は、物質界(環境)に適応して生命を維持するための手段です。物質界に
>何らかの変化やその影響が無ければ、感情・心情も生じない。物質的には充足・安定
>しているのに、自分ひとりで、苦しんだり喜んだりしているのは、精神障害者です。
アイソレーション・タンクを、知らないのか?w
239 :
1/2 :2010/10/19(火) 13:31:56 ID:gg26c75p
>>232 (
>>233 への牽制も兼ねます。)
一応、勘違いしないように言っておきますがw、
貴方や宝珠のスタンスを支持するものではありません。
隠居のスタンスは、(所謂)『「強い」唯物論』といわれるものにほぼ近似します。(いや、それをも遥かに凌駕するか?)
心や感情・心情、或いは人間関係・社会関係、諸事象間の相互の影響等はもとより、動きや変化までも認めない。
対して『「弱い」唯物論』なるものがあります。(Wikiの記述が修正されていなければ)その導入部の説明が、まさにそれです。
そこでは、精神的諸事象、関係性による諸事象等の《存在》は認められます。
ただ、「それらが、物質的在り様の上に顕現している」と見るだけです。
「そうした(特に)「『精神的諸事象』が、先行し、何か物質的なものを生じさせる」とか、
「根源となっている」とか「それのみで《存在》すると言わない」だけです。
(勿論、『意図して、企画して、工夫して、ビルを建てたり饅頭を作ったり、とかを指さない』のは言うまでもありませんが・・w)
この意味で、以前、『自然界の4つの力に「業力」を加えねば「三世に跨る」輪廻は成立しない』、と戯れた如くw、
(そして縁起一代が批判するようにw)私は唯物論に片足を突っ込んでいますw
240 :
2a/2 :2010/10/19(火) 13:38:44 ID:gg26c75p
そして、その『「弱い」唯物論』に於いては、原理的には
>>233 の通りなのですが、
隠居のように《「物」と「物」(具象物と具象物)との関係のみを抽出し、見る》だけではありません。
《抽象的概念や《存在》同士の関係も抽出し、見る》のです。「それらが無い」とは言わないわけです。
上で述べたように、「それらが先行し、根源となり、何ものか具象物を生じせしめる」とは言わないだけです。
つまり、「念じれば、そこに金塊が出現する」(奇跡の水でもいいですがw)とは言わないだけです。
また、「念じれば、直接他者の思考に関与する」と言わないだけです。
「肉体等(その表出された諸要素(音声、行動、様相))及び
肉体等の働きかけにより生じた様々な事象が介在した上で関与し得るもの」、と言うのです。
隠居の主張・スタンスには、この部分が欠如しているわけです。だから「劣化版」と評しました。
『「弱い」唯物論』に於いては、「愛」も「友情」も「喜び」も「悲しみ」も、「国、国家」も、「思想」も「世論」も、
「苦」も「楽」も、「癖」も「習慣」も、「勝ち」も「負け」も、「誇り」も「媚び」も、
《存在》します。ただ、【その存在の仕方】に、233的ベクトルの視線を用いているだけです。
当然、【「その存在の仕方」は、「リンゴが存在する仕方」とは違います】。
(だから、ヒトの語彙の中に「概念」「抽象」「動き、変化、変遷」「関係」といった語が存在するとも言えます。)
で、ちなみに仏教に於いては(≒勝義に於いては)、「因により縁により生じているもの」として 【同じ存在の仕方である】と見るわけです。「(具象)物か、(抽象)概念か」という差異を殊更に重視することがないのです。 寧ろ、差異が強調され『「リンゴ」は確かにここにある』として固定化実体化することを誡めるわけです。 (ポッタパーダ経に於ける乳製品の喩えや「今ここに、我の獲得がある」といったことの皮相性ともリンクします。) 仏教は、『「強い」唯物論』は排しても、上記のような『「弱い」唯物論』を排除しません。 寧ろ取り込みつつ、そこで基軸とされるスタンスよりも更に深層として、「縁起する諸相(諸法)」を説くのです。 そして蛇足ながら付け加えれば、この縁起に於いては、 貴方や宝珠の渇望する「真我」「意識体」、或いは「恒常的霊魂、霊性」、或いは「(根源的恒常的)本質」etc.もまた、 縁起の波の中に霧消するものなのです。
242 :
神も仏も名無しさん :2010/10/19(火) 17:42:43 ID:lrfUg915
>>238 >アイソレーションタンクを知らないのか。
すべての感覚を遮断すれば、生命に危険な状況が生じても知覚できないから、
生命の維持は不可能。感覚(五感の知覚)が生命の維持に不可欠な要素、むしろ
生命そのものとも言える所以である。
また、感覚は、脳の機能を維持するとも言われている。感覚を遮断すれば、脳
の機能も低下し、消滅する。従って「死体」と同様である。
>>241 >縁起の波の中に霧消するものなのです。
縁起(関係性)も、生命の機能によってそれを認識・思考の対象にしなければ、
存在し得ない。生命が霧消すれば、その認識・思考は不可能。有っても無くても
人間には無関係。如何なる事項も、生命を前提としなければ、語ることはできない
はず。
私は、物の実在さえ、生命の機能としている。その意味で、究極の唯心論。
人間の生命を離れて何かが(例えば、神や霊、縁起)が存在すると考える者こそ、
強度の唯物論者である。
唯物論・唯心論と言う言葉を、安易に使うべきではなかろう。
いずれにせよ、物質に100%依存しない限り生命の維持は不可能であること
は、自明の事実。そこに、物質と生命との「相互依存」がある。
>>242 >すべての感覚を遮断すれば、生命に危険な状況が生じても知覚できないから、
>生命の維持は不可能。感覚(五感の知覚)が生命の維持に不可欠な要素、むしろ
>生命そのものとも言える所以である。
はて?
別に、アイソレーションタンクに入ったって、死にはしないが?w
244 :
神も仏も名無しさん :2010/10/19(火) 18:29:29 ID:lrfUg915
>>243 長時間入れておけば、必ず死ぬと思うよ。どんな異変が生じても気付かず、
助けも呼べないのだから。必ず、短時間に限定し、厳重に監視しているはずだ。
245 :
1/4 :2010/10/19(火) 20:16:24 ID:tIVO6O0b
>>242 > 前段
五蘊の話の際に触れてゆくことになるかもしれんが、一言二言。
> すべての感覚を遮断すれば、生命に危険な状況が生じても知覚できないから、生命の維持は不可能。
その通りですね。これに異を唱える人(これまで唱えた人)はいないでしょうw
> 感覚(五感の知覚)が生命の維持に不可欠な要素、
その通りですね。これに異を唱える人(これまで唱えた人)はいないでしょうw
> むしろ生命そのものとも言える所以である。
いやいやw (〈「苦」という機能〉の話もそうですがw)、
感覚は感覚でしょう?w 感覚が生命なのですか?
貴方は、物事の関連性を、まるで【数式のように】《「A=B=C=D=E」だから「A=E」である》としているわけです。
しかし、そこが落とし穴なのです。事象と事象の関連は「=」ばかりではありません。
寧ろ、そうでない場合の方が多いのです。上(
>>240 )で触れたように『介在するもの』を排してはなりません。
今、便宜上「←」(敢えて意味を付すならば、話の流れに併せて『寄与する・役立つ』等としておきます)
を使いますが、「A←B←C←D←E」である時、「A=E」ではありません。
《EはAの維持に寄与する》というだけです。これ以上の意味を込めることはできません。
しかも、詳細に言うなら「B・C・Dが介在することにより」という条件付になります。
貴方はここを飛ばしているのです。飛ばした上に「←」の意味をも変更しているのです。
この時、もはや「A←B←C←D←E」という意味・【本来の在り様】は抹殺されています。
この構図は、煩悩即菩提の時と同じです。
だから、他の事案と関連した時に、語義や論理に矛盾をきたすのです。
本来必須の要素である「B・C・Dが介在する」ことを消し去るから、他の事案と齟齬が生じるのです。
貴方の言説の殆どが、このパターンです。
申し訳ありませんが、貴方の言辞には論理性が皆無なんですよ。
少しは自覚していただきたいものです・・。
246 :
2/4 :2010/10/19(火) 20:17:45 ID:tIVO6O0b
>>242 > 後段
貴方の言う『生命』には、一応遠慮して触れずにいたんですけどね・・。
絡んできちゃいましたか・・・w
> 縁起(関係性)も、生命の機能によってそれを認識・思考の対象にしなければ、存在し得ない。
人が思考しようがしまいが、花は咲き、実はなるのです。
人が思考しようがしまいが、多くの動物は縄張りへの侵入者に威嚇行動をとるのです。
100歩譲って、唯識的に考えたとしても、
貴方は、世界には「思考する者」は一人しか居ないとお考えなのですか?
誰か他に思考するものがいれば、そこに思考対象は存在します。
貴方にとって、地球の裏側の夫婦喧嘩は存在しないでしょうが、当人達にとってはリアルな現状です。
貴方は独我論寄りでもあるのですか?
> 生命が霧消すれば、その認識・思考は不可能。
ある意味その通りですが、241に於ける「霧消」は、「そうした消滅」ではありません。
貴方風の喩えをすればw、絵画に於ける点描を詳細に見た時、そこには点の集合しかありません。
これを、全体像の消失と称するようなものです。「解体」と言い換えても構いません。
「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」 なんて川柳があったような気がしますが、
初見、幽霊(→人型の、ぼやっとした得体の知れないもの)と見えたが、
注意して観察確認してみたら、柳の葉であった、というような時、
【「幽霊」としての存在】は「霧消」して(「解体」されて)いますが、
【視覚的にそのように見えた「柳の葉の在り様」】は(依然として)そこにあるわけです。
このような意味での「霧消」です。
(ってか、ここまで解説しないと理解できないのか??? どんな理解力なんだよ・・ orz )
247 :
3/4 :2010/10/19(火) 20:19:15 ID:tIVO6O0b
>>242 > 有っても無くても人間には無関係。
【《その当人》にとっては】、ねw
ここでも、貴方特有の飛躍があります。ここで「 >人間 」と括ることが、ミスリードの誘いになるのです。
(もしかしたら狡猾な意図の下かもしれませんがwww)、
「個」についての事案であった筈が、いつの間にか全体の話になっているからです。
或る村に於いて、一人の生命が失われたら、他の村人も皆生命を喪失するのですか?
違うでしょう? 最初の『 > 生命が霧消すれば、その認識・思考は不可能。』は、
個人のことを指しているのでしょう?
であるならば、続く文章で『 > 人間には無関係。』は不適切な接続と言わざるを得ません。
判り易く書き換えましょう。
≪鈴木さんが亡くなった時、鈴木さんによって認識されていた対象(たとえば“飼い犬ポチ”)も消失する。
飼い犬ポチは、いてもいなくても、鈴木さんの遺族にとっては無関係≫
と言っているようなものです。 このおかしさが解りますか?(「実体」云々する貴方にとっては尚更ですw)
先の例(
>>245 )と同じく、これも、貴方の言辞がメチャクチャになる理由の一つです。
> 私は、物の実在さえ、生命の機能としている。
はい。
>>245 と同じく、中途を飛ばすことによる誤謬ですね。
「物が実在すること」が「機能」と言い得るかどうか、
貴方お得意の語義解釈を「機能」に用いて検証してみることです。
(「苦」と「機能」の話も途切れたままですねぇ・・。いつ再開されるんでしょう?w)
> その意味で、究極の唯心論。
それはそれで構いませんが、ならば、「固定的実体」や「物の実在」に依拠するのはやめることですw
248 :
神も仏も名無しさん :2010/10/19(火) 20:41:30 ID:HkoLpK/U
>>244 >長時間入れておけば、必ず死ぬと思うよ。どんな異変が生じても気付かず、
>助けも呼べないのだから。必ず、短時間に限定し、厳重に監視しているはずだ。
いつもながら、適当でお粗末なその場限りの思いつき
>>244 そりゃ、感覚があったって、監禁された状態でも、放置すれば死ぬだろうがww
普通に栄養面を含めて厳重に管理すれば、死なないよ?w
死の原因に「気が付かないから死ぬ」だけであって、感覚の奪取が死の原因になる訳ではないw
250 :
4/4 :2010/10/19(火) 21:05:18 ID:tIVO6O0b
>>242 > 人間の生命を離れて何かが(例えば、神や霊、縁起)が存在すると考える者こそ、強度の唯物論者である。
これも、「神や霊、縁起」を、「物として」「実体として」捉える人はその通りでしょう。
しかし、大抵の人は違います。
貴方は、「唯物論」についても全く理解していませんね・・。
>>239-240 を熟読してくださいw
> 唯物論・唯心論と言う言葉を、安易に使うべきではなかろう。
貴方こそ、「空」「無自性」、或いは「縁起」、或いは「大乗・小乗」、
或いは「煩悩即菩提」、或いは「衆生心」或いは「仏性」etc.etc. といった語を安易に使うべきではないでしょう。
何も知らない貴方が、その術語だけ(文字列・音声だけ)借用しても、何も言い当てることはできません。
それらに通底する「一貫した軸」が見えていない貴方に、理路整然とした形で仏教について語ることなど不可能です。
謙虚に、自身の分をわきまえましょう。
> いずれにせよ、物質に100%依存しない限り生命の維持は不可能であることは、自明の事実。
これのどこが「 > 究極の唯心論 」なんでしょうか・・w
> そこに、物質と生命との「相互依存」がある。
はい。 御託は、前に挙げた、
《「相互依存」が、その言外に含有する「同時」或いは「先後」》について回答してからにしてくださいw
結局、二言どころじゃなかったなw
こうして、本来の作業が先送りになってゆく・・とw
隠居に劣らず馬鹿だな、俺もwwwww
251 :
神も仏も名無しさん :2010/10/19(火) 22:28:42 ID:NV1ta0fz
人間の内面は複雑です 仏教とやら その傲慢さで人の分析をしないでください それとのまた新手の霊感商法ですか
無宗教の自分としては 昔のオッサンに人生の指南などされたくないと思うんだけど 仏教徒の方は仏陀の何をそんなに有難がってるの? 仏壇買ったりとか大金かけての葬式だとかペテン師に騙されてるんじゃない?
254 :
神も仏も名無しさん :2010/10/19(火) 23:43:27 ID:NV1ta0fz
伝統を脱皮するのは勇気がいる ましてそこに金や利権が絡むと しかし勇気を出して既成概念を打破していかなければ
255 :
神も仏も名無しさん :2010/10/20(水) 04:54:28 ID:bf5t8g12
>>253 いや〜、あまりに低い見識に驚くよ
君の周りのは尊敬できる大人は誰もいないのか?
ちょっとでも社会にでて客観的な視点を持てば、尊敬できる先輩は沢山いるはず。
そして、そういった人より釈尊が偉大なことも、分かりそうなもんだが、
現代日本では難しいのかもしれない。
釈尊の偉大さは知的には、アインシュタイン、ゲーテル、ウィトゲンシュタイン、ハイデガー、クワインが束になっても全然叶わない存在論、認識論、論理学を持っていること。
活動面では争いなく多くの人を完全に幸せにしたことは歴史的に例がないだろう。
>仏壇買ったりとか大金かけての葬式だとかペテン師に騙されてるんじゃない?
こういった宗教ビジネス家たちと釈尊は全く無縁だから
釈尊は極めて少くない所有物以外、靴さえ持たなかったんだよ。
256 :
前世は一在家 :2010/10/20(水) 06:35:13 ID:fx1g4Tuz
>>255 >釈尊の偉大さは知的には、アインシュタイン、ゲーテル、ウィトゲンシュタイン、
>ハイデガー、クワインが束になっても全然叶わない存在論、認識論、論理学を持っていること。
>活動面では争いなく多くの人を完全に幸せにしたことは歴史的に例がないだろう。
釈尊は三明智にて相手のカルマと苦の原因とを読みながら、対機説法にて四諦を説いて
救って歩かれた慈悲深い聖者だったと認識しております。
また石飛先生の見解に賛同して、龍樹は将来の菩薩候補者向けに釈尊の教えを論理的に記述
した大哲学者だったと認識しております。
ただ、菩薩候補者向けの「空」の理論を悟りきらずに衆生に説いてしまっては混乱を生じ、
本来四諦や八正道で救われるはずの衆生も減ってしまうのが「末法の世」だと思料しており
ます。
以上、異教の現時点での仏教レビューです。また縁起(変化)するでしょうが。
257 :
神も仏も名無しさん :2010/10/20(水) 10:13:51 ID:kYsBdbB3
>>255 >>256 少なくとも、小乗仏典を「客観的・批判的」に読む限り、釈迦は完全なカルト
教祖。得られるものは、彼の狂気のみ。
日本最悪のカルト教団の一つである真光の在家氏が持ち上げるという事実だけ
でも、そのことが証明されている。
報道されている小乗国タイの政治的混乱や犯罪の多さを見よ。
水野、石飛両氏は、小乗信者である。日本の仏教学者の精鋭を集めた岩波仏教
辞典の百人を超える執筆者の中にも含まれていないのは何故か。水野氏は老齢
の故かも知れないが、石飛氏は現役である。
258 :
神も仏も名無しさん :2010/10/20(水) 10:34:34 ID:kYsBdbB3
バリバリの現役である小乗信者の片山氏も、岩波仏教辞典の執筆者に含めれて はいない。 日本の仏教、そして世界が求めている仏教は、大乗仏教であり、釈迦仏教(小乗仏教) ではない。
259 :
神も仏も名無しさん :2010/10/20(水) 10:45:16 ID:bf5t8g12
>>257 >日本の仏教学者の精鋭を集めた岩波仏教
>辞典の百人を超える執筆者
実状は全然違って中村先生と縁のある人が書いてるだけのこと
別に精鋭を選りすぐったわけでなく、非常に偏った内容が散見される。
もっとも学問的総合辞典の体裁は勝れているし、記述も平明なところはよいが、
内容的には『仏教学辞典』『織田仏教大辞典』の方が信頼できる。
そもそも辞書は参考程度のもので、絶対の信頼を置くようなものではない。
それは英語や国語にしてもなんにしても同じことだろう。
辞書を権威にしてる時点で、語る資格がないと気づけないんだから困る。
>水野、石飛両氏は、小乗信者である。 水野氏は大乗信者。著作のあちこちで大乗優位の思想が透けて見える。 「仏教要語の基礎知識」を読むだけでも明らかだと思うが? (ついでだが「修証義の仏教」でジャイナ教を邪教呼ばわりしやがったのは許せん) 石飛氏は以前、本でもネット上でも仏教信者ではないと公言していた。 …今はどうか知らない。 仮に仏教徒に転向していたとしても、竜樹age!の学者が小乗仏教徒だとは信じられない。
261 :
神も仏も名無しさん :2010/10/20(水) 11:19:27 ID:bf5t8g12
>>260 >水野氏は大乗信者。著作のあちこちで大乗優位の思想が透けて見える。
>「仏教要語の基礎知識」を読むだけでも明らかだと思うが?
私から見るとテーラワーダよりなんだけど。
もともと道元禅師の立ち位置が、そんなかんじ。
>石飛氏は以前、本でもネット上でも仏教信者ではないと公言していた。
>…今はどうか知らない。
>仮に仏教徒に転向していたとしても、竜樹age!の学者が小乗仏教徒だとは信じられない。
今もそう。石飛先生は数少ない大乗の理解者。
文献学者で大乗が理解できている人はほとんどいないと思う。
その生命教の言ってることに論理的整合性を見ようとするのは無理。
なにからなにまで、適当な子供かヤクザの言いようなんだから。
ふと開いてみれば・・・w
>>258 片山さんに関しては、(道元の著作に関してもw)、きっちり反証した筈だが、
いつも通り、【その後はスルー】でしたね。反証に対する再反論はいつですか?w
(どこまで腐った根性なんだか・・w)
>>257 岩波辞書の執筆者に関しても、きっちり反証した筈だが、
いつも通り、【その後はスルー】でしたね。反証に対する再反論はいつですか?w
(どこまで腐った根性なんだか・・w)
263 :
神も仏も名無しさん :2010/10/20(水) 12:05:24 ID:bf5t8g12
>>262 慈悲をかけるべきでしょ、その人は
まっとうに対応しても無駄
264 :
神も仏も名無しさん :2010/10/20(水) 13:21:23 ID:kYsBdbB3
>>261 >今もそう。石飛先生は数少ない大乗の理解者。
>文献学者で大乗が理解できている人はほとんどいないと思う。
随分と大きく出ましたね。あなたはどこの「大学者」? 小乗かチベット仏教の
方でしょう。石飛氏は竜樹を小乗に引き込もうとしているように感じられる。
「因果関係」などと解釈したら、竜樹の空の思想は根本から崩れる。
>私から見るとテーラワーダよりなんだけど。
>もともと道元禅師の立ち位置が、そんなかんじ。
道元禅師がテーラワーダとは初耳。道元まで小乗に持ち込むのですか。
尤も、道元は、前期と後期では変わってきたらしい(哲学性がなくなった)。
それは後期のことではないですか。
265 :
神も仏も名無しさん :2010/10/20(水) 14:12:34 ID:bf5t8g12
>>264 >石飛氏は竜樹を小乗に引き込もうとしているように感じられる。
>「因果関係」などと解釈したら、竜樹の空の思想は根本から崩れる。
なぜ? もしかしてドミンゴとかいうトンデモな人ではありませんよね?
266 :
神も仏も名無しさん :2010/10/20(水) 15:36:21 ID:kYsBdbB3
>>259 >実状は全然違って中村先生と縁のある人が書いてるだけのこと
>別に精鋭を選りすぐったわけでなく、非常に偏った内容が散見される。
執筆者は、皆、中村先生の「縁故募集」ということですか。やはり論文など
の研究実績を調査し、その内容の程度によって選択したと考えるのが普通
だと思うが。
「非常に偏った内容が散見される」そうですが、その具体例を挙げて反論して
ください。若し内容が「大乗」に偏っているのなら、日本の仏教が大乗なのだから、
当然のこと。小乗に偏ったりしたら、それこそおかしいのではありませんか。
267 :
神も仏も名無しさん :2010/10/20(水) 15:40:50 ID:bf5t8g12
>>266 ドミンゴみたいなので、答えようと思わない。
君と生命教はほとんど一緒だよ。
268 :
神も仏も名無しさん :2010/10/20(水) 15:49:04 ID:k7vLNE2e
ドミンゴと言われてる書き込みと 隠居のとの見分けがつかない。 同一人物だったりして。
>>266 >論文などの研究実績を調査し、その内容の程度によって選択したと
誰が?www
270 :
神も仏も名無しさん :2010/10/20(水) 16:22:30 ID:bf5t8g12
>>268 すまん。生命教だった。
kzr3D9wY kYsBdbB3
ID がk で始まってるんで、別人だと思ってしまった。
271 :
神も仏も名無しさん :2010/10/20(水) 16:55:50 ID:NwhHnydO
>>265 >誰が?www
編集委員や編集部に決まってるだろ。
ちなみに、岩波仏教辞典(第2版)の編集委員は次のとおり。
中村元、田村芳朗、末木文美士、福永光司、今野達
参考までに、初版の編集委員は次のとおり。
中村元、福永光司、田村芳朗、今野達
執筆者数は、初版が187名、第2版が81名。水野、竹下、石飛氏の名前は
どこにもなし。平川氏や奈良氏の名前は、初版にあった。
>>271 >編集委員や編集部に決まってるだろ
編集委員や編集部は、論文や業績を取捨選別できるほどの
仏教に関する(しかも、歴史・地域等全範囲含め!)知識を持っていたとでも?www
貴方が、よく言っていた、
「貴方は(学者の)○○より優れているとでも言うのかね?」
という台詞は、岩波編集部員の面々には当てはまらないんですかね?w
>> 476 >岩波仏教辞典の執筆者の中には・・・・ 権威主義丸出しだなw (君にはわからんだろうがwww)、上記二人の名は無くとも、 (もっとも、水野さんは重鎮且つ御高齢なので、【執筆依頼】は初めから無かったろうが・・)、 その系譜に連なる・同系列に属する人物が代わりに選定されている。 ざっと私が知るだけでも、以下は原始・初期仏教及びパーリ仏教を主なフィールド及び担当領域とする人達だよ。 森祖道、石上善応、前田恵学、高橋審也/早島鏡正、阿部慈園、藤田宏達/(奈良さんを含めてもいいw)、 特に前二者(三者)はバリバリのパーリ領域の古参だし、石上さんは現上座部が専門だw 水野・片山という二つの名は、たまたま私の学習の系譜に二人がいる(→私が参考として扱う)というだけで、 この二人のみがパーリ仏教研究者の代表と言うわけではない。 「名前があれば、それが印籠となる」という考えが権威主義でなくて何だと言うのか・・w 岩波辞書は、初めて『(インド)仏教』に触れる人用だよ。 〈「古来、こう言われているが、原意は(インドでは)こうだ」という役割を持ったという点でね。) 上座部系(原始仏教系)部派仏教系の記述や解釈の幅は確かに稀少だ。 それは、隠居が指摘する通り「日本で触れ得る仏教」についての辞書だから。 そして、岩波文庫青の翻訳による「漢訳でない仏典紹介」の流れとリンクして、中村さんがヘッドとなっている。 自然、インド仏教に関連する部分は中村色になる。(限られた情報枠なれば、通説が主となって当然だ。) また、岩波としても「中村色」で調整する意図があったであろうことは想像に難くない。) その意味で、(→情報が、商品のメモ札(略説)的であるという意味で) 安価で扱いやすい為、ちょっとした情報を調べる時には重宝するが、 理解が進むにつれ使わなくなる(使用頻度が減る)辞書だよw また、国語辞典のカラーのバリエーションを見てみろw 或る一つの辞書が、何の条件も無く最高位置に置かれることはない。 広辞苑クラスでさえ、今は大辞林、大辞泉が肩を並べる。(広辞苑出版当初は、あれしかなかったわけだw) 岩波の良さは、ポケッタブルであるということだ。(それに尽きると言ってもいいw)
275 :
神も仏も名無しさん :2010/10/20(水) 20:37:27 ID:+dQp9Brj
宗教だから何を言っても自由だが 退廃文化 仏教をあまり流布するなよ 世のためにも
>>275 2chで流布できたら世話ないですよwww
277 :
神も仏も名無しさん :2010/10/20(水) 21:12:30 ID:QYba990H
>>275 >宗教だから何を言っても自由だが
そんなことは、どこからも出てこない。宗教者も、社会によって生かされている以上、
社会常識や道徳には、厳格に従わなければならない。
いわば公の場所である2chで宗教を布教するなど、以ての外である。
>>277 生命教を布教しているお前に言われてもな〜w
啖呵切って身構えて文章考えるより、突発的に横レスするときの方が 言葉や文がスラスラ出てくるのは何故なんだぜw ノシ
280 :
神も仏も名無しさん :2010/10/21(木) 04:52:02 ID:wJYT67bq
>>279 そりゃ、いいたいことが決まってるからじゃろ
しかしキ教質問箱は次スレ建つの早いなぁ・・w なんか、一覧開く度に新スレが建ってるような気がするwww
282 :
隠居生命教脳の解析w :2010/10/22(金) 10:55:38 ID:FryN4W5C
病的一神教徒宗教者、隠居生命教脳の解析を始めようw
さて、隠居生命教は人間の精神苦の原因分析を否定し
病的一神教のように生命で解決できうる宗教である。
チリの閉じ込められた19歳のジミー君は毎日PTSDに苦しみ、母親と一緒でないと寝られない(朝日新聞)
らしが、
病的一神教徒宗教者、隠居生命教の宗教患者の脳の見方は異なるようであるww
153 :神も仏も名無しさん:2010/10/16(土) 19:57:57 ID:v434uxvf
>>152 チリの作業員たちは、生命が助かった喜びで、PTSDなどもはや存在しない
ようだな。
隠居生命教がこのような人間の精神の苦を無視できる病的宗教患者の姿の予想が可能であるw
隠居は幼児期、カルト系キリスト教教団(エホバ)による虐待を受けた、と予想される。
思考回路が病的なアルカイダ、タリバンの思考と同じである。
隠居的病的宗教患者の思考こそが宗教戦争の根源であるw
そして、最近の学説によると幼児虐待をする人間の脳は幼児虐待されているので、
感情のコントロールを司る、大脳辺縁系及び海馬の縮小が見られる、
他者の精神の苦や感情に対する共感が低下し、平気で残虐な虐待ができうる。
故に、隠居生命教は感情及び、人間の精神の苦の原因分析を否定し鈍感であるが故に、
人間の精神の苦、感情を分析する釈迦は隠居生命教で否定されるのであるw
283 :
神も仏も名無しさん :2010/10/22(金) 12:22:41 ID:VjXTx/sN
キリスト教質問箱の荒らされ具合は 2ちゃんねるでも随一ではないか。
284 :
神も仏も名無しさん :2010/10/22(金) 12:32:57 ID:yhSAlmrH
神智学の、スケベオヤジはまだいるのか?
