【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】11

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6759/13 初代スレ7
上(>>669末尾)で述べたように、区分の為の楔を打ち込むことなく、在り様をあるがままに見る姿勢こそが
仏教的には求められる視線であろう。それを総体的に言表したのが「輪廻」ということになるのかもしれない。
とどまらず、途切れず、【区分できず】、変転し続け、(業の)力が作用し続ける、
そのような「生存(存在)の在り様」を表したのが「輪廻」ということになるのかもしれない。
しかし、種々の言説(記述)は上記(>>6706)2点の区分に則って為されている。
もし、勝義としての輪廻に対する視線が上記のようなものであるなら、
《三世に跨る輪廻》は、「勝義としてでなく世俗の言辞として説かれている」ことを意味しないか?
また、「三世に区分され、過去の悪業が拾い上げられ、現在の果の説明(=因)とされる」ことも、
「輪廻」が世俗の言辞(価値観)に属することを意味しないか?
そして、≪仏教に限るものでなく、およそ「倫理道徳を説き、善を勧め、教誡・教訓を用意する価値観・思想」
全てが共用する言辞≫であることを意味しないか?
三世云々(過去世の)悪業云々等は(勝義に於いては)、
捨象されるべき「世俗の基準」「世俗の価値観」「世俗に於ける迷い」に他ならないのではないか?
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(余談:「内縁起外縁起」という表現と絡んで。)
 個人的には、「おしえの根幹としては、(―“気付き”や“きっかけ”、“事例”として外縁起を見ることは必要だと思うが―)
 “内縁起こそが中心とされ、外縁起はその拡大・応用”というスタンスが保持されねばならない」
 と考えるわけだが、輪廻や《特に転生は、この構図で言えば「外縁起」を中心として語られている》と思うのだ。
 (いや、『外縁起しか語られていない』と言うべきか・・・。)
 それらは、あくまで「援用・応用」でしかなく、「本義ではない」(→「涅槃に資するものではない」)と思うのだ。
 だから、文脈により、状況により、「スパンの取り方」・「果や因の拾い方」に、
 個々別々の(→その場面場面で、より適切な、より良き未来へと向かうベクトルとしての)拾い方が許容されるのだ、と。