仏教 議論スレッド その4

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703神も仏も名無しさん
>>698
この際、スパンの長短は関係が無い。
刹那だろうが一秒だろうが一分だろうが一日だろうが一年だろうが違いは無い。
《「(始と終という)切り取り」による「スパン」の拾い上げ》では同じだ。
だから、刹那滅(刹那生)は批判され得るのだ。
昨日と今日の境はどこに?今日と明日の境はどこに?
刹那の境はどこに?

それは、あたかも、川の流れを指差して、
「ここが(この指差した瞬間の指先の延長先が)川の一瞬(刹那)である」と言うようなものだ。
 (※シリーズの輪廻スレ以来、私が一貫して指摘している「三世に跨る輪廻(或いは業報)の不備」の、
  その指摘理由とシンクロする事案だ。)

また、刹那に「無変化な状態」で存在するものが、どうして縁起性のもの足りえようか。
中論は、まさにここを指摘し、無自性・空を掲げたのではないかい?
「無変化」「静止(状態)」とは、まさに「他に拠らずある」ことに他ならない。「他の縁(因)となりえない」ことに他ならない。

一瞬も(刹那にも)とどまることなく、縁起し、その様相が変化・連鎖継承してゆくことの観察が、
ブッダのダイナミックな縁起観だよ。
諸行が無常であると言われるのはこのことだ。

だから、「勝義で言えば」という言い方を以って、
『そこには「刹那」も、「一分」も、「昨日今日明日」も、「前世も今生も来世」も無い』と言われ、
そこには、諸法の縁起があるだけだ。縁起する《流れ(様相)》があるだけだ。(だからこれを諸法実相と言うんでないかい?w)
しかし、我々は、言語を用いて理解し、説示し合うしかないわけで、だから世俗諦が必須となる。
便宜上「世俗にもとずいて」事象の流れ(縁起)に楔を打ち込み、
恣意的にスパンを切り取り、因と果を見出し、悪を避け善に近付き、行じ、
自身の(悪循環・袋小路の如き)縁起を、その果(涅槃・苦の滅)へと繋がる縁起へと軌道修正するわけさ。