>>283 いや、私は、荒れているというより、あの速度(応酬の激しさ)は、
聖書解釈に於ける、「差異の埋め難さ」、「解釈の個人差」に由来すると見ています。
(いや、確かに攻撃的道場破りの闖入が多いのも事実だろうが・・w
ちょうど、仏教スレに於いて、日蓮系が横レスしてきたり、真宗絡みだったり、
攻撃的な僧侶・葬式仏教批判が多いように・・。)
286 :
神も仏も名無しさん :2010/10/22(金) 13:19:52 ID:VjXTx/sN
原因と結果の繋がりがわからなかったり、 とりあえず「よって」とかつけるけど全く繋がっていなかったり、 宗教を嫌うわりには宗教のように語り 宗教のように説明を放棄するところを見ると 隠居は心の機能のどっかが停止してしまうような目に遭ったんじゃないか、 という可能性を真面目に考えてもいい気がしてくる。論理のおかしさが感情の流れもおかしくしているのではないか。
>>286 それも何度か言われてるよね。宗教相手にトラウマがあるんじゃないか?と・・。
それは、
「主張したいこと(テーマ)があって、その筋道・論立てがあって、
そこにどっしりと依拠して発言がされる、言葉が紡がれる」 のではなく、
その発言の多くが、
『(宗教的なるものの)否定が、まず意図としてあり、
その為の言葉が選ばれ、紡がれ、それを後支えする為に、
そこに後付としての主張(テーマ)や論立てが行われているかの如く見える』
所からも伺える。
そして、どっしりした太い幹としての主張の土台ではないので、
相手側の論立てや構造を、不可抗力の如く、否定に際して取り込んでしまう、
という図式が成立しているとも言えるか・・。
つまり、 『否定の為の発言』でしかないということだ。 (自説の主張は、あくまでも《否定の正当化・裏付け》として利用されているだけであり、 なんら「理」(教理、理論、骨格)としての力を有してはいない。) それは、『否定することでのみ、発言が(もっと言えばアイデンティティが)成立している』ということに他ならない。 だから、反論・論破されてはならない。 『「否定」こそが主軸であり、それこそが(それだけが)内容であるから』。 だから、『発言の内容としての「否定性」は、何が何でも護持され続けねばならない』。 (瑣末な部分では妥協したとしても・・。) 「否定」こそが核であり、言いたいことであるのだから、 それが取り下げられるということは(現時点では)あり得ない、というのが、実状なのだろうとは思う・・。 (だから糠釘だし、リフレインとなる。 「応答は(現時点では)無力」、という指摘も尤もなことではあるのだが・・。)
289 :
アンカー用 :2010/10/22(金) 22:46:53 ID:qlDDvGqh
290 :
アンカー用 :2010/10/22(金) 22:49:18 ID:qlDDvGqh
>>220 >>195 > 「自灯明・法灯明」の教えは、一体何のためですか。
何のためでしょうねぇw
少なくとも、「妄想を基準とするな」ということではあるでしょうねぇwwwww
> それとも釈迦は、「自分で考えよ。しかし俺の教えには従え」などというアホなことを言ったのですか。
「 >【俺の】教え 」ではなく、「諸法の在り様」と「苦の滅への道標」なんですけどねぇ・・w
「自分で考える」という意味では無いんですけどねぇ・・w
百歩譲ってそうだとしても、
「言われたまま、聞いたまま、教わったままでなく、【法と照らし合わせて】吟味しなさい」
ということなんですけどねぇ・・w 大般涅槃経には「四大教法」なんてのもあるんですけどねぇ・・w
────────
ここでの「法」は、
《「諸法の在り様」と「苦の滅への道標」》であり、
【且つ】、
(説いたのが(たまたま)お釈迦さんだったからw)《「お釈迦さんの」教え》でもあるわけです。
両義を持っているということです。
後者の義を見ない人が居ても構いませんがw、
会社でも学校でも、創業者創始者に対する敬意を失くすことは、即ち、礼を失することでもあります。
「人としてどうなんですか?」wという話にもなってくるわけです。
ご隠居もスッキリ君時代はもっと素直だつたけどな
292 :
隠居生命教脳の解析wの成功w :2010/10/23(土) 18:18:11 ID:0D8dju/M
隠居撃沈ポイントは極めて簡単なのだが、 学説的にやると、スルーして妄想垂れ流しを繰り返す、 宗教患者とかいう逃亡作戦を立てるからなあw
293 :
隠居生命教脳の解析wの成功w :2010/10/23(土) 18:23:40 ID:0D8dju/M
隠居の論法は冤罪事件の大阪地検の検事のストーリー作りに近いだわなw 結論が先で、 結論に基づくでっち上げの論法だからw 生命教の真理が先に結論が立てる。 証拠は唯一、「生命がないと全て無し」と言うだけで、 人間の精神とかの人間生活に重要な要素を無視して、 全て生命で解決すると言う乱暴な結論から始める訳だがw
>>226 > 彼の思想に、その鬱病の症状から生じる部分があれば、それは除去しなければならない。
「苦」は生命維持に必要である、「苦」をなくしてはならない、と言っていた貴方らしからぬ台詞ですね。
鬱方向のベクトルがなければ、龍樹ですら仏教と出会わなかったでしょうw
とまあ冗談はともかく、これは、貴方によるシッダッタの性格分析から始まる
『彼の、「苦」に注視した悲観的ベクトルが、そのまま思想上の「一切行苦」へ繋がっており、
世界をそのように見る思想は、シッダッタの性格がそのまま投影された「鬱」の要素を持つ。
世界を(或いは人の生)をそのように悲観的・否定的に見ることは、排されねばならない』
ということで宜しいですね。
この分析自体(2行目まで)には、(少なくとも私は)異論を挟んではいない筈です。
寧ろ、(別様の言い方ではありますが)、何度か賛同レスを入れている筈です。
問題は、その後の【現在も仏教が含有する要素としての「否定的ベクトル」】です。
有効性の一つは、
《その方向性であったからこそ、諸法の縁起すること、「苦」と感受する理由を見出し得た》と言える点です。
(これも何度か述べましたね。)
もう一つは、
《この方向性こそが、(最も、理解・納得・実感を伴った形で)
「(上記の如く)「苦」が繰り返される理由に気付けずに悪循環・負の連鎖を重ねる」ことへの誡めとして力強く働くから》です。
(勿論、逆に「善・楽の連鎖」を積む為ともなります。)
・大量リードして楽勝ムードの中では、軽いエラーなど笑い話で済むでしょう。 しかし、1点を争うゲームに於いては、その軽いエラーが勝敗を分ける場合があります。 相手に得点の可能性を与えるという意味でのエラーの質はどちらも変わりません。 しかし、そこに、『ミスはミスである』という視線を持ち得れば、「今は良かったけど、あってはならないミス」だとして、 練習の強化や対策を立てることになっていくでしょう。 今は野球の例でしたが、日常のあらゆる事象に於いて言い得ることなのです。 ・子供や動物に於いて(いや、大人でもそうですがw)、注意や叱責は、その場においてなされてこそ、 よりダイレクトに、或いは、強く濃く届くものです。そして、人の記憶や印象には、負のイメージこそが残り易いのです。 (技術系・表現形のスポーツなどは特にそうですが)、なぜ、既に十分身に付き、できているのに練習を重ねるか。 劣化後退させない為というのもありますが、今一つは、「成功する、成功したイメージ」を「身と心に刻み付ける」為です。 「失敗のイメージを働き出させない」為です。勿論、失敗の原因探求と対策は講じられるわけですが。 ・「○○や××の時はいつも雨だ・・」 本当にそうでしょうか? 過去100回の○○や××の時、晴れの日20日が、確かに雨の日30日より少なかったとしても、 他50日は曇りで、実際には雨の日は3分の1でしかなくとも、 「雨の日の方が、労力も取られ大変な一日にならざるを得ない」とすれば、人はこのような印象を持ちます。 「会社へ向かう時、いつも、この信号にひっかかる」、「アイツは、いつも俺の靴と自分の靴を間違える・・」、 *(或いは、「スレ一覧を開けば必ず、新しくキ教質問箱が建っている」とか?www)
人の記憶や印象には、負のイメージや、或いは 【常に気になること・目に付くこと、自分に害や迷惑の及ぶこと等こそが残り易い】のです。 同じことです。 (勿論、逆のパターンも存在することを否定はしません。 ただ、それは、毎回同じ困難が生じること、 及び困難の解決策を、真剣に、深刻に捻出することには繋がり難いのです。) 負の事象、負のイメージの方が、人は【「原因は何であろうか?」】というベクトルを生じ易いのです。 善なる事象、楽のイメージ、楽しいこと等については、「その原因は何であるか?」が問われることは稀なのです。 『一切行苦(一切皆苦)』が(勝義として)掲げられる、効能の側面が、まさにこれです。 貴方の指摘・批判する側面は、【「悪」や「後悔・悔恨」の繰り返し】(→「苦」)としない為の処方箋となるわけです。 そして、さらなるもう一つは、《含有された「否定的ベクトル」をどう位置付けるか(→価値付けるか)》ということです。 「それが根幹となること」の意義をどう見るか、ということです。 で、上記のような利便的・皮相的・日常的側面を越え、もっとシンプルに根源的な踏み込みに際した、 【「なぜ、楽も苦もあるこの世界で、苦が強調されねばならないのか?」】への答えとしては、 〔最大カテゴリとしての苦について〕の一連のレス及び〔仏教議論スレッド 6〕の375で述べたこととなるのです。 貴方は、どちらもスルーしていたと思われます。 (そしてこれは、4:聖・俗の話へと繋がっていきます。) 誰もが、すぐに飛びつき、繰り返したいと望み易いが故に、楽の側面に於いては強調されないのです。 それらは【すぐに負の側面に堕す】から、【際限なく望まれる】から、寧ろ誡められるのです。 【楽による中和が、悪循環の環を護持してしまう】が故に、その方向では説かれないのです。 誰もが、見落としがち・忘れがち、或いは目を逸らしがち、【隠蔽しがち】である故に、 繰り返される原因に蓋がされ易い故に、しかし、【一旦深刻に実感されたならば、その真剣さの力】故に 負の側面、苦の側面に於いて強調されるのです。
> 彼の思想が基盤とする「確固たる判断基準(正邪、正誤の判断基準)」は一体何か。 内面的には、術語で言えば「涅槃」。 少し言い換えれば「苦の滅」。 もう少し言い換えれば「退転なき安楽」。 対外的には、「善なること」(→他(=人々)に益すること)、「社会に益すること」。 といった感じでしょうか・・。これは、仏典のあちこちに(その多くは、ほぼその通りの意味で)見られることです。 これらは当然、『実在(物)』ではありません。しかし、人が生きる上で依拠するのは『物(実在物)』だけではありません。 寧ろ《「心」の在り様》こそが、その人の人生を(生活を)、日々の過ごし方を左右するのです。 だからこそ、仏教はその側面に特化した思想だと言うのです。 貴方はきっと、【この「心」までをも、『生命』に接収・回収・解体・解消させてしまう】のでしょう。 しかしそれが、苦悩の解決や人間性の向上に資するどころか、却って目を眩ますことになることに気付くべきです。 (だから、「生命教」と揶揄されるのです。) 比して「縁起」は、それが因果の側面を有するが故に、 【解決の手段を提供する】のです。【向上の可能性を担保する】のです。 **(ちなみに、こちらは『価値判断』の話ですねw) →(ほら、また「違う話が接続されて」ミスリードとなっているw ま、これは貴方の中でも無意識裡の結果でしょうが・・・。) > それがなければ、単なる妄想に過ぎない。 「それがない」と思うのは、貴方が【「物」しか見ていない】からです。【「心」が見えていない】からです。 【「心」を捨て去ってしまっている】からです。
> 竜樹は「世間の一切の慣習」を無条件の前提としている。
「 > 無条件の前提としている 」という読み・解釈は、中論のどこを見てもでてきません。
おそらく他の著作についても同様でしょう。 以前、vyavahAra:Skt(vohAra:P)について幾つか詳説した時、
貴方は、私の書き込みを「自説の補強となる方向」で読み、(大きな間違いですがw)、
そのこと(つまり中論24.8-10)を根拠としているのでしょうが、それを支持する解釈は世界のどこにも存在しません。
貴方の引用する平川訳に於いてでさえも、そこまで強引な読みはできません。
世俗の言語(や事柄)を用いなければ、説示できない、と言っているだけです。
それが、他を押しのけての絶対的前提条件であるという意味などどこからも出てきません。
参:
〔世俗の言語慣習にもとづかなければ
―サンスクリット語の原文には「言語」などという意味は皆無?―〕
仏教 議論スレッド その3
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/58 ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1274492365/58 > 釈迦の思想に、「世間の一切の慣習を破壊する」要素はないか。
ありませんw
(医者が、松本零士の女性キャラについて「人体としておかしい」と弾劾排除の行動をとらないことと同じですw)
300 :
神も仏も名無しさん :2010/10/25(月) 00:17:54 ID:dqdmTLJi
>>294 >>295 >>296 >「苦」は生命維持に必要である、「苦」をなくしてはならない、と言っていた貴方らしか>らぬ台詞ですね。
「苦」が生命維持に不可欠な心的現象であることを自覚してそれを受け入れ感謝すること
をせず、いたずらに苦を感じ、悩むことは、現代の精神医学では明らかに「病的心理」です。それが分っているのなら、いつまでも釈迦の「心の病」に執着することなく、むしろそれ
からの離脱にこそ努めるべきではありませんか。それでは、「生への活力」は一切生じ得ないからです。現に、あなたの書き込みを読むと、世の中が憂鬱になり、苦は却って増す
ばかりですよw。
一切衆生はどんなに苦しい時でも、ささやかな楽を見出して、懸命に生きています。
釈迦は、自己の鬱病故に、人間性の洞察ができなかった。この意味で、彼の「無明」
から「苦」に繋げる「八正道」は、「世間の一切の慣習を破壊する」ものとして、
明らかに誤りといわざるを得ない。「病的心理」に基づく「縁起の理法」は、むしろ
縁起自体を破壊するものです。
大乗がいかにして釈迦の病的心理を克服するに至ったかを、大乗経典を通じて探って
みてください。
「生」を否定する宗教や思想は、生存共同体としての人間にとっては、無意味・無価値・
有害なものに過ぎません。「論理の正しさ」とは、「生の肯定」のみに存在します。
万物の相互依存性・相対性を悟った時、初めて過剰な苦が滅し、苦は生のための活力と
なり得ます。
釈迦の「苦の滅のために煩悩を、五蘊の仮和合や無我という自己欺瞞により去れ」と
いう「素人療法」は、生そのものの否定に連なり、人間の本質を考慮すれば、基本的
に誤った「病的思想」に過ぎません。
301 :
神も仏も名無しさん :2010/10/25(月) 01:05:03 ID:91BRUyCQ
釈迦仏教が「苦」を「固定的な本性」とするのなら、「空の思想(縁起)」など吹っ 飛ぶね。
302 :
神も仏も名無しさん :2010/10/25(月) 01:16:05 ID:91BRUyCQ
>>298 「心的現象(心)とは、環境に適応して生存を維持するために発動される機能」という、
現代心理学者の定義を想起せられたし。心的現象(心)は、生命現象を現す肉体から
のみ生じる。その逆はあり得ない。
303 :
神も仏も名無しさん :2010/10/25(月) 01:59:12 ID:91BRUyCQ
>>299 >―サンスクリット語の原文には「言語」などという意味は皆無?―〕
引用してくれた梵英辞典の中心的語義は「慣習」であり、「言語」ではない。
そもそも、「お客さんに説明するためには、お客さんと同じ言葉を使わなければ
なりません」などと言ったら、会社の文書でも訂正されるよ。この場合、言わ
んとする意味は「お客さんと同じ考えや慣習」の意味であり。「言葉」だけでは
ない。言葉も、慣習の一つだが、一般には両者は区別して用いる。
平川さんの翻訳に際しての深い考慮と苦心とが、手に取るように分る名訳とい
うべきであろう。
>>303 君は会社で、伝達事項をジェスチャーで伝えるのかね?w
リンク先読んでないだろ?w (当時もスルーだったよなw)
都合の悪い部分は全部無視。君が無視した部分こそが批判の中核なのにwww (上数レスもそう。)
ほんとに、姑息で愚劣な品性欠落男の見本みたいな奴だよ、お前は・・w
>>302 >心的現象(心)は、生命現象を現す肉体からのみ生じる。その逆はあり得ない。
どこの誰が、「 心的現象から肉体が生じる 」などと言っているのでしょう?w
ホント、見えない敵と戦うのがお好きですねwww
>>301 どこの誰が、「 >「苦」を「固定的な本性」とする 」などと言っているのでしょう?w
ホント、見えない敵と戦うのがお好きですねwww
>>300 リンク先嫁w
306 :
神も仏も名無しさん :2010/10/25(月) 09:24:19 ID:kD+DUISc
307 :
神も仏も名無しさん :2010/10/25(月) 12:49:32 ID:faaumqqQ
>304
それは「言語習慣によって説示する」というアホな訳をした訳者に対していうべき言葉
だろう。
>>305 苦が「固定的な本性」ではないのなら、釈迦が「苦」「苦」「苦」と鳩のように鳴いて
大騒ぎする必要はなかろう。放っておけば、やがて楽にに転じる。苦を意識し、苦に
執着するから、却って苦が深まる。
「苦、集、滅、道(諦)が存在しないのであるから、苦を滅していかなる道(悟り)に
到達するのであるか」(中論24:25)
「(苦は)その本性として遍知されないものとすれば、それがさらに、どうして遍知
されるのであるか。本性は、実に固定的なものではなかろうか」(中論24:26)
自分で自分の心を意識するようになったら、それは心が既に病んでいるということ。
ひたむきに生きている人間は、自分の心など意識しないものだ。そんな暇はない。
>>306 宗教によって既に洗脳された君たち宗教患者に、何を言っても無駄。
308 :
宗教患者隠居答えろやw :2010/10/25(月) 17:04:51 ID:yjKj/SzO
宗教患者隠居反論してみろやw
病的一神教徒宗教者、隠居生命教脳の解析を始めようw
さて、隠居生命教は人間の精神苦の原因分析を否定し
病的一神教のように生命で解決できうる宗教である。
チリの閉じ込められた19歳のジミー君は毎日PTSDに苦しみ、母親と一緒でないと寝られない(朝日新聞)
らしが、
病的一神教徒宗教者、隠居生命教の宗教患者の脳の見方は異なるようであるww
153 :神も仏も名無しさん:2010/10/16(土) 19:57:57 ID:v434uxvf
>>152 チリの作業員たちは、生命が助かった喜びで、PTSDなどもはや存在しない
ようだな。
隠居生命教がこのような人間の精神の苦を無視できる病的宗教患者の姿の予想が可能であるw
隠居は幼児期、カルト系キリスト教教団(エホバ)による虐待を受けた、と予想される。
思考回路が病的なアルカイダ、タリバンの思考と同じである。
隠居的病的宗教患者の思考こそが宗教戦争の根源であるw
そして、最近の学説によると幼児虐待をする人間の脳は幼児虐待されているので、
感情のコントロールを司る、大脳辺縁系及び海馬の縮小が見られる、
他者の精神の苦や感情に対する共感が低下し、平気で残虐な虐待ができうる。
故に、隠居生命教は感情及び、人間の精神の苦の原因分析を否定し鈍感であるが故に、
人間の精神の苦、感情を分析する釈迦は隠居生命教で否定されるのであるw
309 :
宗教患者隠居答えろやw :2010/10/25(月) 17:12:17 ID:yjKj/SzO
宗教患者隠居とカルト教団の共通点、 他者の精神的な苦に対する共感が無い事、それが故にテロみたいな原理主義行為ができうるw チリ鉱山の書き込みで明白w
ど真ん中を撃ち抜き過ぎててw、「完全スルーモード」でロックに3000点。
311 :
神も仏も名無しさん :2010/10/25(月) 17:52:58 ID:3dC5KBkN
>>310 反生命の宗教は、すべてカルトと断定できる。
己の宗教と人間の生命との二者択一を迫られた時、後者を優先すべきことを
教義で定めた宗教が、唯の一つでもあるかね。
>>226 > 2 「相対性」は概念であるが、それは「もろもろの存在」に適用しうる。
そうですねw
ちなみに、広辞苑(昭和48年8月第2版第7刷)の記載を貼っておきましょうw
そう-たい【相対】
@[法華玄義(釈籤巻六)「二諦名同、同異相対」] 向き合っていること。向かい合うこと。
A相互に関係を有すること。対立すること。また、相対的であること。
B〔哲〕他に対して在るもの。他との関係に於いて在るもの。
一定の関係、一定の状況においてだけ妥当するもの。相対者。
←→絶対。
そうたい・てき【相対的】
物事が他との比較において、そうであること。 ←→絶対的。
> 釈迦にはこの意味での「相対性」があるか。
一般に使われるような形そのままで、ありますねw
(@は、対面している」という状況・ニュアンスなのでともかくとしてw)、上の語義の通りですね。
> 「因果関係」は「相対性」とは似て非なるもの。 どのような理由によって、そのように考えますか? 貴方の発言からは、「相対性」とは、【時間性・時間的先後が捨象されたもの】というように読めますが、 そういうことですか? *(ここで「捨象されている」というのは、【それを問わない】ということです。 そのことによって【(相対しているという意味が)左右されない】ということです。(上の広辞苑の通りですw) だから、「貴方の言う」「相互依存・相対性」は「時間的先後」を含みますか? 「同時性」を含みますか?「可逆性」を有しますか?と何度も問うているのです。) 「 > 似て非なるもの 」という貴方の言い回しに見えるように、まさに、上の*部分こそが 貴方によって「非なる理由」として強調され、「釈尊(初期仏教)と龍樹(中論)の違い」とされてきたのではありませんか? 貴方が 《これ(相対性・相互依存は『先後があってはならないのか』『同時性なのか』『可逆性を持つのか』)》 に 答えてくださらない限り、水掛け論は続きます。(貴方は【「因果」(時間性)を排除】しているのですから!) そして、貴方以外の者は、 《「縁起」に於いては、「因果(時間的先後)の側面」と「相互に依存する(同時的)側面」とがある》 と見ているわけです。 (そして、私(及び初期仏教)は「前者をこそ【主軸とし】、【後者のみであることなどありえない】」としているわけです。) *(これは、ヒトの認識システムともリンクします。)
>>226 > 3 釈迦は、己の教えの「根源性」を何に認めているのか。
「 > 教えの「根源性」 」とは何でしょうか?
泉の如く、「湧き出てきた(発生し来たった)源」という意味でしょうか?
それとも、「〈「教え」を「教え」足らしめる本質、不可欠であり主軸となる要素(部分)〉」ということでしょうか?
(これは、「教義、教理」「全ての教示に通底する基本的考え、理念」ということになります。)
それとも、「依って立つ「根拠」「正当性」」といったものでしょうか?(ならば、語は「根拠」で十分ですが・・。
>何に認めているのか。
三つ目ならば、「諸事象(諸相、諸法)の観察により見出されたものだから」(妄想・想像ではないから)となります。
二つ目ならば、「縁起」以外にはありません。
一つ目ならば、二つの質があります。
一つは「きっかけは何か?」という意味での根源(発生源)として。
一つは「文字通り“湧き出てきた、発生し来たった源”は何か?」という問いとして。
前者ならば、「「苦はなぜ生じるのか(≒感受されるのか)」「その苦は滅する(生じさせない)ことができるのか」
という探求」となります。
後者ならば、「そのような源泉は無い。なぜなら、各種「おしえ」もまた、諸条件の或る成立の仕方によって
(→因により縁によって)、見出され、説かれたもの」であるからです。
*(ちなみに、この問いも、《貴方が『生命の根源性』を言いたいが為》に、
『根源(性)』という語を強引に当てはめただけで、語の使用法としては聊か無理があるものなのですw)
316 :
神も仏も名無しさん :2010/10/25(月) 20:06:23 ID:fZgRKDo+
>>315 >*(ちなみに、この問いも、《貴方が『生命の根源性』を言いたいが為》に、
>『根源(性)』という語を強引に当てはめただけで、語の使用法としては聊
>か無理があるものなのですw)
縁起、因果関係、相対性を含め、人間のすべての認識・思考・感情・行動は生
命の機能であり、死と同時に一切不可能になるから、ずばり「生命の根源性」
である。
竜樹は、「もろもろの存在の構成原理」を説いているものと解する。さすれば、
もろもろの存在は常に変化しているのであるから(時間とは、存在の変化のこと
である)、時間的要素を持ち込めば、常に「異なった存在」を観測していること
になり、その「構成原理」は把握できない。「変化=時間」であるから、存在の
構成原理の把握において、時間的因果関係は「循環論法」の誤りを犯している。
中論の頌第1章に尽くされていると思うので、同章を熟読・理解されたし。
「もろもろの存在は、どこにおいても、いつでも、決して自己より生じたもの、
他者より、両者より、さらに無因より、生じたものとして存在するのではない」
(中論1:1)。つまり、「関係性(縁起)」という「抽象概念」には、「生
起」「時間」という概念の入る余地はない。
「時間的因果関係」なら、馬鹿でも言えること。生命とは「刹那的存在の集合体」
であることを、併せて理解されたし。
> 彼の生物的生命がなければ、いかなる教えも不可能であることには、思い至っているのか。 だからw 何度も、「五蘊があるでしょう?w」と言っているのです。(五蘊の項参照) 「 > 生物的生命 」とは、貴方がいつも言う『生命』のことですか?同じものなのですか? 一般的な意味での「生命」は、仏教に於いても認められていますし尊重されています。 慈悲や、戒めの多くはそこに依っています。 下記(5-1)に述べるように、各種「生理的働き」によって五蘊は維持されているわけです。 (当時ならば「四大によって」と解されていたでしょうが・・。) 十分でしょう? これ以上何が必要なのでしょうか? ちなみに、各種辞書の語義でも挙げておきましょうか?w せい‐めい【生命】 大辞泉(Yahoo辞書) 1 生物が生物でありつづける根源。いのち。「―の危険を冒す」「尊い―を犠牲にする」 2 ある方面で活躍しつづけることができる根源。「政治―」 3 人や物事がよりどころとするもの、また、それなしには価値がなくなるもの。いのち。「車の―はエンジンにある」 せい‐めい【生命】 大辞林(Yahoo辞書) [1] 生物を、無生物ではなく生物として存在させる本源。 生命を物質の一形態として発生的にとらえる機械論的考え方と、これを実体として見る生気論的考え方とが 伝統的に対立する。いのち。 [2] ある分野で活動していく上での原動力。活動の根源となるもの。また、その活動期間。 政治― 選手― [3] 物事の存在を支える一番大切なもの。いのち。 信用は銀行の―だ せい‐めい【生命】 広辞苑(昭和48年8月第2版第7刷) @生物が生物として存在し得るゆえんの本源的属性として、 感覚・運動・生長・増殖のような生活現象から抽出される一般的概念。いのち。 A物事の存立にかかわるような大切な点。
「本源」「根源」という言葉は用いられていますが、 『発生源』として、或いは『先立ったもの』として述べられているものは一つもありませんねw 強いて言えば、大辞林[1]の「生気論的考え方」が、それに当たりますでしょうか・・。 全て、『今そのようにあること』『生きていること』及び 『生きている時に、不可欠なものとして備わっている【属性】【性質】』(或いは「要素」)を指しているわけです。 それより先へは、(公的辞書の姿勢としては寧ろ当然ですが)、慎重にして踏み込んでいないわけです。 広辞苑に至っては、「概念」と言い切ってしまっています。 *(つまり、《「生命」もまた、他によって(諸条件によって)そこにある(≒見出されている)》(→相対的である) という見方は(この段階では)排されていないわけです。) *(「不可欠である」ということを「根源」「本源」という言い方で表しているようにも見えます。 尤も、この線引きも曖昧ですが・・。 だから「生命論」は、古来より「宗教的に」、「アニミズム」として、 廃れずに継承されてきている大きな潮流であり、【貴方もまた、その流れに与っている】わけです。) そして、仏教的には、《諸相が観察されることにより、その背後に「想定」されている》もの、ということです。 仏教に於いても現代科学等の知見に於いても、『諸条件がととのわなければ生じない』ということです。
>>316 「同時としてある」のかどうか、「可逆性をもつ」のかどうか、
いつになったら答えてくれるんですか?
320 :
神も仏も名無しさん :2010/10/25(月) 23:06:54 ID:fZgRKDo+
>>319 「相互依存的」「相対的」であれば、「可逆的」であるのは当然。
それよりも、「縁起」には「相依性はない」と主張する仏教者がいるようだが、
それは如何なる意図に基づくものか。
直ぐ前レスにおける「生命の定義」も、辞書執筆者の生命の機能であるw。
あほくさ
322 :
神も仏も名無しさん :2010/10/26(火) 01:21:08 ID:tnTasJuj
>>317 >だからw 何度も、「五蘊があるでしょう?w」と言っているのです。(五蘊の項参照)
>「 > 生物的生命 」とは、貴方がいつも言う『生命』のことですか?同じものなのですか?
五蘊を発する原動力があるということですね。その原動力とは「我」「生命」
ですか。そうでなければ何ですか。
五蘊も縁起なら、五蘊から生じる「苦」も「空」であり、気にすることはない
ですね。
人間も生物の一種だから、人間の生命が「生物的生命」であることは当然だが、
宗教者が、生命をわざわざ「いのち」などと表記し、生物的生命とは異なるもの
に変容させようとしている恐れがあるから、念のため「生物的生命」としたのです。
323 :
神も仏も名無しさん :2010/10/26(火) 06:13:57 ID:MnD/zFk5
>>321 もはや、自明のことを。
子供の落書きみたいなもんなんだから。
>>307 >それは「言語習慣によって説示する」というアホな訳をした訳者に対していうべき言葉だろう。
意味不明www
「論理的且つ複雑な内容」を伝達するのに、
【『言語に依るしかない』という考えに賛同できない】というわけですね?w
【『言語に依らなくても可能』というのが貴方の立場ですか?w (だから
>>304 一行目ですのに・・w)
「世俗に基づく」 → 「世俗の慣習に基づく」 ┬→ 「言語を使用する、(つーか、それしかない)」・・・(他の方)
貴方も他の方も 貴方も他の方も .└→ 「言語とは限らない」(貴方)
同意見 同意見
こんな簡単な図式すら理解できませんか?www
アホは貴方でしょうに・・・w だから、【言語に依らない場合どうするのですか?】と何度も尋ねているでしょう?w
一度もお答え頂けていませんが・・・ ┐(´ー`)┌
いずれにしろ、リンク先を百億回読むことですw
否定の為の材料探しに明け暮れるから、自説の論立てが滅茶苦茶になるのですよw
お気を付けなさいwww
(こういう風に、単純明快にするとスルーなんだよなぁ・・w でなきゃ、耳を塞いでリフレインw
人間として最低の屑ですね、貴方は・・。)
ちなみに、貴方が奈良さんとともに名前を挙げた三枝氏も「(世間の)言語習慣に依拠しなくては・・・」と訳してますよ?
平川訳と三枝訳は、直訳と意訳の違いでしかありません。
そして、平川訳は【「貴方が〈見下している〉」w直訳】ですよ?w 意訳マンセーの貴方らしくもない・・w
片山訳を挙げれば「直訳だ」「文意・文脈を汲み取っていない」(Dhp129偈の時ねw)と言い、
今度は、「vyabahAraのSkt語義には言語の意味は無い」と直訳支持w(含意されるものであるのに・・w)
三枝さんも「 > アホな訳をした訳者 」、と・・w で、その方の「換骨奪胎」発言は支持をする、と・・w
なんともまあ身勝手なことで・・・ (;´ー`)y━~~
>>307 > 苦が「固定的な本性」ではないのなら、釈迦が「苦」「苦」「苦」と鳩のように鳴いて大騒ぎする必要はなかろう。
いやいやw 関係ないでしょwww また、論理的整合性の無い接続ですか・・w
「 > 「固定的な本性」で 」あってもなくても、【それをきっかけにして】【原因探しと対策を講じましょう】と言ってるだけです。
別に、【苦でない、他のことをきっかけにしても構いません】よと言ってるじゃないですかw
何を大騒ぎしてるんですか? 鳩は貴方自身でしょうwww
> 放っておけば、やがて楽にに転じる。
いやいやいやいやw
原因追求をして対策を立てないから、何度も同じ事故が起こるのでしょう?w
原因追求をして対策を立てないから、何度も二日酔いになるのでしょう?w
原因追求をして対策を立てないから、何度も同じ過ちを繰り返すのでしょう?w
原因追求をして対策を立てないから、何度も同じ苦を味わうのでしょう?w
或いは、貴方は病院に行かないんですか?www
そういう、「原因を見定めて対策を立てる気になり易い」ということを言ってるわけです。
馬鹿丸出しのレスですね・・。
> 苦を意識し、苦に執着するから、却って苦が深まる。
原因を見つけられないからでしかありませんw
お母さんに何度も注意される子供のようなものですw 自分の都合と欲求にのみに従い、
なぜこのような事態に陥ったのかを、解し、受け止めないから、何度も同じ失敗をして怒られるのですw
何度も繰り返すことを止めるための、《「時間的」縁起》なわけです。
「相対性」や「相互依存」【だけ】&『現状肯定』では、解決に結びつかないんですよw
>自分の心など意識しないものだ
そうして、「わがままなまま」他人を傷つけていくわけですねw つか、自分の心を意識しないところに『同情』は無いぞ?w
貴方は、共同体内での共感をアピールしてなかったけ?w
自分の心を知らない者が、どうして他者の心に寄り添う(→「理解する」)ことがあろうか?
人は、自分と同じ心が他者にもあると思うから(→自分の心と相似していると比較理解するから)『共感』するのです。
まさに《読んで字の如く》です。 漢字好きの貴方らしくもない・・www
326 :
神も仏も名無しさん :2010/10/26(火) 06:44:57 ID:MnD/zFk5
>>324 >なんともまあ身勝手なことで・・・ (;´ー`)y━~~
これまた分かり切ったことをいまさら
なんで相手にしてるのか不思議
>>300 > 「苦」が生命維持に不可欠な心的現象であることを自覚してそれを受け入れ感謝することをせず、
いやいやいやいやw
勿論、仏教に於いても【受け入れるところがスタート】ですw
感謝するかどうかは、処世術としてのテクニックです。【感謝することは一向に構いません】。
*(ただ、一般人はそうしても、比丘はそうしない、というだけですw
毎早朝番組のアナウンサーが、他の人のように夕から夜、飲みに行ったりしないようなものです。)
*(或いは、全てが「自身の向上、気付き等に益している」という意味で、(「お陰様」という言葉のように)、
その方向性を含んでもいます。ただ、主眼、幹ではないだけです。)
寧ろ、貴方のように「見ないフリをする」事の方がよくありませんwww
貴方の考え方は、感謝することを超えて「闇雲に、盲目的に有り難がる」、或いは
『「苦」なる状況にあることを、【その克服や原因追求の道を封鎖し】、「味わえ!味わえ!」と強要している』ようなものです。
なんというカルト宗教でしょうwww
(《苦しみ感謝教》とでも名付けましょうか?w)
>>326 貪瞋痴の瞋かな?w
>>300 いいですかw
仏教は、「物事の原因やその依って起こる理由を見る」ものです。
「楽なる事象」についても、「苦なる事象」についても、見るのです。
そして、人は、
「楽なる事象」にある時、それを堪能します。味わいます。この時、その原因を探る者は稀です。
「苦なる事象」にある時、それを嫌悪します。回避しようとします。この時、多くの者が、その原因を探ります。
だから、苦の側面が強調されるのです。
「楽なる事象」は、具体性に於いて個人差・文化差が大きいので、事例、原因探求のきっかけとして弱いのです。
「楽なる事象」は、具体性に於いて個人差・文化差が小さいので、事例、原因探求のきっかけとして強いのです。
だから、苦の側面が強調されるのです。 (四苦八苦に見られる通りです。)
「楽なる事象」は、そのことにより「楽しまされ、慰撫され、癒され」、
「苦なる事象」に遭遇したことを過去のこととして押入れの奥にしまい込みます。水に流します。
*(まさに、貴方が推奨する方法論ですw)
それは、「苦なる事象」の原因探求に繋がらないのです。いや、「苦なるもの」だけではありません。
結局は、「楽か苦かを問わず、およそあらゆることに対しての【原因・理由の探求そのものが、されないまま】」、
「先送り」、「明日から本気出す」、「ダイエットは明日から」、「原因追求&対策は明日から」、となるのです。
だから、苦の側面が強調されるのです。
そして、「一般人(衆生・在家→世俗で世俗人として生きる者)は、
日常の諸事を、このような原因・理由探求で乗り越えてゆきなさい」と言われるのです。
対して、「修行者なるならば、皮相的原因・理由探求にとどまらず、
(楽も苦も併せて)その、もう一つ二つ奥の根源的原因・理由を見なさい」と言われるのです。
どこにも「生命」や「生」「生きること」の否定なぞないのです。
これが、
>>294 >>295 >>296 >>297 の骨子です
(なんだw これだけにまとまるじゃないかwww 相変わらず馬鹿な俺wwwww)
(ふむ・・。やっぱり「応答形式」の方がやり易いな・・w てか、自分にはこっちの方が合ってるw)
あ、
>>328 九行目、コピペ後修正し忘れw
以下訂正。
>「楽なる事象」は、具体性に於いて個人差・文化差が大きいので、事例、原因探求のきっかけとして弱いのです。
>「苦なる事象」は、具体性に於いて個人差・文化差が小さいので、事例、原因探求のきっかけとして強いのです。
330 :
神も仏も名無しさん :2010/10/26(火) 11:50:17 ID:4t1rrRew
>セブン氏へ 兎に角、釈迦の鬱病の症状である「苦」を健常者に植え付けて洗脳するという 悪質な宗教勧誘行為はお止めください。キリスト教が「罪概念」を植え付けて 洗脳しているのと全く同じ。地獄に墜ちるに値する極めて悪質な布教手段です。 「説示」という言葉が有る以上、「言語」と言う言葉は不要。そもそも、「言語 習慣」という言葉が意味不明。「言語及び習慣」の意味ですか。それとも「習慣 としての言語」の意味ですか。単に「習慣」とすると「世間の一切の慣習」となり、 洗脳が不可能になってしまうからではありませんか。 それほどまでに「苦」に執着する釈迦は、立派な「実体論者」です(彼の鬱病の 症状なのだから致し方ないが)。竜樹はそこを批判している。 釈迦の「無明→苦」の公式は、そのまま「生命→楽」の公式に書き換えること が出来る。そして後者の公式が「世間一般の慣習」「人間性の真実」です。 生命を「無明」とした釈迦の思想は、初めから間違っていることになる。お話 にならない。
331 :
神も仏も名無しさん :2010/10/26(火) 11:55:09 ID:MnD/zFk5
332 :
神も仏も名無しさん :2010/10/26(火) 12:41:18 ID:Biq0I0bJ
息を止めたら苦しいから息をしたくなる。(動きたくなる。) 生命活動の動きとは、このように苦しみがあるから動く。 美しいものが視界に入ると見たくなる。 これも、見ずにはいられない(見ないことが苦しい)から見るという行動になる。 性欲も、刺激があると行為したい、行為しないことの苦しみがある。
333 :
神も仏も名無しさん :2010/10/26(火) 12:55:21 ID:Biq0I0bJ
私達の瞬間瞬間の身心の動きは、瞬間瞬間の苦痛に反応して衝動的に動く、その連続。 こっちの苦痛からあっちの苦痛へ、苦痛から苦痛へ乗り換えたとき、 快楽と錯覚するが、快楽の裏には苦痛がある。
334 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/10/26(火) 16:24:25 ID:Hhf24TjL
規制解除になったのですが、特に書き込むようなことはないのですが、また規制にな ることも考えられるので、一言入れさせていただきます。 まあ、「決定邪見」という用語がありまして、私もこの言葉の定義には詳しくはないの ですが、多分、唯物思想のような断見も含まれると思うのですが、定義内容よりも、仏 教者側から、外道を相手にする際の態度を決定する一つの尺度としては、「決定邪見」 という言い方は便利ではあると思うのです。思想の内容が仏教か非仏教か、はたまたク リスチャンか非クリスチャンか、自然科学主義か非自然科学主義かという問題ではなく、 要するに、他人の意見を全く理解するつもりが毛頭ない人、要するに最初からコミュニ ケーションを成立させるつもりのない人というのがいるわけで、それを仏教を説く側の 立場の人々は、「決定邪見」というカテゴライズしたのだと思います。「邪見」の中身 は、仏教によったり、キリスト教によったり、自然科学によったり、それぞれによって 定義域が左右されますが、そこはどうでもよくて、「決定」というラベルに重きがある わけです。 まあ、もちろん、仏教内部においては、この「決定」度こそが、執著の深さの度合と直 結するものとして、「邪」として論じることにもなるわけですが。
335 :
宗教患者隠居逃亡せず答えろやw :2010/10/26(火) 18:17:20 ID:Z/CB/orr
宗教患者隠居反論してみろやw
病的一神教徒宗教者、隠居生命教脳の解析を始めようw
さて、隠居生命教は人間の精神苦の原因分析を否定し
病的一神教のように生命で解決できうる宗教である。
チリの閉じ込められた19歳のジミー君は毎日PTSDに苦しみ、母親と一緒でないと寝られない(朝日新聞)
らしが、
病的一神教徒宗教者、隠居生命教の宗教患者の脳の見方は異なるようであるww
153 :神も仏も名無しさん:2010/10/16(土) 19:57:57 ID:v434uxvf
>>152 チリの作業員たちは、生命が助かった喜びで、PTSDなどもはや存在しない
ようだな。
隠居生命教がこのような人間の精神の苦を無視できる病的宗教患者の姿の予想が可能であるw
隠居は幼児期、カルト系キリスト教教団(エホバ)による虐待を受けた、と予想される。
思考回路が病的なアルカイダ、タリバンの思考と同じである。
隠居的病的宗教患者の思考こそが宗教戦争の根源であるw
そして、最近の学説によると幼児虐待をする人間の脳は幼児虐待されているので、
感情のコントロールを司る、大脳辺縁系及び海馬の縮小が見られる、
他者の精神の苦や感情に対する共感が低下し、平気で残虐な虐待ができうる。
故に、隠居生命教は感情及び、人間の精神の苦の原因分析を否定し鈍感であるが故に、
人間の精神の苦、感情を分析する釈迦は隠居生命教で否定されるのであるw
宗教患者隠居とカルト教団の共通点、
他者の精神的な苦に対する共感が無い事、それが故にテロみたいな原理主義行為ができうるw
チリ鉱山の書き込みで明白w
>>331 既に作文終わってるからねぇ・・(^^;
あとがき読んで貰えれば、嘲笑を浴びる道化と化しながらもレスし続ける意味が、少しはわかるだろう・・w
また、日々の鬱憤を晴らす形になっていることを、自分でも情けなくは思う。
宝珠や在家の時のように、(自分の中でも)一区切りつけば、それで止まると思うw
(少し前には一瞬そっちへ傾いたけど、あまりの愚劣ぶりに、またもやカチンときてしまったw
そして現在に至る・・、とw)
とりあえず投下し終わるまでは、
>>330 他めぼしい物はちょくちょく解析するわw
(哲板へ道場破りに行くよりマシかと・・www)
あと、「大乗とは何か」(法蔵館/三枝)p154見てみました。(さっき届いた。)
(全体は、ざっと拾い読み。論文でなく、講演的・一般啓蒙書的論考が多いので、さっくり読めるかも。)
で、【確かに、隠居の言う通りの文章だった】。 が、その一段を、通して読んで爆笑したw
「【一部】を除き、隠居全否定やんかwww」、と。
*(龍樹による「尖鋭化」「純化」の弊害を感じる私としては、
他の縁起や空に関する話(その多くは、カルチャーセンターの講座的だがw)等
には100%の同意をするものではないし、もし、その【一部】・「一言」に関して、
三枝氏の勇み足でなくその通りであるなら、(隠居とは違った意味でw)
龍樹と初期仏教の縁起を異質なものと捉え、袂を分かったまま進まねばならんかな・・?
