以上のことから、
>>72 >当時のバラモン達は【「バターだ。」、「否、ヨーグルトだ。」と論争して】(4)
>仏の眼で見れば【本質は同じ】(5)
は、前文(4)は、まさにその通りで、
≪諸縁によってバターの相であるからバターと呼ばれているだけのものを、
「これこそが絶対的バターだ!」「これこそが絶対的ヨーグルトだ!」等の論争≫であり、
後文(5)は、≪仏の眼で見ればそれらは顛倒妄想であり、縁により変化する相にその都度付された名称に過ぎず、
そこに絶対的恒常的本質を見るのは愚かな行為である≫ということならば言えるだろう。
けっして≪乳製品の本質を説いたわけではない≫≪「本質は同じである」と説かれたわけではない≫、
ことは留意されねばならない。併せて、
>【乳という「本質」は変わらず】(6)に、 >【名称が変わる】(3)
のではなく、≪諸縁により現じている相によって名称が付される≫のであり、
そこに≪絶対的恒常的本質が見られるわけではない≫。 (→寧ろ逆であろう。)
以上によって、 >【アートマンを乳製品(本質)とした場合】(7) といった比喩(思考実験)は、
この経に於いては成立しない。
また、≪ >【人の変わらない「本質」がアートマン】(7) ≫という前提は、
尚更、この経とは関係なく、別の形で主張され或いは反駁されるべきことであり、
「これ」を前提としてこの経を読み、乳製品のくだりと関連付けるのは、
荒唐無稽な茶番だと言わざるを得ない。
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きちんと出典(=文章)が提示されてないので、かなり支離滅裂な反論となってしまったが、
御容赦願いたい。併せて、諸賢の添削を乞う。
ノシ