>>380 > やぐらを立てて「高みの見物」か。
その通り。それが仏教だよ。
(大乗の菩薩のように、いやらしく慇懃に下手に出て、優越感に浸るようなことはないw
胸を張って、やぐらの上から手を伸ばすのが仏教だよ。
禅は、やぐらから降りるけれども、不必要に謙ったりはしないw)
> それでは釈迦は「現実からの逃避」を教えたことになる。
その通り。だから、≪【逃避する替わりに】【法施・慈悲が義務となる】≫。
> 大乗の「煩悩即菩提」「生死即涅槃」は、釈迦のこの根本的誤りを是正したものである。
運動場を一周して同じ位置に立っている二者がいる時、
一周終えてきた者の心身の状態・目にしてきた景色と、
まだ走っていない者のそれとが同じである筈がなかろう?
なんと愚かな見解。 (これが、如来蔵や本覚等々の弊害だよ。 >>大乗マンセー諸氏)
> なお、勝義諦と世俗諦とを区別するのは、勝義諦か世俗諦か、それとも他の如何なる普遍的基準か。
> 竜樹は、このことについて「勝義は世俗諦によってしか語れない」として、的確に批判している。
> 結局、世俗を離れた勝義など、在り得ないことになる。
まったく同意見ですが、何か?w
> 日本の仏教徒なら、・・・・・・悟られたし。
日本仏教、大乗仏教を知らないのは君だろ?w