仏教 議論スレッド

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491神も仏も名無しさん
>>482
479引用文の投稿者ではないが、私個人の見解を一言。

龍樹が磨き上げた「相依性」「論理的相依性(≒同時性)」は、
(磨き上げることが可能であった如くに)、《その萌芽が初期縁起説にある》ということだ。
それが主眼でなくとも、(縁起という考え方・視線が持つ)その方向性は
既に原始仏教中に見出されるということだ。
勿論、中論のように「はっきりと」「先鋭化させた形」で説かれてはいない。
寧ろ、「時間的縁起」「因果の側面」で説かれている。
隠居が指摘するように、原始仏教は
《「果を結ぶに至った因・縁を見据え」「その経路(関係性)に楔を打ち込むことにより」「果の生起を止める」》、
《「苦の因・縁を見定め」「苦の生起を止める」》ことに主眼があるからだ。
徹底して「苦の滅」が主眼とされるからだ。
そして龍樹に至っても、(「論理的同時性」を先鋭化させたとき)、この点(因果の側面)が切り捨てられたわけではない。
四諦と直結しているからだ。そして、そこを外しては「仏教」足り得ない。
 (440で「純化させた」と言ったのは、
  《「時制」さえも抜いて》《「因」という分別・切り取りや「果」という分別・切り取りをも抜いて》、
  「縁による生起の連鎖」(→それこそが『縁起』であるが)のみに特化して述べられている、という意味だ。)

水野要語のp.159〜p.165を読んでみるといい。(他、サーラ叢書4「原始仏教」p.131〜p.148)
ちなみに、p.157の章の初めの一節には
『これを此縁性idappaccayatA(「これに縁るということ」「相依性」)ともいう。現象の相互依存の関係を指す。』
とある。ここに相依性という語を当てることに俄かには賛成しないが、仮にその言い方を受容したとしても、
以降読み進めれば、隠居の理解が浅薄偏狭、わずかな一面しか見えていないことが解るだろう。
さすが水野要語、よくまとまっているw
再度言っておこう。
≪隠居は、rUpaの相互依存しか見ていない。それは縁起ではない≫。