>>674 「変化」と「時間」の関係は、相似形として考察の種とはなる。
「『時間』というもの」が「『ものとして』或いは『固有のものとして』存在する」わけではない、という意味合いで。
だから、「『時間』などない。あるのは『変化』だけ」というスタンス・論立てと同様に、
>>676のように、「涅槃などない」という言明も成立する。
(また、そのスタンスを少し緩めれば(→【“ある”という言明の質を少し変容させれば】)、
それは、おそらく「生死即涅槃」や「般若心経の謂い」とシンクロする。)
ただ、一つ違う所(喩えとしての大きな不備が生じる所)は、
時間と変化は単純イコールで結ぶことが可能(たぶんw)だが(→「同義と見做し得る」が)、
涅槃には、「そのように比較考察対象として設定し得る(【同義として結び得る】【有為の】)
ものが無い」ということになろうか・・。
四諦八正道が行じられ、完遂されたところに、涅槃はある(見られる)わけだが、
それは、(以前も一度触れただろうか)、
《「苦の滅」が涅槃であるが故に、『論理的同時性』を有する(→無時間的である)》という側面を言う。
(中論は、諸法の縁起をもこのように見ている、ということかもしれない。)
「苦の滅」が成じた時、「そこに涅槃が顕現する」という謂いをしてもいい。
「苦の滅」と「涅槃」が同義である(涅槃の定義が(語源的にも)そのようなものである)というのが前提ではあるが、
この時、(涅槃は勿論)、「苦の滅」は『ものとして』『固有のものとして』あるわけではない。
上で見た『時間』の際の考察と同じだ。
(《『涅槃』が「苦の滅」の別称であり、「苦が完全に滅したところに『涅槃』が顕現する」》
というのは同義(同語)反復になるとしても)、
そして、《『時間』が「変化」の別称であり、「変化するところに『時間』が顕現する」》ように、
《「苦の滅(涅槃)」もまた、【「四諦八正道の観察と体現」の別称】であり、
「四諦八正道が観察・体現されたところに『苦の滅(涅槃)』が顕現する」》と【言う】ことができるだろう。
*(涅槃の語義上、「苦の滅」は「煩悩の滅」と置き換えても同様。)