【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】10

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たとえば陸上競技とか、100m走でも50m走でもいいが、
そこに生じている(事象としての)「走り」という捉え方のできる奴はいないのか?
「命(いのち)」もまた同じである、と・・・。

《「具体的個物」や、「最小単位」、或いは、「物質領域を超えた存在」へと還元》するのでなく、
《「走り」という物質》や《「走り」を構成する最小単位の粒子》や
《「走り」という、「物質でない(オカルティックな)何かしらの存在・実在」へと還元》するのでなく、
『そのような在り様、そのような事象、そのようなはたらき』として見れば、それで済むはずなのに、
何故それをせず、「何かに還元」しようとするのか?
「“(六根を超えた)何かの存在・実在”が“それ”である」とするのか?

大海の漂流木であることが、そんなにも怖いのか?
 (http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1242183617/301
革紐で結ばれた古い荷車となることが、そんなにも怖いのか?(大般涅槃経)

仏教とは、自身が大海の漂流木であることに気付き、自覚し、受け止め、
漂流木としての在り様を全うするところにこそあるのではないか?
成道後の45年間は、(仏伝が伝える釈尊の足跡は)、
まさしく、ゴータマ・シッダッタの漂流の軌跡ではないのか?
自身が、革紐で結ばれた車であり、紐が解ければ崩壊するものであり、
その紐の耐久年数に従って存在し続け、為すべきことを為してゆく、
そういう自覚と受け止めの上に据えられる在り方こそが、目指されるべきなんじゃないのか?
成道後の45年間は、(仏伝が伝える釈尊の足跡は)、
まさしく、ゴータマ・シッダッタの荷車としての仕事歴ではないのか?


酔ってるかな?w
おやすみ ノシ