と、思ったりもするw 石飛本も読んでみるかなぁ・・・w)
あとで(数日後?)、(また長くなるがw)該当段落を全文引用する。
腹筋崩壊に御注意を・・w >>ALL
彼は一体、どういう読み方をしてるのやら・・・ (;´ー`)y━~~
337 :
神も仏も名無しさん :2010/10/26(火) 19:51:20 ID:MnD/zFk5
>>336 なるほど、なるほど。
生命教の文はほとんど読んでないけど、三枝はだめでしょ。
いろんな面で、全然ダメだと思う。松本一歩前みたいなタイプ。
石飛先生の新刊本は素晴らしいよ。是非、三回ぐらい精読してくれよん。
二時間ぐらいで一回読めるほど読みやすいよ。
はいよ。 つ「大乗とは何か」〈第7章5節末(p154)〉(三枝充悳/法蔵館/2001年6月) (これより前段は、六波羅蜜及びパーラミターの概観を経て、般若経典群に於ける「(般若)波羅蜜」の強調は、 「空」思想によっており、それを鮮明に打ち出し、確立させたのがたのが『中論』であるという流れを受けて。) ※“【”“】”墨括弧は引用者が挿入※ ・ この理論づけは、『般若経』の一部にもやがて示されるとはいえ、明確には、 ナーガールジュナ(龍樹、一五〇〜二五〇ころ)の『中論』により確立される。 すなわち、初期仏教以来ほぼ仏教の基本思想〔のひとつ〕であった縁起説を、いわば換骨奪胎して、 【完全なる相依にもとづく縁起説】として展開させ、 そのなかには、相互肯定の奥に相互否定ないし相互矛盾があって、全面否定を象徴する八不が説かれ、 しかもそのような表現方法であることばそのものの虚構も解明される。こうして、 【実体的存在・実体的思考のいっさいを許さない無自性】があらわとなり、それを空に統括し帰着させる。 しかしそれもまた、一種の不完全な仮の施説にすぎず、 この【ことばにもとづく世俗諦(世俗における真実)】によりつつ、【さらに勝義諦へ】、 そして超越者である如来へ、また理想のニルヴァーナにいたろうとする。 ただし、如来もニルヴァーナも、やはり空にほかならず、 世間(『中論』ではあるいは jagat 、あるいは saMsAra )との複雑な相依の縁起にあるという、 往と還、ないしは螺旋を描きながら完結を知らない理論が創られる。 右の『中論』に説かれる「縁起→無自性→空」という論理的基礎づけに関し、『般若経』は、 その初期には「空」を説くのみであったけれども、やがて「無自性→空」があらわれ、 さらに右と同じが説かれるようになる。あるいは、初期大乗仏教における歴史的発展の順序は、 「空(およびその同義語)→無自性→縁起」であったかもしれない。 ※上記文中の矢印(→)は、時系列でなく、【矢印の先のものを、何によって説明、担保しているか】ということ。
339 :
神も仏も名無しさん :2010/10/26(火) 20:11:54 ID:MnD/zFk5
>>337 カルチャーセンター的砕けた説明とはいいながらも、
やっぱり縁起(或いは空)の説明に、「物」(或いは色)を使ってるからねぇ・・w
心経を引っ張ってきても、受想行識は名前が出てくるだけだしね・・。
お釈迦さんは、「常に、心理面で縁起を説いていた」と、俺は思うんだよね・・・。(遠い目w)
その手の本で二時間は早いな・・。
つか、論理学自体縁がないし、素養がないからね・・。その方向で語られてもワケワカメなのさ、オイラはw
342 :
神も仏も名無しさん :2010/10/26(火) 20:26:40 ID:MnD/zFk5
>>340 >つか、論理学自体縁がないし、素養がないからね・・。その方向で語られてもワケワカメなのさ、オイラはw
まあ、石飛先生の論理に慣れているという点はあるにしても、よどみない論理と簡明な説明はほとんど前提となる知識はいらないと思うよ。
難解な言葉は、すべて説明されてるし。
>お釈迦さんは、「常に、心理面で縁起を説いていた」と、俺は思うんだよね・・・。(遠い目w)
そう思う。外縁起にしても仮設としての諸法でしょ。
>>341 一応、原始仏教から入って『般若経』も読み、龍樹菩薩の諸著も読んだけど、
前提として実在論に基づく現代の常識に基づいて適当に辻褄合わせてみたってかんじですな。
まあ、彼はこんなもんでしょ。まさに松本一歩前。
しかし、岩波って仏教にセンスないな〜
>>300 > いたずらに苦を感じ、悩むことは、現代の精神医学では明らかに「病的心理」です。
> それが分っているのなら、いつまでも釈迦の「心の病」に執着することなく、
> むしろそれからの離脱にこそ努めるべきではありませんか。
>>328 > それでは、「生への活力」は一切生じ得ないからです。
生じ難いのは事実です。仏教は「競争社会での勝利追及」には向きません。
これも、レスしてある筈です。競争力を維持増進したいなら、仏教を捨てるか、距離を置けばいいことです。
適度な距離で援用していけばいいことです。誰もそれを咎めやしませんw
(お釈迦さんでもねw 出家せず在家のまま、自分の社会的職責を全うした者がどれだけの数いたことか・・。
仏典を読んでいない貴方は知る由もないでしょうが・・・w)
競争力の低下を悪とするなら、それはそれで構いません。ただ、その弊害にだけは目をつぶらない様にしてくださいねw
*(尤も、禅の系譜は、大きく競争力に寄与するかもしれませんが・・。)
> 現に、あなたの書き込みを読むと、世の中が憂鬱になり、苦は却って増すばかりですよw。
だからw、強調されているだけですので、バランス取りつつ観察を進めればいいのです。
「楽なる事象」に注視して原因・理由探求をし、諸法の縁起することへの理解に近づければそれでも良いのですw
ちなみに、貴方の方法では、『苦が繰り返されることを防げない』のですw
> 一切衆生はどんなに苦しい時でも、ささやかな楽を見出して、懸命に生きています。
その通りですねw だから何?w
>>300 > 釈迦は、自己の鬱病故に、人間性の洞察ができなかった。
できていないのは貴方でしょう?www 人の「心の動き」がまるで見えていないw
「自説の主張」(=宗教的なるものの否定、仏教の否定)、或いは(精霊大王も触れていたが)「結論」がまずあり、
それを成立させる為に、諸事をかき集めるのです。関連性や文脈、論理的連関が皆無なのです。
【自説や結論に合わないものは、どんなに重要な事象であっても、無視・切捨て】なのです。
まさに、悪しき「トップダウン」なのです。 (ちなみに仏教は「ボトムアップ」ですよw)
*(そしてまた例の如くw、「 > 故に 」の接続に論理的&意味的繋がりがありませんね。
寧ろ逆に、「鬱的傾向だったからこそ、人間性の洞察へと向った」と見る方が、
資料の分析と心理学的理屈からは妥当なのですよw)
> この意味で、彼の「無明」から「苦」に繋げる「八正道」は、
> 「世間の一切の慣習を破壊する」ものとして、明らかに誤りといわざるを得ない。
どの意味で?w また「論理的・意味的繋がりの無い接続」ですか・・w
しかも、「 > 「無明」から「苦」に繋げる「八正道」 」?
何ですか?これは?www こんなことがどこの仏典に書いてあるというんでしょう?w
貴方も、捏造癖が抜けないようですね・・・。
是非、『なぜ破壊されるのか』『どこがどう破壊へ結びつくのか』、詳説していただきたいものですw
(ま、どうせまた【思いつきの言いっ放し】なんでしょうが・・・w (´ー`)y━~~ )
> 「病的心理」に基づく「縁起の理法」は、むしろ縁起自体を破壊するものです。
意味不明w
是非、『なぜ破壊されるのか』『どこがどう破壊へ結びつくのか』、詳説していただきたいものですw
(ま、どうせまた【思いつきの言いっ放し】なんでしょうが・・・w (´ー`)y━~~ )
> 大乗がいかにして釈迦の病的心理を克服するに至ったかを、大乗経典を通じて探ってみてください。
大乗まで下らずとも、釈尊在世中に克服されているわけです。
(それに、【少なくとも貴方よりは】読んでるんじゃないですかねぇ・・w
いや、この発言は一応撤回しておこうw 大乗経・論書は数えるほどしか見てないわwww)
>>300 > 「生」を否定する宗教や思想は、生存共同体としての人間にとっては、無意味・無価値・有害なものに過ぎません。
何度も言うように、どこにも否定されていませんw
寧ろ、肯定、尊重されていますよ?w いったい、どこを見てるんですか?www
> 「論理の正しさ」とは、「生の肯定」のみに存在します。
ハァ?(゚∀゚)
哲学徒が見たら泣くぞwww 貴方の愚鈍な感性に腹筋崩壊させられて・・w
> 万物の相互依存性・相対性を悟った時、初めて過剰な苦が滅し、苦は生のための活力となり得ます。
> 釈迦の「苦の滅のために煩悩を、五蘊の仮和合や無我という自己欺瞞により去れ」という「素人療法」は、
いやいやw 素人療法は貴方でしょうwww
しかも、麻酔・麻薬(→「楽」)を使って痛み(→「苦」)を誤魔化しているに過ぎないじゃないですかw
痛みの原因が何であるかを知ろうともせず、一時凌ぎの先送り。
「どこが、なぜ痛むのか(→苦と感ぜられるのか)」を探らず、投薬や節制、環境改善もせず、
取り急ぎ麻酔をかけて、「楽になったぁ〜♪」(ハイ、オシマイ?) 馬鹿ですか?
> 生そのものの否定に連なり、人間の本質を考慮すれば、基本的に誤った「病的思想」に過ぎません。
何度も何度も何度も言うようにw、「 > 生そのものの否定 」なんぞ、どこにもありはしませんよ。
また見えない敵と戦っちゃったんですか?wwwww
結局、
>>287 >>288 >>293 でしかないわけで・・・w
というか、既に、はるか過去、同様の指摘をされている方がいましたねw
(先日見かけたんですが、コピペし忘れてキーワードも曖昧なので、検索できてませんが・・。)
> 4 「聖俗のダブルスタンダード」が仏教であると言われるが、「聖」の根拠は何か。 貴方は根拠厨ですか?www ま、冗談はともかく、 (今の日本に於いては影が薄くなってますがwww)、 社会(≒共同体)に於いて『「その在り方」が認められている』ということです。 『「その視線」「その価値観」が認められている』ということです。 上の二つのリンク先中にても触れていますが、この「別」は地域や時代を超えてどこにでも見出されるものです。 「ハレとケ」の例も出しましたが、貴方はスルーしたままでしたね。 歌舞伎の書割の際も、結局貴方は「複数の視線が存在し得る」ことはお認めになりました。 そのように、「別の視線、価値観」であるだけです。 根拠も何も、人が(社会・共同体が)既に有している、既存の区別であるに過ぎません。 (また、それこそ、相対的でもありますw) もし、強いて言うならば、 《【人が】、「日常的雑多な慌しい在り方」とは違う、 「安心・安楽、癒し・回復、或いは清廉・身軽、或るいはシンプル・純化された(理想としての)在り方」を【希求するから】》 或いは、 《【人が】、倫理や道徳の面で、「日常の視線・価値観による、揺れ幅の大きい(安定性の弱い)規範・基準」としてでなく、 「より広く、包括的に、(時には地域性や時代性を超えて)作用する、効力を発揮する、従わざるを得ない、 “最大公約数的”或いは“心情的強制力の高い”共通規範」を【希求するから】》 ということになります。 それが、「聖(なる視線、価値観)」が存在する根拠となります。 *(前者は、「ハレとケ」、特に「祭り」(祀りじゃない方w)に於いては逆の位相である場合が多いですが、 「癒し」や「回復」の作用は持たされたままです。それは「担わされた役割」がそういうものであるからです。)
> 同じ人間を勝手に「聖」と「俗」に区別するのは、「人間差別」ではないか。 ハイ?(゚∀゚) 誰がそんなことしてるんですか?w どこが「 > 勝手に 」なんでしょう?w 《「聖なる領域に身を置き」「聖なる価値観を持つ者」》と《「俗なる領域に身を置き」「俗なる価値観を持つ者」》が 区別されているだけです。しかも、貴方自身「 > 区別 」と表現していますね。 この「区別」を「 > 差別 」に転化しているのは貴方自身ですよ? 勿論、《「俗なる領域に身を置き」「聖なる価値観を持つ者」》《「聖なる領域に身を置き」「俗なる価値観を持つ者」》 もありえます。しかし、それは、「目立つ」「異質な」在り方、「特殊な事態」として見られるわけです。 (それが、「区分・区別、分類、カテゴライズ」というものです。) 学校で、教鞭をとっている者を「教師・先生」と称し、それが「教える側」であり、 授業を受けている者を「生徒」と称し、それが「教えられる側」であるようなものです。 もしかしたら、「いや、教師が生徒に教わる・教えられることもあるじゃないか」と言うかもしれませんが、 構図自体は勿論変わりません。個々がどのように呼称されようと(→分類先が変わろうと)、 【「教える側」があり「教わる側」がある】という構図はそのままです。 「どちらか一方が正しい」、或いは「どちらか一方しか無い」ということではないのです。(これも或る意味、「相対的」ですねw) 【「日常」と「日常でない」という対比であるだけ】なのです。 そして、【「日常」が「俗」であるので、その「日常でない」方が「聖」と言われる】だけのことです。 何も難しいことはありません。 *(勿論、「聖」という概念(語・文字)が当てられているのは、(「俗」も同様ですが)、 その内容との絡みからですが、今は措きます。)
> 医学は、人体という確固たる判断基準があるのだから、医者との比較は当てはまらない。 貴方はホントに、読解するにも自分でするにも、譬喩表現が苦手なようですね・・w (歌舞伎の書割の時もそうでしたね・・。) 「 > (確固たる)判断基準 」があるかどうかは問題となっていません。 少なくとも、この譬喩表現の上では、それは【比較要素・比較内容に関わるものではない】のです。 比較し相似したい構図に於いて重要必須なことではないのです。 《それぞれの在り方に於いて、それぞれに適した「視線のとり方、価値観」があり、 「A側の在り方の上に、B側に適したものをはめ込むのではない」 「B側の在り方の上に、A側に適したものをはめ込むのではない」》ということです。 在り方が変わる際に、推奨・要請されるということです。 【寧ろ、A側である時にはA側に適したものでなければなりません。 B側である時にはB側に適したものでなければなりません。】 あの譬喩は、ただそれだけのことです。
>>227 > 五蘊とは、人間の生命の維持に不可欠な、認識・感情・思考のことである。
はい。これがそもそも間違っていますw 身体はどこへいったのですか?w
五蘊とは、(漢訳で言えば)「色・受・想・行・識」です。そして、原義・出発点としては、一個人の
「人間としての存在」を、その【要素】と【働き】についてみたものです。
今様に言い換えれば、「色」は「肉体」、
続く「受/想/行」が「感受・(感じるという作用そのものとしての)感覚/
印象・想念・イメージ・(感じられたものとしての)感覚/意・志向・意の動き」
そして「識」が「認識・思考・(分別を伴う)知覚、或いは知識」となります。
大きく二分すれば『色と心』(肉体と精神作用)ということです。
「人間存在」を説明する際、これで尽きているわけです。
*(尤も、ここに「霊」や「魂」を加えたり、或いは「識」だけを切り離す方もいらっしゃいますが・・・w)
だから、貴方が五蘊について述べる時、或いはその見方を否定する時は、
『「色」(実体・実在)のみがある。他の4つは存在しない』という方向性でなければならないのです。
現に、心経の引用に際しても、貴方は「色」の部分にしか触れません。
貴方が、他の4つ(心、精神作用)を無視しているからです。
「関係性」「関係性」と連呼していますが、その実体は《「物」と「物」との物理的関係性しか見ていない》ことに他なりません。
そして「縁起」は、色以降の4つに於いてこそ重要であり、またその意義を大きく持つのです。
寧ろ、それに尽きると言ってもいいくらいです。
「内縁起」「外縁起」という術語が仏教学内にはありますが、その区分に倣えば、「内縁起」こそが「縁起」の本領なのです。
> その仮和合している五蘊の一つ一つは一体どこから生じていると、彼は考えているのか。 「どこ」という問い方自体がそもそも間違っているわけですが、(宝珠氏の涅槃についても同様でしたねw)、 強いてその問いに答えるなら、「色」は受精・受胎によるでしょうし、 他4つは、境との接触感受により『生起』するわけです。 それ以外に発生源はありません。 *(三世に跨る輪廻をモチーフとして加えれば、その「色」の発生は(前世の)「業」ということになりますが、 今は触れずにおきます。) > 和合させている原動力は何か。 五蘊全体を丸っとひっくるめてのことなれば、冷たく言い放てばw、「縁」ということになりますw 或いは「業」と見ることも吝かではありません。 *(私は、一足飛びにそこへ行くことには疑問符をつけますが・・。) 後ろ4つの「生起・変遷の連鎖」は、まさしく意業にも依っているからです。 ただ、後ろ4つは「色」に依存しますので(「色」ある限り和合・生起し続けますので)、 後ろ4つを和合させているのは「色」ということになります。貴方の【問いの質】に合わせて答えるならば、ねw では「色」を和合(生起)させているのは何か?ということに問いはシフトするでしょうが、 これは、生物学的・発生学的・医学的な「生命」wの発生(生育)過程、そのシステム・理由・原因で十分でしょう? 遺伝子というプログラムを持ってきてもいいですが、それはあくまでも「プログラム、設計図」でしかなく、 実際の細胞増殖や組織の生成等は、それらの「生理的働き」によっているわけです。 *(貴方は、ここで言う、この「生理的働き」のことを『生命』と言っていることになります。 生物学発生学的には、ねw そして、その働きを引き起こしているのが遺伝子ということになるのでしょう。詳しくは判りませんが・・。) 言ってみれば、各所の(各組織の―たとえば脳、たとえば心臓、など―)「こうした生理的働き」が原動力なわけです。 それ以上何が必要なのでしょうか? (勿論、それらもまた「因により縁によっている」のは言うまでもありませんが・・w)
勿論、2500年前のインドに於いて、現代のような詳細が知られていたわけもなく、 同様の考察は「四大(地水火風)」として考えられていたわけですが。そして、貴方が希求するような原動力としては、 大きく《「火」(→熱、温度(→象徴的に“アグニ”“アグニ神”へ。))によるもの》と 《「風(≒息)」(→空気、息(→象徴的に“ヴァーユ”“ヴァーユ神”へ。))(【→→動き・変化】)によるもの》との 二派となるわけです。どちらも、「生命の(→生あることの、生きていることの)根源・源泉・力」と見做されます。 当然仏教では、この【四大(全て)が揃う】ことを条件とします。 *(だから今でも、体調不良による欠席の旨知らせる手紙等では「四大不調により云々」と使用されます。) だから、隠居サイドに百歩譲ればw、仏教では『生命』ではなく『四大』を、「生」の「原動力」としていると ギリギリ言えないこともありませんw いずれにしろ、どこにも《【貴方の言う】『生命』》という根源を持ち出す必要はないのです。 また、貴方のこの二つの問いは、いずれも「外縁起」についてのみのことなのです。 五蘊について問うているように見えながら、実は「色」についてのみの問いにしかなっていないのです。 *(そして、余談的に少し補足すれば、「内縁起」として「心」を見るとき、その時、「無明」が根源となるのです。) > 五蘊を統合する主体がなければ、五蘊はばらばらのままであり、人間は崩壊する。「精神の分裂」である。 > 統合失調症(精神分裂病)とは、この統合力が欠如した状態である。 「 > ばらばら 」とはどういうことを言っているのでしょうか? まさか、ブロックが散らばるような「ばらばら」ではないと信じますがw、 上で述べたように、五蘊が、「色」を紐として結ばれる如きものなれば、 その上で、【互いに結ばれた上で】、【その連携に於いて「ばらばら」に】ということならば、あり得るでしょう。
353 :
神も仏も名無しさん :2010/10/27(水) 07:57:32 ID:DwQrqhGJ
>セブン氏へ しっかし、宗教患者は、自分の親でも親類でもない、赤の他人の大昔の精神病 者の開祖・教祖に何故それほどまでに愛着・執着し、その者に対するいかなる 批判に対しても荒れ狂い、ありとあらゆる愚にも付かない「正当化」に躍起と なるのかね。やはり、開祖・教祖の精神病の感染(感応精神病)という精神医 学的現象以外には考えられない。 「精神病者である釈迦やイエスが言ったから真理である」などということは、 どこからも出てこない。真理とは「誰が言っても真理」のことである。 しかも、彼等が語りかけた対象は「当時の状況における、当時の人々」である。 科学の飛躍的進歩により、人間社会がdrasticな変容を遂げた現代においては、 現代人として完膚なきまでの批判を加えるのが、当然のことだろう。時代錯誤 は速やかにやめるべきである。それは「思考停止」「思想的怠慢」以外の何物 でもない。 再度警告を繰り返す。 「兎に角、釈迦の鬱病の症状である「苦」を健常者に植え付けて洗脳するという 悪質な宗教勧誘行為はお止めください。キリスト教が「罪概念」を植え付けて 洗脳しているのと全く同じ。地獄に墜ちるに値する極めて悪質な布教手段です。」
354 :
神も仏も名無しさん :2010/10/27(水) 08:34:05 ID:DwQrqhGJ
>>345 >いやいやw 素人療法は貴方でしょうwww
>しかも、麻酔・麻薬(→「楽」)を使って痛み(→「苦」)を誤魔化しているに過ぎない>じゃないですかw
>痛みの原因が何であるかを知ろうともせず、一時凌ぎの先送り。
>「どこが、なぜ痛むのか(→苦と感ぜられるのか)」を探らず、投薬や節制、環境改善も>せず、
>取り急ぎ麻酔をかけて、「楽になったぁ〜♪」(ハイ、オシマイ?) 馬鹿ですか?
それに反し、釈迦は、その鬱病の病状から、「一切皆苦」として「ありもしない苦」を
でっち上げ、それに対し「自己欺瞞」という「麻薬」「麻酔」を使って治療しようとして
いる。どっちが馬鹿ですか?現代医学では、麻薬や麻酔は、その致死的副作用から、極めて
慎重に使いますよ。歯科麻酔でも、死ぬ人は少なくないのです。
> 生そのものの否定に連なり、人間の本質を考慮すれば、基本的に誤った「病的思想」に過>ぎません。
>何度も何度も何度も言うようにw、「 > 生そのものの否定 」なんぞ、どこにもありは>しませんよ。
>また見えない敵と戦っちゃったんですか?wwwww
釈迦は、「生活作用の原動力(これは「生命」以外にはない)」を「無明」とし、苦の
原因とする。「生命の否定」以外の何物でもないではないか。しかも釈迦は、己の「無明
たる生命」を以って教えを説いたw。これほど滑稽な姿はあるまい。
「無明」どころか、「すべてを知る」のが生命であることに気付いていない。
355 :
神も仏も名無しさん :2010/10/27(水) 09:02:00 ID:DwQrqhGJ
>>350 >「内縁起」「外縁起」という術語が仏教学内にはありますが、その区分に倣
>えば、「内縁起」こそが「縁起」の本領なのです。
その「内縁起」を発生させ、認識するのが、「外縁起」としての「生命現象
を現す肉体」。釈迦は、物事の順序を間違えている。彼の鬱病の病状としての
「観念過剰」「観念の遊戯」に過ぎない。
356 :
神も仏も名無しさん :2010/10/27(水) 09:10:28 ID:DwQrqhGJ
>>350 その「色・受・想・行・識」は、すべて「生命現象を現す肉体」から
発生し、それによって統合される。死体にはすべて不可能。
それらが統合されないでばらばらになることを「統合失調症(精神
分裂病」と呼ぶ。
後ろ4つが「ばらばら」であるというのも、そうした【連携の不具合】としてなら、 貴方がよく例に出す精神疾患、或いはその予備軍的精神状態がそれだと言ってもいいでしょう。 「色」を含めるなら、器質的疾患等がそうでしょう。この点では貴方の言う通りです。 また、心理学的に《「統合する主体」が「精神(心)の安定性を保つ」》というのもその通りでしょう。 しかしそれは、「識」においてのみのことです。「識」において統合されるし、また、統合されたものが「識」であるわけです。 そして、受は「身体的、心理的感受そのこと」でもあるので、実際は「想」と「行」と「識」の不統合しか問われることになりません。 「識」において整合性を持って統合され得ないことがあったとしても、それは、「ばらばら」にあるということではなく、 通常の、公約数的連携・関係性とズレた形で繋がっているだけです。(だから、精神疾患なのでしょう?w) その意味で言うならば、〈「ばらばら」になることは無い〉、となります。 【その作用の仕方、関係の仕方に不具合が出ている】というだけです。「ばらばら」なのではありません。 つまり、五蘊に関して精神疾患や統合失調を言うことは、聊か筋違いとならざるを得ないのです。 五蘊が「ばらばら」になるということもないのです。それは「縁起」にも反する考えなのです。 また、「色」がある以上、後ろ4つが「ばらばら」になることもないのです。 *(だから、如来或いは阿羅漢の死を(五蘊の滅を)般涅槃と称したり、生存中を有余涅槃と称することとなるのです。) 精神疾患等に絡めて話を進め深めるなら、「想・行」を視野に入れた「識」の領域でなされることなのです。 *(それが「心理学」「精神科学」の領域でもあります。(たぶんw))
358 :
神も仏も名無しさん :2010/10/27(水) 11:12:51 ID:mQ8knDil
アメリカを批判するのはいいが、 911を自作自演した!とか言い出せば 「そりゃ違うだろ」と指摘される それと同じ。 批判すること、そのものが否定されるのではなく、 批判の内容におかしい点があるので突っ込まれる。 それくらい区別しよう。 大乗非仏論を否定できる発想は護教論に使えそうだな、と 生暖かい目で眺めてはいるが、 それと生命教のくだらなさは別だ。 どんなスレで披露されようがゴミだなあという 感想しか持てないだろう。 つまるところ、仏教が変であることと 隠居教が変であることとは別だ。 仏教が変だったりそうでなかったりすることで 隠居教への評価が変動してるわけじゃないんだよ。
問題となるのは、≪「統合する主体」がなければ、精神の安定が保てない≫という部分です。 これは、別枠を設けた方がよい論点となりますが少しだけ触れておくと、 上で少し触れたように、「識」が統合の働きを担うわけですが、その意味での主体が、 仏教に於いて「無い」或いは「なくせ」と言われるものではありません。 「そうした働きを持つ「識」」としてはあるわけです。(これを、自洲法洲の「自」にもってくることも 不可能ではありません。尤もこの場合は、やはり「五蘊総体の」とすべきところでしょうが・・・。) 「これを、固定的であり、自分を自分足らしめている絶対的存在と見るな」と言われるのです。 そうした主体(≒識)もまた、出生以来 「因により縁により、接触と感受を縁とすることにより、生起し、存続してきた、 《「識」において形成されたもの》、諸法・諸行の一つ」 なのです。 *(宝珠氏の、「涅槃の境地を自覚するのは誰か?」という「主体探しの旅」と、全く被る部分です。) **(まさに五蘊無我(非我)説のことですね。) これは、貴方が、 「五蘊」、「根境識」(「十二処十八界」)、「接触を縁とし、感受を縁とし」 ということについて予備知識もない以上、この程度しか言えません。 そのことにより、問い自体が不鮮明でもあるからです。 せめて「五蘊」及び「十二処」に対する正しい理解と、 「意根」によって感受知覚されるのが(この場合、概念としての、抽象的存在としての諸々)「法」であること、 を把握してから問い直して欲しいものです。 私も書いていて、主軸を(何について答えているのかを)見失ってしまいました・・w orz 未熟で申し訳ない。 >>ALL
>>227 > 6 デパートでの試食の例を引かれたが、「まず食べて(やって)みなさい」と誘って
> 洗脳に持ち込むのが、カルトの常套手段である。
そのやり方は「カルト専用」でもないでしょう?w カルト団体【も】使用しているだけです。
アルコールランプは、ヤク中も使えば理科の先生も使いますw
街頭演説は、右翼の街宣車もあれば、地元の無所属議員の時もありますw
ま、そんなことはどうでもいいですがw、
寧ろ、「サンプル無し、見本無し」の方が不安でしょう?w(ましてや、説明に虚偽や隠蔽があったりしたら・・。)
羊頭狗肉かどうかは、食べてみるのが一番ですw
貴方は、まず 《相手をカルト認定したい》 という想いがあり、それを成立させる為に、
《「ほんの少しの関連性」を「カルト的である」と誇張して、その理由・根拠に用いている》に過ぎません。
参:
>>288 > 7 釈迦の最大の論理矛盾は「一切皆苦」であろう。
> 「一切苦楽」が、人生における真実である。
だからw 議論スレ5の470及び〔最大カテゴリとしての苦について〕のリンク先を全部読んで来なさい。
話はそれからです。 悉くスルーしといて何を仰るやら・・w
361 :
神も仏も名無しさん :2010/10/27(水) 13:15:40 ID:r7TQhzxw
>>358 >隠居教への評価が変動してるわけじゃないんだよ。
君たち「小乗カルト」から評価されたら、こちらも同じ穴の狢のカルトということ
になる。
大乗非仏論などというカビの生えた言葉を持ち出すが、釈迦自身が書いた経典など
唯の一つもないのだから、それを言うなら、小乗も同様に非仏論だ。
大乗によって換骨奪胎され、コペルニクス的転回をされた小乗は、もはや残りクズの
はず。そんな残りクズに未だに執着しているきみたち小乗仏教徒は、日本人として
理解不能である。それは、釈迦に対する「個人的未練・愛着」、つまり洗脳の結果に
過ぎない。日本で小乗などやっているのは、東南アジアの宗教であるテーラーワダと
小乗の影響を受けた他のカルト宗教と極一部の仏教学者だけ。
362 :
神も仏も名無しさん :2010/10/27(水) 17:33:39 ID:14YAEbuR
石飛道子氏の最新刊「『竜樹』(あるように見えても「空」という)」(佼成出版社 2010年9月20日発行、定価¥1400)を、1時間足らずで読了した。 皆が手放しで素晴らしいと賞賛するほどの本ではない。その理由は次の通り。 1 自分だけが竜樹を完全に理解しているような書きぶりだが、果たしてそうか。 中村元氏が「中論としはあまり重要でない」として省略した章も、多数引用して いる。 2 「中論頌は、ブッダの説いた教えとは似ても似つかないように見える作品である」 「竜樹は、仏教の経典は優れているけれどことばが尽くされているわけではないと 考えた」「竜樹はブッダが説かなかったことを説いたのである」「一切の見解を捨てた 竜樹は、ブッダの法も捨てて一人菩薩の道を進んでいくからである」などと言いながら、 すべてブッダから出たことを懸命に説いている。これは矛盾であろう。 3 竜樹の説く「縁起」を、「相互依存の関係」ではなく、「因果関係」だとして いるが、これでは竜樹の「空の思想(相対性の原理)」は成立しない。 4 ブッダの縁起の公式「これがあるとき、かれがある」「これがないとき、かれが ない」の「これ」と「あれ」とにさまざまな言葉を代入しているが、不思議と「苦が ないとき、楽がない」は挙げていない。 5 やはり、「言語活動によらずには、第一義は説くことができない」などというアホな 訳をしている。 6 前レスで指摘したように「何とかして釈迦を竜樹に取り込みたい」という意図が 見え見え。それは無理な話である。
363 :
神も仏も名無しさん :2010/10/27(水) 17:43:20 ID:14YAEbuR
>>360 最大カテゴリーであろうと最小であろうと、「苦」という言葉が誤り。
「苦」を固定の前提としたら、「空」も「中道」も「縁起」も成立しない。
364 :
神も仏も名無しさん :2010/10/27(水) 19:47:40 ID:N6nu/VyC
>>362 蟷螂の斧、月とすっぽんという言葉がぴったり!
365 :
神も仏も名無しさん :2010/10/27(水) 20:21:07 ID:SEV6uJkV
>>364 石飛本のどこにそんなに感心したのか、具体的に挙げてみ。釈迦と繋がっているところが、
嬉しいだけだろ。
「去る者は去らない」において、竜樹自身の明解な説明さえ指摘してはいないではないか。
366 :
神も仏も名無しさん :2010/10/27(水) 20:44:50 ID:N6nu/VyC
>>365 お前はホントに能力の違いが自覚できないな。
お前がやってるのは、アインシュタインやウィトゲンシュタインに
中学生が中学校の教科書を根拠にデタラメな言い掛かりを付けてるだけだ。
誰がお前みたいなヤツにまともに論証しようか
セブンぐらいだろ
>>227 > 8 「法灯明」における「法」を「釈迦の教え」と解している者がいる。
> これでは、「自灯明・法灯明」は全く矛盾した命題となってしまう。
全く矛盾しませんね。 →
>>290 > ここでの「法」は、《「諸法の在り様」と「苦の滅への道標」》 であり、
(→誰某の個人的見解(けんげ)・意見、独創でない)
> 【且つ】、
> (説いたのが(たまたま)お釈迦さんだったからw) 《「お釈迦さんの」教え》 でもあるわけです。
> 両義を持っているということです。
「自己による」というのは、(たとえ「自分で考える」という意味を付したとしても)、
> 「言われたまま、聞いたまま、教わったままでなく、【法と照らし合わせて】【吟味】しなさい」
> ということ
です。
ちなみに、
>>289 にあるURL先(大般涅槃経当該箇所和訳等)からも、
貴方のような【自分勝手にする】という意味での「自己を拠り所とする」という意味はでてきません。
上の「五蘊」の項で少し触れたように、或いはこれまで何度か言及してきたように、
日々を送る上で、日常生活をする上で、他者とコミュニケートする上で、
何事かをあれこれ考察する上で、仏道を行じる上で、身口意を爲す主体は必要です。
そうした場面の際には、その主体(≒五蘊)に依るしかありません。 (これが、世俗に基づくということの一側面です。)
そして、「大海に浮かぶ流木の如き(五蘊総体の)自己」なれば、
【同じような】「【流木としての他者】(人でも物でも、名誉でも誇りでも、地位でも財産でも同じ)」を拠り所としても
安定は無いということです。寧ろ、他の流れゆくままに、一緒に流されてゆくだけです。
自ら漕ぐしかないのです。そして、「法」(おしえ)という錨を下ろすのです。
だから、自らを洲(島)とし、法を洲(島)とせよ、と言われるのです。
>>316 > 縁起、因果関係、相対性を含め、人間のすべての認識・思考・感情・行動は生命の機能であり、
> 死と同時に一切不可能になるから、ずばり「生命の根源性」である。
何が「すばり」なんでしょうか?www (しかも、また話をずらしてるし・・w)
≪【『> 死と同時に一切不可能になる』ことから、> 「生命の根源性」を】【一意には導けない】≫
と、何度も【論証】したでしょう? 例によって貴方がスルーしているだけです。
やはり貴方は「〈超〉独我論者」のようですねw 自分の無視したものは存在しない、とでも言いたげですな・・w
まあいいでしょう・・w
【「> 「生命の根源性」」に依らずとも】、
【他の要因、条件等の欠落或いは不具合により】『> 死と同時に一切不可能になる』ことはあり得る、と言っているのです。
(貴方の依存するw)現代科学医学の知見はそのように見ている筈です。 (何度目だろうか・・?この台詞w)
そして、【貴方自身が、『生命』の把握を、(ほぼ)不可能としている】ことをお忘れですか?
> 竜樹は、「もろもろの存在の構成原理」を説いているものと解する。
この言明に500歩w譲るとするなら、【「 > もろもろの存在 」とは『物』だけではない】ことに気付いてくださいねw
bhavaの語義も貼りましたよね?w 忘れちゃいましたか?www
> さすれば、・・・・・犯している。
>>179 (
>>180 )、
>>215 ★、(
>>229 )を一千億回読みなさいw
>>316 > つまり、「関係性(縁起)」という「抽象概念」には、「生起」「時間」という概念の入る余地はない。
だからw 考察の出発点がそもそも間違ってるのw
《「関係性」(相対性・相互依存性)が「縁起」》
→《「関係性」は「時間性」「時間的因果」を持たない》
→《「縁起」は「時間性」「時間的因果」を含まない》
こう考えてるから「 > つまり 」と繋ぐw
で、一行目がそもそも間違いなのw
「○○が縁起」と○○を先に立てるから、それに合わせたものとなる。
考察の順序が、いきなり逆なんですよ。
しかしながら、その原義(≒初手)から見ても、また歴史的に見ても、以下が縁起なんですよw
《「縁起」は「時間性」「時間的因果」において見出された》
→《また、諸法の「相互にも関係し合う」側面にも言い得ることであった》
→《「縁起」は「時間性」と「相互の関係性」とを含意する》
とね。
>>320 > 「相互依存的」「相対的」であれば、「可逆的」であるのは当然。
考察順序が逆ですw
可逆的であれば、縁起ではないのです。 「縁起」とはそういうものなのです。
上で触れたように、貴方は、
≪【或る意味】(たとえば「相対性」たとえば「相互依存」たとえば「可逆性」)を【先に立て】、
【それに「縁起」というラベルを貼っている】≫のです。
そうではなく、まず「縁起」が何を意味しているか?からスタートしなければ話になりません。
そして、その時に、≪「時間的因果」の側面に於いて見られた縁起は、
また、「相対的」であり「相互依存的」である側面【も】有している≫、という順序でなければなりません。
しかも、「可逆的」であっては龍樹の縁起にも抵触しませんか?w
時間性を排除してるんですよね?
(付加逆性は時間性と同質と見做すとしても)、可逆性を導入しちゃっていいんですか?w
>>320 > それよりも、「縁起」には「相依性はない」と主張する仏教者がいるようだが、
> それは如何なる意図に基づくものか。
知りませんよw そんなのは数人程度じゃないですか?史朗ちゃんとか史朗ちゃんとか史朗ちゃんとか・・w
*(一代宛:
今、引っ張り出して「縁起と空」パラパラめくったが、今見ると、無茶苦茶おもしろいw 付箋いっぱいだしw
当時は半分程度もワケワカメだったが、今は、彼が引用する多くの対論者の見解も、
また彼自身の言わんとするところも、一つ一つがよくわかる。 ああ、そういう論戦(論点)だったのか・・と。
*(この書の、過剰なまでのw引用は、原典に当たらずとも各見解を把握するのに重宝したのを思い出す・・w)
で、率直な感想は、「けど、どれも参照程度かな・・」と。 素直に仏典を読む癖が付いてて良かったな、とw
片山、奈良両氏には、心からの感謝を贈りたい。
追伸:長文中、気づいた所があれば、いつでも横レス可w 大上段に振りかぶっていても、
所詮、未達は未達。 井の中の蛙には変わりないでしょう。)
> 直ぐ前レスにおける「生命の定義」も、辞書執筆者の生命の機能であるw。
もはや黄門様の印籠だなwww
(「機能」云々の話も有耶無耶になってしまいましたがw)、
途中を飛ばして「何でもアリ」に持ち込むのは、いいかげんやめましょうw
「風が吹いたら桶屋が儲かる」の典型ですなw (
>>245 )
>>330 > お話にならない。
いやいやいやいやいやw 「 > お話にならない 」のは貴方のこのレスでしょう?w
> 兎に角、釈迦の鬱病の症状である「苦」を健常者に植え付けて洗脳するという
> 悪質な宗教勧誘行為はお止めください。
>>328-329 (
>>294 >>295 >>296 >>297 )
それから、「 > 健常者 」と言いますが、その線引きは、怪我をした時のように明確ではありません。
平熱に個人差があり、熱に浮かされる体温基準も様々です。
或いは、心の病的な部分は、顕著に症状がでない限り、その境界は曖昧です。
(貴方は、どこまでが健常で、どこからが異常かという線引きができますか?
その線引きは、数値化するが如く、一定のものですか? (違うでしょう?w))
それらよりも、更に個人差のある領域なのです。
「苦」の感じ方、その程度、痛み、重さ、耐え難さ、そして深刻さ・・。
この個人差の、どこに「健常」「異常」の線引きがし得ると言うのでしょう?
