【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】13

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ついでに、簡単に触れておくと、
「3種の我の獲得」は、そのような「蘊の生起」であると註されている。
そして、本文中、世尊によってそれらは捨て去られるべきものとされている。
(→3種だろうが何種だろうが、「我(執)」は捨置されるべきである、と。)
また、その一連の記述の中のどこにも、
『「我」が「人の本質」であり、「変化せず在り続ける」』などと書かれてはいない。
 (※また、その3種の我が述べられる前には、
  異教の者の「永遠なる我(がある、を知っている、を求める為に行ずべき)」という見解が否定されている。
  そして、彼らの言辞は涅槃に資さない無益なものである、と。)

それら我の獲得もまた、その時その時に、自己として捉え認識することを可能とする諸縁によって、
そこに、都度都度「我(自己)」が見出されているに過ぎない。
そう、まさしく、牛乳やバターの喩えのように・・・。


>>173 >でも全て「乳製品」ですね
>>174 >でも全て「アートマン」ですね

「乳製品」とは、>>146で触れたように、
(複数存在する)各々が(その時に)有している性質に於いて、その共通なるものに焦点を合わせ、
それぞれを総合して、まとめて呼ぶ時に要請され、名づけられる呼称である。
それは、決して≪『乳製品』という、何か固定的な、或る一つの性質や相のことを言うのではない≫。
≪『乳製品』という(固定的・個別的・不変的)何か(存在)があるのではない≫。
そしてこれは、『我』『自己』、そして『アートマン』についても同様に言い得るであろう、と・・・。


以上、丁寧に考察してはいないので雑感として。

おやすみ  ノシ