>>521 なぜそれを最初に提示しなかったんですか?w
探しまくってやっと見つけたんですか?
これだけで十分じゃないですかw
で、八回目がゴータマ仏の(如来の)般涅槃であることはいいとして、
それ以前の七回は【如来の般涅槃】だったのでしょうか?
どこかに、そう書かれていますか? 御教示ください。
また、そこには「法王(dhamma-rAjan)」という語が見られますが、
これは「(如来として)法輪を転ずる者、法を知り・説く者」ではなく、
『この世の、世俗の諸々の理(ことわり)としての法、世界を統御する諸々の法、
(法律や慣習、伝統的教え等等、現代でいえば物理法則等に位置づけされるものも含め)、
を統べる・治める者』という意味ではないでしょうか? あくまでも世俗の王である、と。
(王としての資質・業績等の)その他の形容語と併記されていることからも、そう推察できます。
※大蔵出版版を持っていないので、註があるか判りませんが、伝統はそう解釈していると思われます。
よって、この経に於いても、如来の死後(滅後・般涅槃後)が複数回あったというのでなく、
未だ悟りを得ず、仏陀(阿羅漢)とならず、法輪を転ぜず、ただ偉大な治世者・為政者であっただけ、
「そのような大王としての生が七回あった」という過去世の話(≒本生物語)のように見えますが如何?
過去七回、いずれも「如来」のことではないように見えます。
勿論、用例として、「法王」が「ブッダ」を指す事例もあるようですので、
今回はあくまでも、文脈による「法王(dhammarAjan)」の解釈としての提示です。
>>522 >>518では、≪ >【仮に】、「煩悩を離れた修行者=修行完成者」だとしましょう。
という断り書きを【わざわざ入れた】んだがな・・。
お前と謂い宝珠と謂い、こういう所を読み取るセンスが完全欠如してるな・・・。或る種才能だよwww
貴方は、どのような理由で、
≪ >妻帯していない、心に恨む気持ちがない、悪意のない、心が汚れていない、自制心がある比丘
とは修行完成者のことである ≫
と解釈したのですか?
(※
>>510の書き方の時は、『 >清浄となり、煩悩を離れた 』という表現でしたが・・・。)
これも、《「如来」のことを言ってはいない》のではありませんか?