貴方の言辞は、いつもいつもステレオタイプで定型的で、
時に権威に寄りかかり、時に風説流説に流され、【現実に即していない】のです。
*(だから、独善妄想と言われるのです。
そして貴方こそが、過去の傷により、未だに病んでいるのではないか? と勘繰られるのです。)
深刻に受け止めている者には、その軽さを、
浮かれて気付いていない者には、その重さを、
それぞれ、慰撫し、示唆し、その因と縁への視線を促すなのです。
> キリスト教が「罪概念」を植え付けて洗脳しているのと全く同じ。
> 地獄に墜ちるに値する極めて悪質な布教手段です。
部外者なので踏み込んだ発言は控えますが、おそらく、同じ構図になると思いますよ。
どちらも、
≪(実存的に)自身の「生」(人生)を見つめ、その上での
自分の行為(想い、行動)の『自覚』こそが必須である≫という意味で・・。
ま、貴方には「同じ穴の狢」「同じ病理、同じ勧誘手段」としか見えないのでしょうけどね・・w
ちなみに、貴方に、「自身の想いや【行為】の自覚」はあるんでしょうかねぇ・・・。
>>330 > 「説示」という言葉が有る以上、「言語」と言う言葉は不要。
はいはい。もう「世俗の(世間の)慣習」という「直訳」でいいですよw
【どうせ、意味は『言語によって』となる】のだから・・w (中学生用が如くに再説明しましょうか?w)
> そもそも、「言語習慣」という言葉が意味不明。
> 「言語及び習慣」の意味ですか。それとも「習慣としての言語」の意味ですか。
後者でしょう。 『前に付いた語が、後分の語の説明及び限定となる』感じじゃないですか?
で、中学生用説明PART2 w (PART1は
>>324 )
「第一義(勝義)は、慣習に依らねば説明(説示)され得ない」。
*(説明(説示)とは、言語によってなされるもの)
*(慣習は、言語活動を含む)
→文意は、「第一義(勝義)は、言語に依らねば説明(説示)され得ない」。
だから、
≪【何事かを説明(説示)する際】、【『慣習による』と言われたなら】、
それは、【『言語を用いる』ということと《同義》】≫なんですよ。
「慣習」だけでは、言語に特化できないから、諸註は但し書きをしているわけです。
「言語に依らず、何に依ろうと言うのかね?」と。 (だから、貴方に対する
>>304 なわけですw)
で、ちなみにパーリ vohAra の語義は読んでいただけたんですか?
((歴史的先行性のある)俗語由来であるが故に)、
こちらこそが、仏教という枠組みでの、「原意」及び『用いられ方の特徴』を表しているんですけどねぇ・・w
龍樹は仏教の枠組みで語っていないんでしょうかねぇ・・w
> 単に「習慣」とすると「世間の一切の慣習」となり、洗脳が不可能になってしまうからではありませんか。
はいはい。もう「世俗の(世間の)慣習」という「直訳」でいいですよw
【どうせ、意味は『言語によって』となる】のだから・・w
373 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 00:34:07 ID:AY6i9BZb
隠居が死をスイッチを押すようなものとみなしてるようにしか見えない。 機能が失調をきたし、生命活動を行えなくなったり維持できなくなり、 それを死と呼ぶんじゃなくて、 最初に「死」が起こって、それに付随して身体のもろもろの機能が停止していく、 というあべこべになっている。
374 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 01:03:47 ID:AY6i9BZb
361 なぜ同じ狢のカルトということになるのか論理的に説明できるか? 近親憎悪って言葉もあるし、案外嫌いなのは カルト同士からかもしれないよw とまあ冗談はここまでにして、 理屈で答えられなくなると変な党派主義をふりかざすのは止めたほうがいいんじゃないの? 「大乗」をむやみにふりかざすけど 法華も浄土も密教も輪廻も、大乗も共有してる仏教要素や (日本を含む)大部分の宗派も否定してるのに 日本の、だの、大乗の、だのとふりかざすのはおかしいな。 日本密教をほめた時も、朗唱の部分を芸術とか言ったり、 教理的に複雑だから飲み込みにくく影響されにくいだろ、 という内容だ。つまり宗教として、というか その思想や儀礼が本来目的として持っているものを否定しているくせに それの名を掲げて実の無い掛け声をあげているわけだ。 隠居のやり方を踏襲すればどんな地域や、宗教だろうが 気に入ったとこだけくりぬいて持ち上げることができる。 老舗の宗教なら、いろんな人物がいて、宗教芸術もできてるしな。
375 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 01:16:46 ID:AY6i9BZb
言語以外でどうやって説明しようがあるのか、気になる。 ジェスチャーや図版を用いるにせよ、 そこには言葉であらわされる意味があるわけだし・・・ そうした対応関係なんてまさに慣習だしな。
376 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 01:26:48 ID:c1RVQDbu
>>373 即死の場合はどうか(例えば、ギロチンによる処刑)。まさにスイッチ
押されて首が転がった瞬間に、当人にとってはすべては無となる。
377 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 01:39:57 ID:AY6i9BZb
即死したからギロチンが落ちてきたのか? 即死したから首が両断されたのか? 違うよね。 まずギロチンが落ち、首が両断され機能不全なりショックなりで 「即」と呼ばれるほどの時間で死にいたるわけだ。 「即死すれば」と後に続けるのは矛盾だ。 隠居がその後に続けて書いたものは即死の一部なんだから。
378 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 02:01:50 ID:AY6i9BZb
ギロチンが落ちる際に、すべてに優越し先立って存在し、 原動力としての役割と生命体としての組み立てをも起こす「生命」はどうしてるのだろうか。 以上のようにいろいろ超越させると 宿主が死んだ程度でくたばる気がしないのだが。 もしこれで消えるとすると、新たに生まれる生物を誰が形作るのかという話しになる。 それでもいいとすると、そんな凄い存在がどうやってポンポン沸いてくるのかという話になる。
379 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 02:16:30 ID:c1RVQDbu
>>372 言語は、最も広い意味では慣習の一部だが、通常、両者は区別される。
慣習には、言語のほかに、共同体成員の共通の行動や思想を含む。
>>370 石飛氏が、中論全体の基調ともいうべき「相対性」にかかわらず、なぜ
「相互依存性」を認めないのか、理解に苦しむ。釈迦が「相互依存」を
説かなかった、という理由だけではないか。釈迦は「輪廻転生」はたっぷり
説いている。「相対」とは「二つまたはそれ以上のた対象の相互の関係だから、
「相互依存」でなければ、「相対性」も、従って「空」も成立しない。
対象同士が「お互いに影響を及ぼしあう」のが「相対性」である。
石飛氏が「因果関係」と解釈するのは、専ら釈迦の「業報論」を導くため
である。
>>371 「狂気」とは、共同体の成員の平均的認識、思考、感情、行動からの
著しい偏倚のことである。従って、平均的成員には、容易に判断可能。
聖書の時代からそうだった。イエスを直接に良く知る家族、郷里の人々、
ユダヤ教徒は、イエスを基地外と判断し、その旨を証言している。
>>369 時間を縁起概念に含めたら、少なくとも一体時間前の変化しない実体を
認めることになり、「空」は成立しない。
なお「法」については、釈迦が森羅万象を説くことは不可能で、しかも
「法」は番人に認識されない限り「検証」できず、従って釈迦の独りよがり
になる恐れがあるから、「法」とは「釈迦の教え」を超えるものであり、
釈迦も法には従わなければならない。
380 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 02:19:22 ID:AY6i9BZb
生物や生命現象から根源的「生命」が 見い出され設定が語られる様子は シャンカラのアートマン談義みたいだ。 ことばや観念を、〔その〕対象に〔適用することは〕可能であるが、対象でなければ〔可能〕でない。 ことばや観念を〔その対象ではないアートマンに適用することは〕不可能である。 なぜなら、〔それは〕それらのアートマンであるから。 そして、同じく「私」という観念の主体(=統覚機能)の〔アートマンで〕あるから。 岩波文庫ウパデーシャ・サーハスリー韻文編18章24(131ページ) 「アートマン」を「生命」と入れ換えると・・
381 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 02:21:44 ID:c1RVQDbu
>>379 の訂正
×一体時間前
○一定時間前
×番人
○万人
382 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 02:27:41 ID:c1RVQDbu
>>380 釈迦も、己のアートマン(生命・我)によって「無我」を説いたのでは
ないのかねw。
383 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 02:36:54 ID:AY6i9BZb
言語抜きの思想なんてありうるのか? 当人らが意味を忘れてしまったような行動でも、ある事柄を説明する際に用いる際には 言語で表現される意味が再提示されたりアレンジされたりするだろう。 そうじゃないと説明にならない。 目の前でフニャニャーと前置きも後のフォローもなく 変な動きをしても、それを説明とは言えないだろう。意味がわからんだけならともかく、最低限説明という形式にすらなってない。
384 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 02:38:57 ID:+ARkRTYU
まあ、肉体があるから悪いんだけどね
385 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 02:42:45 ID:AY6i9BZb
382 シャンカラのアートマン論によれば そういう肉体やら意識やらはアートマンそのものではない。 これも「生命」との共通点だな。
386 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 02:44:44 ID:c1RVQDbu
>>388 body languageもあるぞ。
どんな異なった言語を使う人々でも、極端に腹が減っている場合の
「思想」は皆同じw。
bilingual, trilingualの人は、どの言語で思考しているのかね。
387 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 02:49:37 ID:c1RVQDbu
>>385 そのシャンカラの思想は深い。要するに、生命(アートマン)は、対象化
できないということだろ。
388 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 02:53:02 ID:AY6i9BZb
おもいっきり、言語で表される意味があるじゃない。それでも込み入った事柄を説明するためには限界がある。 あとさ、ただ思考するのと説明するのとは違う。 説明するためには言語を発するか、言語で記されるような意味を付され なおかつ共有された身振りやシンボルを用いなければならない。 言語抜きで説明は出来ない。
389 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 02:59:55 ID:AY6i9BZb
387 でも実際には対象化し、饒舌に語り得ている。 できていない、とするなら、それは神々やらと同じ意味で、と言える。 だって設定語りしかしていないんだから。 実物なんて出しようが無いんだから仕方ないが。 でもアートマンは超自然ネタだ。 宗教なら仕方が無い。「生命」も宗教と同じ狢なら仕方がない。
390 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 03:07:56 ID:AY6i9BZb
当然ながらアートマンの存在証明なんて出来てない。ここも「生命」と同じだな。 せいぜい「天啓聖典」からの引用があるくらい。 彼らの場合はこれで十分。 隠居もバラモン家系に生まれたらもっと幸せだったかも。
391 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 05:36:48 ID:tx4/JS9r
>>370 え〜、松本の何が面白いの?
要するに常識に立脚し、ゲルク中観説を利用した道元禅師の本覚批判だよね。
それも常識を基盤にしてるから、いろんな所がずれまくって、
ついに「釈尊そのひとの説法さえ、非仏教的要素(非縁起説的要素)が残存し、混在していたことも、充分考えられる」(『縁起と空』153頁)とか、
「釈尊自身、これに類した言葉を発したことがあったかおもしれない。しかし、それは釈尊自身の教え、“仏教” “縁起説”とは、本質的に矛盾するものだったのである」(『縁起と空』160頁)とかいうことになってしまう。
単に松本の仏教・縁起解釈がずれてるだけなのに。
このズレ方、常識へ立脚した姿勢は、基本的に生命教と同じだよね。
もちろん、知識や論証法は全く違うから、松本には結構支持者がいて、
生命教には誰もいないわけだけど。
392 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 05:40:19 ID:tx4/JS9r
>>330 > それほどまでに「苦」に執着する釈迦は、立派な「実体論者」です
ハァ?(゚∀゚) だいじょうぶですか???
《 > 「苦」に執着する 》→《 > 「実体論者」で ある 》。 何ですか?コレは?wwwww
貴方の発言の中でも、一二を争う混迷ぶりですよwww
「 > 立派な 」という修飾がされているくらいですから、
さぞかし、明解で隙の無い論理なんでしょうね? 是非、詳説願いたいものですw
> (彼の鬱病の症状なのだから致し方ないが)。竜樹はそこを批判している。
是非ともkwskおながいします!!><;
> 釈迦の「無明→苦」の公式は、そのまま「生命→楽」の公式に書き換えることが出来る。
これは、矢印の内容が同じということですか?
「無明から苦が導かれるということ、苦の因が無明であること」と、
「生命から楽が導かれるということ、楽の因が生命であること」とが相似形であるということですか?
あれ? 貴方は、
《無明とは生命のことである》《生命である無明を否定するのは誤り》と言ってませんでしたっけ?
《無明は、「>生活作用」を生じさせる『生命』》ではなかったでしたっけ?
こういう時の言い換えは、普通、『「無明→苦」は「生命→苦」と書き換えることができる』となる筈ですが・・。
いきなり両方変えちゃいますか・・w
また、狡猾なミスリードですね。(しかも今回は半分意図的でしょうw)
共通項(同一項)が一つも無い場合の、公式を用いた譬喩は、【その構図、関係性が比較されている】ものです。
この場合、【どういった構図が比較され、相似形である】と見做せるのか、
是非とも詳説願いたいところですw
> そして後者の公式が「世間一般の慣習」「人間性の真実」です。
いやいや、貴方の説に依るならば、公式は「生命→苦」でもあるのでしょう?
そして、前者もまた、「世間一般の慣習上の意味付け」「人間性の真実」でしょう?w
>>330 > 生命を「無明」とした釈迦の思想は、初めから間違っていることになる。お話にならない。
だからぁwww 《生命=無明》なんてのは貴方だけの妄想なのw
何度も尋ねているでしょう? 《生命=無明》だと考える典拠・根拠は何ですか?とw
> お話にならない。
ほんと、貴方の発言がお話にならなかったですねw
>>353 > 何故それほどまでに愛着・執着し、
その内容に、理解し、納得し、同意するからです。
そこに、「理」と「実態・実状に即した視線」があるからです。
それを、(2500年前に)明解に示しているから「敬意を表する」のですw
(貴方の「中論」へのこだわりも、少々度が過ぎてやしませんか?w 他人のことは言えないでしょう?www)
> その者に対するいかなる批判に対しても荒れ狂い、
【批判の内容】【批判のやり方(論立て)】【対話のマナー】に於いて、
あまりにも独善、稚拙、愚劣であるから苦言を呈しているわけです。
貴方への、生温かい慈悲心をわかって欲しいものです・・・w
> ありとあらゆる愚にも付かない「正当化」に躍起となるのかね。
それは貴方自身のことでしょう?www
貴方による「正当化」の愚にもつかない点を、的確に指摘したレスに関して悉くスルーしていて、よく言えますねw
私のレスだけじゃありませんよ? 他の方の、「短い」「単発」レスですら、完全スルー。
長文だからとか、相手が多すぎる(レスが多すぎる)というのは理由になりません。
貴方が人気者故ですので、有名税と思ってw誠実に対応すべきでしょう?w
>>353 > やはり、開祖・教祖の精神病の感染(感応精神病)という精神医学的現象以外には考えられない。
この「 > 以外には考えられない 」という謂いが、無根拠な決め付けだと、何度も指摘されているでしょうに・・w
> 「精神病者である釈迦やイエスが言ったから真理である」などということは、どこからも出てこない。
> 真理とは「誰が言っても真理」のことである。
「○○が言ったから」、ではなく、「その内容を【吟味】、理解、納得してのこと」だと何度も返答した筈ですが?w
また見えない敵と戦ってる最中ですか?w
> しかも、彼等が語りかけた対象は「当時の状況における、当時の人々」である。
その通りですね。
> 科学の飛躍的進歩により、人間社会がdrasticな変容を遂げた現代においては、
> 現代人として完膚なきまでの批判を加えるのが、当然のことだろう。
「 > 完膚なきまでの 」という修飾語をつける所に、
既に貴方の『否定ありき』の論立てが始まっているわけですw (
>>288 )
近代的研究が始まって以来、多くの批判が加えられています。
仏教(キリスト教)問わず、どのような(歴史的に古い)思想でも同様です。哲学でも同様です。
批判はあって構いません。 しかし、
《『その内容』『その手法・論立て』『そのやり方(≒対話の仕方)』に不備があれば、
それは批判ではなく、『言い掛かり』となる》わけです。批判に対して批判が返されるわけです。
> 時代錯誤は速やかにやめるべきである。
いやいやw
十分通用することを、多くの事例で以って示して差し上げてるでしょう?w
> それは「思考停止」「思想的怠慢」以外の何物でもない。
また自己紹介ですかwww
「思考停止」こそ、今の貴方の姿ですよw
>>379 > 言語は、最も広い意味では慣習の一部だが、通常、両者は区別される。
> 慣習には、言語のほかに、共同体成員の共通の行動や思想を含む。
だから何だと言うのです?w
貴方が
>>386 で例に出した「思想」を、【どうやって伝達するのか?】が論点なのです。
≪「>共同体成員の共通の【行動】」によって伝達する≫と言った時、
≪言語活動といった【行動】以外で、どのように伝達するのか≫ということです。
>>386 あまりにもアホらしくて話しにならんぞw
>>388 氏が指摘しているが、
> どんな異なった言語を使う人々でも、極端に腹が減っている場合の「思想」は皆同じw。
そういう問題じゃないだろがw 黙っていようが、茶碗を箸でチンチン叩こうが(AA(ry)、
腹が減っているのは一緒だ。だから何だと言うんだ?w
それを、「空腹である」という内容を(思想を)、他者へ伝達(説示)する際にどうなのか?ということだろ?
核を巡る密約の話があるが、「他者へ伝達する方途」が取られることによって初めて、
他の者が知り得る事態となった。
(資料の有無は措くとしてw)彼(及び知っていた者)がどんなに強く記憶して(内面に保持して)いたとしても、だ。
論点をずらして自身の瑕疵をぼかす手法は相変わらずですが、今回はあまりにも稚拙杜撰すぐるwww
> body languageもあるぞ。
ボディランゲージであろうが、パントマイムであろうが、絵図であろうが、漫画であろうが、
【言語で記されるような意味を付され】、なおかつ《【共有された】【シンボル】を用いなければならない》。
そこには、《【記号化され】【共有された】意味》がある。(ちなみに、現代では、この「記号化」をも「言語化」と称す。)
これなくして伝達は成立しない。たとえ「テレパシー」等超能力wによるとしても、だ。
> bilingual, trilingualの人は、どの言語で思考しているのかね。
どの言語で思考するかどうかなんてどうでもいいwww
論点は、《伝達は、【何によって】為されるか》、だろ?w
論点をずらして自身の瑕疵をぼかす癖は、マジで直した方がいいw
397 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 11:28:56 ID:U0WneBmJ
「一切皆苦」「釈迦は常に正しい」。これらを固定の前提とすることは、まさに 「空」の対極をなすもの。竜樹は、これを的確に非難している。「苦」も否定して いるし、「自分の言ってることも空だ」と上手く逃げているし、「釈迦は何の 教えも説かなかった」と喝破している。
o○○○o o○○○○○o o○○○◎○○○o o○○○○○○○○○o ○○○○○○○○○○○0 / ̄ ̄\ ○○ 0 ○○ /ノ( _ノ \ /○ / ̄ ̄ヽ r' ̄ ̄\ ○ヽ | ⌒(( ●)(●) { 8{ ─・─ |─・─ _ 8 } .| (__人__) ヽ 8} :|::: :l8 / | ` ⌒´ノ | | (__ノ::) .}./ / ⌒ヽ } /⌒) | | ,、┴ 、_ ./ / / へ \ }__/ / |_人.  ̄こ ̄ 人/ ガッ! / / | ノ ノ ガッ! |> 、____, < /|/|__ ( _ ノ | \´ _ iWWWWWWWW| / .| \_,,-‐''" ゙''――---'´ ̄`ヽ て | ______ ノ ( ヽ __,,-‐''"< iWWWWWWWi < ヽ ( //\|\|\|\|\|\ヽ'; ヽ /\_____/\ / ̄| ──── | ̄\ / ̄| {フ| | | ̄|\ _/ / /| | | | |
399 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 11:45:45 ID:U0WneBmJ
>>396 「言語抜きの思想なんてありうるのか?」という命題の批判である。
そもそも「言語論」「記号論」は胡散臭い。それも同じく「言語」を使って
行っているのであるから、結局は「循環論法」だ。
言語の発生前には思想はなかった、とでもいうのか。言語とは、古代人が生存
に必要な、または有害な具象物を指示・特定するために発生した、という事実を
忘れてはならない。
「初めに言葉があった」という聖書のことばは、全くの誤り。言語とは、人間が
共同体を形成した後、その成員間の意思の疎通を図るために「作り出された」
人間の発明。「初めに言葉があった」のなら、神はその言葉をどこの人間に
教わり、どこの人間に対して使ったのか。
人工無能みたいですね(苦笑) 人工無能は、自分がかつて聞いた言葉をデータベースに蓄積して、適当に組み合わせ て、会話っぽく話すようです。 「循環論法」とか「『初めに生命があった』のなら、御隠居はその生命をどこに人間 に教わり、どこの人間に対して使ったのか」という話は、御隠居の側が他の人々に常 々言われている問題だと思うのですが…… いかなる業が人を人工無能にするのかわかりませんが、唯物思想というのは、物質し か認めないわけだから、生身の人をも人工無能と化すこともありえるのかもしれませ ん。
401 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 13:46:55 ID:fKjndXAX
>>400 >唯物思想というのは、物質しか認めないわけだから、
とんでもない誤解ですね。唯物思想というのは、物質である肉体から、豊かな
感情、理性、認識、そのたすべての精神作用が生じるのであり、その逆はあり得ない
という思想ですよ。どこか間違っていますか。
「人工無能」とは、開祖・教祖・経典から一歩も踏み出すことが出来ない宗教の
ことでしょう。
402 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 14:09:06 ID:fKjndXAX
>>401 の追加・訂正
×そのたすべての精神作用が生じるのであり、
○その他すべての精神作用が生じるのであり、その肉体は、物質に100%
依存しない限り一瞬も維持できず、
403 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 14:09:26 ID:tx4/JS9r
>>400 >人工無能みたいですね(苦笑)
というか人的無能ですよね
404 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 14:33:34 ID:AY6i9BZb
399 言語の発生前、とは具体的にどんな状況をさしてるんだ? ホモサピエンスにそんな時代があったのか? あーうーうーあーと何となく通じ合う原始人みたいなのを何となく想像してるのか? あと、思想って言葉の意味をちゃんと踏まえているのか? 言葉を使用しない思想なるものがあるとして 仏教がそれに該当するのか? 釈迦や龍樹が生きた時代はまだ言語が発生してなかったとでも?
405 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 15:03:28 ID:tx4/JS9r
>>404 >言葉を使用しない思想
例が有ったら教えてほしいよね
>>399 > 「言語抜きの思想なんてありうるのか?」という命題の批判である。
お前は馬鹿か?
どこの誰が、『 > 「言語抜きの思想なんてありうるのか?」という命題 』を立てているというんだ? ん?
てめぇも捏造大好きっ子だなw しかも、相手の発言内容を、だ。
てめぇほどの屑野郎には、ついぞお目にかかったことがねーよ。
言語抜きで思想があっても構わねーよ。言語抜きで思考・考察しても構わねーよ。
(ま、それはないだろうと思ってはいるがw)
しかしだ、今問われているのは、
≪「内容」を、「どうやって」「他者に(外部に)」【「伝達する」のか】≫ ということだ。
てめぇの日本語読解能力はどこまで低いんだよ・・・ orz
これほど見事に、論点をずらして自身の瑕疵から逃避する様が明らかな発言は、
2chでも珍しいんじゃないか?wwwww
407 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 16:43:27 ID:tx4/JS9r
>>406 >これほど見事に、論点をずらして自身の瑕疵から逃避する様が明らかな発言は、
本人はずらしてるつもりはないと思う
ただ、無能なだけで
> 釈迦は、「生活作用の原動力(これは「生命」以外にはない)」を「無明」とし、苦の原因とする。
だからw どこにもそんなことは言われてないわけです。(中村元でさえw、【そうは言っていない】わけですw)
不説氏が、なかなか良い説明をしてますのでリンクしておきます。
仏教 議論スレッド その3
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/703 ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1274492365/703 また、
> 「生活作用の原動力(これは「生命」以外にはない)」
「これ(《原動力は『生命』以外にはない》)が、思い込みである」と、何度も指摘して差し上げたでしょう?w
貴方は、≪『生命』から全てが発生する。『生命』が全てを“操作”している≫ということを
【無謬の前提】とし、他の事柄を【それに合わせて】パズルの如く組み合わせているのです。
この前提の不確かさを自認しているにも関わらず、です。
演繹的思考の際は、誤った前提からは誤った帰結しか得られません。
今の貴方がまさにそれです。
これまで、多くの方(宗教者外含めw)から、前提の不確実性を多角的に指摘されていながら、
尚強弁する貴方の姿勢こそ、病的宗教者の姿ですよ?
(だから、「鏡を見て御覧なさい」と何度も助言差し上げてるのです。)
> 「生命の否定」以外の何物でもないではないか。
> しかも釈迦は、己の「無明たる生命」を以って教えを説いたw。これほど滑稽な姿はあるまい。
何度お答えしたでしょうか・・・w 貴方は全てスルーしてますがね・・w
> 「無明」どころか、「すべてを知る」のが生命であることに気付いていない。
『生命』が知覚認識するんですか? ならば、他の感覚認識器官は不要ですねw
『生命』だけあればいいわけです。 あれ?なんか、霊魂とか魂とかとそっくりですね。
あれらも、肉体も何も無く、ただそれ自体しかないのに、見たり聞いたり考えたりできるようですよ?
貴方の言う『生命』と似てますねwww
>>355 > その「内縁起」を発生させ、認識するのが、「外縁起」としての「生命現象を現す肉体」。
貴方は『発生』という言い方にこだわりすぎなのです。
肉体から、(泉が湧き出るが如く)発生するものなどありません。
全ては諸縁によらねばならないわけです。他との関係性、条件が調うことが必要なのです。
(つーかw、貴方こそがそれ(相互依存、関係性を力説していたのではありませんか?w
他の諸条件なく、何がしかが降って湧くわけですか?
【それこそ「自性」肯定、反龍樹】じゃありませんかw)
このあたりは、現代科学医学等の知見と、何ら齟齬を生じません。
寧ろ、【貴方の考え方こそが、現代科学や医学に反している】わけです。
>>356 > その「色・受・想・行・識」は、すべて「生命現象を現す肉体」から発生し、
> それによって統合される。死体にはすべて不可能。
貴方は『発生』という言い方にこだわりすぎなのです。
肉体から、(泉が湧き出るが如く)発生するものなどありません。
全ては諸縁によらねばならないわけです。他との関係性、条件が調うことが必要なのです。
つーかw、貴方こそがそれ(相互依存、関係性を力説していたのではありませんか?w
他の諸条件なく、何がしかが降って湧くわけですか?w それこそ「自性」肯定、反龍樹じゃありませんかwww)
「そうした条件が調っていないから、或いは欠損したから」、「 > 死体にはすべて不可能 」なわけです。
このあたりは、現代科学医学等の知見と、何ら齟齬を生じません。
寧ろ、【貴方の考え方こそが、現代科学や医学に反している】わけです。
また、「色」は「肉体」のことだと言いませんでしたか?
肉体が肉体を(→自分の体が自分の体を)発生させるのですか?
治癒等に見られる、組織や細胞の増殖じゃありませんよ?
そして、肉体が統合するのは、(語弊を恐れず言うならば)、
後分4つであり、その「生起する」或いは「働く」“場”を提供しているわけです。
そして、後分4つが働いていない(生起していない・滅した)肉体を、我々は「死体」と呼んでいるわけです。
>>363 > 最大カテゴリーであろうと最小であろうと、「苦」という言葉が誤り。
リンク先&
>>328-329 (
>>294 >>295 >>296 >>297 )を読んでないだろ?w
また、「最上位カテゴリへのラベルの【貼り方】に異を唱えるなら」それもいいでしょう。
それは、聖俗の問題として、その二種の視線を採るか採らないかという対立の“がっぷり四つ”になるので、
少しは有益な対話となります。
ちなみに、貴方もまた、最大カテゴリのラベルとして『生命』を使っている(貼っている)ということを自覚しましょう。
「機能」云々の話をしたり、「全ては『生命』起源」と言ってみたり、「○○もまた『生命』によっている」と言ったり、
まったく同じように、(貴方の場合、《【還元的に】【始原追求をして】》最大カテゴリとしているわけですが)、
『生命』というラベルを、黄門様の印籠の如く、あちこちに貼りまくってるわけです。
しかも、「その『生命』は、不可知で、把捉し得ない」と自身で言っているにもかかわらず、ですw
仏教が最大カテゴリとして「苦」のラベルを貼る時、
それは《【帰納的に】【最大公約数的にその性質・特質を抽出して】》最大カテゴリとしているわけです。
貴方に、他人のことをとやかく言えた義理はないのですw
> 「苦」を固定の前提としたら、
だから、誰もそんなことしていませんってwww
> 「苦」を固定の前提としたら、「空」も「中道」も「縁起」も成立しない。
その通りですwwwww
413 :
逃亡するな苦の共感ゼロテロ生命隠居教 :2010/10/28(木) 21:35:37 ID:vQVPz3Y9
宗教患者隠居反論してみろやw
病的一神教徒宗教者、隠居生命教脳の解析を始めようw
さて、隠居生命教は人間の精神苦の原因分析を否定し
病的一神教のように生命で解決できうる宗教である。
チリの閉じ込められた19歳のジミー君は毎日PTSDに苦しみ、母親と一緒でないと寝られない(朝日新聞)
らしが、
病的一神教徒宗教者、隠居生命教の宗教患者の脳の見方は異なるようであるww
153 :神も仏も名無しさん:2010/10/16(土) 19:57:57 ID:v434uxvf
>>152 チリの作業員たちは、生命が助かった喜びで、PTSDなどもはや存在しない
ようだな。
隠居生命教がこのような人間の精神の苦を無視できる病的宗教患者の姿の予想が可能であるw
隠居は幼児期、カルト系キリスト教教団(エホバ)による虐待を受けた、と予想される。
思考回路が病的なアルカイダ、タリバンの思考と同じである。
隠居的病的宗教患者の思考こそが宗教戦争の根源であるw
そして、最近の学説によると幼児虐待をする人間の脳は幼児虐待されているので、
感情のコントロールを司る、大脳辺縁系及び海馬の縮小が見られる、
他者の精神の苦や感情に対する共感が低下し、平気で残虐な虐待ができうる。
故に、隠居生命教は感情及び、人間の精神の苦の原因分析を否定し鈍感であるが故に、
人間の精神の苦、感情を分析する釈迦は隠居生命教で否定されるのであるw
宗教患者隠居とカルト教団の共通点、
他者の精神的な苦に対する共感が無い事、それが故にテロみたいな原理主義行為ができうるw
チリ鉱山の書き込みで明白w
414 :
逃亡するな苦の共感ゼロテロ生命隠居教 :2010/10/28(木) 21:40:10 ID:vQVPz3Y9
釈迦のように苦の原因分析、解決のプロセスを 隠居によれば精神病であり、 他者の苦を共感して釈迦のように苦の原因分析、解決のプロセスは不要で、 他者の苦共感および原因分析、解決を必要としない、 アルカイダ、タリバン、オウムのようなカルト宗教、隠居生命教は正常であるらしいw 隠居生命教は釈迦のような他者の苦共感および原因分析、解決を否定し、 他者の苦共感および原因分析、解決の必要性を感じないw 他者の精神的な苦に対する共感が無い事、それが故にテロみたいな原理主義行為ができうるw チリ鉱山の書き込みで明白w
>>391 > 何が面白いの?
