【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】11

このエントリーをはてなブックマークに追加
6706/13 初代スレ7
さて、
上(>>665)で、《「或る事象」という切り取り》もまた恣意的である、と述べた。
これは、スパンの取り方(区切り方)にも言い得る。
このスレで言えば、前世・今生・来世という区分がそれにあたる。
重要なことは、
【この区分の基準は“肉体に拠っている”、或いは“肉体の機能に拠っている”】
ということと、
【前世来世は、“通常”知覚され得ない、知り得ない】
ということだろう。
この2点をもってして、人は三世を区分する。(ドミノで言えば、目の前に見えている駒だけが判断材料となる。)
 ※(おそらく、これ以外に区分の方法はない。)
脳死(&臓器移植)の問題も、「死」という楔をどこに打ち込み、その人の「(生物的)生」をどう区分するか」
ということに他ならない。 『ヒトという生物は“いつ死ぬのか”?』。
前世・今生・来世という区分にしても、『(勝義に於いて)、そこに境目はなく、連続した一繋がりの「生」である』
と宣言したところで『そこに「肉体の滅」(肉体の機能の滅)が見られる』ことに変わりはない。この楔は強敵だ。
脳死・心臓死などよりも、はるかに明解だ。「受精・細胞分裂」から「肉体の滅(肉体の機能の滅)」までの区分は、
「今生」を切り出すに際し、もっとも解り易く、もっとも明解で、もっとも強力なものだろう。
 (※厳密に言えば、ここで「他者(の今生)」と「自身(の今生)」との別を考慮すべきだろうが、今は措く。)
いずれにしろ、
《「前世の業」は、このように切り出された“「今生」以前のもの”であり、それが、どのように「今生」に表れるのか》
 →(「或る今生の果」が「前世の業」によるものだとして、その関連性は『見い出せる(特定できる)』ものであろうか?)
《「来世の果」は、このように切り出された“「今生」以後のもの”であり、それが、どのように「今生」に表れるのか》
 →(「或る今生の業」が「来世に於いて結実する」ものだとして、その関連性は『見い出せる(特定できる)』ものであろうか?)