@セブンがパソコンに例えて、ひとつ提示してくれたので、俺からもひとつ
唯識的な視点からアプローチしてみたいと思うが、
あれには『無我』を「一如」の視点から語るところが、あるよな?
喩えとしては、俺は個人的に「大海と波」のやつが好きなんだが。
『それぞれの人間個人は、大海に立つ波のようなものに過ぎない。波が
それぞれ意識をもち、「自分」という観念を有し、他者と自己を隔てる。
しかし、それは錯覚であり、元は一つの大海であり、それが変化しただけ
のことであり、一瞬後にはまた、元の大海に戻る。つまり、「自分」と
思っていた波も、「他人」と思っていた波も、共に「単なる大海の一部が変化
したもの」に過ぎず、全く等価であり、「自己」と呼べるようなものは何もない。』
と、まあこういうものだが、俺はこの喩えは実にうまく『無我』を語っていると
思うのだが、どうだろうか?
それぞれの波(個人)が、「自分(我)」という意識をもってしまう。(無明)
しかし、よく観てみれば、自分は大海の一部が変化したものに過ぎず、何ら「自己」
と呼べるようなものは無い。(無我)
すなわち、全てのものは「ある一つのもの(便宜上こう言っておく)」の一部が
変化したもの、仏教的にいうと「相」に過ぎない。