いや、あの「やりとり自体」が面白いってこと。
(両者の比較検討が同時にできるという意味で爲になるとも思うし(まさにそのように自分は利用したしw)。
(勿論、軽くでもいいから命綱は腰に巻いとくべきかと思うけどw)
また、(これは結構重要だが)、
彼の依って立つ論拠というか、
「そのように考える(→考えるべき・考えざるを得ない)」彼の価値観・視線の前提を慮れば、
『ヒトの「認識システム、思考の癖」』や『ヒトが、生来的に陥り易い前提』のサンプルとなる。
(それは各対論者(故人・通説含)についても同じい。)
片山さんも、「第三節 応答(二) 「伝統仏教における縁起解釈」
(「ブッダから道元へ」(東京書籍/1992)所収 p107-117)で、
(半ば世辞、半ば配慮かもしれんが)、この「提起」は重要な意味を持つと示唆している。
そして、こうした《ヒトが生来的に持つ思考の癖》は、御隠居、在家、宝珠に於いても十分に見て取れる。
その意味でも、隠居を弄ることにはそれなりの意味がある。(と思っているw)
勿論、「思考の癖」に関しては、自戒・自省も込めて、ね。
(どこに自戒・自省があるのか?とツッコまれそうでもあるが・・w)
> もちろん、知識や論証法は全く違うから、松本には結構支持者がいて、
> 生命教には誰もいないわけだけど。
ワラタw
>>391 また、別件だが、
何度か、龍樹はトガり過ぎ、という主旨の発言をした。それは、
たとえば、釈尊も龍樹も、ともに「あっさりした素うどん」だとした時、
お釈迦さんは、3丁目の乾物屋で買った昆布・しいたけ・鰹節で出汁をとり、
向かいの八百屋の葱を薬味として刻む。
龍樹は、北海道から極上昆布を取り寄せ、料亭出入りの業者から干椎茸・鰹節を手に入れ、
契約農家の有機栽培葱を使う。
うどんは、どちらも老舗の職人の手になるとしても・・。
そんな違いを、見ている感じかな・・。
で、ワシは、3丁目の乾物屋や向かいの八百屋でいいじゃん、って思うわけさw
しかし、片山さんの上記論考、大勢の人に読んで欲しいなぁ・・w(宝珠・隠居は特に?www)
短いけど、実に簡潔、的確にまとまってるよ・・。
今、大法輪では大念処経購読が始まっている。
掲載誌が掲載誌なんで、柔らか過ぎてちょっとたるいが・・・w (って、不遜だな、俺もw)
続けて買い続けるのも何なんで単行本化を待つかな・・。(数冊買いはしたけどw)
「普賢師の口伝」もなかなかに面白いが・・w ( ̄ー ̄)
> 9 仏教に、「根本分裂」が起こらざるを得なかった理由は、どう考えるか。 ほんとに貴方は何も知らないんですね・・。 orz 貴方は、根本分裂が「教義の根幹に於ける考え方の違い」から起こったとでも思ってるんですか? いったい仏教史の何を見ているんでしょう? 岩波仏教辞典「部派分裂」の項2〜4行目、 『 > マウリヤ王朝のアショーカ王(阿育王)の治世に、仏教教団は【教義の解釈をめぐって】 云々 』 とあるのを言っているのかもしれませんが、それ以降その項のどこにも、【教義の違い】であったとは記されていません。 *(だから、「岩波辞書といっても、たいしたことないw」と私も言うのです。) 寧ろ、(14行目に)ちゃんと『 > 戒律に関する10の新しい意見をめぐって 』とあります。 これは、「十事」という、南伝が伝える【最初の分裂原因】です。 *(岩波辞書が、従来の漢訳・北伝寄り(中国仏教的)ではなく、 南伝も視野に入れたインド仏教寄りへシフトした辞書であることを示す事例の一つといえます。) 同様に北伝が伝えるのが、「大天の五事」と言われるものです。 これは、 ≪「阿羅漢の悟り」は、《五つの理由(事象或いは生理現象)によって『完全ではない』》という主張であり、 これにより最初の分裂が起こった≫ とされるものです。 実に大乗的(【既に「阿羅漢」よりも上位の存在が希求されている)な気もしますがw、意味する所は、 ≪【悟りのレベル(達成度)と、その証左】に於いて【阿羅漢はそれを満たしていない】、 【「阿羅漢」と「仏陀」(如来)とは違う】≫ というものです。
いずれにしろ、【どちらも】、(貴方が期待するようなw)【《根本的教義の違い》ではない】のです。 まだその時代は、仏陀の教えは大きく共有されていたのです。 「大天の五事」にしろ、それは、《「阿羅漢」にだってこうした欠点があるじゃないか》という疑義であるだけです。 それは、【「仏陀観(如来観)」に於ける完全性の導入、希求】ではあっても、 (各種)「おしえ」(≒教義)の差異とはなっていないのです。 *(ちなみに、「完全性への希求」は、以降、大乗仏教に於ける「仏陀像」「如来像」を決定付けていきます。) また、その後の分裂に於いても、多くは確かに 《「教義面」(→「おしえ」の解釈)の食い違い及び「発展の仕方」「援用のさせ方」の差異》 によるものですが、 それとて(一部を除き)瑣末なことでしかありません。 (かなり突っ込んで仏教学を学んでも微妙な差異だったりするわけです。) *(一部とは、勿論「無我(非我)」を巡ってのことです。勿論、宝珠氏ほどの主張は存在しませんが・・w) 「三法印」「縁起」「四諦」「業果」「禅定」「持律」、これらを欠いている仏教は近代に到るまで存在しませんでした。 仏教を教理的に研究する場合(→「律」(或いは戒)に注視するのでなければ)、 根本分裂より、寧ろ多数出現してからの差異を見ることの方が人気があるわけです。(特に「中観vs有部」あたりがねw)
> 「小乗」と「大乗」との根本的相違は何か。 まず、「小乗」「大乗」というのが、【便宜上の呼称である】ということを理解していますか? 《「大乗」とは自称であり、「小乗」とは相手に対する蔑称》である。これはいいですね? 《【「大乗」を自称する潮流】があり、【「小乗」と揶揄される潮流】があった》、このことは事実です。 だから現在でも、学者は ・《その研究領域によって【そのような潮流の別】を指し示さねばならない時》、 ・《潮流の【別、差異がテーマとなる時】》 には、「大乗」「小乗」という呼称を用います。 或いは、 ・《「それぞれの潮流」と【同じ要素を有する】ものに、それぞれ「大乗的」「小乗的」と冠する》こともあります。 或いは、 ・《歴史的にそれぞれの潮流の【系譜に連なっている】ものには、それぞれの呼称を用いる》こともあります。 *(別に、「場面場面による語の使用」自体については、特段良し悪しはないのです。)
420 :
神も仏も名無しさん :2010/10/28(木) 23:10:18 ID:C34zkUJS
>>409 >> 釈迦は、「生活作用の原動力(これは「生命」以外にはない)」を「無明」とし、苦の原因とする。
>だからw どこにもそんなことは言われてないわけです。(中村元でさえw、【そうは言っていない】わけですw)
中村元訳の「仏伝」(筑摩書房発行「原始仏典」所載)では、釈迦はその縁起の
理法の説明において、「無明によって生活作用があり、生活作用によって識別
作用があり・・・・・・」と説いている。生活作用を生じさせるもの「無明」が、
「生命」ではないとすると、それは一体何か。
釈迦のいう「苦」とは何かを、もっと具体的に解明してみる必要があろう。
「苦」は、次のように分類される。
1 鬱病患者は、健常者が感じることのない、または感じる必要のない苦を、
極端に感じる。これは、脳内神経伝達物質の異常によるものであり、精神医学
による治療の対象となる。
2 病気や怪我による肉体的な苦は、「五蘊の仮和合」などの自己欺瞞によって
除去できるものではない。釈迦が麻酔無しで手術を受ければ、彼は狂いまわる
だろう。釈迦の「我(アートマン)」にモロに響く。
3 生活必需品の不足(例えば、家族に食べさせる食べ物がない)による苦は、
その物資の供給がなければ、無くなることはない。
4 純粋に精神的な苦は、自己中心主義から生じる場合が殆どである。我執を去り、
身近な他者に心を移すことにより、軽減・除去される。贅沢三昧、我侭な生活を
してきたものは、忍耐力がなく、物事がちょっとでも上手く行かないと、苦を
感じることが多い。これを「贅沢病」「我侭病」と称する。
贅沢三昧に暮らしてきた釈迦が、どのような苦を体験したのか、定かではない。
「純粋に精神的な苦」であることは確かだろう。その場合は、上記の1または4
に該当する。釈迦が経験した苦を、まず、心理学的・精神医学的に分析すべき
であろう。圧倒的大多数の生活者は、王子様である釈迦よりもはるかに強い苦を経験したで
あろうが、それを生活の中で乗り越え、楽に転化させている。
421 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 00:01:52 ID:C34zkUJS
>>891 >それも常識を基盤にしてるから、いろんな所がずれまくって、
世の中では、常識(世間の慣習)という「普遍の基盤」から顕著に逸脱することを、
「ずれまくる」というのですよ。
宗教者の、何という勘違いw。
さて、問題はこの後ですw 勿論、大乗経典群に於いて、それ以前の教えは全て小乗と括られています。 しかし、それは、「大乗」と自称する以上当然の帰結で、内容や歴史的推移は考慮されません。 自分達の内容以外は、全て小乗なのですから。 しかし、後代の私達は(或いは学者は)そうは見ません。 大乗仏教運動が起こっていた時点での、【当時の対論相手の一群のみを】「小乗仏教」と称するのです。 当然、「初期仏教・原始仏教・根本分裂以前の仏教」に対して「小乗」の語を用いることはありません。 *(これは龍樹に於いても同様でしょう。) また、時代が下って分派後期のものに対しても、 (系譜に大きなズレがあれば、或いは時代が下り過ぎていれば)用いません。(たとえば現行上座部がそうです。) また、歴史性を重視するならば、根本分裂直後についても、用いることはあまりありません。 *(だから、その辺のコンセンサスが取れていない場合、文脈上まだ明らかになっていない場合、 『「小乗仏教」という語で何を指しているのか』が不透明になるのです。) 以上は「大乗」「小乗」を対比させて語る際のTPOについてです。 その使用が適切な場合とはどういうものか、ということです。 貴方が、《「かつて大乗を自称し小乗と皮肉った潮流」の末席を自負し、その信念の下、 対論者に対して「小乗」とラベリングする》のであれば、そのこと自体を責めるつもりはありません。 往時の大乗仏教徒達も同様であったろうと思うからです。 しかしながら、もし、多少でも歴史的視座を導入する気があるなら、その使用には慎重であるべきです。 上で述べたように、但し書き(及び揶揄・侮蔑の意図)無きところに「小乗仏教」と出てきたら、 【通常は】、【《説一切有部》及び《その、時代的周縁の部派仏教》のこと】だと受け止めるのです。 (特に教理面に於いては・・・。)
さて、問いそのものに戻りましょう。 > 「小乗」と「大乗」との根本的相違は何か。 小乗は hIna-yAna、大乗は mahA-yAna、文字通り「小さな乗り物、劣った乗り物」「大きな乗り物、優れた乗り物」 ということです。 ま、聞きたいのはこういうことではないのでしょうw この呼称の導入時の意味・意義は、 彼らの(=これまでの)教えは、 「学問的で、難解で、学び理解した者だけを悟りへ導く」『小さな【一人乗りの】乗り物』である、 対して、我々の(=この)教えは、 「平易で、誰もが理解し得、分け隔てなく悟りへ導く」『大きな【大勢の乗れる】乗り物』である、というものです。 そして、「教えの【働き】」に着目した場合、次のような対比となります。 彼らの(=これまでの)教えは、「学び、理解した【自分だけを】悟りへ導く」『小さな【一人乗りの】乗り物』である、 我々の(=この)教えは、「他者、【自分以外の者をも】また悟りへ導く」『大きな【他の者も乗せる】乗り物』である、 というものです。 *(これが発展すると、『自分は乗らず、他者を乗せる』というところまで向かいます。) このような点が、基礎的意味、差異となります。 人口に膾炙している定型的謂いをすれば、 《「小乗」は「自利」》(→「自分を悟らせるもの」、「自分だけを悟らせるもの」)。 《「大乗」は「利他」》(→「自分以外も悟らせるもの」、寧ろ「自分以外【をこそ】悟らせるもの」)。 という【自負】と批判が、大乗小乗という呼称の骨子となります。 一応、これが問いへの簡潔な答えとなります。 *(また、「根本分裂」の所で触れた「仏陀観如来観の神格化」に着目すれば、 『「超人的存在として仏陀や如来を扱う」というのが大乗仏教の特色だ』という説も成立します。 『仏陀を、人間から遠い存在へ押し上げる形で変革した、換骨奪胎した』とも言い得るわけですw) **(当然、着目する要素が変われば、また違った『変革の意味』を見ることができます。)
最初に、この呼称は『「一方からの」自称と蔑称』だと言いました。 特に部派仏教が、(或いは上座部の源流にも言い得ることですが)、 哲学的に煩瑣になり、学問的探求、考察が主軸となり、その整理・理解が至上とされ、 「エリートのみが(この場合「聡明な者のみが」という意味に特化します)近付き得る」 「自己の悟りを、まず第一とする、優先・最上とする」傾向を持ったということは 事実として認めて構いません。これは、釈存在世時でさえも有していた傾向です。 *(上記「エリート」の今一つの意味は、『豊かで、考察の機会・時間を多く持つ者』、 『心理的不安・苦悩に注視する余裕のある者』が、門を敲くことが多かった、ということです。 これは、隠居の指摘に適切な側面があることを意味します。) *(聡明な者が多くなるということは、「教えの整理」等に際して中心となってゆく、ということでもあります。 それは、学問仏教・アビダルマ仏教への流れに棹を差すこととなります。) ですから、ここに対して「自利」(或いは「哲学的傾向」)という批判を当てることは、必ずしも100%不当なことではありません。 寧ろその視点からは、大乗仏教の興起は、起こるべくして起こった、歴史的にも必要だったムーブメントと言えます。
425 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 00:15:15 ID:y2Gkmief
>セブン氏 それは、学問的な意見というより、むしろ「小乗信者としての」貴方や他の 小乗仏教学者の意見ではありませんか。 「大乗起信論」を読んだだけでも、もっと本質的な相違(例えば、真如としての 衆生心)が感じられますが。
しかし、決してそれだけではありません。部派仏教といえども、在家による多くの帰依を受けなければ、 その存続はありません。そして、法施を軸として、外への働きかけが欠けるということもありません。 「利他」のない仏教なぞ無いのです。 また、「自利」無き「利他」もまたありえません。なんとなれば、自身の理解や頷き、或いは強い「信」がなければ、 他者への薦めもないからです。「自身で確かめた(≒信じた)信頼性」の無い推奨ほど無責任なことはないからです。 その意味で、「自利」と「利他」は不即不離でもあります。傾向の差異こそあれ、蔑称は所詮蔑称であり、 大乗側による、自説(自群)を優位にする為のテクニックであった側面を忘れてはなりません。 初期仏教に於いても小乗仏教(部派仏教に於いても、或いは上座部に於いても)、 「利他」の側面はそこかしこに見られます。ただ、大乗仏教のように、 それが「前面に押し出され」、「看板・スローガンとして掲げられ」、「一押し商品とされ」てはいないだけです。 *(ここ(看板とされていること)こそが、大乗仏教の特徴と言うこともできます。)
そこで、貴方の次の問い(9三行目)とリンクした話となります。 この意味で、大乗仏教は、 ≪それまでの《「自己を救うこと」「自己の苦悩の解決」に特化した(【それを幹としていた】)仏教の在り方》を 《「他者を救うこと」「他者の苦悩の解決」を至上とした(【それを幹とした在り方】》へと転換させた≫ もの、 と言えるわけです。その意味で、初期仏教と比しても、【変容があった】とは言い得るわけです。 或いは、 ≪《精舎(僧窟)に腰を据え、「教理の玩弄」に目を奪われた在り方》を、 《市井に出て、「衆生へ視線を注ぐ」在り方》へと転換させた(回帰させた)≫ もの、と言えるわけです。 【「換骨奪胎」(→教えの本質を「自利」から「利他」へシフトさせたという意味で)】という評も、頷ける部分があるのです。 問題は、奈良・三枝両氏の謂いが、上のようなことなのか、貴方の言うような、 《(初期仏教までも含めて!w)、「否定、離脱し、新基軸を打ち出した」ものなのかどうか》ということです。 *(もし、上記TPOで触れたように《「小乗仏教」が、有部を始め各種部派仏教を指す》ものなれば、 『否定的換骨奪胎』がなされたとの言明は、私がこんなレスをする必要も無くw、当を得ているでしょう。) > 「この二つは異なった宗教」「大乗は小乗を換骨奪胎した」という、奈良氏や三枝氏の指摘にどう反論できるか。 おそらく下記二つのことを言っているのだと思いますが、 違っていたら、改めて、ソースと共に提示お願い致します。
>>338 なるほど。確かに言ってるわw
引用文のみ見れば、その一文は貴方と全く同じ考え方ということになりますね。
(それ以降の文は、貴方の意見と真っ向対立するものですが・・w)
で、私としては、やはり、
≪ >【完全なる相依にもとづく縁起説】として ≫に異を唱えることとなります。
それは、「中論がそうであるかどうか」ではなく、(縁起一代は一蹴しましたがw)、
その考え方は『改悪』である、と見るわけです。(勿論、貴方は『改善』と見ているのでしょうが・・・w)
理由は、
>>327 、★
>>328-329 、(
>>325 )(
>>345 )に尽きます。
≪「完全なる相依性、相互依存」のみであるなら、それは「縁起」ではないし、
【また、「縁起」である必要もありません】≫。
なぜなら、
≪「時間的因果」こそが「縁起」の【定義】であり、【原義】であるから≫です。
貴方は、そして多くの学者は、初手に於いて「そこを見落とし、見誤っている」のです。
奈良さんの発言に関しては、ソースの提示がされてなかったようですね。
ログで辿れる一番古いものは↓だが、
【根本仏教】中観仏教について語ろう【龍樹】U
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1254219116/530 ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1254219116/530 > 奈良氏も「釈迦佛教と大乗仏教は違った宗教」という趣旨のことを言っていましたね。
貴方の書き方から推察しても、
「違っている(→変容している)」ということを言ってるだけで、「換骨奪胎」ということではありませんね。
ましてや「否定」なんて意味合いは、「釈尊シンパの奈良さん」wに於いて、あろう筈も無い発言ということになりますw
確かに述べていたと言うならば、複数でも構わんのでw、ソース提供を宜敷w
また、上で述べてきたように『所謂「大乗」の特色』というものを考えるならば、
それは明らかに初期仏教(貴方の言う「釈迦仏教」)とは、大きく違ったものとなっていますが、
以上のようなことを考慮すれば、奈良さんが、
「【貴方の意図するような意味で】それを言った」ということにはなりません。
*(だから、釈尊マンセーでもあるw奈良さんは、「大乗仏教は釈尊の教えから随分と変容しているけれども
しっかりと、そのスピリッツを継承している。」として、「仏教風呂敷論」という語を用い、
「エッセンスの共通性」を、仏教か仏教でないかの線引き基準の一つにしているのです。)
また、(奈良さんに関しては、原文がどういうものであったかわかりませんので憶測にしかなりませんが)、
もし「小乗」という語を用いていたなら、上のTPOの所で触れたように、
【両氏ともに、原始仏教(初期仏教(→釈迦仏教))を視野に入れていない】ことは明らかです。
寧ろ、【所謂「部派仏教」「学問仏教」、「衆生を置き去りにした感のある歴史的一群」を指して、
そこからの変革であった】、という意味だと読むべきでしょう。
さらに言うならば、(小乗仏教という呼称を用いて対比するならば余計に)、
《龍樹は、原点回帰、初期仏教(≒阿含への回帰)、即ち、釈尊への回帰であった》
というのが、学界仏教界共通した見方でもあります。
431 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 01:15:50 ID:4aFwDrK5
>>429 しばらく、ロム専だったが、ひさいぶりに書くかw
セブンよ、一つ聞くが
>≪「時間的因果」こそが「縁起」の【定義】であり、【原義】であるから≫です。
釈迦の言う「縁起」とは、ある特定の時間軸における、「原因」と「結果」『のみ』
を指してのことか?
432 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 01:27:42 ID:4aFwDrK5
>>429 さらに言えば、確かセブンは
「特化、純化することによる『弊害』」という表現をしていたが、
これがよくわからん。竜樹のような根源的分析は必要だと思うが、
この弊害ってのは、隠居のような奴が、勘違いするってことか?www
433 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 01:32:35 ID:4aFwDrK5
>>429 さらに補足
「竜樹は、時間的因果を否定していたのか?」
俺には、「竜樹は、時間の自性を否定していたに過ぎず、時間もまた
相依によってのみ、あり得る。」と主張しているだけに思えるのだが
違うのか? 仏教徒諸君。
434 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 01:40:10 ID:mHKLduHQ
釈迦の正当化に必死ですね。それがまさに小乗がカルトである所以。
435 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 04:53:10 ID:1WGeU9SM
436 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 05:05:11 ID:1WGeU9SM
「私は正しい、清い、悟っている」などと自画自賛する釈迦の、一体 どこが良いのかね。とんでもないカルト教祖か基地外だ。現代、こんな 人間が出てくれば、張り倒されるか、精神病院に強制入院だろう。
437 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 05:23:32 ID:0NoKKKTZ
>>415 その癖は釈尊によって美しく『梵網経』に、それから『方便心論』『四百論』『中観心論』『中観荘厳論』『タットヴァサングラハ』『入菩提行論』などに纏まってると思うけど。
>>416 龍樹菩薩以降は、違いを鮮明にしてるけど、それらは批判のためじゃなくて、戯論寂滅のためだと思うよ。そこを誤解してる後世の人がいて典型は松本、私が見る限りゲルクもそうだとおもう。
438 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 05:31:03 ID:0NoKKKTZ
>>421 サドが明解に書いてるが、常識・世間の習慣は、普遍的基盤ではない。
時代によっても、地域によっても、個人によっても大きく変わるもの。
例えば、日本で今は自由・平等が尊重されるが、たった100年前は違った。
いまでも、北朝鮮などでは尊重されない。
そして、国と国で文化が違うからいろいろ誤解が生じる。
これは個人と個人でも同じこと、それぞれ習慣・常識が違うということ、
相手の習慣を尊重しなければ、世界は平和にならない。
釈尊も龍樹菩薩も当然、習慣・常識は空と仰られるが、
それぞれの習慣・常識は尊重されている。
ここが仏教の優れた点の一つである。
439 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 05:42:48 ID:0NoKKKTZ
>>433 縁起は一義的ではありませんが、相互依存ではありません。
特に釈尊・龍樹菩薩はそう。
例えば、無常・無我・空という場合、
無常では縁起する諸法を、自性として認めてそれらが変化するとします。
これを縁起に当てはめると、「これあればこれあり」で、
a という因によって b という果が仮設されると考えるわけですが、
無常レヴェルでは、a b とも仮設された自性として認めます。
この場合、時間的因果関係が縁起です。
ところが、多少、境地が深化して空となった場合、
縁起する諸法は全て空として止滅され、自性すら認められず、
戯論寂滅するわけです。この場合、時間的因果関係ではなく、
すべて静まった状態、『中論』18.7です。
その状態から、世俗の意識になって縁起が立ち現れる。
この状態でも全ては仮設で幻だと捉えるのが『中論』24.18
この意味は、『中論』自体には明瞭ではありませんが、
諸註や諸論に明かです。
さて・・。 貴方の(まともな?w)問いには一応返答終わりました。 もしかしたら、(問いの意図は)、 「自説を補強する形のものが出てくるんじゃないか」、と思ってのことだったかもしれませんが、 甘いですw 怪我の功名とでも言いましょうかw、過疎ってるお陰でwww、 また休日もあり、文章量の割には、作業はスムーズでした。 貴方の方は、過去膨大な指摘に対して、何か返してくれるんでしょうか・・。 ※独り言※ 「この意味で〜」というフレーズがやけに多いなw 誰か、これがどういう理由によってるのか分析してくれw 自分では、文の流れ(意味の繋がり)として必要だと感じるから、修正・言い換えや削除をせずにいたのだが・・。 1-1から3までは、理屈っぽいだけで今一今三くらいだなw 小難しく長文にすることで、もっともらしく見せている感がないでもないwww
また、
「隠居相手に、何マジになってんだ?」とか
「長文書くとか、どんだけ暇だよwww」とか
「長文書き込んで、〈ボクちゃんこんなに知ってますよ〜♪〉ってオナニーだろ?w」とか
「ブログでやってろ!」とか
色々想う所はあるでしょうがw、
過去何度か記したように、隠居が躓いている点は、大なり小なり、
初学者、或いは仏教外の人間が抱く疑義、陥るトラップだったりするのです。
たとえば、Sn.ダニヤの章に於いて、
『なぜ、牛飼いとしての責務・理想を全うしたダニヤの姿が、(離れるべき或いは劣った在り様として)、
出家者の姿、心持ちと対比されねばならないのか?』(「出家者用の教えだから」というのは一先ず措きw)
社会に生きる者として、その在り方を理想的に極めているにも関わらず、なぜ、低い価値付けがされるのか?
普通に生じる疑問です。 ましてや、十牛図を珍重する禅なれば、(或いは大乗的に日常の善行を重視するなら)、
ダニヤの姿は、理想像の一つ足り得ます。(寧ろ、【現代日本仏教は「ここに縋っている」】とも言い得るわけです。)
それを、上座部と大乗仏教(或いは禅宗)との対比に解消してしまうのは簡単ですが、
【牛飼いとして生きることを、成仏の一形態と】していいものか、一抹の不安は残ります。
だから、「二諦」が必要だし、
《そもそもの第一歩として【「出世間という価値観」を認めるかどうか】》、
が分水嶺となったりするわけです。(→「信」がスタート地点に配されることも、構図上同じ座標となるかもしれません。)
*(
>>300 などが、典型的な「ダニヤ的生き方のどこが悪いのか?なぜ、そうも否定するのか?」というものですw)
だから、「単に「論破する」「やり込める」といった論駁の意図でなく、
隠居を超えて他の同様な疑義を持つ人に、どこまで言葉が紡げるか?」という実験のような面もあるのです。
(「スルーばかりで意味が無い」というのも御尤もではありますが・・・w)
見苦しく、スレの流れを乱す行為だったかもしれませんが、
大洋の如き御寛恕を願い上げます。 >>閲覧諸氏
443 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 09:31:57 ID:4aFwDrK5
>>439 >例えば、無常・無我・空という場合、
無常では縁起する諸法を、自性として認めてそれらが変化するとします。
これを縁起に当てはめると、「これあればこれあり」で、
a という因によって b という果が仮設されると考えるわけですが、
無常レヴェルでは、a b とも仮設された自性として認めます。
この場合、時間的因果関係が縁起です。
これは、無明に覆われているこの世界では、「そのように見える」ということだよね?
そして、そのレベルでは「自性」があると。
そして、
>ところが、多少、境地が深化して空となった場合、
縁起する諸法は全て空として止滅され、自性すら認められず、
戯論寂滅するわけです。この場合、時間的因果関係ではなく、
すべて静まった状態、『中論』18.7です。
これが、いわば「真実の姿」なわけだ。
つまり、世俗では、それぞれが自性をもち、因果の法に拘束されるが、
そして、それが真実であるように思えるが
実は、んなもんは、まやかしで、真実は「自性を有するものは何一つなく、
時間性を有するを因果も本当は、そんなんもんはない」 と。
こういうことかな?
死んだときだけ近づいて ぼったくってんじゃねえよ o○○○o o○○○○○o o○○○◎○○○o o○○○○○○○○○o ○○○○○○○○○○○0 / ̄ ̄\ ○○ 0 ○○ /ノ( _ノ \ /○ / ̄ ̄ヽ r' ̄ ̄\ ○ヽ | ⌒(( ●)(●) { 8{ ─・─ |─・─ _ 8 } .| (__人__) ヽ 8} :|::: :l8 / | ` ⌒´ノ | | (__ノ::) .}./ / ⌒ヽ } /⌒) | | ,、┴ 、_ ./ / / へ \ }__/ / |_人.  ̄こ ̄ 人/ ガッ! / / | ノ ノ ガッ! |> 、____, < /|/|__ ( _ ノ | \´ _ iWWWWWWWW| / .| \_,,-‐''" ゙''――---'´ ̄`ヽ て | ______ ノ ( ヽ __,,-‐''"< iWWWWWWWi < ヽ ( //\|\|\|\|\|\ヽ'; ヽ /\_____/\ / ̄| ──── | ̄\ / ̄| {フ| | | ̄|\ _/ / /| | | | |
445 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 10:03:17 ID:0NoKKKTZ
>>443 >これは、無明に覆われているこの世界では、「そのように見える」ということだよね?
>そして、そのレベルでは「自性」があると。
あると仮設されて妄想・戯論・分別しているということですね。
>実は、んなもんは、まやかしで、真実は「自性を有するものは何一つなく、
>時間性を有するを因果も本当は、そんなんもんはない」 と。
ないと断言もできない。それらは幻で因果するけど、主体の知覚でどのようにでも変化するし、有る、無し、両是、両非という四句分別という論理形式、言葉で把握できる世界を超えているということだと思います。
こっちの方は完全に自信をもって断言できるほど理解してるとは言えません。
446 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 10:15:08 ID:4aFwDrK5
>>445 ん?
>・・主体の知覚でどのようにでも変化するし・・
これは疑問符がつきますな。
主体の認識を対象に干渉させては、まずいでしょ?
認識主体が、たとえ対象をどのように認識しても「対象自体」には
何の影響も及ぼしません。これは、あくまでも、その認識主体が
対象を「どのように認識するか」ということに留まります。
そして、俺が問うているのは、その認識主体に左右されない
「実相」「真実の姿」
これがどういうものなのか? ということなのです。
それは、時間性を排除されたものであるのか?
(時間性を排除した)相依性のみによって成立し、(時間的)因果の
存在しないものであるのか?
ここなんだけど。
447 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 10:33:25 ID:0NoKKKTZ
>>446 実相は、一味法界で平等な何かといえない空性そのもので、
しかもアートマンのような実在ではないもの。
知覚によって変化するのは、その実相を体験し空性を体得した聖者にとって、
世間の現れは幻で、その知覚によってどうとでも見えるということ。
例えば、一水四見と言われているように、
人の言語習慣で「水」と言われるものが、神々には甘露に見え、
餓鬼には血膿に見え、魚には人にとっての空気のように体験されるが、
それらは全て幻で、しかも、対象として水などの基体となる何かが実在するのではなく、
それぞれの業によって、それぞれに縁起して仮設するだけという意味。
448 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 10:43:55 ID:4aFwDrK5
もう少し、補足すると、 「今現在、我々が住するこの世界は、全てのものが「自性」を有し、 厳然たる因果の法に拘束されているように『見える』。 例えば、一人一人が「個人」として存在し、また、全ての人間が 生まれて、年老いて、死ぬ。 しかし、真実はそうではなくて、実は「自性」を有するものなど 何一つなく、全ては相依性によってのみ、成立しているに過ぎない。 すなわち、全てが『空』である。」 と、まあ、ざっくり言うと、このような見解が仏教(または竜樹)の 言う所なわけだろ? んで、俺が問ういるのは、この実相、真実の姿においては 「時間は自性を有するか?それとも、時間もまた相依によって成立して いるに過ぎないのか? あるいは、時間そのものが完全に存在していない のか?」 さらに、この時間と関連するが、ここにおいては (世俗と同じレベルであり得るはずもないので) 「因果は相依性によってのみ、成立するのか?または、完全に因果は 消失しているのか?(これは言い換えれば時間の完全消失ともいえるが)」 ここなんだけど。
449 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 10:56:32 ID:0NoKKKTZ
>>448 時間も世俗の仮設で、勝義ではありえない。
そして相依性は、釈尊も龍樹菩薩も説きません。
これは近代学者の誤読です。
相依性ではなく、他に依っていることが、縁起です。
450 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 10:57:36 ID:4aFwDrK5
>>447 いやいや、そうではなくて
>例えば、一水四見と言われているように、
人の言語習慣で「水」と言われるものが、・・
これは、よく仏教で説かれる比喩だけど、
「ある一つの対象(ここでは水)に対して、それを「認識する側」
つまり認識主体によって、その評価が異なる」ということに過ぎないよね?
それでは、この対象(水)の真の実相というものは無いのかな?
「認識主体が完全にいなくなったとき、その対象も消失するのかな?」
これだと、隠居の「知覚実在論」になってしまうけど。
451 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 11:06:03 ID:4aFwDrK5
>>449 >そして相依性は、釈尊も龍樹菩薩も説きません。
これはまた斬新な見解ですな。
釈迦はまだしも「竜樹」も相依性を説かなかったと?
「単独で存在する属性、すなわち自性を有するものは皆無である。
全て他との相依によってのみ、あり得る。」
これが竜樹の主張の根幹であると思っていたけど。
これは何でしょうか?
双方向性の否定で、一歩通行の相依のことかな?
452 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 11:12:10 ID:4aFwDrK5
>>449 引用が飛んでしまったww
>相依性ではなく、他に依っていることが、縁起です。
これは何でしょうか?
双方向性の否定で、一歩通行の相依のことかな?
453 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/10/29(金) 12:31:03 ID:+Cz8og53
>>284 みなさん-ご機嫌麗しゅう。
引越しに伴い切断していましたが、やっと昨夜、3週間ぶりに復活!
しかも、光フレッツ回線にて強力に蘇りました^^
お不動さん(成田山)信仰に目覚め、
あれ以降〜日々、お供物とそして礼拝読経を繰り返す日々です。
神智学に邁進してからのニ十数年、すっかり興味薄となったこれらに向きあってみると・・・
こんなにも面白く楽しいものだったとわねw
お線香をつける素朴な行為の実に嬉しいこと。ホホホッw
で、
>>408 >(リンク先のレス番はみみずん変換してませんが)、
>宝珠氏の保管庫、利用してあげてくださいよw
セブン、ご指摘に感謝です!!
早速、修正しておきましたよ(皆さんからも要望があれば、随時、検討します)。
●●●愚者WEBSITE~仏教関係LINK
http://houjugusya.web.fc2.com/link.html
454 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 12:49:30 ID:0NoKKKTZ
>>450 主体側も空だから、ただ業によって縁起してるだけですよ。
対象も空、どちらも空なるものが縁起して、
それぞれとして現れるだけ。
これが仏教の縁起・空・仮設
455 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 12:52:34 ID:0NoKKKTZ
>>451 相依、相互依存というのは文献学者が、月称註から読み取った解釈で、
今では文献学者でも支持する人はほとんどいません。
ただ、チベットは月称註で解釈するので相依解釈が主流。
相依だと因果と仮設できなくなりますね。
456 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 12:56:09 ID:0NoKKKTZ
>>452 >>相依性ではなく、他に依っていることが、縁起です。
>
>これは何でしょうか?
>双方向性の否定で、一歩通行の相依のことかな?
一方通行の依存ですね。
これあらばこれあり。
先行するものに依って後のものがある。
言い換えれば因によって果がある。
例えば、種によって芽がある。火によって煙がある。
生によって死がある。
このように世俗的な生成関係にしろ、認識関係にしろ
因果関係として捉えられることと考えます。
詳しくは、石飛先生の『龍樹』をお読みになるといいでしょう。
457 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 13:06:27 ID:DEftZ3Nw
>>449 >そして相依性は、釈尊も龍樹菩薩も説きません。
>これは近代学者の誤読です。
>相依性ではなく、他に依っていることが、縁起です。
中論全体を流れる基調は、徹頭徹尾「相対性」である。「相対性」とは「相互
に依存すること」。一方向の因果関係では、忌むべき「業報論」への道を開く
ことになる。「古代の学者(信者)」の誤読であろう。
また「すべて」が他に拠っているとすれば、まさに「相依性」になるではないか。
明らかに論理破綻。
中論の内容は極めて革新的で高度であるから、既に原始仏教の影響を受けたもの
にとっては、理解は不可能か、極めて困難であった、と考えるほうが、自然で
あろう。現代でも、未だにそうであるw。
458 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 13:14:08 ID:DEftZ3Nw
>>456 石飛氏の最新著を読んだが、まったくとんちんかん。彼女の意図は、竜樹を釈迦に
取り込みたいだけ。
はっきり言って、このオバサンは、頭が良くない。地方国立大学も中退し、現在では
名も無い大学の非常勤講師。どこの馬の骨か。
459 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 13:22:48 ID:0NoKKKTZ
>>458 >地方国立大学も中退し、
なんにも知らない君らしい。
文部省の方針が変わるまで、文学部で博士課程は単位取得退学なんだよ。
博士論文は、だいたい50〜60歳ぐらいで自分のラフワークが完成して、
始めて提出する。
まったく、なんでもこの調子だから。
知らないのに、知ったかぶりしてトンチンカンなことだけ書いて、
間違いを決して認めない。
早く治療した方がいいぞ。
460 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 13:28:03 ID:DEftZ3Nw
>>456 「これあらばこれあり」なら、前後関係は出てこない。時間的因果関係の全面
否定である。
小川一乗氏も「大乗の中心思想」において、「これ」と「あれ」とは、実は
同じ言葉であるといっている。釈迦、竜樹、大乗を一本化したいが故の、意図的な
論調であろう。
461 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 13:48:34 ID:DEftZ3Nw
>>459 「頭が良くない」「釈迦盲信」の「女」であることは確かだw。
「去る者は去らない」の説明も、説得力は皆無。「マラソンランナー」の例など
持ち出し、「ランナーがどういう行為をするかは、そのつど見て語られなければ
ならない」「ランナーは空である」などというピントはずれなことを言っている。
竜樹自身の説明では、「去る者は、去るという動作をすでにしているのだから、
同一人が同一動作を重ねてすることができない」という、極めて明快な「言語の
論理矛盾」の指摘であるが、そのことには一切触れていない。
462 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 16:30:57 ID:4aFwDrK5
>>454 レスをくれるのは、ありがたいとは思いますが、それでは
>>450 に対する回答には全くなっておりません。
>>455 なるほど。現在の仏教学会の竜樹に対する評価の主流は、「竜樹は単一方向性の
依存関係を主張した。」そして、チベット仏教は間違っていて、あなたは主流派の
見解である。
と、こういうわけですね。
>>459 と返され
>>461 と応じる負けん気はどこから湧いてくるんだろうか・・w
隠居「このうどん出汁、醤油が全然入ってないね。だから味が薄いんだよ。」
459「いや、関西風だから。わざと醤油少なくしてるから。薄く作ってあるから。」
隠居「関西風は不味い・薄味は不味い、というのは確かだ。」
全員「馬鹿ですか?」
>>437 > その癖は釈尊によって美しく『梵網経』に、
> それから『方便心論』『四百論』『中観心論』『中観荘厳論』『タットヴァサングラハ』『入菩提行論』
> などに纏まってると思うけど。
「梵網経」に、というのはまさにその通りだと思う。
(松本さんの舵取りミスの理由の一つは、パーリに暗かった、ってこともあるのかもしれない・・。
また、彼が批判する如来蔵や本覚思想、或いは真如、
或いはまた浄土や諸如来諸菩薩の出現も、法身・三身説も、つまり「各対論者・各説」もまた、
解釈(≒受け止め方)はともかく(貴方は勿論、正当性・正統性を付与する理と経験をお持ちでしょうが)
そうした「癖」に端を発していると思うしねw)
後のは読んでないけど、
他の諸論始め、パーリも含むアビダルマや倶舎・唯識仏教哲学の煩瑣になった理由は、
そうした「癖」(≒煩悩)の分析が主軸となったから、と言い得るだろうし、
「それが仏教の中心である」みたいに受け止められる流れも致し方ないとも思う。
*(自身(の縁起すること)を見つめる上で、煩悩考察(それは、苦の考察にも繋がってゆくものだが)は
勿論重要だし、その意味では、「そここそが(煩悩考察こそが)仏教である」という謂いも、正当性を持つ。
つーか、四門出遊から菩提樹下を重視すれば、或る意味「出発点」でもあるし。)
> 龍樹菩薩以降は、違いを鮮明にしてるけど、それらは批判のためじゃなくて、戯論寂滅のためだと思うよ。
それは、ほぼそのままの主旨や言葉で散見されるよね。
それに、この昇華は、(長文中9-の段で触れた側面とは別に)、
「滅諦、涅槃」及び「勝義」の明確な位置付けや、「三法印(特に無我)」及び「縁起」の
理の面に於ける詳細な裏付けとして、やはり必要なことであったと思うし、評価しないわけじゃないよ。
> そこを誤解してる後世の人がいて典型は松本、私が見る限りゲルクもそうだとおもう。
一般的(いや、少し詳しくか?w)に知られている「チベット仏教」「中観」は
ゲルク派の系譜ってことなのかな・・。或いは、「批判の為の論立て」が軸となった系譜(帰謬論証派?)
が大手を振るったって感じ?
>>439 珍しく(?w)、硬いけど簡潔で解り易い説明乙。
なるほど。よくわかるw
465 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 20:05:16 ID:Qx1CN9Ji
以前、「釈迦への嵌り込み(洗脳)は、セブン氏が最も深い」と評したが、そ のことを証明する彼の数々のレスだね。「釈迦批判」は全く出来ないし、また やる気も無いようだ。
>>465 過去スレ過去レス漁って来いw
話はそれからだwww
467 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 20:26:19 ID:Qx1CN9Ji
釈迦教徒にとって、竜樹の「卓越した頭脳」は目の上のたんこぶなのだろう。 だから、「相依性の否定」によって、竜樹の中核を破壊しようとやっきになって いる。 釈迦には竜樹ほどの頭脳はないから、「縁起」「空」の本質である「相依性」に 思い至れなかっただけの話。やはり「業報論」から離脱することができなかった のだろう。 空論全体の基調である「相対性」は、「相依性」なしには、成立しえない。
>>467 貴方こそ、「龍樹批判」は全く出来ないし、また、やる気も無いようですねw
>>450 これは、
(以前、レゴの喩えをしましたがw、同様に「最小単位・粒子」の存在を実在として前提しないでいただきたいのですが)、
たとえば、雲が様々な形をとります。
(この時、水蒸気の集積具合や密度の顕著な差により、(輪郭としての)境界もあります。)
そこに、確かに、そのような(→密度等の差による)形態・存在形式・在り様が「あり」ます。
しかし、それは、諸条件(→認識する者の視線(受け取り方・解釈)含め)によって、そのようにあるわけです。
何か外在的「型枠」にそったものとしてそこに「ある(現れている)」のでもなく、
また、内在する「型」に従って「ある(現れている)」のでもないわけです。
・そのような「在り様」について、
「或る形態(たとえば龍、たとえばロールパン、たとえば鱗、等)が見られる」ということ(→所縁によって和合、顕現している)、
《『〈そのような形態を見させる〉密度の差』は「ある」》ということ、が、
世俗諦であり、仮設されているということです。 ・・・一水四見の「四見」ですね。
・そのような「在り様」について、
「水蒸気の密度の差があるのみ」ということ(→縁による連関のみがある)、
《『密度の差』は「ある」》ということが、
勝義諦であり、諸法(諸事象)の実相ということです。 ・・・一水四見の「一水」ですね。
直接的に対比させれば、
・そこに【『密度の差』は「ある」】(→今の流れでいけば、『縁起しているということ』が「ある」)と・・。
・「『縁起している諸法』があるだけ」―「『密度の差』があるだけ」、
だから、認識主体の有無(&対象の有無)を問わずに済む、と・・。
と(横からw)、こんな感じではどうでしょうか?(かなり自信はないが・・w)
>>447
471 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 20:59:57 ID:Qx1CN9Ji
>>468 竜樹批判なら、いくらでも出来るよ。
1 表現がクソ難し過ぎる(翻訳で読むからかも知れないが)。内容的には
「普遍の事実」なのだから、もっと平明に表現すべし。
2 釈迦へのお世辞は余計。口が上手すぎる。「帰依の告白」でころりと騙される
仏教者が多い。石飛氏もその一人。中論の内容からは「釈迦を超えた」という自負
は明らかなのに。釈迦の名を「利用した」のかも知れないが。
3「生命論」が不十分。彼は医学に造詣が深かったそうだが、残念ながら、当時
は医学の発達は極めて不十分だった。
>>432 そうです。或いは机氏もそうです。或いは、禅系・悟り系スレの多くの方がそうです。
スレ・板問わず仏教サイドから書き込む多くの方々がそうです。
或いは、(2chだけでなく)、心経を特別扱いして持ち上げる方々です。色即是空を印籠の如く使用する方々です。
*(この辺は一代の
>>437 やこれまでの幾つかの発言中にある通り、他の側面が見えていないだけ
ということではあるのでしょうが・・。)
>>433 >>439 が明解だと思います。(貴方なら十分理解できるでしょう?w)
>>443 > そして、それが真実であるように思えるが、実は、んなもんは、まやかしで、
> 真実は「自性を有するものは何一つなく、時間性を有するを因果も本当は、そんなんもんはない」 と。
この辺が、上の3行ですし、
>>442 の
> 《そもそもの第一歩として【「出世間という価値観」を認めるかどうか】》 に関わってくるわけです。
「無い」のではく、「あるけれど、無い」「無いけれど、ある」という言表に込められているのは、
(うまく言えませんが)、
まさに、視線の深度の違い(モニター等で言えば解像度の違い、2ch的に言えばw中の人の存在を見るか見ないか)
といったこととなるのです。
SF映画を見、そんなことは無いと知りつつも、「そのようなもの、こと」として物語を受け入れるようなものかもしれません。
(やっぱり上手く言えてないなw)
参:
仏教議論スレッド 5
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1278424122/ 〔137、 138、 140〕
そして、隠居のように、他の視線(の存在)を認めないスタンスを採る方とは、
初手どころか、準備段階としてのコンセンサスを取ること自体困難なわけですw
アルファベットも知らない日本語オンリーの人に、辞書・翻訳無しで、英詩のニュアンスを伝えようとするようなものです。
>>471 w
その程度でよいなら、(リクエストに答えてw)書き込んでありますけどねぇ・・。
貴方の目はどこに付いていて、貴方の頭には何が詰まってるんでしょうね・・?w
474 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 21:27:22 ID:Qx1CN9Ji
「想いを離れた者には、しばるものはない。智恵によって解脱した者には、無知(痴)は ない。想いと見解に固執した者たちは、対立しながら、世間をさまよう」(Sn847)。 セブン氏は「釈迦教徒」ではないのかも知れないねw。
475 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 21:39:37 ID:Qx1CN9Ji
>>472 >隠居のように、他の視線(の存在)を認めないスタンスを採る方とは
生命を以って生命の視線を捻じ曲げるのが誤りだといってるのだよ。
人間にとって、唯一コンセンサスが可能なのは、その生物的生命のみ。
その他は、百人百様の「観念の遊戯」に過ぎない。
476 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 22:00:32 ID:/tsWNYg9
>>470 (ID違うが)
セブンよ、俺が聞きたいのは
1 釈迦の説いた縁起は「時間制を排除した「相依性」を含まないものなのか?
