ここで言われているのは、(実は「3種の我の獲得」もそうであるが)、
その時その時の「相(≒在り様)」によって「○○」と呼ばれているのみである、ということだ。
そして、経文のどこにも 《“相”によって名称は変化しているが、変化しない“乳製品としての本質”がある》
などと書かれてはいないし、文脈としてもその意味はない。
あくまでも 《今まさにどのような相(≒在り様)であるかによって、各名称が付されている》。
たとえ、(この場合なら乳製品としての)繋がり・関連性があったとしても、それは、時系列の上での関連性に過ぎない。
そこに、「なにかしら不変なるもの」を見出すことは、少なくとも、この経のこの部分からはできない。
「(乳製品(として)の)本質」には、一切触れられていない。それが“ある”などと言われてはいない。 よって、
>>72 >【乳製品の本質は変わらない】(1) などと言い得ないし、
>乳製品の【本質は常住】(6) とも言い得ない。
「本質」についてなどどこにも述べられていない。
ましてや、
【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】8
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1247232994/635 >釈尊は牛乳、ヨーグルト、バターに【共通する】【乳製品の「本質」を解説】されておりますが、・・・・・・
など、誤読にも程がある。
ただただ >【その相は無常であり、名称も変化】(3) しているのみ。
(今ある)その相によって、 >牛乳⇒ヨーグルト⇒生バター⇒バター⇒醍醐と >【呼ばれる】(2) のだ、と。
各名称で呼ばれ得るような相(の状態)であるから、その名称で呼ばれるのだ、と。
ここでは、このことだけが言われている。本質についての教えではない。
(→寧ろ「常住不変で固定的本質などない」という含みがある。)