2 龍樹の説いた縁起も「相依性」ではなく、時系列を前提とした因果なのか?
こういうことだ。
この二つが共に肯定されれば、仏教の認識論は常に時間軸が前提となると思うが?
>>475 www
貴方の生命論こそが、「観念の遊戯」に他ならないというのに・・w
478 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 22:07:54 ID:/tsWNYg9
さらに、補足 セブンのレスでよくわからんところがある。 セブンのスタンスは「ある対象の存在」について、「その認識主体」を必須の要素と考えているのか? ときどきそのようなレスがあったような気がする。 また、宝珠とのやりとりでは、涅槃における「主体排除の作用」を認めてたよな? その辺が今一、分からんな。
死んだときだけ近づいて ぼったくってんじゃねえよ o○○○o o○○○○○o o○○○◎○○○o o○○○○○○○○○o ○○○○○○○○○○○0 / ̄ ̄\ ○○ 0 ○○ /ノ( _ノ \ /○ / ̄ ̄ヽ r' ̄ ̄\ ○ヽ | ⌒(( ●)(●) { 8{ ─・─ |─・─ _ 8 } .| (__人__) ヽ 8} :|::: :l8 / | ` ⌒´ノ | | (__ノ::) .}./ / ⌒ヽ } /⌒) | | ,、┴ 、_ ./ / / へ \ }__/ / |_人.  ̄こ ̄ 人/ ガッ! / / | ノ ノ ガッ! |> 、____, < /|/|__ ( _ ノ | \´ _ iWWWWWWWW| / .| \_,,-‐''" ゙''――---'´ ̄`ヽ て | ______ ノ ( ヽ __,,-‐''"< iWWWWWWWi < ヽ ( //\|\|\|\|\|\ヽ'; ヽ /\_____/\ / ̄| ──── | ̄\ / ̄| {フ| | | ̄|\ _/ / /| | | | |
480 :
神も仏も名無しさん :2010/10/29(金) 23:52:28 ID:gopS97R9
>>477 生命現象を現す肉体や五感で知覚できる対象(現実界)は、観念の対極に
あるもの。釈迦も、肉体が滅びた後は、もはや「観念の遊戯」はやれなかった。
観念とは異なり、生命は百人百様ではない。すべての人間は、生きている間は
生命現象を現すが、死ねばすべて消滅して、腐敗するか白骨となる。例外は
「皆無」。
仏教 議論スレッド その2 615 神も仏も名無しさん sage 2010/05/16(日) 15:28:10 ID:Ns7lKlAg >> 611 wwwww 『【肉体から離れるかどうか】は問題ではない』と言ったろ?(>> 541) 「霊魂という言い方」が気に入らないようなのでw、今回は「○○」と表記するが、 「○○が肉体から離れる」という言明と「『生命』が肉体と同時に消滅する」という言明に、 さしあたって重要性は無い。 (・「○○がなくなったから(居なくなったから・離れたから)生命現象が消えた」。 .・「『生命』がなくなったから生命現象が消えた」。 同じだろ?w) ※(尤も、「『生命』だけが欠けている肉体」を認めるのかどうか、回答をいただいていないが・・w) 重要なのは、 ≪「○○が肉体と共にある」とされる時と「『生命』が肉体と共にある」とされる時の構図が全く同じである≫ ということだw いいかw 《【「生命現象」が観察される所に○○がある】と【見做す】》ことと、 《【「生命現象」が観察される所に『生命』がある】と【見做す】》ことは、 【構図上、全く同じ】だと言ってるんだよw そして、現代の知見は、 《【「生命現象」が観察される所には、○○があるのでも『生命』があるのでもなく】 【(人体を構成する諸分子の集積・結合・相互作用により) 生化学的な種々の反応・作用が生じている】と【見做し】》ているということだ。 ≪『生命』を持ち出さずとも説明が付いている≫ということだ。 いいかw お前は、 ≪【観察される「生命現象」の理由(・因)に】、【現代科学の知見を採用せず】、 (まるで古代人が、そこに○○を見たようにw)、 【『生命』が「生命現象」を引き起こしている】≫ と言い続けているわけだ。
仏教 議論スレッド その2 605 1/2 sage 2010/05/16(日) 13:04:01 ID:Ns7lKlAg 隠居は、以前、 ≪「他者の心が【どのようであるか】」は、「(専門家の)観察により」「知り得る」≫(>> 54) また、 ≪「自分の心が【どのようであるか】」は、「自分の主観の域を出ない」≫(>> 54) と言った。 ※注意すべきは、 《いずれにしても、それは「現れ、様相」(→〔「心」現象〕・「心的現象」)の観察でしかなく、 なんら【「心」という何ものか】の【存在】を担保するものではない》ということ。 確かなことは、《そこに【心的現象(〔「心」現象〕)が見られる】》ということだけだ。 また今、 ≪「知覚認識できる“現れ”(〔「生命」現象〕)により」「そこに『生命』が【存在する】」と【見做し】得る≫ と言った。 (>> 546>> 586>> 598) また、 ≪「死体には〔「生命」現象〕が【現れていない】」ので、「そこに『生命』が【存在する】」と【見做し】得ない≫ ≪「《肉体》とは《〔「生命」現象〕が現れている》もののみを指す≫(→《死体》は《肉体》ではない) と言った。 (現時点では、文脈上このようにしか読めない。) (>> 546>> 547>> 580) ※注意すべきは、上記「心」の場合と同じく、 《それは「現れ、様相」(→〔「生命」現象〕)の観察でしかなく、 なんら【『生命』という何ものか】の【存在】を担保するものではない》ということ。 確かなことは、《そこに【〔「生命」現象〕が見られる】》ということだけだ。 ―――――――――― 隠居の名誉の爲に、若干修正したい箇所もあるが、とりあえず原文ママ。
仏教 議論スレッド その2 608 補足図 sage 2010/05/16(日) 13:34:44 ID:Ns7lKlAg 現代科学の知見 .|生物学的 ←← 各時代での ←各種生命現象←人が生きている様子 作用・理屈 解明できる範囲の 理屈 古代人 霊魂 ←|←←←←←←← 各時代での ←各種生命現象←人が生きている様子 解明できる範囲の 理屈 御隠居 生命 ←|生物学的 ←← 各時代での ←各種生命現象←人が生きている様子 作用・理屈 解明できる範囲の 理屈 ──────────── 今の流れ的に、少し、この図に説明を加えれば、 たとえば、「人は、(主観的・心情的意味で)何の目的のために生まれるのか?」 或いは「宇宙は(この世界は)、(目的・意義的に)なぜ誕生したのか?」 という根本命題を問うに等しいわけだ。こうした構図と同様の形で、 隠居は、生物誕生とその活動維持の根源に『生命』を持ってくる。 現代科学の知見を知り得ていない古代人が、考察し得る範囲の先に『霊魂』を見たように、 或いは、自然界の多様性(例えば擬態の美しさ・完璧さ)の向こうに『神(の御業)』を見るように、 隠居もまた、【考察し得る範囲の先に】『生命』を見ているだけだ。
484 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 00:19:01 ID:iJBy50DF
生命は、肉体とともに発生し、肉体とともに消滅する。神や霊魂とは大違い。 生命を以って生命そのもの(生命現象ではない)を知ることはできない。知る ことも、生命の機能に他ならないからだ。 神や霊魂とは異なり、生命は人間が対象化しえない唯一の存在。
仏教議論スレッド 6 802 神も仏も名無しさん sage 2010/10/07(木) 08:01:58 ID:pnTkdFO7 >> 783 >いくら考察してみても、ナンセンスなだけです。考察の正しさ、客観性を担保するものは何もない。 これを『生命』についても言い得ることとしていいわけですね?w >ところが、宗教では、神を「考察の対象」とし、様々に解釈し、饒舌に語り、 >崇拝しているわけです。この点で、神は、生命とは全く異なります。 ほうw さて、以下の言明 >生命は、人間が対象化できない唯一の存在であり、「今、ここに、ある」だけ >であり、宗教を含め、人間のすべての営みの不可欠な前提であり、すべてに >先立つものなのです。死ねば(肉体の生命現象が不可逆的に停止すれば)、 >いかなる営みも不可能になるのですから。 は、まさしく >「考察の対象」とし、 >様々に解釈し、 >饒舌に語 っていますね?w >この点で、神は、生命とは全く異な っているどころか、 宗教者の「神」に対する姿勢とそっくりですねw 考察の正しさ・客観性が担保されていないのに、 >唯一の存在であり、 不可欠な前提であり、 >すべてに先立つもの と断定する、と・・・w >この意味で いったい、どの意味なんでしょうか?www >この意味で、生命は、「宗教の神や霊」とは本質的に異なる存在であることに、ご留意ください。 添削しといてやるよw この意味で、生命は、「宗教の神や霊」と本質的に同じものであることに、ご留意ください。
487 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 00:55:11 ID:iJBy50DF
>>483 あなたも現代人なのだから、現代において解明できる範囲で考えればよい。
くれぐれも、古代人に戻らないようにw。
>>485 宗教上の神や霊が、「人間の肉体のみに宿り、肉体と生死を共にする」かねw。
>>476 1:《「時間性」の排除された「相依性」》ということであれば、
「含まない」と私は言い切ります。
*(ただ、(何であれ)『「時間性」を含まないということがあり得るのか?a』とも思ってますがねw)
2:これは、私には答えられません。
龍樹の縁起が、どこまで相依性を含んでいるのか(或いは含んでいないのか)、
そこまで突っ込んで中論と格闘してませんので・・w
*(ただ、たとえ中論であっても、
(→論理的同時性、相支える形での論理的関係性bは認めたとしても、―これは初期仏教でも同じ―)
それを越えた(「汎用的なもの、何でもアリ的なものとしてc」)『「相依」と言う必要はなく、「縁起」だけで十分ではなかろうか?』
とは思っていますが・・w)
※
a:たとえば、繰り返し・円環・の問題です。
「同じ場所に立っていても、トラックを走っていないことと1周とでは違う」というようなものです。
或いは、可逆性の問題です。
「友人と楽しく会話する時、以前と変わらず、全く同じく“楽しい”としても、喧嘩をする前と後とでは違う」ようなものです。
b:たとえば、
《「苦の滅」と「涅槃」》、《「教える側」と「教わる側」》、《「右」と「左」》、《「勝ち」と「負け」》、
*(例の挙げ方に、今一自信無し)
c:隠居が例に挙げるもの殆ど全て。
*(つーか、咄嗟に思いつかないだけw)
>仏教の認識論は常に時間軸が前提となると思うが?
少なくとも私は、「時間軸を抜いて仏教はない」と考えています。
もし、抜かれたものとして何かあるなら、それは仏教ではない、と・・。(普通に哲学の一種であるだけでしょう。)
少なくとも、「縁起」ではない、と・・・。
>>478 そうかな・・。「主体」の性質(定義条件)及び登場する文脈に依存して、「この場合は〈ある〉〈必要〉、この場合は〈無い〉〈邪魔〉」
って感じのつもりだが・・。 ちょっと考察し直し中&作文中w
490 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 01:03:39 ID:cPURHaCJ
>>469 え〜と、まず、結論からいうと、よくわからんww
この場合、密度をかたちづくっているのは「水蒸気」だ。
そして、どのような「密度の差」をつくるのかは、「縁起」という法則
あるいはプログラムにそって出来上がっていくわけだ。
そして、その密度の差をどのように認識、評価するかは、「認識主体」に
より異なる。←一水四見
だが、この認識主体が、「密度の差」をどのように捉えようとも
「その捉え方によって」対象が変化することはない。すなわち、認識の仕方に
よって、密度に変化が起こることは無い。
と、思うぞ。
>>490 やっぱりそうなりましたか・・w
一応、例示上、
「密度の差があって、その更に深層に諸法の縁起がある」(→ >どのような「密度の差」をつくるのかは、「縁起」という法則)
ということではなく、
同じ層として、
「密度の差がある」=「諸法が縁起している」、という置換のつもりだったんですが・・・。
┌・対象として或る形態のものがある。密度の差「が」そのように見せている。
└・或る形態のものとして見る主体がある。密度の差「を」そのように見ている。
┌・対象として或る形態のものがあるということでなく、ただ密度の差があるだけ(→縁起しているだけ)。
└・或る形態のものとして見る主体があるのでなく、ただ密度の差があるだけ(→縁起しているだけ)。
これだとどう?
492 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 01:55:24 ID:cPURHaCJ
>>491 すまんが、よくわからん。
>「密度の差がある」=「諸法が縁起している」、という置換のつもりだったんですが・・・
ここでいう「諸法」とは、法則の意味ではなく、「水蒸気」のことか?
それ以下の記述は、言おうとしている趣旨がわからん。
493 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 02:21:25 ID:4m+zdTul
>>490 横レスだが、密度の差も、観測者がいるからこそ問題になる。
観測されなければ、あってもなくても、人間には無関係。
494 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 04:32:09 ID:cPURHaCJ
@
>>489 以下は、相依性および時間との関係性についての一考察なんだが
(勿論、それは「仏教ではない」という意見はあるだろうが、・・)
まず、「時間性を排除した相依性について」
現に観測しうる我々が存在している世界から帰納して、それらを構成している
最小構成単位というものの存在を仮設することは不合理なことではないと思う。
現時点では、それらは「素粒子」ということになっているが、さらにその
下部構造をなすものが発見される可能性もある。それが「粒子」としての
形態をとるか、あるいはエネルギーとしての形態をとるかは分からないが、
しかし、たとえそれが、
どのようなものであれ、現に我々がここに存在しているわけだから、
(それがたとえ仮設されたものであるとしても)、現在の我々を「そうあらしめて
いるもの」 これがあることは確かであろう。仏教的に言えば、「縁起の法に
そって、我々をこのように形造っているもの」 このような表現になるかも
しれないが、それを 「a」 とする。
(思考実験なので、イメージしやすいように粒子aとしよう。)
495 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 04:33:08 ID:cPURHaCJ
Aさて前置きが長くなってしまったが、今、「何もない状態、すなわち『無』を 想定する。この『無』とは、何も存在しない空間のことではない。 『他との干渉が一切排除された、何も存在するものが無い空間などはない。』 『何かが存在しているから、空間も存在する。』 今、完全なる「無」の状態に「粒子a」が誕生したとする。すると当然、 この粒子aは、それが存在する場というものを必要とし、それがなければ 存在し得ない。また、その場(空間)は、粒子aが存在することにより、 存在しえるわけであり、粒子aが消滅すれば、その空間自体もまた消滅する。 ここでは、粒子aとそれが存在する場(空間)との間に時間性を排除した 相依性を見ることが出来る。 では次に時間性を付加してみるが ーーーーーーaaaaaaaaa’ーーーーーー→ 今、一番左端のaが、誕生時の粒子aとしようか。そして、それより 左のーーーーーは『無』を表す。一番右端のa’は、最後の粒子、すなわち 消滅した粒子というわけだ。そして、その右のーーーーー→も、また『無』を 表すと、まあ、こういう設定だと思ってくれ。
496 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 04:34:14 ID:cPURHaCJ
Bさて。俺は今、左端のaを誕生とし、右端のa’を消滅とした。そして、→を 用いて左から右へと時間軸を設定した。つまり、左端の誕生aの粒子が『因』で あり、右端a’の消滅が『果』となるわけだ。しかし、これは実は「俺が」 そのように設定したに過ぎない。すなわち、俺が自分の時間軸に沿って、そのように 認識したに過ぎないわけだ。 全く別の認識者が登場し、そいつが右から左への時間軸←をもって、a’を誕生とし 左端のaを消滅、つまり、a’を『因』として、左端のaを『果』とすることも 可能なわけだ。つまり、完全な対称性がここでは担保されている。 特定の自性a’が、誕生(因)ともなり、同時に消滅(果)ともなる。 いえる事はーーーーーの部分は粒子aは存在していなかったということと、 aaaaaaaaa’部分では粒子aは存在していた ということだけである。 すなわち、極限に特化された根源的な状況における事象は、「因果の法則」は成立 しない。
497 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 04:34:50 ID:9PlEYtO2
えっとね、元々ね、お釈迦様ってね 菩提樹の下に置いてあったお地蔵様だったんだよ それでね、近所の子供の悪戯に困った 地域の人がね、お釈迦様の頭をパンチパーマにしたのよ 要するに、近くにあった小枝を細かく切って地蔵の剥げ 頭に貼り付けたんだよ そうしたらね、近所の子供達がその地蔵を恐がって 地蔵に悪戯をしなくなったんだよ それが菩提樹の下の悟りなのよ 分ったかな?
498 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 04:42:46 ID:cPURHaCJ
Cさらに、俺は今、粒子aの存在期間を aaaaaaaaa’ のように表したが はたして、この期間はどれくらいなのだろうか?長いのか?短いのか? 実はこれも確定不能なのだ。時間の長短を測るには、何かしらのスケールを用い、 それによる測定が必須である。しかし、このような根源的状況においては、そのような スケールなどないし、また「比較しうる対象物」もない。すなわち、この粒子aの存続期間 というのは「無限」とも言えるし、「刹那」とも言える。 では、ここでこの粒子の存続期間を限りなくゼロに近づけていく。この期間の評価自体が 不可能であるから、これを限りなくゼロに近づけていくことも可能になる。すなわち、 数学の極限値の視点である。(h→0)すると、どうなるか? 誕生と消滅が、「重ねあわさる」ということになる。これは、「粒子aの存続期間が完全な ゼロなのではなくて、『限りなくゼロに近い』ため、粒子aが「誕生しなかった」のではなく、 「誕生と消滅の同時現象」と看做すことができる。この「誕生と消滅の重なり」は、「もともと 誕生しなかった」ことと極めて類似しているが、その意味は全く異なる。 「誕生という事実が始めからなかった」のは、単にそのような現象が存在しなかったことで あるが、「誕生と消滅の重なり」はそれぞれの現象が存在している。その上で、それが重なり合う ことで、「結果的に誕生と言う事実がなかったことと極めて類似した結果になる」 すなわち、『因と果の重ねあわせ』である。ここでも『因』→『果』という方向性は否定される。 「在るとも言えるし、無いとも言える」 (なんか仏教用語の「不生不滅」を思い起こしてしまうが)
死んだときだけ近づいて ぼったくってんじゃねえよ o○○○o o○○○○○o o○○○◎○○○o o○○○○○○○○○o ○○○○○○○○○○○0 / ̄ ̄\ ○○ 0 ○○ /ノ( _ノ \ /○ / ̄ ̄ヽ r' ̄ ̄\ ○ヽ | ⌒(( ●)(●) { 8{ ─・─ |─・─ _ 8 } .| (__人__) ヽ 8} :|::: :l8 / | ` ⌒´ノ | | (__ノ::) .}./ / ⌒ヽ } /⌒) | | ,、┴ 、_ ./ / / へ \ }__/ / |_人.  ̄こ ̄ 人/ ガッ! / / | ノ ノ ガッ! |> 、____, < /|/|__ ( _ ノ | \´ _ iWWWWWWWW| / .| \_,,-‐''" ゙''――---'´ ̄`ヽ て | ______ ノ ( ヽ __,,-‐''"< iWWWWWWWi < ヽ ( //\|\|\|\|\|\ヽ'; ヽ /\_____/\ / ̄| ──── | ̄\ / ̄| {フ| | | ̄|\ _/ / /| | | | |
500 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 06:20:38 ID:IyYUnvvQ
>>463 そんなの最初のサンサーラ説から明かじゃないか。
サンサーラには輪廻の意味はないとか。
今のヴィヤヴァハーラに言語習慣の意味はないとかと一緒。
流石に、サンサーラは納得したようで、以後繰り返さない。
『起信論』『中論』「自灯明」などはなんど論破されても繰り返してるとこみるとまだ納得してないんでしょ。
しかし、辞書と翻訳からの妄想だけで、よくあれだけ妄想を確信できるよね。
だから、話しても無駄。
まあ、セブンは彼に話してるわけじゃないだろうから。
501 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 06:37:11 ID:IyYUnvvQ
>>464 >(松本さんの舵取りミスの理由の一つは、パーリに暗かった、ってこともあるのかもしれない・・。
いや、何語でも同じだよ。恐らく彼が最も得意とするチベット語でも似たようなことやってるし。
彼のパターンは、始めから先入観があって、読みは大体正確なんだけど、微妙な所をその先入観で読みかえていること。
これは語学力の問題でなく姿勢の問題だとおもう。
>他の諸論始め、パーリも含むアビダルマや倶舎・唯識仏教哲学の煩瑣になった理由は、
>そうした「癖」(≒煩悩)の分析が主軸となったから、と言い得るだろうし、
>「それが仏教の中心である」みたいに受け止められる流れも致し方ないとも思う。
癖が先入観だよね。例えば、批判のみが仏教だという珍説。
これは法を分析するという箇所が根拠なんだけど、
なぜ、分析するかといえば、その法が実体なく無我・空であることを知るためで、
伝統的に析空って明解に言われてるのに、それを近代的な批判・クリティックと読みかえているとこなんかが正に先入観。
中観にしろなんにしろ、聞思修の聞くことは、こういった先入観をぶち壊すためにあるんだけど、
彼らは聞かずに読むだけだから、しかも「釈尊ですから仏教でない」などとしていては、勝手な解釈・先入観が壊れるわけがない。
この点、生命教がまったく同じ。
> *(自身(の縁起すること)を見つめる上で、煩悩考察(それは、苦の考察にも繋がってゆくものだが)は
>勿論重要だし、その意味では、「そここそが(煩悩考察こそが)仏教である」という謂いも、正当性を持つ。
>つーか、四門出遊から菩提樹下を重視すれば、或る意味「出発点」でもあるし。)
煩悩考察が法の分析に近いよね。
502 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 06:41:49 ID:IyYUnvvQ
>> そこを誤解してる後世の人がいて典型は松本、私が見る限りゲルクもそうだとおもう。
>一般的(いや、少し詳しくか?w)に知られている「チベット仏教」「中観」は
>ゲルク派の系譜ってことなのかな・・。或いは、「批判の為の論立て」が軸となった系譜(帰謬論証派?)
>が大手を振るったって感じ?
そう。これは致命的。ペテルスブルグ学派がゲルクを情報提供者として中観を解説してしまって以降、文献学者は中観を言語領域における論証と捉えている。
それで三論宗の伝統が否定された。
実は、三論宗がインドの伝統に近く、ゲルクが特殊なだけ。
中観は、言語領域における論証ではなく、あらゆる戯論の寂滅をめざすもの。
帰謬もそのために行われる。論証するためではない。
清弁菩薩はディグナーガ論理学を導入して中観を論証に変えてしまった。
だからこそ、月称菩薩が批判したのであって、論証法が違うことなど重要なことではないと簡単に分かりそうなことなのに。
>
>>439 >珍しく(?w)、硬いけど簡潔で解り易い説明乙。
>なるほど。よくわかるw
いつもだよ。
503 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 09:23:33 ID:cPURHaCJ
連投規制で書き込めんかったww D以上は極限まで特化された根源的設定下における考察である。 仏教というのが「人間から苦を滅する」という目的で始まり、あくまでもその方向性のみを 追求していくものであるならば、「そんな特化された状況の考察などいらん。現に我々が 住するこの世界では、厳然として時間は存在し、因果の法も妥当する。」との見解もあろうが、 一方で、「無我」など観念的視点が仏教の根幹思想となっているわけだから、根源的解析という のも無意味ではないと考える。(少なくとも、現代科学ではその根源的下部構造の解析というのが 一つの方向性となっている) まあ、これは単なる思考実験に過ぎず、セブンが言うように過度に「観念的把握によって」世界を 理解しようとすると「野狐禅の落とし穴」が、大きく口をあけて待ってると思う。だが、俺はこの 「時間」というものが実は、普段俺たちが実感しているより、かなりいい加減で、また、それに 依存する因果律というのも考えているより、遥かに不確定性を有するものなのではないかと考えて いるんだがね。(スレちなので、書かないが「相対論的視点」や「量子的不確定性」などを考えると どうしても、そっちに傾斜してしまう) 実際、量子レベルにおいては「因果的決定論」には否定的見解が主流だが、マクロの世界には 厳然と因果が妥当する。このミクロ→マクロのギャップを埋める方法論は科学の側からも 未提出なわけだ。色々やってる人もいるみたいだが、定説といえるようなものは全く無い。 だからこそ興味をそそられるのだがww
>>501-502 なるほど。了解した。
>何語でも同じ >語学力の問題でなく姿勢の問題
うん。だから、語学力でなく、「パーリ的考え方」に暗かった、試食・咀嚼、踏み込みが足りなかった、という意味。
前傾応答の小論にあるように、「パーリが解する縁起」というものに対して知識や洞察不足があることは明らかだし。
(言葉が足りなかったね・・w)
*(勿論それはブッダゴーサ的であり、他の諸部派同様、いやそれ以降とさえ言える
教義的変遷を経た後のものという面もあるから、軽視され易くもあるわけだが・・。
ま、それにしてはパーリ律蔵大品の十二縁起を主軸にしてたりもするけど・・w)
>>503 他
なるほどね・・。
ただ、「時間」とは「変化・変遷」の別称であり、
「スパンの切り取り」も、「空間の切り取り」(視覚的対象の切り取り)と大差のないものとすれば、
量子論にまで踏み込む必要はあまりない。
(それは、個々の興味の領域として、考察したい人がすればいい、と思う。
505 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 10:53:33 ID:cPURHaCJ
竜樹は、『縁起とは単一方向の因果関係であり、相依性ではない』との見解であり これが現在の仏教学会の主流的見解である。 これにちょっと疑問をもったので調べたが 浄に依存しないでは不浄は存在しない。・・・不浄に依存しないでは浄は存在しない。 (中論 23) 「一」がなければ「多」はなく、「多」がなければ「一」はない。したがって、 ものは縁って起こる(縁起)のであって、自立しているのではない。(空七十論 7) (ものが)存在し、かつ無であるということは同時に成立しない。 (しかし)無ということがなければ有ということもない。つねに、有と無の両方がある。 (そして)有なくして無もない。(空七十論 19) 定義されるものから定義するものが成立し、定義するものから定義されるものが成立 するのであって、それ自体成立しているのではない。またどちらかの一方から他方が 成立するのでもない。(また)成立していない存在が、成立してい ないものを成立さ せることはない。 (空七十論 27) チャンドラキールティも これがあるとき、かれがある。あたかも短があるとき長があるがごとくである。 (「中観に入る論」) (中村元訳、同上、148頁より)
506 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 10:54:28 ID:cPURHaCJ
これらをみるとやはり「相依関係」なのでは? 「浄」と「不浄」は因果関係ではありません。もしそうであったなら、 「浄」が原因となって「不浄」が生まれることになってしまいます。「一」と「多」 も因果関係ではありません。「無」と「有」も因果関係ではありません。「長」と「短」 も因果関係ではありません。 また以下のように言ってる人もいますね 「因果関係というと、一般には、時間を異にして存在する二つのものの間にある生成関係を 意味する。ところが、縁起はそのような因果関係に限らないで、われわれのことばでいう、 同時的な相互作用や共存の関係、さらには同一性や相対性などの論理的な関係を含む。 したがって、縁起とは因果関係というよりも、それは関係一般のことだというほうが比較的 には正しいと言ってもよい。 」 (梶山雄一、「瞑想と哲学」『仏教の思想3:空の論理<中観>』、角川書店、68〜70頁) 俺は仏教部外者なので、勿論、資料を多く検討したうえでの見解ではないが、 個人的には梶山氏のような「縁起というのは、勿論、その中に「因果関係も内包した」 広い概念(当然、相依性も含むが)なのでは?」 と、このように捉えているのだけど。
507 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 11:04:18 ID:cPURHaCJ
追記 言うまでもないとは思うが、俺は隠居の主張するような 「因果」を廃した「相依性」を主張してるのではないぜww
508 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 11:06:12 ID:DBC2F4Z/
>>501 >癖が先入観だよね。例えば、批判のみが仏教だという珍説。
「釈迦だけは絶対に批判しないのが仏教」というのは、それ以上の珍説だね。
まず、己の癖、先入観、戯論、妄想に対する反省と絶滅から始めることだ。
君の言いたいことの核心を5行程度にまとめてね。長文は2chなどで喚かない
で、論文にして、学界の批判にさらすべきだ。
>>478 (決着シリーズ以来、縁起一代の影響を少なからず受けているので、
所々、その傾向を持った言辞となることを許容して貰いたい所だがw)、
「或る対象【としての】存在」を《或る対象》として認めるなら、そこに主体は必要です。
《そのような事象》を「或る【対象】」足らしめるのが、主体による認識、ということになります。
最初の墨括弧、【として】の部分がそれです。(一水四見の四見の部分です)。
或る事象を「リンゴとして認める」ということです。
「リンゴとして見てしまう縁がそこに働いている」ということでもあります。
主体も同様に、「今ここに考察している私という主体が居る」というのは、
そのように捉えてしまう縁がそこに働いているということですが、
考察の為、或いは慈悲、求道の為、それを受け入れるとうことです。
何度か触れた、「五蘊総体の自己」がそれに当たります。(自灯明法灯明もそうです。Dhp160偈もそう見るべきでしょう。)
確固たる主体は存在しないが、五蘊の和合した「感受し、意思し、分別する」主体はそこに『あります(居ます)』
その意味での主体は、考察・分別の際に必須です。
*(だから、私は「主体」に2種を見ているということになります。
「便宜上の、(思考も含め)諸々の行為を爲す日常的主体」と、「根源・始原的、或いは全権的主体」とです。
勿論、後者が認められないのは言うまでもありません。
そして、宝珠の謂いは後者の領域です。また隠居の言う生命も、構図上は同じです。
そして、勝義に於いては(或いは禅定に於いても?)、前者もまた解体される、と・・・。)
涅槃の話のときは、「涅槃」というものが「場所」でもなく「実在する何か」でもなく、
ただ、寂静としての「境地」であることが示されねばならないので、(→対象でもないので)、
『涅槃そのものについてのこと』なので主体の消去が必須となります。
だから、求道の途上にあって求める者は居ても、「涅槃を見る」と言われる時、
そこに「見る主体」は無く、ただ「涅槃」のみが(→境地のみが)あるのです。
※う〜ん・・。晦渋で、今二今三くらいの返答だな・・。 スマンw
(この辺は、理解度の深さと、言葉にし慣れてる一代に二日三日の長があるなw)
>>492 > ここでいう「諸法」とは、法則の意味ではなく、「水蒸気」のことか?
対応としてはそうなります。(ただ、喩え上、仮に最小単位としているだけで、「その実在を認めて」ということではありません。)
ですから、
> それ以下の記述は、言おうとしている趣旨がわからん。
「対象」(=雲の形態)があるのでなく、「密度の差」があるだけ。
「対象」(=雲の形態)として認識される時(【切り取られる時】)、『「対象」(=雲の形態)がある』という言明が成立する。
だから、【切り取られない時】(≒認識する主体がない時)、「対象」(=雲の形態)があるのでなく、「密度の差」があるだけ。
「見ていない時に月はあるのか?」)と言う時、
2行目の意味で言えば「その時、月はある」。
(普段「月」と称される在り様があり、さらにそれが、その慣習通りに「月」と称されている)。
3行目の意味で言えば「その時、月はない」。
(普段「月」と称される在り様がそこにあるだけ)。
だから、「名色 nAma-rUpa 」と言われ、〈「色」(形態)に視線を奪われ、「名」に振り回されている〉ということなのです。
だから私は、(このシリーズ中、一代と袂を分かつような形でw)
『そのように切り取られる素因(≒縁)を持つ「在り様」はある』という言い方をするのです。
「実体」「実在」として何かがあるのでなく、縁起する諸法の波としてある、と。
(だから、大海の喩えが有効となるのです。)
※まだ理屈っぽいだけでイミフなままか・・。 難しいな・・w
511 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 11:59:00 ID:Mf7j4QhG
484 誰にも検出されたことが無く、 認識することが出来ない代物が 現れたり消えたりするタイミングをどうやって知り、どうして断言できるんだ? 487 突っ込まれてるのはそんな些末な設定の違いじゃないんだよ。 (隠居や他の信者にとっては些末ではないだろうが) 語られる構造、説明放棄の仕方がまんま宗教だということ。 批判・追求をかわす言い訳が既にドグマの一部であることも共通点に数えられよう。
512 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 11:59:13 ID:DBC2F4Z/
>>507 余計な「追記」などしなくてもよい。それでは、君の前の二つの書き込みと、全く
矛盾してしまう。
513 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 12:20:39 ID:Mf7j4QhG
隠居のいう「対象化」とは何なのだろう? weblioに転載されてる辞書で考えると、 (1)の意味では普通に対象化できている。 あれだけ饒舌に設定語りしてるんだから。 (2)の意味だと「生命」は主観的なただのアイデアということになってしまう。
514 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 12:35:58 ID:DBC2F4Z/
>>511 そのタイミングの判断は、医師が毎日無数にやっている。宗教の出る幕ではない。
すべての人間が生命の指示で生きているのだから、それをドグマと言ってみても
仕方が無い。生命否定・生命軽視の宗教こそが、自己矛盾したドグマの塊である。
>>513 その辞書自体が、執筆者の生命の機能である。
宗教者が神仏を語るような饒舌さはないだろ。単に「生命を以って生命そのもの
を知ることはできない」の1行のみで終わりだ。
515 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 12:46:03 ID:Mf7j4QhG
514 まーたずらした回答をするなよ。 医者が確認してるのは認識・対象化が可能な 体組織であって、それを謎のパワーで形成する なんか凄い何か、ではない。 生命の支持、とは何だ?これも認識・対象化できる 脳波やらホルモンじゃないだろうな。まさか。 饒舌さの種類は同じ。 文章の量の多さが少ないのは当然だろう。 司るものが神より少ないし、聖典のようなエピソード集も無いんだから。
516 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 12:49:12 ID:DBC2F4Z/
>>509 その「縁起」や「五蘊の仮和合」なるものを認識・概念しているのは誰(何)?
517 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 12:56:32 ID:Mf7j4QhG
執筆した人が書いたのは、共同体で共有されてる 言葉の意味だ。言葉はその用途に合わせて既存の言葉のから作られる。 この場合は「対象」と「化」させる、 というわけで(1)の意味で自分は考えていたわけだが。 隠居はどんな意味で使ってたんだ? 俺が513で聞いてたのはあくまでそのことであって 執筆者の脳がこの文面を考えた、という類いの話じゃないんだよ。
518 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 13:03:15 ID:DBC2F4Z/
>>515 医師が死亡宣告をする時、少なくとも厳粛な表情で、死者に向って一礼くらいは
するよな。自動車がぶっ壊れた時、こんなことをするかw。
神概念も、生命の機能である概念作用の一つに過ぎない。従って、生命がつかさどる
ものは、神よりもはるかに広い。
520 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 13:09:23 ID:Mf7j4QhG
516 釈迦やらセブンやら(以下略) であり、彼らの脳ミソだな。 認識には目が使われている。 で、だ。前にもたずねたと思うんだが、 もしこれらが「生命」そのものの機能なら、 なんで俺たちは自分の体を創造した時のことを覚えていないんだ? 518 死者の(生命としての)尊厳とかそんな概念的なものが 肉体を創造するのか・・・たまげたなぁ・・・ それとも何か超自然的な感覚が人にはあって 肉体の死とともに失われる、科学では感知不能なものを感じちゃうとか言うのかね。 オカルトだなあ
521 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 13:15:43 ID:DBC2F4Z/
>>519 >「五蘊の総体である私」。
あれ、五蘊は無我(無私)ではなかったのw。
522 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 13:23:26 ID:DBC2F4Z/
>>519 「一切皆苦」は、人間界一般における事実に合致しない「誤った前提」。
523 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 13:24:53 ID:Mf7j4QhG
私のなかにアートマンはなく 生命体のうちに「生命」もない。 同じ名前をつけて、たまにすり替えるなんて トリックを使っても意味が無いんだよ。
524 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 13:28:31 ID:DBC2F4Z/
>>523 トリックの最たるものが、己の生命(アートマン)により「無我」を説いた
釈迦。
>>521 w
決着シリーズのアートンマンスレ全部読み直して来いw 話はそれからだw
>>522 「生命の根源性・始原性」は、
人間が誰も確認できない、人間界一般における事実との合致が確認できていない妄想なので「誤った前提」。
526 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 13:37:28 ID:Mf7j4QhG
指摘されたトリックをそのまま流用ですか・・。 隠居らしいっちゃ、らしいが。
ところで、同じことばかり言ってないで、たまには趣向を変えて、
そろそろ
>>413 に反応して差し上げたらどうですか?w
>>524
528 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 13:46:11 ID:Mf7j4QhG
そいつはまだガキだったからだ、 みたいな本人の前では絶対に言ってはいけないようなことを レスするんじゃなかろうか。
まあね・・。レイプ肯定してたしね・・w 「女性は(→雌は)、子を産むために精子を受けることを望んでいる」のだから、 【方法・TPO無関係に】、「性交することは善」であり、 「男として(→人間として、生命の機能として、発露として)正しい」、 みたいな論調だったよなw 何だかね・・・ (;´ー`)y━~~
530 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 14:59:24 ID:cPURHaCJ
>>510 時間がないので、ONEレスのみ。
509 510 読んで、セブンの言おうとしていることが半分くらい分かった
ような気がする。
>>512 んで、隠居 >余計な「追記」などしなくてもよい。
「余計」じゃないんだよ。俺とっては「大切なこと」。
万が一、『俺がお前と同類』だなんて思われたら、それこそ『一大事』なんでねwww
>>530 上の
>>415 で触れた 『ブッダから道元へ』(東京書籍/1992) 読めるかな。
安くはないので、購買を薦めるのは気が引けるが・・w
(一応、今の流れ(縁起の時間性)に関連した部分を引用できるよう、キーボードは叩いてみるが・・。)
ちなみに、貴方の食指が動くようwww、各節の対論テーマを列記しておきます。
1:文献と解釈(無明とはなにか
2:宗教体験と言葉(悟りとはなにか
3:釈尊と真理 (法が先か仏が先か
4:禅と仏教 (中国禅とはなにか
5:道元と本覚思想 (仏性とはなにか
6:修行と悟り (身心脱落とはなにか
7:道元と『正法眼蔵』 (十二巻本とはなにか
8:宗義と葬送儀礼 (在家宗学は成立するか
9:宗学と教化 (教化学は成立するか
10:曹洞宗と『修証義』 (宗門の安心とはなにか
11:業と差別 (仏教は何をなしたか
12:仏教人類学の提唱 (教義と儀礼は矛盾しないか
面白そうでしょ?w ( ̄ー ̄)ニヤリ
532 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 17:31:51 ID:ZQQXNjqE
>>531 確かに面白そうではある。著者が書いてないのは、複数人だからか?
あと値段もヨロシク。
533 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 17:42:51 ID:QqoUJocw
>>531 また小乗信者の本ですか。言うことは、結局、「釈迦マンセー」に決まっている
でしょw。
534 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 17:49:24 ID:QqoUJocw
>>525 >「生命の根源性・始原性」は、
>人間が誰も確認できない、人間界一般における事実との合致が確認で
>きていない妄想なので「誤った前提」。
生命がなければ、人間界も、釈迦も、イエスも、誤った前提も、正しい
前提も、妄想も、事実との合致の確認もない。その命題そのものが成立
しない。
535 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 17:56:43 ID:IyYUnvvQ
>>506 チャンドラキールティはもしかするとそうかもしれない。
まだ、詰めてないので断定できないけど、
龍樹菩薩に関しては相互依存はないというのが、
最近の傾向。中村先生は古いんです。
よくできる方が中観スレで、『宝行王正論』の一文が、相互依存でないと
明解に論証していたと記憶するのでごらんあれ。
>>532 3200円。1992年当時w
アマゾンで、中古1500円から。
>>533 また無知を曝け出して、したり顔ですかwww
総編集:奈良康明/編集委員:田上太秀、片山一良、袴谷憲昭、松本史朗、池田練太郎
各節担当者
序論:奈良康明
1:奈良康明/津田真一、松本史朗、奈良康明
2:松本皓一/西村恵信、池田練太郎、松本皓一
3:松本史朗/八木誠一、片山一良、松本史朗
4:田中良昭/吉津宜英、伊藤隆寿、田中良昭
5:袴谷憲昭/山内舜雄、池田魯参、袴谷憲昭
6:石井修道/竹村牧男、鈴木格禅、石井修道
7:河村孝道/袴谷憲昭、伊藤隆寿、河村孝道
8:山内舜雄/原田弘道、峯岸孝哉
9:原田弘道/皆川廣義、中野東禅
10:田上太秀/岡部和雄、大谷哲夫
11:池田練太郎/田上太秀、石川力山
12:片山一良/鈴木正崇、福田孝雄
さあて・・どれだけの執筆者が小乗色なんでしょうねぇ・・w
各節の表題を何だと思ってるんでしょうねぇ・・w
今度はどういう言い訳をするんでしょうねぇ・・www
538 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 18:55:04 ID:QqoUJocw
>>536 片山一良が小乗信者(テーラワーダ)であることは知っているが、その他はさっぱり
分らん。出来れば、小乗信者と大乗信者とを色分けしてくれ。その積りで読むからw。
>>538 言い訳すらしなかったかwww
自分の落ち度を認めない厚かましさは在家以上だなw
誤魔化し、有耶無耶にし、話を逸らし、
自分の落ち度、自説の瑕疵を闇に葬ろうとする、この姑息さ・・。
そんな愚劣な輩の頼みを聞く気も無いし、
もし言うならば一言 『「小乗信者」も「大乗信者」も一人も居ない』 だw
540 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 20:22:31 ID:IyYUnvvQ
541 :
神も仏も名無しさん :2010/10/30(土) 20:59:55 ID:eXFtVok8
ウマシカ
542 :
生命論(仮) :2010/10/31(日) 10:34:30 ID:puqlTDVF
【主論】 『生命』によって『生命』を把捉することは不可能。 ・カメラや眼球が、自身を見ることがないように。 ・「知覚認識、考察」も『生命』の「機能」であるゆえに。 『生命』そのものは、認識・考察が不可能。 ・観察される様々な「機能」「現象(生命現象)」は、『生命』によっている(引き起こしている)。 ・それ故に、観察される様々な「機能」「現象(生命現象)」によって、『生命』があることが知られる。 ・「死」によって、上記諸々が消失するから『生命』が消失したことが知られる。 ・それ故に、「『生命』はある」、と知られる。そして、『生命』は「肉体」と不可分なものである。 人の(生物の)様々な行為(思考・思想含)は全て《『生命』の機能》。 ・『生命』があるから、それら「機能」は現れ、発動し、また機能する。 人の(生物の)生理的メカニズム・システム、誕生・生育等も、全て『生命』によっている(引き起こされている)。 ・受精・細胞分裂、或いは遺伝子の発動等も同じ。 総じて、 『生命』は、「生きていること」の「原動力として」、ある。 『生命』は、「上記諸々の行為や機能」「生体の種々の生理的働き」の「発生源として」、「ある」。 『生命』は、他の何ものの追随も許さない「最上」「絶対」の価値を持つ。
543 :
生命論(仮) :2010/10/31(日) 10:35:19 ID:puqlTDVF
【各論】 ・「苦」は、危険危機察知、回避として、なくてはならない必須の『生命』(生命)維持の為の機能。 ・また、諸々の「楽」や「幸」が感受されるのも、それが輝くのも、「苦」あればこそ。 ・主論を踏まえ、そうしたものとしてある『生命』の価値を低く扱い(それよりも上位の価値を据え)、 時に「無視」し「否定」する各宗教は、反『生命』の悪しき存在である。 ・また、各宗教によって『生命』より上位に置かれる種々の価値も、 (主論を踏まえ)『生命』から発しているので、自己矛盾に陥っているナンセンスな主張。 ・また、同様に「聖―俗」の対比も、最上の価値である『生命』に基づく「人の生」(=俗)と 別なる価値を設定し、それを上位に位置付けるので、悪しき考え方であり、また妄想である。 『生命』に基づく「人の生」(=俗)のみがあり、「聖なる価値観」など存在しない。 ・キリスト教の「罪概念」も、最上の価値である『生命』に基づく「人の生」(=俗)を 「罪」として、「悪しきもの」として位置付けるので、反『生命』の思想である。 ・仏教の「苦概念」(一切皆苦)も、最上の価値である『生命』に基づく「楽」や「幸」を無視し、 「人の生」を悲観的なものと位置付けるので、反『生命』の思想である。 ・「苦」と「楽」も、相互に関係し合い、その存在を支え合う対概念であるので、 一方のみを見、また一方のみを排除するのは誤り。双方ともに排除するのも、悲観的で誤り。
隠居に於いて興味深いのは、
≪ 『「各論」の宗教否定』が主眼であり、言いたいことであり、その為に「主論」が構築・導出されている ≫
という点。
「主論」がまずあって、そこから「各論」が規定されるのではなく、
「各論」(宗教否定)がまずあって、そこから「主論」が規定されている感があるということ。
(実際の思考順序も、おそらくそうであろう。)
*(
>>287 >>288 >>293 (
>>345 ))
545 :
神も仏も名無しさん :2010/10/31(日) 11:28:27 ID:0mDVYViC
>生命論(仮)氏へ よくまとめていただきました。全くその通りです。 「各論から出発する」もその通りです。生命は、現実界に100%依存しない 限り維持できないのですから、その現実から出発しなければ、単なる妄想に なってしまい、真実には決して到達し得ません。
546 :
神も仏も名無しさん :2010/10/31(日) 11:42:31 ID:szTGDWD3
見る機能は眼球のものか、「生命」そのもののものか。 眼球のものなら、「生命」をとらえることができる。 カメラが他のカメラや写し手や生産工場を撮影できるように。 いいかげん、なぜ我々が自分の体を創造した時のことを覚えていないのか 答えてもらいたい。認識や思考機能が眼球や脳ミソのものであり、 「生命」そのものがやることでないならば、 認識主体と対象が同一だからという言い訳は成立しない。 同一だとしても鏡を使ったり、他のカメラが撮った写真をまた撮ればよい。 クロスチェックを重ねれば正確な認識に近づけるだろう。
548 :
神も仏も名無しさん :2010/10/31(日) 12:15:07 ID:0mDVYViC
>>546 >いいかげん、なぜ我々が自分の体を創造した時のことを覚えていないのか
感覚器官や記憶器官がまだ形成されていなかったからである。
なお、カメラは自分で自分の姿を写すことはできない。
鏡で自分の姿を見れるのは、鏡という道具を使って自分の姿を対象化したから。
しかし、「見る」という行為の原動力である生命は、鏡には写らない。即ち、
対象化できない。
550 :
神も仏も名無しさん :2010/10/31(日) 12:27:54 ID:szTGDWD3
548 つまり、生命は認識や記憶の主体ではない。 つまり、主体と対象が同一という言い訳は成立しない。 目や鏡やカメラはあくまで例え上のものだな。 機能性能の限界はあるが、そのこと自体は 本論に影響しない。酸素分子や熱が目に見えないことは 「主体と対象が同一だから」見えないこととは別問題である。 見えない理由が違うんだから。
551 :
神も仏も名無しさん :2010/10/31(日) 12:43:19 ID:szTGDWD3
別の「鏡に写らないもの」と比べつつ「生命」の実態を考えてみよう。 さて、隠居。生命が鏡に写らないのは 原子のように小さすぎるからか? 熱のように物質ではないからか? 何かの下や中に隠れて見えないからか? 前レスで書いてたように、医者が亡くなった患者を前にして感じる 概念的なもの、心情的なものだからか?
552 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/10/31(日) 17:52:14 ID:Mk2a7k/4
>>545 御隠居殿
>生命は、現実界に100%依存しない
>限り維持できないのですから、その現実から出発しなければ、……
生命至高論を振りかざす御隠居が、自説に矛盾する、生命限界論を述べていますね。
もちろん、生命論なんて、言い訳に過ぎず、要するにこの引用箇所に表われているように、
「生命<現実界」
というのが御隠居の本音、すなわち「物質的現実至高論」が御隠居の本丸であり、御隠居は、
「単なる」唯物思考者だということは私は当初からよく存じております。
ですから、御隠居の生命論自体、真面目に相手にすべきものだとは考えておりません。
他の方の中には、かなり真面目に御隠居の生命論を批判している場合もありますが、
生命論はダミー(デコイ)に過ぎないので、御隠居には痛くも痒くもないのです。
生命論自体は、結局、アートマン論と比較して何ら新規性も独自性も感じられないもの
で、むしろ、アートマン論を本気で信じている有我思想の人たちの反対の極端(唯物思
想)にいるのが御隠居ですね。
以前にも触れましたが、六処で全部です。うち五処(五感)だけの物質的現実だけで全
てと考えて判断する唯物思想も、うち一処(意識)だけで全てと考え判断する唯識論
(神霊主義)も、いずれも、思考回路として欠陥品の思考回路です。リコールが必要です。
553 :
神も仏も名無しさん :2010/10/31(日) 21:12:47 ID:eHEdX2+m
>>552 「眼耳鼻舌身意」をすべて含むのが「生命」ですよ。何を勘違いしているの
ですか。
自分の思考に反する思考」を「欠陥品」呼ばわりするあなたは、本当に仏教徒
ですか。一体、どこの宗派なのですか。修行が足りないのでは。大乗仏教徒なら
すべて「空」のはずです。小乗か真宗系の方ですね。
肝心の肉体を忘れて、専ら「観念の遊戯」にふけるあなた方こそ、「人間」と
しては「欠陥品」なのではありませんか。
糞昆布が荒らしてると思うww
555 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/10/31(日) 23:14:53 ID:Mk2a7k/4
>>553 御隠居殿
>「眼耳鼻舌身意」をすべて含むのが「生命」です
ならば、「眼耳鼻舌身」をすべて失って、すなわち、生物学的肉体を失っても、「意」
が残っている限り、「生命」は存続していると考えるべきですが、御隠居は、それを
否定しています。だからあなたは「ただの」唯物思考者なのです。
あなたのは、「眼耳鼻舌身」の二次的な要素として「意」を考えているだけであって、
決して、「眼耳鼻舌身意」と並列に並んだ考えではありません。それは六処とは呼べ
ません。六処を認めるのであれば、生物学的肉体を失っても、「意」が残っている限り、
「生命」は存続していると考え認めなければなりません。それができないのは、「ただ
の」唯物思考者に過ぎないからです。唯物思考回路は欠陥品ですね。「意」回路がない
のですから。
>>553 ちなみに
>肝心の肉体を忘れて、専ら「観念の遊戯」にふけるあなた方
と「あなた方」と十把ひとからげにされていますが、それは私が、常々指摘
しているように、六処のうちの「意」のみを認めて、他の「眼耳鼻舌身」を
意によって作られた二次的な要素として考える、心霊主義者の考えであって、
それはあなたのような唯物思想の反対の極にある立場として、私はやはり批
判しています。仏教はその両極端から離れた、中道主義を特徴とするものだ
からです。
唯物主義者と心霊主義者の両者に共通する特徴は、結局のところ、根底にあ
るのは執着という感情的な問題なので、批判に対して、唯物主義者は心霊主
義に対する、心霊主義者は唯物主義に対する、批難でやり返すという特徴が
あります。相手が、そうでない、中道の人間に対しても、相手が反対の極端
にいると思い込んだ行動をします。このように、冷静に物事が見えないのは、
執着の深さゆえによるものです。執着を離れれば、たとえ執着している対象
が、物質であっても、精神であっても、いずれにしても中道に近づくと思い
ます。それが仏教というものです。
557 :
神も仏も名無しさん :2010/10/31(日) 23:42:16 ID:6uZvEI2p
中道への執着はなんと強いことか
558 :
神も仏も名無しさん :2010/11/01(月) 00:02:20 ID:9peEJPfd
>>556 ならば、六根を平等に含み、それらが現実に応じて有機的に機能する生命こそ
が「中道」です。
あなたのように、「生物学的肉体を失っても、「意」が残っている限り、
「生命」は存続している」などと考えるのは(
>>555 )、中道ではありません。
559 :
神も仏も名無しさん :2010/11/01(月) 00:42:32 ID:9peEJPfd
>>556 「唯物論者」と言われるが、人間を含むすべての生物は、現実に100%
依存しない限り一瞬も生存できないので、その意味では、すべて「唯物論者」
です。霞を食っては生きられず、幻の女を抱いても、子供は生まれません。
仏教は、この「現実」か「非現実」かを判断する手段としての5根を発見
しました。なお、「意」は、これら5感からの入力を統合する器官(脳)と
して、5感の一部であり、やはり、現実・非現実の判断器官です。仏教者は、
「意」が非現実にも対応するものと、誤解している方が多いようです。
これらの6根は、現代の解剖生理学の所見ともピッタリと一致します。
生存に不可欠な現実・非現実の判断器官として、他の宗教には見られない、
仏教による偉大な発見だと思います。
560 :
神も仏も名無しさん :2010/11/01(月) 09:42:53 ID:1GHlZ02b
550と551から逃げるなよ。隠居。
561 :
神も仏も名無しさん :2010/11/01(月) 10:15:04 ID:eZ7WyUIN
むだむだ生命教は間違いを認められないし、 妄想をただ言い続けるだけなんだから
562 :
神も仏も名無しさん :2010/11/01(月) 10:27:27 ID:IHWg0QDY
>>560 「見える」「見えない」といくら騒いでみても、その「見ることの原動力」
は見えない。死ねば、「見る」という行為は不可能になる。自分自身を観測
できる観測機械はない。
医師の、患者の死亡宣告時における畏敬と愛惜の感情は、何故生じるのか。
君のような、一昔前の「人間機械論」を考えているのも、君の生命の機能である。
563 :
神も仏も名無しさん :2010/11/01(月) 10:32:38 ID:IHWg0QDY
>>561 妄想もまた、生命の機能である。死者が妄想できるか。
564 :
神も仏も名無しさん :2010/11/01(月) 10:39:25 ID:eZ7WyUIN
>>563 仏教では出来ると説くよ
意識は連続すると。釈尊も龍樹菩薩も
『宝行王正論』や『勧戒王頌』を見れば明か。
565 :
神も仏も名無しさん :2010/11/01(月) 10:39:40 ID:IHWg0QDY
君たちが、生命に対して反論すればするほど、生命の存在を確証して いることに気付かれたし。
566 :
神も仏も名無しさん :2010/11/01(月) 10:50:04 ID:IHWg0QDY
>>564 それは、彼等が己の生命を以って説いているに過ぎない。死者には、
説けない。
567 :
神も仏も名無しさん :2010/11/01(月) 11:33:51 ID:1GHlZ02b
562 見えない理由を尋ねているだけなんだから答えろよ。 見る機能考えるとが「生命」そのもののもので無い以上、 見る機能を持つ目や考える機能を持つ目は 足や血液を見るように、体内の仕組みを検出するように 目や脳そのものではない「生命」を見い出せなければならない。 主体と対象が同一云々を述べるなら見る機能考える機能を「生命」そのもの の機能ということにしなければならないが隠居はこの立場をとらなかった。
568 :
神も仏も名無しさん :2010/11/01(月) 11:44:49 ID:1GHlZ02b
目は他人の目を見ることができる。 カメラは他のカメラを撮ることができる。 じゃあなんで「生命」はそうではないんだ? これにも答えてないよな。 認識の主体と対象云々をここでも言うならば ブラフマンみたいなもので一つに統合させなくてはならなくなるぞ。 畏敬なんて人類が神や精霊にも感じてきたものではないか。 概念的なものが物質やエネルギーと同じ意味で存在するというのか? とうとうオカルトに両足突っ込みそうだなオイ。
>>565 生命に従属するなら 生命が生んだサイコパスの支配に甘んじてろよ
腐れ昆布www
生命そのものは六道を離れられない だから隠居や尻尾の腐れ昆布も強者や権力者の奴隷であらねばならない こいつら当然畜生だからw 生命は生命を尊重しないのだよw修羅の世界を考えたまえwww
571 :
逃亡するな苦の共感ゼロテロ生命隠居教にご注意w :2010/11/01(月) 12:55:10 ID:DfMec4Vz
宗教患者隠居反論してみろやw
病的一神教徒宗教者、隠居生命教脳の解析を始めようw
さて、隠居生命教は人間の精神苦の原因分析を否定し
病的一神教のように生命で解決できうる宗教である。
チリの閉じ込められた19歳のジミー君は毎日PTSDに苦しみ、母親と一緒でないと寝られない(朝日新聞)
らしが、
病的一神教徒宗教者、隠居生命教の宗教患者の脳の見方は異なるようであるww
153 :神も仏も名無しさん:2010/10/16(土) 19:57:57 ID:v434uxvf
>>152 チリの作業員たちは、生命が助かった喜びで、PTSDなどもはや存在しない
ようだな。
隠居生命教がこのような人間の精神の苦を無視できる病的宗教患者の姿の予想が可能であるw
隠居は幼児期、カルト系キリスト教教団(エホバ)による虐待を受けた、と予想される。
思考回路が病的なアルカイダ、タリバンの思考と同じである。
隠居的病的宗教患者の思考こそが宗教戦争の根源であるw
そして、最近の学説によると幼児虐待をする人間の脳は幼児虐待されているので、
感情のコントロールを司る、大脳辺縁系及び海馬の縮小が見られる、
他者の精神の苦や感情に対する共感が低下し、平気で残虐な虐待ができうる。
故に、隠居生命教は感情及び、人間の精神の苦の原因分析を否定し鈍感であるが故に、
人間の精神の苦、感情を分析する釈迦は隠居生命教で否定されるのであるw
宗教患者隠居とカルト教団の共通点、
他者の精神的な苦に対する共感が無い事、それが故にテロみたいな原理主義行為ができうるw
チリ鉱山の書き込みで明白w
573 :
逃亡するな苦の共感ゼロテロ生命隠居教にご注意w :2010/11/01(月) 12:57:29 ID:DfMec4Vz
隠居生命教は危険な宗教ですw 隠居生命教は釈迦のような他者の苦共感および原因分析、解決を否定し、 他者の苦共感および原因分析、解決の必要性を感じないw 他者の精神的な苦に対する共感が無い事、それが故にテロみたいな原理主義行為ができうるw チリ鉱山の書き込みで明白w
574 :
神も仏も名無しさん :2010/11/01(月) 12:58:04 ID:4wow/4x4
>>562 >>563 >>565 >>566 ・(>11)、>15、(>20)>23>25、>27(>28)>29(>30)>31、
>41(>48)>50(>51)>52>53、>56、>481>482>483、(>485) …根源性、現象の観察、死による消失
・>67(>78)>82>83、(>91)>103>245 …○○の機能
・>409>410>412 …根源性、諸々の発生はどこから
・>287>288>293(>345) …否定がアイデンティティ
※レス追加。表題付記。
(アンカーと表題、合ってるかな?)
576 :
神も仏も名無しさん :2010/11/01(月) 23:04:36 ID:Id8WA2Hk
揚げとくか。
577 :
不説 ◆AnATTa/dJc :2010/11/02(火) 02:06:16 ID:Ud0KJHLu
>>558-559 御隠居殿
全然、六根、六処を平等に扱っていないと思いますよ。
>>562-563 の発言からも明らかなように、御隠居は、「意」を他の五つの派生物、従属物として
明らかに軽視しています。軽視していないのであれば、生物学的機能が停止しても、
意はそれと直接無関係に、変化存続し、そのようにして存在は輪廻し続けると認める
人のみが、六根を平等に扱っている人であり、真に仏教徒であると言えるのです。
意に関する思考回路が欠落しているのは、言ってみれば、キカイダーの良心回路がな
いようなものです。人工無能です。それも良心回路の代わりに、悪魔回路(生命教)
を具えてしまったら、悪役ハカイダーになるのがオチでしょう。
578 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 04:11:36 ID:zhRLwHDz
>>577 五感が停止して、「意」のみ生き残るなどと考えることは、平等でも中道でもありません。従って、「法」でもありません。現代の科学でも、全く認められません。
「意」は五感を「統合」する器官であり、その意味で、五感と何らの優劣もありません。
人体のすべての機能は、生命から発し、その維持の方向に向けられています。その状態を「善」と呼びます。己の生命を以って、生命を「悪魔」と看做すあなたは、「悪」の権化です。
アポトーシスは、個体の消滅により「種属としての生命」を維持するものであり、その意味で「善」です。
>>578 でわ種属が生んだサイコパスを認めろってw
580 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 10:16:05 ID:jPBHfa7n
>>579 サイコパスは、己の生命を以って生命を否定するという倒錯・矛盾に陥った
「治療の対象」として認める。
>>577 少し気になったので横レス。
(その前のレスもそうですが)、「意(根)」に対するそのような見方は如何なものかと・・。
「根 indriya 」を「器官」と見ようが「能力」「作用」と見ようが、いずれにしろ、
「色」(この場合 kAya )を離れてある、と見るのは誤りではないでしょうか?(唯一、誤解が生じても已むを得ないのが「識」では?)
十二縁起中の「行」に意業として、五蘊中の「行」に思考・志向、意志作用として組み入れられるとしても、
禅定の深まり(無色界定)であろうが(…沙門果経77〜87はそれより下位の四禅ですが・・)、
輪廻に於いて継承されるものであろうが、(…それは、一代が言うように業(業力)のみでしょう?)
独立して作用し、また存続するというのは、仏教的とは言い難いのでは?
駄文長文中五蘊の項で触れたように、(五蘊で言えば)色(身体)を離れてあることはないでしょう。
また、十二処として見ても、人の様々な感覚器官、或いは(感受)能力、作用の一として見るべきでしょう。
「心(citta)」「識(viJJANa)」と同義と見做される場合があるにしても、
「行為」「意思」(≒cetanA、manasikAra)として見做されることがあるにしても、
「業」の一つとして、継承されるその作用、影響力と見做されるとしても、
それは、文脈や用法として、既に「根」の領域を外れているのではないでしょうか?
六処中の意根として見るならば、あくまでも、他の五根と並立した器官、能力(或いは作用)、
或いはそれらを統括する形で他五根の上位に据えられるだけのことではありませんか?
そして、我々が五蘊存在としてしか在り得ないとするなら、(宝珠氏は別様の考えのようですが)、
「意(根)」のみが、その頚木から離れることはできないでしょう。
「意(根)」のみで働き続けるということもあり得ないでしょう。
と、私は考えますが・・・。 (一代の添削が欲しい所だなw)
582 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 10:34:44 ID:jPBHfa7n
「輪廻転生」は、無我を唱えながら、死後も再度生を得るという、矛盾・倒錯した 「生命に対する病的執着」の症状である。宗教の本質としての「脅迫と甘言による 営利」の手段として利用されている。
583 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 10:43:51 ID:D+LyFKrb
567と568から逃げるなよ。隠居。 明確に答えることで自分が 唯物論者のふりをした実質的なオカルト者でないことを 証明するべきだ。
584 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 10:51:47 ID:D+LyFKrb
578 肉体やその機能より先だって存在し、 生命体を組み立ててしまう 謎の原動力としての「生命」は現代科学で認められてるのか?
585 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 10:59:24 ID:OYWRfHWU
>肉体やその機能より先だって存在し、 生命体を組み立ててしまう 謎の原動力としての「生命」は現代科学で認められてるのか? 認められておりませんwww
586 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 11:00:20 ID:jPBHfa7n
>>568 >畏敬なんて人類が神や精霊にも感じてきたものではないか。
「すべての人間に対する畏敬」という意味では、全く異なる。
その他はすべて前レスで回答済み。後は、自分で考えられたし。
587 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 11:03:20 ID:OYWRfHWU
補足 ちなみに「身体から独立して(死後存続可能な)、『意識』というのも 認められておりませんww
588 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 11:05:39 ID:jPBHfa7n
>>585 >謎の原動力としての「生命」は現代科学で認められてるのか?
認めるも、認めないも、現代科学自体が、生命の機能w。死者には不可能。
589 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 11:07:12 ID:OYWRfHWU
>>568 >その他はすべて前レスで回答済み。
はい、大うそです。
今まで「一度も回答したことはありません。」
回答できずに逃げ出しただけですww
590 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 11:07:16 ID:D+LyFKrb
586 神や精霊は自然現象や人間の営みを讃えたり怖れたりする心情に依ってるし、 死者への哀惜も生前の行動やその人がいなくなることで起こる事柄 への思い入れ等からくる。「生命」なんて変な実体なんて想定する必要なんて無いわけだよ。 またしても隠居は自爆したわけ。
591 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 11:11:12 ID:Sgipqvkp
>>588 つまり、科学でもなく、もちろん仏教でもなく、常識的な「生命」でもない。
だから、生命教。
この生命教は、宗教を否定したいがために薄い知識で適当に出任せ言ってるだけだもん。
一貫した整合性ある論理を提示することは無理。
相当、いろんな能力が常人を下回ってるから。
592 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 11:11:30 ID:D+LyFKrb
答えたというならスレッドとレス番を示せばいい。 それすら出来ないなら手軽なだけの最後っ屁にすぎない。
>>588 ・(>11)、>15、(>20)>23>25、>27(>28)>29(>30)>31、
>41(>48)>50(>51)>52>53、>56、>481>482>483、(>485) …根源性、現象の観察、死による消失
・>67(>78)>82>83、(>91)>103>245 …○○の機能
・>409>410>412 …根源性、諸々の発生はどこから
594 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 11:17:25 ID:Sgipqvkp
>>586 ここにいる四人は解答してないと見なしてるぞ
しかも、生命教を支持したのは昆布とかいうヤツに想定されてる
AA男だけだろ。あれもむちゃくちゃだし。
いいかげん、自分が間違ってることを認めてネットは見ない方がいいぞ。
595 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 11:17:34 ID:jPBHfa7n
>>591 知識も論理も生命の機能。いくら足掻いてみても、生命の呪縛から逃れる
ことは不可能。自殺さえ、生命の力を要する。
596 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 11:17:55 ID:D+LyFKrb
588 大丈夫か? 科学をやるのは脳ミソだ。 目や手も使われるが、それらは「生命」が形成したものであって 「生命」そのものではない。 「生命」の機能は体組織を作り組み立てることであって ものを考えたり見たり触れたりすることではない。 だからこそ、そうした機能のある器官が発生発達する前のことを覚えていない。 前に自分で書いたことなのに、どうしたんだ?
597 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 11:25:08 ID:D+LyFKrb
595 生命の力、ってなあに? まさか、脳の信号やら、それを実行する体の筋力を 指して言ってるわけじゃあないんだろ? この期に及んで。 それ以外のものなんだろ?原動力としての「生命」なんだろ? それはどのようなものとして存在するんだ? 物質?熱のようなエネルギー?やっぱオカルトパワー?
>>595 (
>>588 )
>>245 を解り易くしましょうか・・。
たとえば、
>>588 の言辞を例にとれば、
>現代科学自体が、生命の機能
《 「現代科学」は「生命」の「機能」である。 》とは、
《 「空を飛ぶこと」は「人間」の「機能」である。 》言っているのと同じことなのです。
後者は、『ヒトという生物に「空を飛ぶ機能」が備わっている』わけではありません。
「航空力学を踏まえ」、「諸々の工作をし」、「何がしかの機械・装置・装備等を作り上げ」、
【それを利用して】飛ぶのです。それを利用して初めて飛び得るのです。
勿論これを、ヒトという生き物の創造性、知恵や工作力の【結実として】、
《 人の能力である(≒機能である)。 》 と表現することは可能です。
しかし、そのように表現できるからといって、
「ヒトという生き物」が「生来的に備えている」「機能(能力)」である、
とは誰も言いませんし、言い得ないのです。
それと同様に、(588・595に限らず)、貴方の『「生命の機能である」「○○の機能である」』は、
全て、こうした飛躍の言辞でしかないのです。
それは、レトリックとしての表現(譬喩的表現、包括的表現、詩的・文学的表現)でしかないのです。
599 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 11:42:53 ID:Sgipqvkp
>>598 所謂、幼児強弁ですな
「すべては生命の機能なんだよ。生命がなかったら何も機能しないだろ」
じゃ、生命ってなに?
「それは表現を超えたもの」
そんなもの、あるの? ただの概念じゃないの
「そんなことを思うのも、生命があるから」
600 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 12:21:29 ID:9BLaSa98
>>599 >所謂、幼児強弁ですな
既製の概念や知識によって毒されていない乳児や幼児のほうが、生物としての
人間の本質をよく現している、まず、これらの観察から始めることだ。
ニーチェも、同じようなことを言ってたはず。
むしろ、君たちのほうが、「成人強弁」なのだよ。
601 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 12:26:01 ID:Sgipqvkp
Masa Murakami New Haven, CT, USA
イェール大学内科循環器科講師。血管の研究をしています。医学全般、基礎生物学研究という方のツイート
>生物は信じられないくらい複雑なのに、我々は本当に限られた解析手法しか持っていない。まともな科学者は科学に限界があることを良く知っている。何でも知ってそうな、したり顔の科学者は偽者。でも明快な答えを提供するから一般受けはいい。
http://twitter.com/#!/mmurakam 本物の学者はこんなもんだ。限界をよく知っている。
ほとんど何も知らないのに妄想・断定する生命教とは対極。
>>600 >乳児や幼児のほうが >これらの観察から
それが全くできていないのが貴方です。
大人の論理、大人の能力、大人としての後天的在り様を当て嵌めて考察しているのが貴方です。
乳幼児の観察は貴方にこそ必要なのですw
直近588・595だけ見ても、
「現代科学」(の知識、積極的利用)、「知識や論理」が、乳幼児にも見られる機能であると?
笑止
603 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 13:40:13 ID:D+LyFKrb
この話の流れで 600ねぇ・・・ つまり、どういうことだってばよ? 「生命」は一部の子供にいる「空想上のお友達」みたいなもの、 ってことか? 596と597から逃げてはいけないよ。隠居。 原動力としての「生命」、という議題から逃げてはいけない。 話をそらさずずらさず論点を明確にしないと。
604 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 17:10:03 ID:WtxItmil
>>603 生命を以って、生命を議論の対象や論題などには出来ませんよw。議論も、生きているからこそやれるのだから。
生命とは「今、この瞬間にあるだけ」で「人間のすべての営みの源泉」でしかありません。
そして、生きていて議論ができることに、実は人間は大きな喜びを感じていることを、忘れてはなりません。死ねば、2chは出来ないw。
>>580 ドアホw
サイコパスは人間を狩りの対象にできるだけだwww
どこが悪いんだよwww
>>604 ・(>11)、>15、(>20)>23>25、>27(>28)>29(>30)>31、
>41(>48)>50(>51)>52>53、>56、>481>482>483、(>485) …根源性、現象の観察、死による消失
・>67(>78)>82>83、(>91)>103>245、>598 …○○の機能
・>409>410>412 …根源性、諸々の発生はどこから
※レス番598追加。
607 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 19:41:36 ID:9RtTpj6k
>>606 見事なまとめ、感謝です。
>根源性、諸々の発生はどこから
どこからでしょうねw。それを生命で考えても分らない。
なお、「機能」とは、英語の「function (action、performance)(働き、作用)」
の意味。ちなみにfunctionの原義は、古英語の「enjoy」だそうです。「生命の
働きを楽しむ」。粋ですね。
608 :
蛇足1 :2010/11/02(火) 19:51:40 ID:iBZYKRBS
>>371 補足として。(〔 平均を外れるとはどこから? 〕)
*(数学・統計学には疎いので、間違っている部分が多いかもしれない。)
>>379 (
>>421 )
> 「狂気」とは、共同体の成員の
> 平均的認識、思考、感情、行動からの著しい偏倚のことである。
「【著しい】差異」であるなら、よほど鈍感な者でない限り、気付くし、【異常】(常と異なる)だと認識するでしょう。
しかし、それを定量化できますか? 平均値よりどれほど差があれば異常なのですか?
いや、そもそも、【『平均値』自体に幅がある】ことを忘れてやしませんか?
身長を例にとりましょう。(エクセルで軽く計算してみた。数値は以下、
140、142、143、144、146、147、148、153、156、159、168、169、171、173、174、176、176、178、179、180)。
今、140cmから180cmまでの人間が20人いたとします。計算上の平均身長は161cmだったとします。
その近辺には168も居れば169も居れば171も居ます。159も居れば156も居れば153も居ます。
或いは逆に、【平均数値から大きく離れた者ばかり】になることもあるかもしれません。
どこまでが平均の幅ですか?
どこからを、180cmに近い「背の高い者」と称すのですか?
どこからを140cmに近い「背の低い者」と称すのですか?
棒グラフにしてみると、その困難さがよくわかるでしょう。
精神科の門を叩く者も、こうした幅の中に居る者です。
それぞれ、明確に病認定される場合も、軽度の○○とされる場合も、
相談だけで済んでしまう場合も、種々あるでしょう。
そこに、明快な境界はありません。
「誰もが、程度の差こそあれ病んでいる」とか「誰もが悩みを抱えている」とか
臭いことを言いたくはありませんがw、この境界上を無視しているのが、貴方の「(宗教)精神病論」なのです。
> 従って、平均的成員には、容易に判断可能。
お馬鹿さんですねw
大病かと思って診察受けたら、「風邪ですね」「疲労ですね」と言われることは、あり過ぎる事例なわけですw
また逆に、単なる風邪だと思ってたら肺炎だった、なんてこともあるわけです。
貴方が、いかにマニュアル的で、理論上だけの、機械的区分による思考をしているかの典型例です。
はい。
真面目に相手している道化が通りますよ、っとw
>>420 > 生活作用を生じさせるもの「無明」が、「生命」ではないとすると、それは一体何か。
単純明快、「智慧が無いこと」。具体的にすれば、
・「四諦を知らないこと」「諸法の縁起することが見えていないこと」
・「自らの執着心が見えていないこと」「我見に捉われていること」
「自身もまた縁起するものであることに気付かないこと」
…(尤も、ここへの、腹の底からの頷きが重要なわけですが・・・。) (^^;)
・「“おしえ”に理解と頷きがないこと」
以上。(…参:水野要語)
だから、「(根本)煩悩」と称されたり、「苦の根源(=原因)」と称されたりする。
上記のようなことに依って、
「行」〔諸々の形成作用:十二縁起の場合、特に「身口意の三業」(とその余力)〕
(つまり、様々な想いや意思、欲望・願望、等、種々の行為を惹起する力)が生じるわけさ。(…参:水野要語)
*(「生活作用」なんてのは、十二縁起の「行」の極一部を示しているに過ぎない。その辺が中村元の限界さw
「業、行為」としての意義が抜け落ちるんだよ。
またこの構図は、ちょうど貴方が、『「慣習」の一部が「言語(活動)」だ』
と述べたことと逆の位相を爲していますwww)
**(私個人は、綺麗に整った十二縁起の堅苦しさが苦手なのでw、
「 [(名色)・六処]・触・受・愛・取・[有・(生・老死)] 」だけ抜き出したい所ですが・・。
いや、
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1260526984/190には 、なるほど…と唸らされましたがw)
***(十二縁起については、きちんと理解し切っているわけではないので、眉唾で読まれても泣かないw)
>>420 > 「苦」は、次のように分類される。
> 1 鬱病患者は、健常者が感じることのない、または感じる必要のない苦を、極端に感じる。
今一、分類になっていないように見えますがw、ま、
「心理的苦」(苦悩)とでもしておきましょうか。
そして、(軽度であっても)何らかの鬱の症状のある者は、過度にそれを感受し、また大きく受け止めてしまう、と。
四苦八苦で言えば「愁い、悲しみ、憂い、悩み」或いは「老」といったところでしょうか。
> 2 病気や怪我による肉体的な苦は、「五蘊の仮和合」などの自己欺瞞によって除去できるものではない。
「肉体的、身体的苦」(苦痛)ということですね。
四苦八苦で言えば、「病」及び所謂「苦」或いは「老」ですね。
具体的には「痛、寒、暑、疲、或いは息苦しさ」となりましょうか・・。
> 3 生活必需品の不足(例えば、家族に食べさせる食べ物がない)による苦は、
> その物資の供給がなければ、無くなることはない。
これは、1と2の両方に跨りますが、これも、所謂「苦」の一つですね。
1の視座で言えば、「欲しいものが得られない」という苦。(まあ、下記を包含してしまうわけですが・・。)
2の視座で言えば、「身体の空腹感に苛まれる」苦。「充たされていない」という苦ですかね。
> 4
> 「純粋に精神的な苦」であることは確かだろう。
> その場合は、上記の1または4に該当する。
つまり、1と同じですね。その生じる理由が別物として付されているだけで、1と別にする理由が見当たりませんねw
総じて、四苦八苦に収まったままですね。分類の仕方もほぼ同じですね。
で、結局、「だから何?」ということなんですが・・w
> 釈迦が経験した苦を、まず、心理学的・精神医学的に分析すべきであろう。
そうですね。面白く重要な試みだと思います。是非、専門の方々に研究していただきたいテーマです。
さて、個々の文(言い分)をチェックしていきましょうか・・。
611 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 20:42:31 ID:D+LyFKrb
604 開き直ってドグマをリピートするのはやめようや。
>>420 > 1 鬱病患者は、健常者が感じることのない、または感じる必要のない苦を、極端に感じる。
> これは、脳内神経伝達物質の異常によるものであり、精神医学による治療の対象となる。
確かに、その側面はあります。
しかし、貴方が常常力説するように、それをどう次へ(未来へ)繋げていくかは別問題でしょう?
貴方は、「苦」を「力(バネ、忍耐力の形成、等)」へと転化し、また「楽」や「幸」の輝きの爲、
利用し、存在を許容するのではありませんでしたか?
その線引きは、具体的に可能なんですか?貴方はいつも『「平均的」幅からの逸脱』を言いますが、
その幅に収まる収まらないの線引きは具体的にどうなるのでしょう?(
>>608 )
個々の医師によって、線引きがマチマチな事例は山ほどありますよ。
ある病院では「もう大丈夫、普通に生活できます。学校に行ってもいいですよ」、
ある病院では「もう少し回復を待ちましょう。うつる可能性が無いわけじゃありませんので」、等。
話が逸れました。
仏教は、「きっかけ」として利用したということです。
きっかけとして利用することにより、その負の連鎖を断ち、負のベクトルを逆転させているわけです。
(貴方の言う「利用、活用、役立ち」の範疇にも収まるわけです。)(さすがに「機能」とは言いませんが・・w)
問題となっているのは、《仏教に於ける「苦」の強調》が、
貴方が指摘するような、「平均的度合いの感受を超え」、「この世(の全て)を悲観する、負の思想」と化し、
「触れた者が皆、悲観的になり、ポジティブな思考を捨て、マイナス思考になっている」のかどうか、
ということです。 この問い自体は、常に設定され続けても良いものです。
しかし、貴方は、初手として、その「負の要素」を指摘していますが、
【それが、どれほどの強さ・広さで人々に受容され、影響を与えているのか】
【その影響の具体的事例は何か】については示し得ていません。
それほどの大規模な影響であるにも関わらず、です。 議論の進展に寄与しないのです。
上記(
>>610 末尾)で触れたように、精神科の方々の分析・考察は大いにあって良いと思います。
(
>>612 補足:
>>420 「 >または感じる必要のない 」
この線引き・判断に於いて、「個人差を越え得るのか」という点も、聊か疑問のあるところです。)
> 2 病気や怪我による肉体的な苦は、「五蘊の仮和合」などの自己欺瞞によって除去できるものではない。
勿論、その通りです。そうした(肉体的)「痛苦」の緩和、除去は医学的領域の話(仕事)です。
仏教は、それらを治す・除去することを目的とはしていません。(尤も、禅定等により、多少の緩和は可能でしょうが。)
ただ、それ(肉体的痛苦)に付随する「心理的苦」に関しては、可能性を見るわけです。
だから、四苦八苦の中に「通常の苦」の一つとして組み入れられ、解決可能なものとされるのです。
具体的痛苦は、様々な手段で緩和・除去すればよいのです。
それでも尚消去できない「(心理的)苦」の解決法(の一つ)を提示しているわけです。
★参:【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】8
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1233367815/452 ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/psy/1233367815/452 > 釈迦が麻酔無しで手術を受ければ、彼は狂いまわるだろう。釈迦の「我(アートマン)」にモロに響く。
ここが倒錯なわけですw 「医者にかかるな」などと言っているわけではありませんw
医者にかかり、きちんと手を尽くして尚、「懼れ、惑い、嘆き、苛立ち、苦悩する」時、
心理面での、(その途上も勿論ですが)その解決にこそ意味があるわけです。
(病気や怪我は医療で治しましょうw)
> 3 生活必需品の不足(例えば、家族に食べさせる食べ物がない)による苦は、
> その物資の供給がなければ、無くなることはない。
その通りです。
が、仏教が「物資の供給」をするわけではありません。
それは「社会」(≒行政、市民力)の担当領域です。不足が解消されるよう、努力は講じられ、続けられねばなりません。
そして、上記医療と同様に、八方手を尽くして尚、「不足し、不便を感じ、不安を感じ、危機を感じる」時、
心理面での、その解決・緩和にこそ意味があるわけです。
> 4 純粋に精神的な苦は、自己中心主義から生じる場合が殆どである。
そうですね。まさにそのように仏教では説いてますねw
> 我執を去り、
その通りですね。
> 身近な他者に心を移すことにより、軽減・除去される。
それは、寄りかかる壁を変えただけで、「解決」にはなっていませんね。
目を逸らして、視界から外しただけですね。
今度は、新たに寄りかかった壁に対して、「十分かどうか」「もっと強度が、寄りかかり易さが欲しい」とか、
或いは「壁の喪失を懼れたり、不安になったり」「壁無しではいられなくなったり」
「その壁の喪失で再び苦悩、不安に逆戻りしたり」、また「新たな壁に対して、注文を付けたくなるかもしれません」。
一時凌ぎであり、自分の足で立つことの放棄であることには変わりありませんね。
いずれにしろ、「自我の欲求は消えてません」ね。それによる苦は生じ続けますね。
いたちごっこですね。
> 贅沢三昧、我侭な生活をしてきたものは、忍耐力がなく、
> 物事がちょっとでも上手く行かないと、苦を感じることが多い。これを「贅沢病」「我侭病」と称する。
そうですね。その通りの事例は、そこかしこに溢れてますね。
ただ、釈迦国の状況(隣国等との情勢)が「ちょっとしたこと」だったかどうか、
アノーマー河を渡った動機が、「ちょっとしたこと」だったかどうか、判りませんよね?w
結局、2500年後の【結果】(2500年間の伝承の歴史)に、【その「昇華」を見るしか】ありませんねw
>>610 >>612 末尾のように、(私個人は)、開祖の精神的傾向と、、
説話・伝承及び後代への残滓は研究されてしかるべきだと思いますよ。
その作業、成果により、説かれた内容の『意義』を探ることが、更に楽しいものとなると思いますよw
> 贅沢三昧に暮らしてきた釈迦が、どのような苦を体験したのか、定かではない。 > 「純粋に精神的な苦」であることは確かだろう。 はい。その通りでしょうね。 語弊を恐れず大胆に言えば、 だから、釈尊在世当時に於いても、インテリや富裕層に受けがよかったわけです。 ブイブイ言わせて充実した生・仕事の間隙の空白・不安に怯える者が、噂をもとに訪れるわけですw (勿論、そうした者達だけではありませんがw) > 圧倒的大多数の生活者は、王子様である釈迦よりもはるかに強い苦を経験したであろうが、 勿論、感受・経験する苦も人それぞれでしょう。その度合いも大小軽重様々でしょう。 しかし、だからこそ、それら全てに通底する原因、縁の探求が、仏教に於いては爲されたわけです。 だから、最大カテゴリでもあるのです。 > それを生活の中で乗り越え、楽に転化させている。 そして、日常生活を送る上で、緩和・軽減の為の、日々をこなしてゆく上で、 「視線のズラし」「保留、脇へ措く」「同量の楽で中和する」「代償としての楽を常に用意する」等、 一時凌ぎ自体はあっても良いのです。(勿論それらも、別の苦の縁となってゆくわけですが・・。) ただ、そうした回避で尚処理できない時、「縁起」と「無我」が活きてくるのです。
616 :
蛇足3 :2010/11/02(火) 21:55:42 ID:iBZYKRBS
>>397 > 「一切皆苦」「釈迦は常に正しい」。
だからwww
「○○が言ったから正しい」なんて誰も言ってないのw
(確認した上で)「内容が正しい」と言ってるだけなのw
たまたま最初に説いたのがお釈迦さんだっただけなのw
>>322 > 五蘊も縁起なら、五蘊から生じる「苦」も「空」であり、
その通りですねw
> 気にすることはないですね。
貴方が、「苦しいままで良い」という考え方の人だというのはよくわかりました。
つか、冗談はともかく、2chに蔓延している「空教」、野狐禅ならぬ「野狐空」に感染しないようにw
(「心頭滅却すれば火もまた涼し」を言葉通りに、単なる「熱くない」と読むようなもんです。)
「気にしない」というのは、「気にした上で、気にしない」ということです。
> 宗教者が、生命をわざわざ「いのち」などと表記し、
「本気」と書いて「マジ」、「強敵」と書いて「友」と読むくらいです。別にどうということはないでしょう?w
> 生物的生命とは異なるものに変容させようとしている恐れがあるから
wwwww
いったいぜんたい、「どこの誰が」「 > 生物的生命とは異なるものに変容させようとしている 」のでしょう?w
また、見えない敵と戦っちゃいましたか?www
>>553 自分の思考に反する思考」を「精神病」呼ばわりしている貴方が何を仰いますやら・・w
見ることも触ることも聞くことも、考察の対象ともなし得ない『生命』を夢想し、
専ら「観念の遊戯」にふける貴方こそ、「精神病」なのではありませんかw
617 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 23:13:09 ID:tv7NZpOb
>>616 >見ることも触ることも聞くことも、考察の対象ともなし得ない『生命』を夢想し、
「考察の対象ともなしえない『生命』を『夢想』する」とは、言語矛盾です。
「対象化できない生命」は「夢想」の対象にもなりません。
それでは、生命を「生命現象を現す肉体」と言い換えましょう。これなら対象化
できますね。そして、そして宗教者がさかんに対象化する「見ることも触るこ
とも聞くことも出来ない」心や苦は、「夢想」ということになります。
618 :
神も仏も名無しさん :2010/11/02(火) 23:29:29 ID:D+LyFKrb
死者への哀惜を存在証明に使おうとして失敗することは、 観測できないはずの存在がいつ現れいつ消えるかを断言することは、 十二分に考察です。 言語矛盾はそもそも隠居側に発している。 言葉の意味を踏まえず 論理的に考えることをせずとりあえず 積み木式に文章生成してきた。その結果がこれだ。
619 :
1/4 :2010/11/02(火) 23:52:37 ID:iBZYKRBS
あまりにも、無知による単純短絡な誤解、妄想なのでスルーしてましたが、
礼に背かぬようw、軽く答弁しておきます。
(幾つかは、議論スレに於いて詳説した部分もありますが、リンク等は貼っていません。)
【最終】輪廻転生説はどう扱うべきか!?【決着】3
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1259369908/435 > 釈迦(原始仏教、小乗仏教、釈迦佛教)の矛盾と誤謬:
> 1 己の「我」を以って「無我」を説く
貴方の、「我」の解釈の誤りによるものです。アートマンスレを読み直してくださいw
強いて言えば、〈「ゴータマ・シッダッタと称される」「五蘊」〉が法を説いているのですw
> 2 己の「生」を持って、生の原動力、証(あかし)である「煩悩」を「排除すべきもの」と決め付ける。
確かに、『パワー』『活力』ともなりますが、『苦の因、縁』でもあるわけです。
だから(弊害が大きいから)、(薬的に言えば「副作用がキツイから」)、別のものを利用しましょうということです。
> 3 「五蘊」は「我」「生命」から発して
完全に間違ってますね。そんなことはあり得ません。(おそらく現代科学の知見に於いてもねw)
また、発生源の希求による倒錯です。(説明済み)
> 4 生を苦としながら、「来世」まで追い求めるという「生への執着」。
当時のインドの一般的考え方ですね。
仏教は、「より善き来世もいいけれど、『今、苦の滅を目指してみませんか?』」という助言です。
> 5 生を苦としながら、生を以って「涅槃」という「楽」を追い求める。
いやいやw 「生」が「苦なるもの」だから、「涅槃という楽」へ転換させるのです。
620 :
2/4 :2010/11/02(火) 23:56:52 ID:iBZYKRBS
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1259369908/435 > 6 煩悩を排除しながら、「解脱」「悟り」「涅槃」への欲望という「最大の煩悩」に執着する。
> 7 「苦楽」は一如であることに思い至っていない。「苦を去る」ことは、「楽を求める」という煩悩。
一般的に二番目にポピュラーな疑問ですね。(一番目は勿論、「なぜ「苦」が主題となっているのか?」でしょう。)
「悟りを求める」「安楽を求める」というのも「欲」ではないのか?と。
「悪しき果を生むベクトル」でなく「善を増進するベクトル」だから、「苦果へ繋ぐ縁」ではなく「楽果へ繋ぐ縁」だから、
「善き志向性」として扱われるのです。勿論、その方法が社会的にも善であるべきなのは言うまでもありません。
各種善行と全く同じです。
> 8 「縁起・中道」は、「実体としての因と両極端」を前提とするから、「空」には至れない。
完全なる誤り。というか、貴方の考え方(考察)が筋道だっていない証拠です。
>「実体としての因と両極端」などあり得ませんw (貴方のスルーで中断中なので説明略w)
> 9 ヒンドゥー教の「輪廻転生」をきちんと否定し得ていない。何のための「ヒンドゥー教改革」だったのか。
改革ではなく、「別手段の提示」です。また、世間の論理や世間の価値観はそれとして認めつつ、
もう一段上の視線が提示されているわけです。
> そのため、神智学や真光やキリスト教などのカルトが群がり、利用して、大きな弊害をもたらしている。
これは、(仏教に限らず)「輪廻(転生)」という考え方自体が必然的に内包する要素なので、
都度都度否定修正するか、「輪廻」という考え方を封印するか、二つに一つしかありません。
そして、伝統的には、前者の方法が取られてきたわけです。
ここに関して新たな道を模索することを、(私個人はw)悪しきこととして批判はしません。
621 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 00:00:11 ID:7+EpmYdv
>>618 宗教者の方は、見えないもの(神・霊・心・苦)などが大変お嫌いなようだからw、
途中から「生命」を「生命現象を現す肉体」と定義変えしてますよ。どちらか
好きなほうの定義を使えばよいだけですw。
622 :
3/4 :2010/11/03(水) 00:06:32 ID:pGaQbqKj
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1259369908/435 > 10 生まれたばかりのわが子を捨てて家出した釈迦には、道徳や善を語る資格はない。
世俗的倫理道徳観、一般的価値観に於いて、この批判を不当だとは言いません。
ただ、当時に於いては、「出家求道」は一つの選択肢として社会に許容されていた点は留意されて良いものです。
今で言えば、家業を継がず、別の仕事を選ぶ一人息子のようなものです。
現在の価値観でさえ、息子の行為は非難されます。
が、その(「当時の行為自体」は責めを負い続けるとしても)、大成して評価称賛されることはあるわけです。
その意味で、それまでにない比類なき「教え」を「実践し、説き、体現してみせた」点に於いて、
評価称賛されているわけです。(二諦、聖俗、ダブルスタンダードと関連)
「子を置いて出家が可能だった環境のせい」も勿論ありますが、
(「運」という言い方は仏教的ではないですがwそうしたニュアンスでwww)、それもまた「縁」であるわけです。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1259369908/436 > 11 要するに、釈迦は、その鬱病ゆえの厭世観の塊であり、
塊かどうかは判りませんがw、厭世観としての傾向は、生母の不在から始まり、
成育過程の中に色濃くあったと思いますよ。(弁明済み)
> また、頭が非常に悪く、論理矛盾だらけで、竜樹の卓越した頭脳にははるかに及ばない。
貴方の理解力不足・倒錯でしょう?w (今更なので説明略w)
> 12 世界が佛教に期待するのは、竜樹の頭脳から生まれた「相互依存性・関係性」という
はい。全くの誤解ですね。(今更なので説明略w)
> 「時代を問わず万人・万物に適用しうる普遍の原理であり、
あちこちに見られる在り様の一つだとは思いますが、「原理」とまで言ってしまうのはどうなんでしょうか・・?w
> 釈迦の精神病の症状としての厭世観や
(説明・弁明済み)
623 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 00:08:07 ID:vTbFasho
言い換えはいいが何の意味があるんだ? 原動力としての「生命」を嵌め込んでる限り、 隠居のそのアイデアが妄想であることが変わることは無いんだが。 霊魂を肉体に入れて総体ということにする程度の意味しかない。 精神活動・心の有り様も魂と呼ぶが、 霊魂という意味で使ってたのを、こちらの意味に言い換えたり合体させてみても 意味が無い。 せいぜい論点ずらしの言葉遊びでしかない。
624 :
4a/4 :2010/11/03(水) 00:13:55 ID:pGaQbqKj
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1259369908/436 > 「あるがままのすべての人間の衆生心(真如)の否定」などではない。
いやいやw 否定なんぞされていません。『盲目的現状肯定』が否定されるだけです。
当然、「真如」にしろ「仏性」にしろ「衆生心」にしろ、貴方の理解するような、
単純な「あるがまま」(→努力も懺悔も向上心もなくていい)「お手軽な無為自然」ではないことは明らかです。
> 13 原始仏教(釈迦佛教、小乗仏教)は、開祖と原始仏典の盲信・狂信というカルト佛教に過ぎない。
新興宗教であったことは事実ですし、初期勃興期の扱い・評判に於いて、
「扱い・世間の目」としての、今で言う「カルト扱い」を受けたことも想像に難くありません。
しかしながら、今現在のカルトの基準にも当て嵌りません。あなたの不勉強・世間知らず故でしょう?w
> そのカルトに自ら嵌った一部の宗教学者が、教壇の上から、また多数の書物によって、
はい、貴方のカルト定義が誤っているだけですね。もっと勉強しましょうw
> カルトを布教し、多くの人間の心を狂わせている。人間にとって、害悪以外の何物でもない。
見えない敵と戦うのはおやめなさいwww
そのような事実はありません。(中沢新一や島田裕巳を言ってるのかもしれませんが、
彼らを少し擁護するなら、およそあらゆる新興宗教に共通する
「新規性」「純粋性」「伝統との異端性」「原点回帰運動」等を、『素朴な宗教ムーブメント』として見、
「それのみを」(学問的に・研究素材的に)評価したということです。
(もっとも、中沢新一の仏教理解が仏教的かどうかは、(よく知らないのでw)疑問に感じますが・・w)
オウムも、初期の「ヨガスクールに毛の生えた程度」で収まっていれば、
珍妙な集団という奇異の視線を浴びるだけで済んだかもしれません。
が、貴方のようにw、誤読妄想を拡大させた倒錯の極みが、あの結果なわけですw
(尤も、出家(この場合は「家族との隔絶」)の問題は生じていたでしょうが・・。)
625 :
4b終/4 :2010/11/03(水) 00:14:50 ID:pGaQbqKj
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1259369908/436 > 14 「食あたり」で死んだ釈迦には、「神通力」など皆無であった。
「神通」に関して、私は発言する資格はありませんがwww、
少なくとも、「食あたりを(病を)治す神通」は無いんじゃないですかね・・。
> 15 釈迦に、現代人が「尊敬すべき要素」「信じるべき要素」は皆無である。
貴方が、見えていない・理解していないだけで、応用範囲の広さは他宗教の群を抜いてますよ?w
(「苦」というラベリングの効能として説明済み)
> 原始仏教のファン(fanatic、狂信者)の代表として、
貴方の妄想盲信ぶりには敵いませんよwww
> セブン氏が「世俗の言葉」で反論してくれ。世俗を離れた勝義など、根拠皆無な妄想。
如何でしたか? 勝義的謂いを避けたつもりではありますが、お気に召したでしょうか?w
(勝義については説明済み)
626 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 00:15:31 ID:qH2L1PSI
>>621 >途中から「生命」を「生命現象を現す肉体」と定義変えしてますよ
バカか?お前はwwww
お前は今まで、散々、「原動力とかの妄想生命」と「通常の使用における生命」
とを自分の都合によって、勝手に使い分けてただろうが?ww
「これ以後『肉体』を生命とするなら」
まず、お前が今まで喚いていたこと→「肉体を形作り、生命現象を表す『原動力
としての生命』 こんなものは妄想で、ありませんでした。」と今までの
言動を訂正しな。 話はそれからだ。
どうする? 今まで喚いていたことは全て妄想と認めるか?www
627 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 00:18:02 ID:7+EpmYdv
>>628 ならば、神、霊魂、心、苦、罪などを常に口走る宗教を何故批判できない?
肉体は、完全に知覚できるぞ。
>>627 貴方は、(その理念や論立てから)、『所謂「肉体」』と『生命』を同一視してはならないのです。
前にも一度言いましたよね?w
「もし私が生命教徒なら、そんな考えは『異端』として断固排斥の対象だ」、とw
629 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 00:25:04 ID:7+EpmYdv
>>628 ちっとも異端じゃないw。生命は、肉体によってしか認識できないからだ。
630 :
【総括】 :2010/11/03(水) 00:25:35 ID:pGaQbqKj
さて・・。
隠居相手の長丁場も、どうやら区切りが付きそうだ。
・ループ1 -宗教否定に始まり宗教否定に還る-
→ 〈生命教と言われる理由:構造編〉及び〈否定というアイデンティティ〉に見る、過去の宗教被害疑惑へ
・(特に精神的)病症の健常・異常の判断 -その平均的健常性とは-
・ループ2 -苦を巡って-
→ 〈最大カテゴリとしての「苦」批判〉へ
*但し、「苦」というラベリング自体への疑義は『常識的疑義』として残されて良い
**常識的生き方の許容も認められて良い …(→〈隠居発言の一部擁護〉へ)
→ 〈その他若干の「苦」を巡る応答 -ラベリングの意義、必然性- 〉へ
・ループ3 -原典・文献学・原語無視の俺様基準- &権威主義
→ 〈vyavahAra , vohAra解釈及び直訳か意訳か〉へ
・大乗と小乗/無明=生命 -レッテル貼りと(日本の)現状の誤認、及び基礎知識の不備-
→ その他術語の根本的誤解と知識不足、短絡的盲進を含
・縁起の時間性(因果)排除と相互依存 -主に中論を利用して-
…(刹那に於ける「停止・静止」と「実体・実在」/ヒトの認識システムの限界との絡み有)
・「○○即××」という単純イコール(〈○○の機能という飛躍〉と同位相)
・「○○の機能」という飛躍 -その文学的言辞-
・生命教と言われる理由:構造編 …そのアニミズム的性格
・生命教と言われる理由:動機編 …〈根源性、発生源の希求〉
・生命教と言われる理由:未確認不可知編
…〈『生命』の存否確認は何によるか -現象確認でどこまで辿れるのか-〉
・生命論概説
今後、相手が代替わりしていこうとも、
その応答(≒論点)は、凡そ、上記のような形で網羅されるだろう。
(なんとなく、過去のリンク先URLの表題とは異なったものとなったw)
>>606 中のもの、及び他若干のレスのURL化もしておいた方が良いのかもしれないが、
これで本当に一段落かもしれない・・。 (ホントか?w ワシの我執も相当だからな・・・w(自嘲))
長い戦いだった・・・w
631 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 00:26:27 ID:vTbFasho
原動力としての「生命」なんて誰にも知覚できないんだが なぜ気にならない? いきなり生命体を組み立てるような存在が 無から何の前触れもなく現れる、と言ってるのに、 なぜそのご都合主義が気にならない? 物理法則ガン無視が気にならない? なぜ宗教との本質的共通点が気にならない?
632 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 00:43:31 ID:7+EpmYdv
>>631 原動力の無い現象などないよw。現象を見て、その原動力を推定しない者が
いるか。
「すべての人間の生きた『肉体』」を基準としているところが、宗教とは全く
異なる。そんな宗教がどこにあるかね。
633 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 00:52:13 ID:7+EpmYdv
>>630 >隠居相手の長丁場も、どうやら区切りが付きそうだ。
まとめ、多謝。そして、仏教の布教、ご苦労様でした。今度は、信者
ではなく仏教学者として、日本の仏教である大乗の立場も論じてください。
縁起(空)における貴方の「相依性の否定」は大問題だと思うが。
大乗の立場からもそうですか?
大乗信者(浄土真宗を除く)の方のご意見が少ないようですな。「空」を
悟っているからかな。
634 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 00:53:36 ID:vTbFasho
632 その原動力が「生命」でなければならないという必然性は無い、ということは 前にも説明されたよな?子供が生まれる際は設計図としては遺伝子があり母体から既に栄養供給がなされる。 生まれた後は前に行った生命活動から出来たエネルギーを基に 同じようにして自転車操業を行う。 再度たずねるが、自然界の法則に反するものが存在すると 本気で考えているのか?そこで自分の考察に疑問を感じなかったのか?
635 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 01:00:35 ID:vTbFasho
物理法則を超越(無視)した存在を支持すること、 「誰にも認識できないが実在するもの」を認めることが 同時に何を意味するかわかっているのか? 法則に反していること、誰も認識していない、 という理由では、他の神や精霊やらの存在を否定できない、ということだ。 やろうとすれば、宗教批判ではなく、異教批判でしかなくなる。
636 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 01:04:19 ID:7+EpmYdv
>>634 肉体こそ、最大の自然界の法則ではないのかね。そして、「生きた肉体」と
「死体」との区別くらいは分る?「自然界の法則」を認識できるのは、「生きた
肉体」のみ。
「生命」という言葉がよほどお嫌いなようだが、それでは、「生きた肉体」と
「死体」との区別はどう表現する?君自身や家族の生死は、どう表現するお積りか。
637 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 01:10:30 ID:vTbFasho
636 素朴な疑問なんだが、誰にも知覚・認識できない代物が、 どうやって「生死」の判別に役立つんだ?
638 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 01:11:52 ID:7+EpmYdv
>>635 物理法則を認識できるのは、生きた肉体によってのみ。死体には不可能。
そして、法則が認識できなければ、物理法則などという言葉は使えない。
そもそも、言葉を使えるのは「生きた肉体」のみ。「死体」とは大違い。
639 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 01:18:59 ID:7+EpmYdv
>>637 肉体の状況から、判別は容易。医師は常時判別を行っている。
生きている君の肉体は腐敗しないのに、死ねば腐敗するのは何故か。細菌はうじゃうじゃいるのに。
640 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 01:25:13 ID:vTbFasho
一般的な説明なら、肉体とその発生は自然の法則に沿っており、体現してると言える。 では生命教における説明ではどうなるか。 純粋にそうとは言えないだろう。 なぜなら超自然の存在が関与しているから。 これでも自然ならイエスの処女降誕すら自然ということになってしまう。 精子もなしに子供が生まれるか、そもそも神なんて存在できるのか、 そんな問いは無意味だ。確認できまいが法則に反しようが それはあるし起こる。「生命」だってそうなんだからいいじゃない。 「生命」を支持する限り、宗教をダブスタなしで本質的批判はできない。 俺にはできても隠居には無理。 オレが自然の法則に反してる、といってる対象は 「生命」であって実在する肉体や一般的な意味での生命じゃないから。 そこは外さないでほしいね。
641 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 01:25:58 ID:7+EpmYdv
「生きた肉体」を軽視・否定する者が、必然的に宗教に嵌る。
642 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 01:29:44 ID:vTbFasho
638 アンカーつけるなら内容を対応させよう。 ちゃんと人の文章を読もう。 相手が何を問題としているのかきちんと把握しよう。 せめてその努力はしよう。 639 そ、「生命」なんて出る幕も無いわけ。
643 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 01:31:16 ID:7+EpmYdv
>>640 生きた肉体は、超自然の対極にあるもの。
「生命」という言葉を使わないで、「生きた肉体」と「死体」とをどう
表現する積もりかね。ちょっとやって見せてくれw。
644 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 01:34:30 ID:vTbFasho
643 表現上の言葉や概念が、生命体を組み立てちゃうなんて話じゃないだろ。 つまらない逃げの一手なんて打たないで 話を先に進めよう。
645 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 01:35:37 ID:7+EpmYdv
宗教者たちが「生命」という言葉をひどく恐れるのは、「すべての人間 の生きた肉体」を根源とすれば、すべての宗教が吹っ飛ぶからだ。
646 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 01:37:47 ID:vTbFasho
一般的な説明なら、肉体は自然そのもの、としているのに 一体全体どこを見てるのだろう・・・
647 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 01:38:06 ID:7+EpmYdv
>>644 ならば、何故「生命」という「言葉」にそれほど敏感に反応し、恐れるのか。
648 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 01:42:36 ID:7+EpmYdv
宗教がやたらと人を殺す理由が、如実に証明されているスレだな。
649 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 01:42:42 ID:vTbFasho
647 「生命」と名付けられただけの妄想の内容が おかしい、と言ってるだけなんだが・・・ 反応してるのは、内容であり、議論のやり方に現れてる隠居の人間性に対してだよ。
650 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 01:55:03 ID:7+EpmYdv
しかし、すべての人間の肉体(生命)に最大の価値を認めて困る「人間」は 誰なのかね。肉体以外の、目に見えないものを崇拝する宗教者だけだろ。
651 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 01:59:09 ID:7+EpmYdv
>>649 すべての人間は、「生命」という妄想によって生きているのだから、それはも
はや妄想ではなく、「唯一の現実」である。
652 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 02:08:39 ID:vTbFasho
650 肉体なら結構。それはそれでかまわない。 原動力としての「生命」ですら それが信仰に過ぎないという自覚を持ち、 空気を読むのならそれはそれでかまわない。 651 妄想はただのアイデアであり、 それ自体で何か現象を起こしたり 実際の世界に干渉することはできない。 よって隠居の妄想としての「生命」によって生まれ、生きている生命体は 一つとしてない。それは隠居も例外ではない。 「生命」と名付けられただけの妄想は現実ではない。 名前が同じなだけで現実になれるわけがない。
653 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 02:18:24 ID:7+EpmYdv
>>652 それなら、目に見えないものを信じる宗教を徹底的に叩け。何故それが
出来ない?
君は、原動力のない現象を信じるのか。それこそ妄想であろう。
654 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 02:32:43 ID:7+EpmYdv
>>652 >それが信仰に過ぎないという自覚を持ち、
>空気を読むのならそれはそれでかまわない
ほほう。君は「信仰」は認めるのか。なのに「生命教」などとして必死で
反発するのは、全く矛盾してるな。君は、宗教擁護の黒幕。最も悪質で
ある。
「すべての人間の生きた肉体」を信仰の対象としたら何故困るのか。
少なくとも「人を殺す」ことはなくなる。君が擁護する「人殺し」宗教が
吹っ飛ぶからだろ。
空気読む宗教の開祖・教祖がいるかw。
655 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 02:43:19 ID:7+EpmYdv
>蛇足氏へ あなたの仏教布教は、「否定しながら、肯定し」「肯定しながら、否定し」、 その底には「絶対」への強力は執着がある。カルトの布教そのものです。
656 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 02:45:27 ID:7+EpmYdv
>>581 そこは人工無能向けのコメントなので、かなり適当でした。厳密な語法についてはご容赦を。
存在論的な意味では、五蘊とかの方が適切だろうと思います。要するに、名色の問題ですね。
名>色……心霊主義
色>名……唯物主義
名⇔色……仏教(中道)
>>633 「時間性(≒因果)」と「相依性」との両義を含むと言っているだけです。
《「相依性」しかない》という意見を、可逆性を認めることを批判しているだけですw
>大問題だと思うが
はいw 多くの学者が、(或いは仏教者が)、意見を述べ合っております。
仏教(学)界に於ける最重要テーマの一角ですw
>>655 貴方の発言で、
「肯定される部分」は、「貴方でなくとも有する」妥当な疑義」、
「否定される部分」は、「貴方の」「無知、世間知らず、独善と妄想による誤読・誤解」
にそれぞれ該当しますw 勿論、その殆どが、(仏教・宗教関係無しに)、
「論旨」「論法」「根拠の求め方」等に於ける無知と独善と混沌ぶりにあることは言うまでもありませんw
・(>11)、>15、(>20)>23>25、>27(>28)>29(>30)>31、
>41(>48)>50(>51)>52>53、>56、>481>482>483、(>485) …根源性、現象の観察、死による消失
・>67(>78)>82>83、(>91)>103>245、>598 …○○の機能
・>409>410>412 …根源性、諸々の発生はどこから
・>287>288>293(>345) …否定がアイデンティティ
・まとめ >630
※レス番630追加。
>>657 了解。
・(>11)、>15、(>20)>23>25、>27(>28)>29(>30)>31、 >41(>48)>50(>51)>52>53、>56、>481>482>483、(>485) …根源性、現象の観察、死による消失 ・>67(>78)>82>83、(>91)>103>245、>598 …○○の機能 ・>409>410>412 …根源性、諸々の発生はどこから ・>287>288>293(>345、>544) …否定がアイデンティティ ・生命論概説 >542>543 ・まとめ >630
660 :
神も仏も名無しさん :
2010/11/03(水) 09:41:16 ID:vKM2JT5V >>658 >「貴方の」「無知、世間知らず、独善と妄想による誤読・誤解」
「どこかの誰かの『本』に書いてない」ということでしょ。「(開祖を含め)
他人からの借り物の見解」を振り回すことこそ、「思考停止」「執着」の典型
です。「執着」を批判するのなら、まず、あなたの「釈迦」や「経典」、「宗教」
への執着から離脱すべきでしょう。その離脱は、全く出来ていない。
「世間知らず」とは、一般に、「宗教者」「学者」「教師」について言われる
ことです。「出世間」を目的にしているのではないのですか。
「本に書いてある他人の見解」がそれほど重要なのなら、私の見解は、前レスで
どなたかが挙げた「梶山先生(?)」の見解と全く同じですがw。
「因果関係」でどうして「空」が成立しうるのかご説明ください。「因」と「果」
という「実体」が前提とされていますが。「中道」も「道の両端」という実体を
前提としています。「諸行無常」も「常である行」の概念を前提としていると
思うが。「他人からの借り物」でない、あなた独自の見解でお願いします。